何も持っていなかった。取引に足る情報も弱味も、実績も、強力な後ろ盾も、頼ることのできる誰かも。
だから頭を下げた。意地も矜持も、自分をいらないものとして切り捨てた――いや違う、もっと性質が悪い。最初からいなかったものとして扱った父親への反発も、不必要な感情なんて全部心の奥底に閉じ込めて、謁見の間で父に向かって頭を下げた。一度だけでいい、チャンスが欲しいと言った。実力を示すことのできる機会が欲しいのだと、そう頼み込んだ。
何も持っていないルルーシュには、そうすることしかできなかった。
それを見ていた皇族や貴族たちは、驚いたようにざわついた後、密かに嘲笑を浮かべた。捨て駒として他国へ送られ、運よく生きて戻ってきただけの無力な皇女が何を言うのだと、言葉よりも雄弁に見下すような視線を投げつけてきた。そんな視線を寄越されるまでもなく、自分が取った行動がどれだけみっともなく惨めで身の程知らずなものであるか。そんなことぐらい分かっていた。実力を示すことのできる機会が欲しいだなんてことを、何の実績も持たない小さな子どもが言っても、滑稽なだけだ。普通なら、笑われておしまい。
けれど、頭を下げた相手が普通ではないこともまたルルーシュは知っていた。徹底した実力主義を示す現皇帝。弱者に用はないと言ってのける彼は、実の子どもであろうと関係なく、自分の言葉を実行する。ルルーシュも一度切り捨てられた側の人間だから、それがよく分かる。あの男に、家族の情なんてものは期待できない。本当に、力だけが全ての人間なのだ。
そんな男が、ルルーシュが申し込んだ謁見を受けた。本当は、断られることを半ば覚悟していた。一度切り捨てた相手に時間を割くほど暇でも酔狂でもないことぐらい知っていたから。謁見を申し込んだのは賭けだった。一年前の評価のまま、ルルーシュを捨て駒としてしか見ていないのならば、謁見は断られる。けれど謁見の申し入れは受け入れられた。それはつまり、顔を合わせて話をするだけの価値を認められたということである。対応さえ誤らなければ、望みが叶うことは分かっていたから、頭を下げることにためらうことはなかった。
◇ ◇ ◇
執務補佐官と護衛の軍人とを従えて、ルルーシュは歩いていた。早足に歩を進めながらも、後ろから聞こえてくる執務補佐官の報告が耳をすり抜けていくことはない。上げられる報告について矛盾点や不備を指摘し、それがない案件については指示を与えるか、一時保留を言い渡す。
そうして仕事をこなしながら角を曲がると、向こうからあまり見たくない顔が歩いてくるのが見えて、一瞬顔をしかめそうになる。が、気力でカバーする。それに反して、ルルーシュに気付いた相手は、露骨に嫌そうな顔になった。すぐに取り繕うように笑うが、見下すような視線は隠しきれていない。
(……何も起こらなければいいが……)
そう思いながらも、無理だろうということは分かっていた。
向こうから歩いてくるのは、六番目の義兄を取り巻く貴族二人だった。六番目の義兄はお世辞にもあまり優秀とは言いがたい人物である。無能とまでは言わないが、せいぜい凡人よりもマシといったところで、それに応じた地位にいる。だから、ここ数ヶ月で急に力をつけてきたルルーシュが気に入らないのだろう。六番目の義兄本人だけでなく、その取り巻きにも、ルルーシュはよく嫌がらせをされたり嫌味を言われたりする。
彼らだけではない。庶出の母から生まれ、かつて後見だったアッシュフォード家は没落し、誰か有力者の庇護下にいるわけでもないルルーシュは、何かをしても報復してくる後ろ盾というものを持たないので絡まれやすかった。
(別の道を行けば良かったな……)
他人には聞こえないぐらい小さなため息を漏らしていると、あと数歩のところまで来た貴族たちが立ち止まるのが見えた。
「これは、これは、ルルーシュ殿下。ご機嫌麗しゅう」
どう好意的に聞いても、本気でご機嫌伺いをしているような声音ではなかったが、そんなのはいつものことなので気にしない。
「ええ、こんにちは、ケルナー伯爵、レイフィールド男爵」
何枚か分厚い猫を被って、不必要なほどにこやかな笑みを浮かべながら、定型どおりの挨拶を返す。宮廷において笑顔は武装。基本中の基本だ。いくら嫌いな相手だからと言って、怠るような真似はしない。自分の感情を悟らせるような愚かな真似をすれば、いつどこで足をすくわれるか分からない。特にルルーシュは敵が多いのだから、なおさらだ。
負の感情なんて欠片も見えない笑顔を浮かべるルルーシュは、その点で言えば完璧だった。幼い年齢に似合わぬそつのなさは、自分では認めたがらないだろうが、苦手としている義兄が被る猫を髣髴とさせるものがあった。
「歩きながら仕事ですか、相変わらずお忙しそうですね。ですが、殿下はまだ子どもなのですから、年齢に相応しいことをされてはどうですか?」
内訳は『歩くときまで仕事をしなければいけないなんて、よほど無能なんですね。子どもはでしゃばらず、子どもらしく遊んでいたらどうですか?』といったところだろう。総評、ひねりが足りない上にパンチもない。結論、時間の無駄。そんな内心など少しも思わせないような笑顔のまま、ルルーシュは優雅さを前面に押し出した仕草で首を傾げる。
「おや、おかしなことを言いますね。年齢など、このブリタニアでは何の意味もないことはご存知でしょう?それに、私は確かに子どもですが、庇護者がいない以上、子どもらしく遊んでなどいられないのです。もう、以前のような目に遭うのは御免ですからね」
以前捨て駒とされて死に掛けたことをさらりと口にして、笑みを深める。ルルーシュが自分からその話題を口にするとは思っていなかったのか、目の前の貴族二人はぎょっとしたように目を見開いた。その隙を見逃すようなルルーシュではない。
「それでは、私はこれにて失礼させていただきます」
(嫌味を言うためだけに立ち止まることのできる暇なお前たちと違って、俺は忙しいんだ)
内心で罵倒しながら、非の付け所がないほど完璧な所作で会釈をして、再び歩き始める。こんなことは本当にいつものことだから、背後を歩く執務補佐官は、促すまでもなく報告の続きを読み上げ始めた。
しばらく歩いていると、目的地である扉の前にたどり着いた。
「義兄上、ルルーシュです」
扉をノックしながら言うと、入室を許可する声が中から聞こえてくる。ルルーシュが扉を開ける前に、扉の前に控えている軍人がさっと動いて扉を開けた。
「失礼します」
「やあ、よく来たね、ルルーシュ」
入室するや否や、書類片手に微笑むシュナイゼルが優しげな声で話しかけてくる。
「ちょうどお茶にしようと思っていたところなんだ。一緒にどうだい?」
「いえ、まだ書類を届けないといけないところがあるので……」
「わざわざ君が行く必要はないだろう?」
「それは……その……」
ルルーシュは言葉に詰まって、さりげなく視線を逸らしてからうつむいた。確かにシュナイゼルの言うとおりなのだ。わざわざ書類を届けるためだけに、この広い宮殿内を歩き回る必要なんて、普通なら必要ない。部下に任せればいい。しかしそれは、普通ならばの話だ。もしルルーシュがそれをしようと思えば確実に、書類は手の内を離れて届け先の手に渡るまでの間に、改ざんされるか行方不明になってしまうだろう。何の後ろ盾も持たないくせに短期間で力をつけてきたルルーシュを、排除したいと思っている人間は、宮廷内に数え切れないぐらい存在する。だからいくら忙しくても、こうして自ら宮廷内を回っているのだが、その事実をシュナイゼルに告げるつもりはない。言わなくても、ルルーシュの行動の理由なんて、シュナイゼルにはお見通しだろう。それでも言わないのは、意地だ。弱みをさらすようで嫌なのだ。
真実を告げず、どうやってこの場を切り抜けようかと考える。普段なら、すぐに妙案の一つや二つ……なんてけち臭いことは言わず十や百の単位で簡単に思いつくのだが、今は出てこない。この義兄の前だと、いつもこうだ。緊張と恐怖に身体だけでなく思考まで凍るのか、考えが上手くまとまらない。
「ルルーシュ」
「っ!?」
いつの間にかすぐ側まで来ていたシュナイゼルに抱き上げられて、ルルーシュは思わず目を見開く。視線を逸らしていたせいで、全く気付かなかった。突然のことに、態度を取り繕うことを忘れて硬直している間に、腕の上に抱き上げられたままテラスまで連れて行かれて、椅子の上に座らせられる。
「あ、義兄上、困ります!私はまだ、」
「書類は私の部下に届けさせよう」
反論の言葉は、優しげに笑いながら頭の上に置かれた手のひらに封じ込められた。
「心配ないよ。私の部下に手を出すような者は、そうはいないからね」
ついさっき、わざわざルルーシュ自らが書類を届けに行く必要はないだろうと問いかけてきた口で、それを言うのか。ルルーシュが自分で動いている理由なんて分かりきっているくせに、わざと問いかけたりして、そのくせ自分から答えをほのめかすような言葉を口にする。根性悪にも程がある。
歪みそうになる表情を、分厚い猫で必死になってカバーしながらルルーシュは、義兄からの申し出を固辞した。
「義兄上のお手を煩わせるわけにはいきません」
「……寂しいことを言うね」
「寂しい?」
せっかくの申し出を断ったことに対して、無礼だと思うだとか不機嫌になるとかなら分かる。けれど、寂しいとは一体どういうことなのか。困惑して、思わず反芻すると、ずっと上にあったはずのシュナイゼルの目線が、いつの間にか自分よりも下にまで下がっていた。数秒もせず、彼が肩膝をついた体勢を取っているのだと気付いた。
「な、何をしているんですか!?俺なんかに膝をつくなんて……!」
驚愕のあまり、一人称を取り繕うことも忘れていた。
ルルーシュがシュナイゼルに膝をつくのならともかく、その逆はありえない。大貴族出身の母を持ち、次期宰相候補と目され、数いる兄弟たちの中でもっとも皇位に近いと言われているシュナイゼルが膝をつく必要があるのは、現皇帝である父親一人に対してのみだ。庶出の母から生まれ、後見は失脚し、中途半端な立場にいるルルーシュとは訳が違うのだ。
「やめてください、義兄上!」
畏れ多いとは思わなかった。そんな殊勝なことを思うほど、ルルーシュは純粋ではない。そんなことよりも、主が膝をついているのを見て、シュナイゼル付きの者たちが何を思うか、影で何を言うか。そしてそこから広がるかもしれない噂の方が怖かった。ただでさえ敵が多いのに、これ以上増やしたくない。
椅子から下りて義兄の行動をやめさせようと必死になるが、シュナイゼルは片方の手で小さな肩をそっと押しとどめ、頭の上に乗せていたもう一方の手を下へ滑らせてルルーシュの頬に添えた。
「顔色が悪い。肌も荒れているし、隈もできているね。それに痩せた」
「そんなことより……!」
そんなことはどうでもいいから立って欲しいという訴えは、黙りなさいと語る視線に殺される。いつもにこやかな顔を崩さないシュナイゼルは、表情よりもずっと視線の方が雄弁だ。穏やかで柔らかい物腰とは正反対に、シュナイゼルはかなり強情だ。これ以上訴えても聞き入れてくれることはないだろうし、物分り悪くいつまでも同じことを言っていたりすれば、機嫌を損ねるだけだと分かっていたから、ルルーシュは渋々口をつぐんだ。
「昨日は何時に寝た?……いや、違うな。いつからまともに眠っていない?食事もきちんと取っていないね」
「……忙しくて」
「そうだね。君は、一人でがんばっているからね……」
シュナイゼルはそう言うが、ルルーシュだって好きで一人なわけじゃない。信頼に足る人間がいないから、一人で全部背負わざるを得ないのだ。
「私にはそれが寂しい」
「え?」
「どうして頼ってくれない?かわいい義妹を助けたいと思う気持ちを、どうして受け入れてくれないんだい?君が一言助けて欲しいと言えば私は、どんなことだってしてあげるのに……」
真摯な声をして、切なげな顔をして、シュナイゼルは訴えてくる。傍から見れば、慈愛あふれる完璧な義兄にしか見えないだろう。彼の本性を知っているルルーシュにさえ、ともすれば騙されてしまいそうなほど真に迫っている。
けれど、頼って欲しいなんて言葉を、この義兄はどうして口にすることができるのだろう。チェスの手に垣間見える義兄の苛烈な性格が、何よりも恐ろしかった。彼が何かするたびに、いちいち反応を見て遊ばれた。大切な物のほとんどが、彼の手のよって奪われた。一番助けて欲しかったときに、助けの手を差し伸べるどころか、会いに来てさえくれなかった。そんな人を、どうして頼ることができるだろう。
(ああ、それとも、これは新しい遊びだろうか……)
シュナイゼルが差し伸べた手を、不必要だと拒絶すれば、シュナイゼルの近辺にいる人間からは反感を買う。それにどう対処するかが見たいのか。あるいは、ルルーシュがシュナイゼルの手を取るとすれば、庇護するふりをしてちょっかいをかけてくるつもりなのか。どちらにしても、あまり愉快な事態ではない。
けれど、拒むか、受け入れるか。選択肢が二つに絞られていて、どちらを選んでもマイナス要素がついてくる。それならばせめて、プラスの要素もあるものを選んだ方が得だ。そう、シュナイゼルの庇護下に入って、他者の悪意から守られることを選んだ方が。それに、いい加減限界も近い。睡眠時間もほとんど取れていないし、最近はストレスでまともに食事も取っていないぐらい、体調はひどいものだ。シュナイゼルの手を取れば、今よりもずっと楽になることは分かりきっていた。
「……義兄上」
「うん?」
優しい声で問い返される。優しい瞳を向けられる。優しい仕草で頬を撫でられる。けれど、どれだけ優しくされても、彼の庇護下に入るメリットについてどれだけ考えても、体から緊張が抜けることはなかった。
「義兄上、私は――」
乾いた声が空気を震わせる。
その日ルルーシュは、シュナイゼルの傘下に入った。庇護を与えてもらう代わりに、彼に逆らうことはしないと、誓いを立てた。それは、自分を売り渡す契約に相違なかった。
◇ ◇ ◇
初夏。
緑あふれる森の中を、護衛も付けず一人きりで、ルルーシュは歩いていた。あまり褒められた行為ではないということは自覚していたが、この道の続く先にある場所には――母とナナリーの墓には、他人を連れて行くことは嫌だった。だから毎年、母の命日とナナリーの命日の二日だけは、無理を言って勝手を押し通していた。
しばらく歩いていると、白い花畑が見えてくる。その中にぽつんと一人立つ影があった。不思議な若緑色をした長い髪が、風に吹かれて揺れている。後姿だけでも、見たことのない人物だということは見て取れたが、不思議と警戒心は湧いてこない。
「……誰だ?」
問いかけた声に、花畑の中に立つ人物はゆっくりと振り返り、そして口を笑みの形に歪める。
「見つけた、私の――」
聞こえるはずのない距離を置いて言われたはずの言葉は何故か、はっきりと脳に響いて聞こえた。
それは、スザクと再会するほんの少し前の出来事。
●黒の葬章・END●