シロクロニクル 〜黒の葬章 04〜


 目を覚ますと、見慣れない白い天井が目に入った。横になった体勢のまま、ぼんやりと天井を見つめていると、二人分の足音が近づいてくるのに気付く。
「目が覚めましたか?」
 そう言って見下ろしてきたのは、白衣を着た中年の男だった。後ろには、看護師らしき女性が立っている。二人とも、どこかで見覚えがある顔だと感じた。しかし、ではどこで見たのかと自問しても、はっきりと思い出すことができない。
「……ここはどこだ?」
 浮かんだ疑問よりも、現状把握を優先する。問いながら、とりあえず身を起こそうとすると、ここ一年で馴染んでしまった痛みがちくりと腕に走る。視線をやると、点滴の痕だらけの見苦しい腕には、新たに点滴の針が刺さっている。抜け落ちた後には、また一つ針の痕が増えていることだろう。だからと言って何を思うほど、己の身体にこだわりがあるわけでもないが。
「どうか、まだお動きにはなられませんよう……先ほどの質問ですが、ここはブリタニア宮の医務棟でございます」
「ブリタニア……?僕は、日本にいたはずじゃ……」
「日本で、軍に保護された直後、極度の疲労と栄養失調が原因で貴方は倒れられたのです。そしてそれから今日まで五日間、ずっと眠っておいででした。日本ではろくな治療もできないということで、ブリタニアへとお戻りいただいたのです」
「……そうか」
 納得して一つ頷いた後、安静にしているようにと促す医師の身振りに従って、枕に頭を沈み込ませる。思考に耽るため目を閉じると、それを眠りのためだと勘違いしたのか、暗闇の視界の中、医師たちの足音が遠ざかっていくのが聞こえた。扉の開閉音が聞こえ、部屋が無人になるのが分かる。とは言っても、人の目がないわけではないはずだ。ルルーシュが目を覚ましたとたん、ああもタイミングよく彼らがこの場に現れたということは、この室内はおそらくモニターで監視でもされているのだろう。見られている。そのことは、皇族として生まれたからには至極当たり前のことだったから、ルルーシュはそれを悟っても何を思うこともなく、全く別のことに思いを馳せていた。
「戻って来たのか……」
 ブリタニアへ。母を、妹を奪い去り、ルルーシュの存在さえ否定した母国へ。
 この国を去った――否、身一つでこの国から追いやられた一年前は、まさか再びこの地へ戻ってくることがあるなんて思ってもみなかった。貴族たちも異母兄弟たちも、父皇帝も、まさかルルーシュが生きて帰って来るなんてことは、可能性としては考えていても、現実としてはほとんど考えていなかっただろう。
 実際、ルルーシュが帰国することができたのは、かなり運の要素が強い。ブリタニアが日本へ宣戦布告した瞬間、人質としての価値がゼロになってしまったルルーシュは、本来ならばその時点でなぶり殺しにされてもおかしくはなかった。実際、なぶられることこそなかったものの、殺されそうにはなった。しかしそこを、偶然にも正義感の強い少年に助けられて、さらに彼がルルーシュをブリタニア軍の陣営近くまで連れて行ってくれたから、ルルーシュは生きてここにいることができるのだ。もし、あの少年があの場に出くわさなかったら。もし、枢木の屋敷を出た後、ブリタニア軍に出会う前に他の日本人に出くわしていたら。もし、侵略の戦火に巻き込まれていたら。そのどれもが、現実的な可能性だった。どこで命を落としても、おかしくない状況だったのだ。
 また、ブリタニア軍に保護された後でも、死ぬ可能性は決して低くはなかったはずだ。むしろ、軍に保護された後、無防備に眠っていたという間にこそ、ルルーシュの命はもっとも危険にさらされていたはずだ。
 ブリタニアの現皇帝シャルル・ジ・ブリタニアには、百を超える数の妾妃が存在する。それだけの女が皇帝の寵を競うのだから、女たちの争いは当然激化する。暗殺、毒殺は当たり前。しかし、一人が死んだとしても、新しく他の女が補充されるだけだ。そのため、後宮に女の姿が絶えることはなく、一度皇帝の伽をして終わるだけの女も少なくはない。そんな状況の中で、皇帝の子どもを二人も産んだマリアンヌの存在は、特別というほどでもないがそれなりに珍しく、他の女たちから敵意を向けられるには十分だった。彼女が何の後ろ盾も持たない庶民上がりの女であったということも、他の妃たちの反感を煽った。そしてその敵意は、彼女の子どもであるルルーシュたちにも向けられていた。そうであるからして、その女たちからルルーシュに向けて刺客が差し向けられていないはずがないのだ。
 またあるいは、そんな理由からではなく、ブリタニア軍人を鼓舞するために、日本人の仕業に見せかけてルルーシュを惨殺するという手段を、日本侵略の指揮官が――もしくは、最終的な権限を持つ皇帝が選ばないとも限らなかった。
 そんな中においてルルーシュが生き延びることができたのは、ひたすら運が良かったからとしか言いようがない。
 しかしそれでも、ルルーシュは生き残った。今こうやって治療を受けることができるということは、皇帝はまだルルーシュに利用価値を認めているのだろう。きちんと治療して、再び駒として使えるようになるのなら好都合。しかし、たとえ治療の甲斐なく死んだとしても、特に何の問題はない。今のルルーシュの立場は、おそらくそんなものだ。使い勝手のいい捨て駒。けれど、もしかしたら国民の日本への感情を煽るために、内密のうちに処刑されていたかもしれない身であったことを考えると、生かされていただけで幸運。たとえ今は捨て駒としてしか認識されていないとしても、これから変えていけばいいだけのことだ。
 強いものだけが生きる権利を手に入れられる。それが一年前のあの日、謁見の間でルルーシュが悟った残酷で単純なこの国の真理。だからルルーシュは強くなる。生きるために、強くならなければならない。
 今のルルーシュには地位も権力も、何一つないけれど、誰にも負けない武器が一つだけある。それは頭脳だ。
 考えて考えて考え抜いて、この国で伸し上がり、生き残ってみせる。ルルーシュの命を、そして心を救ってくれたあの少年に恥じない人間にならないために。いつか、あの少年に恩を返すことができる自分になるために。
(……そのためには……一度、あの人に会う必要がある……)
 ルルーシュの父にして、ルルーシュの存在を根本から否定した男――この国の皇帝に。彼のルルーシュに対する印象を改めない限り、今のこの国で伸し上がっていくことなど不可能だ。
 点滴から流れ込んでくる液体をぼんやりと見つめながら、ルルーシュはこれからの段取りについて思考を巡らせ始めた。けれど、すぐにくらりとめまいに襲われて、思考を中断せざるを得なくなる。
(……まずは、体力の回復が先か……)
 ここまで弱った体を元の水準まで引き戻すには、多大なる努力が必要になるだろう。それを思い、ルルーシュは面倒だと眉を顰めた。
 ぽたり、と。等しく間隔をあけて小さく音を立てる点滴のリズムに、眠りを誘われる。疲れている上に、衰弱しきったこの肉体が睡眠を求めているのは深く考えるまでもなく明らかだったので、ルルーシュは逆らわず睡魔に身をゆだねた。暗くなっていく意識の中で、ふと思い出す。先ほど訪れた医師と看護師は、一年前、ナナリーとルルーシュを担当した者たちだということを。
 それを悟った瞬間、ルルーシュはひゅっと息を呑んだ。
 妹を救ってくれなかった者たちを、あのときは、決して許すものかと思っていた。医師も看護師も、ナナリーの見舞いにさえ来てくれなかった家族たちを、全て憎んだ。そのはずなのに、許さないと定めたはずの彼らの顔を、今の今まで忘れてしまっていた。
 憎しみはいずれ風化する。ルルーシュはそれを今、身を持って知ってしまった。憎しみに限らず、人の思いなんてものはきっとそんなものなのだろう。
 けれどそれならば、あの少年から与えられた温もりも、いつかは消えてしまうのだろうか。そう思うと、背筋がぞっとした。それは、ルルーシュにとっての生きる意味が消えてしまうことと同意だ。だからルルーシュは、閉じた瞼の裏に、あの少年と過ごしたほんの数時間の出来事を思い描いた。今胸にある思いが、決して消えることのないように。



◇ ◇ ◇



 並々ならぬ努力の結果、それから一ヶ月が経つころには、ルルーシュはあらかた回復していた。もっとも、すっかり元通りというわけにはいかなかったが。
 完璧に栄養管理された食事のおかげで、やせこけて目ばかりが目立っていた顔も丸みを取り戻した。骨と皮だけになっていた手足にも、いくらか肉が付いた。荒れ切っていた肌も、庶民には絶対手が届かないほど高価なクリームを毎朝毎晩塗りこまれたおかげで、元の滑らかさを取り戻した。ただ、髪の毛だけはどうしようもないほど傷み切っていて、元には戻らなかった。だから長い髪を切った。誰よりも尊敬する母親と同じ色をした黒髪は、ルルーシュにとっての自慢だったけれど、それに未練を感じることはなかった。大切にしていた髪を切ることで、過去の弱い自分と決別したような気分になれたからなのかもしれない。
 ルルーシュは気を紛らわせるために、そんな毒にも薬にもならないようなことを考えることに終始していた。
「……せっかく綺麗な髪だったのに……」
 すっかり短くなってしまったルルーシュの髪をすきながら、痛ましいものでも見るような顔をして言うシュナイゼルを相手にするのに、まともに向かい合っていては気力が持たないからである。
 ルルーシュは、この異母兄のことを他の誰よりも苦手に思っていた。だからこうやって別のことを考えて、必死になって気を紛らわせているのだ。けれど、かまっている側の反応などどうでもいいのか、シュナイゼルは短くなってしまった黒髪に指を絡め、くるくると意味のない手遊びを繰り返している。
 ブリタニアに戻ってきてから一ヶ月。次期宰相の最有力候補として名を挙げて、政務に励んでいるはずの次兄は、暇なはずなどないだろうに、この一月の間に彼は何度となくこうしてルルーシュの下へ足を運んだ。ルルーシュはその行動をうれしく思うよりも、むしろいぶかしんだ。母とナナリーを亡くして沈み込んでいた一年前は、一度も顔を見せることさえなかったというのに、いったいどういった心境の変化なのだろうと。
(少なくとも、優しさや罪悪感からなんかじゃないことは確かだ)
 もしかしたら義兄にも存在するかもしれない善性を、ルルーシュは全く信じていなかった。
 ルルーシュのところへ見舞いに足を運んでくる人間は、シュナイゼルだけではない。クロヴィスや、コーネリアにユーフェミアなど以前親しくしていた人間は、一度は見捨てたという罪悪感と、別人のようにやせ細ってしまったルルーシュを心配して、何度も見舞いに来た。シュナイゼルも、名目は見舞いとしてやって来ているが、彼がルルーシュに対して罪悪感を持ったり心配したりするはずがなかった。
 皆が信じているように、シュナイゼルは穏やかで優しい人なんかじゃない。むしろそれとは正反対の、酷薄でひどい人なのだということを、ルルーシュはよくよく知っていた。優しい笑顔は仮面、穏やかな態度は擬態なのだと、果たしてどれだけの人間が知っていることか。ルルーシュだって昔、彼とチェスをすることさえなければ、笑顔の裏に隠された素顔なんて今でも知らないままだっただろう。
 そしてルルーシュにとっては不幸なことに、怯えを押し隠して接するルルーシュの反応が面白かったのか、シュナイゼルはよくルルーシュをかまい、ルルーシュの反応を見て遊んだ。まるで子どものような気紛れさで、ルルーシュの気持ちなど少しも気にすることはなく。ルルーシュはシュナイゼルの玩具だった。玩具でしか、なかった。だから一年前、母と妹の死に絶望したルルーシュに慰めをくれることはなかったのだろうし、日本へ送られたときも助けてはくれなかった。
 それなのに何故今になって、一度捨てた玩具にかまいに来るのか。また、ルルーシュで遊ぼうと言うのか。それとも他に何か目的があるのか。未だ髪を弄り続けているシュナイゼルをそっと窺うが、偽りを装うことに長けた異母兄の思考を読み取ることはできない。
 ルルーシュの頭脳を利用しようとして、こうして何度も会いに来て取り込もうとしているのならば、話は簡単なのだ。たとえ利用されるのだとしても、シュナイゼルの下に付けば、間違いなくルルーシュは力を手に入れることができる。けれどそうではなくて、ルルーシュで遊ぼうとしていたり、ルルーシュ自身ではなく皇女という立場にある駒が欲しいと思っていたりするのであれば、ルルーシュは彼の下に付くわけにはいかない。玩具として、あるいは単なる捨て駒として飼い殺されるわけにはいかないのだ。
 シュナイゼルとの距離感を、ルルーシュは測りかねていた。
 以前のように、ルルーシュの反応を見て遊ぶわけでもなく、ただ優しい態度で側にいてくれるから、勘違いしそうになる。まるで、大切にされているみたいだと。この優しさが、一年前のあのときに与えられたものであったのならば、ルルーシュはきっと、偽りの可能性を疑いながらもこの優しさにすがりつかずにはいられなかっただろう。すでに生きる目的を定め、強く生きようと決意した今のルルーシュにとっては、その優しさは決して請い願うほど希求するものではないけれど、優しさに飢えた心が揺れるのもまた事実だった。
 だからと言って、この一ヶ月の間、そんなことのみに頭を悩ませていたわけではない。シュナイゼルのことはひとまず脇に退けて、ルルーシュは力を手に入れるための計画をちゃんと立てていた。そして、それを実行に移すためにはまず、父親と顔を合わせる必要がある。
(……そろそろ頃合だな)
 見た目も体力も、ほとんど昔と変わらないぐらいに戻ってきた。これならもう、動き始めても支障はないだろうと判断する。

 その日、シュナイゼルが帰った後、ルルーシュは皇帝に謁見を申し込んだ。



 謁見が叶ったのは、それから数日後のことだった。
 一年前と何一つ変わらぬ扉の前に、ルルーシュは立っていた。謁見の間に続く巨大な扉を見ていると、一年前、この中で父に言われた言葉がまざまざと脳裏によみがえってくる。弱者に用はないと切って捨てられ、存在すら否定されたあのときの絶望。そしてその直後、ナナリーが死んだことで、ルルーシュは本当に生きる屍のようになってしまった。愛する母と妹を失って、仲良くしていたと思っていた異母兄弟たちを信頼できなくなり、父親に存在を否定されたことで、ルルーシュは生きることを放棄しようとした。
 けれど、ほとんど死ぬために送られたような遠い異国の地で、ルルーシュは一人の少年と出会った。生きろ、と。実の父親にさえ見捨てられたルルーシュに、彼は生きろと言ってくれた。赤の他人であるルルーシュのために、彼は父殺しの罪を背負った。
 だから、ルルーシュは決めたのだ。彼が助けてくれたこの命を、いつかきっと、彼のために使おうと。
(スザク……)
 密かに調べた名前を、胸の中でこっそりつぶやく。
 一ヶ月と数日前、密かに抱いた決意を新たにしているルルーシュの前で、ゆっくりと音を立てて、巨大な扉が開いていった。


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