シロクロニクル 〜黒の葬章 03〜


 日本の地を踏んでから、約一年後。ルルーシュはまだ生きていた。絹のような手触りだと褒められた黒髪はぼさぼさになり、滑らかだった肌は潤いを無くしてカサつき、丸みを帯びていた頬はこけ、手足が棒のように細くなってしまって、まるで幽鬼のような風情になってしまっても、ルルーシュは生きていた。否、生かされていた。
 ブリタニアにいた頃のように完璧な看護を与えられることはなかったが、必要最低限の栄養は、点滴で与えられた。だから、食事を取らなくなって一年近く経った今になっても、ルルーシュは生きている。
 けれどそれもとうとう、今日で終わるのかもしれない。隠し部屋から、引っ立てられるように連れて来られた枢木ゲンブの私室で、ルルーシュはぼんやりと目の前に立つゲンブを見やった。日本に来てからずっと髪を切っていなかったから、前髪が邪魔でよく見えない。けれどそれでも、目の前に立つ男の表情に、歪んだ笑みが浮かんでいることぐらいは見て取れる。暗い、人間の醜さを表した顔だ。その顔を保ったまま、男は鈍い動きでこちらへ向かって手を伸ばしてくる。大きな手は、太い指は、ルルーシュの細い首に巻きついてきて、そのまま持ち上げられる。
「ぐっ……」
 容赦ない力で首を絞められて、苦しさのあまり声が漏れる。抵抗はしなかった。これでやっと、母とナナリーのところへ行ける。苦しみの中、ルルーシュが思っていたのはただそれだけだった。首の骨がみしみしと音を立てる。酸素が足りなくなってきたのか、目の前に黒い点がチカチカと飛び交い始める。首の骨が折れるのと、酸素がなくなって死ぬのと、どちらが早いだろう。まるで他人事のように、ルルーシュがそんなことを思っていると、ふと首を絞めていた手が緩んで、ルルーシュは床の上に投げ出された。
「ッ……ゲホゲホゲホ……!……ハッ、あ……」
 床に転がったまま、ルルーシュが激しく咽ていると、どさりと何やら鈍い音が響いた。音の聞こえてきた方を見ると、枢木ゲンブが床の上に倒れていた。その腹には、一振りの小刀が突き刺さっていた。その小刀を中心に、ゲンブの腹部を赤い染みが広がっていって、それは床をも侵食する。
「あ……」
 床に転がったまま、ルルーシュは小さな声を上げた。そこへ、鉄の錆びたような臭いが漂ってくる。
「か……さん……」
 目の前の光景が、母が殺されたときの光景とかぶって、ルルーシュは状況も忘れて自失する。呆然と目を見開いて固まっていると、突然腕を取られて引っ張り上げられる。ここにいたってルルーシュはようやく、一体何事かと思って視線を上げて、ルルーシュの腕をつかんでいる誰かに焦点を合わせた。それは、ルルーシュと同じぐらいの年齢の少年だった。枢木家には確か、息子が一人いたはずだ。だから彼はきっと、ゲンブの息子なのだろう。けれど何故彼の手は、血の色で汚れているのだろうか。彼は、己の父親を殺したというのだろうか。果たしてそれは、一体何のために。
「逃げるぞ!」
 考え込むルルーシュに向かって、彼はそう言って、ルルーシュの手をつかんだまま走り出そうとする。ルルーシュがもたついていると、振り返って怒鳴りつけてきた。
「早く!」
 そのままルルーシュは、その少年に手を引かれて枢木の家を出た。ずっと点滴で栄養を補給してきた上に、運動なんてほとんどしていなかったルルーシュである。ほとんど少年の力に引きずられるような状態で走ることになった。けれど、家を出て森の中に入ってややもしないうちに、走る少年の速度についていけなくて、ルルーシュは転んでしまう。
「あっ……」
 手を引かれていたため、顔から転ぶようなことはなかったが、代わりに膝をついた状態で何メートルか引きずられる。地面を引きずられた膝がずきずきと痛みを訴えている。暗くてよく見えないが、多分ひどいことになっているのだろう。転んだ体勢のまま、ルルーシュはぼんやりとそう考えた。そのまま動かないでいると、少年が苛立ったように声を上げる。
「立てよ!立って、走るんだ!!」
「……」
「立てって言ってるだろ!」
 ルルーシュが返事をしないことに腹を立てたのか、少年はつないでいた手をぐいっと引っ張って、無理やりルルーシュを立たせる。少年が再び走り出そうとするので、ルルーシュはそれをさえぎるように口を開いた。
「……どうして、助けたりしたんだ?」
 それは、心底の疑問だった。この子供は多分、殺されそうになっていたルルーシュを助けるために、枢木ゲンブを殺した。赤の他人のルルーシュを助けるために、どうしてそんなことをしようと思ったのか、少年の気持ちがルルーシュにはまるで分からなかった。人間は、汚い生き物だ。子どもは母の死に様を見て汚いと思い、仲良くしていた人間をたやすく切り捨て、実の父親が子どもの存在を否定する。そんなふうに、人間は汚い。それなのにこの子どもは、ルルーシュみたいな他人を助けるために、自ら進んで罪を犯した。それが何故か、ルルーシュには理解できない。
「何で……何でそんなこと聞くんだよ!?あのまま死にたかったとでも言うつもりか!?」
 今にも泣きそうな顔で、少年が叫ぶ。泣きそうになっているのは、殺されかけていたルルーシュに同情しているのだろうか。よく知りもしない他人のために泣きそうになるなんて、変な人間だと思いながら、ルルーシュは無感情に答えを返す。
「別に……どうだっていい。僕はゼロだから……名も存在も全てがゼロ……最初から、生きてなんかいなかったんだ……だから今さら死んだって、何が変わるわけでもない。こんな世界で生きていたくなんて……」
「ふざけるな……!じゃあ俺は何のために父さんを……!!!」
 殺したんだ、と続ける気だったのかもしれない。けれど全て言い終える前に、少年ははっとしたように口をつぐんだ。やはりこの少年は、ルルーシュを助けるために実の父親を殺したのだ。それなのに、せっかく助けた相手にこんなことを言われたとしたら、普通責任転嫁して罪をなすりつけようとするものではないのだろうか。それなのにこの子どもは、それをしなかった。しようとして、けれど止めた。人のせいにしてしまえばいいのに、どうして彼はそれをしないのだろう。不思議なものでも見るような目で、ルルーシュは伸びきった前髪の合間から、少年を見上げた。すると、今にも泣き出しそうに潤んでいるのに、強い光を宿した瞳が睨むようにこちらを見つめていた。
「……俺は、お前が誰かなんて知らないけど……それでもお前はここにいるじゃないか!」
「っ……!」
 ルルーシュは息を呑み、大きく目を見開いた。
「ゼロなんかじゃない、お前はここに生きてるんだ!」
「……生きて……?」
「そうだ、お前はゼロなんかじゃない!ちゃんとここにいる!」
 それは、ルルーシュが言ったことをただ否定しているだけの、ひどくつたない言葉だった。けれどまっすぐで、どこまでも真摯だった。
「……僕は、生きている……?」
「そうだよ!だから、生きていたくないなんて言うな……!生きろよ……!俺は、お前を助けたいんだ!」
 呆然と問いかけるルルーシュに、少年は最後には泣きながら言葉を発した。
 実の父親を殺してまで助けた相手が死んでしまったら、自分のしたことの意味がなくなってしまうから、彼はそう言っただけだったのかもしれない。彼はただ、何の意味もなく罪を犯してしまったのだと思いたくなかったのかもしれない。
 けれど、そんな意図があるかもしれないと分かっていても、少年の言葉はまるで魔法のように、ルルーシュの胸に響いた。
(生きろ……僕は、生きてもいいのだろうか……)
 母の死に様を見て、汚いと思ってしまうような醜い人間でも。実の父親に、存在を否定されるような薄っぺらな人間でも。それでも、彼が生きろと言うのなら、ルルーシュは生きていてもいいのかもしれない。世界中の人間がルルーシュを見捨てても、たった一人、生きろといってくれる人がいるのなら。
「……生きるよ」
 つないだままだった手を握り返して、ルルーシュは少年に向かって言う。
「僕は、生きるよ。君が助けてくれたことを、無駄にしたりしない。精一杯、生きる……だからっ……」
 後は言葉にならなかった。こんな自分のために罪を犯させてしまったことを詫びたかったのかもしれない。自分の命を、そして心を救ってくれたことに対して感謝を述べたかったのかもしれない。けれど、胸が一杯でそれ以上、言葉が出てこなかった。ここに生きているのだと言われた、ただそれだけのことがこんなにもうれしいなんて、知らなかった。ルルーシュは幸せのあまり、涙を流した。反対に、さっきまで泣いていた少年は落ち着いたのかもう涙を止めていて、ぐいと乱暴な仕草で頬を拭っている。
「……行くぞ」
 彼はぶっきらぼうにそう言って、ルルーシュの手を引いて、再び走り出した。怪我をした足の痛みに耐えながら、半ば引きずられるように走る。そうしながら、ルルーシュは心の中である決意を固めていた。
(君が助けてくれたこの命を……僕はいつかきっと、君に返そう……)
 少年はルルーシュを助けてくれた。だからルルーシュもいつか、少年の助けになってみせる。そのためなら、何だってしてみせる。胸の中でひっそりと、そう決意した。



 どのぐらい走ったのだろう。二人で走っているうちに、いつしか山を越えていた。川をたどって走っていると、前を走っていた少年が突然立ち止まった。
「何……?」
「しっ、黙って……人の気配がする」
 そう言って、少年はルルーシュを連れて藪の中に飛び込んだ。そのまま、草木にまぎれて少し進むと、少年が言ったとおり人の姿が見えてくる。彼らが着ている服装は、一年前までルルーシュがほぼ毎日のように見ていたもの――ブリタニアの軍服だった。少年もそれを認めたのだか、くるりと振り向いて口を開いた。
「行けよ」
「え……?」
「肌の色白いし、お前ブリタニア人なんだろう。なら、保護してもらえるだろ」
 それはもちろん、ルルーシュは皇女なのだから、手厚く迎えてくれることだろう。けれど、彼はどうするのだろう。一緒に来てはくれないのだろうか。
「君は、どうするんだ?」
「……俺は家に戻る」
「戻るって……でも、君は……」
 実の父親を殺したのに、という言葉は言わなかったけれど、ルルーシュが何を言いたいのかは分かったのだろう。少年は迷子になった子供のような顔になった。
「……それでも、俺は戻らなきゃいけない……俺は、僕は、自分がしたことの責任を取らないと……」
 どこか虚ろな表情で言う少年に向かって、ルルーシュは言った。
「君のせいじゃない!君は、僕を助けようとしただけだ……!君は悪くなんかない……!」
 そして、つないだままだった彼の手を、自由だったもう片方の手も使ってぎゅっと握りしめる。何を言えばいいのか分からない。けれど、何か言わなければいけないことだけは分かった。
「君は僕を助けたんだ……君のこの手は、人を救うことのできる手だ」
 必死になって考えながらルルーシュが言うと、少年はすがるような瞳でこちらを見つめてくる。
「救う……?」
「そうだよ、君の手は、人を救うためにあるんだ」
「……違う、俺は、父さんが人を殺すところなんて見たくなくて、それで……助けたかったからとか、そんな綺麗な理由じゃない……自分のためだったんだ……!」
 少年はそう言うと、ルルーシュの手を振り払って、数歩後ろに下がった。
「でも……」
 そう言いながら、ルルーシュが手を伸ばして触れようとすると、彼はくるりと踵を返して走って行こうとする。遠くなっていく背中に向かって、ルルーシュは叫んだ。
「それでも、僕は君に助けられた!君は僕を助けたんだ!」
 少年はそれを聞いて、一瞬びくりと肩を揺らしたけれど、振り返ることはなく木々の中に姿を消してしまった。唇を噛み締めてそれを見送るルルーシュの耳に、少し遠くから声が聞こえてくる。
「……誰かいるのか?」
 ルルーシュは答えなかった。その代わり、無言で藪の中から出て行って姿を表す。日本兵士が潜んでいるとでも思っていたのか、こちらに向かって銃を構えていた数人のブリタニア兵は、姿を表したのがやせこけた子ども、しかもブリタニア人らしき子どもだと知ると、銃を下ろしはしなかったが戸惑ったような顔になる。
「子ども?」
「どうしてこんなところに……?」
 先ほどまでの興奮が冷めたせいか、これまで以上に膝が痛む。約一年、ほとんど動いていなかったのに激しい運動をしたせいで、体中の節々も悲鳴を上げている。けれどルルーシュは、気力だけでそれらを押さえ込んでぴんと背筋を伸ばして大地を踏みしめた。そして、ブリタニア皇族の証の一つである紫の瞳が見えるように、伸びきった前髪をかき上げて口を開いた。
「私の名は、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア……ブリタニア帝国第三皇女、第十七皇位継承者だ」
 それを聞いた兵士たちは一様に、ぽかんと口を開けて間抜け面をさらす。それを睥睨して、ルルーシュは続けた。
「誰に向かって銃を向けている。皇族に向かって銃を向けるが軍人か!」
 その言葉で、兵士たちは自分がどれだけの不敬を犯しているかに気付いたのだろう。いっせいに銃を下ろしてその場で膝を突いた。
 捨て駒として利用されるようなルルーシュでさえ、一般のブリタニア人にとっては敬うべき対象なのだ。それが少し滑稽だった。しかし、ある意味好都合でもある。何の力も持たないルルーシュでさえ、皇族というだけでこんなふうに人を服従させることができるのだ。それならば、伸し上がって権力を持つようになれば、いつかきっと、あの少年に恩返しをすることができるぐらいの力を持つことができるだろう。きっといつか――。



◇ ◇ ◇



 暗い森の中、一度走ってきた道のりを、スザクは走っていた。スザクは並の大人以上の体力を有していたが、先ほどまで何時間も走っていたことで疲れを覚えていたため、吐く息は荒く苦しそうなものだった。また、肉体的な疲れ以上に、精神的な疲れがあった。見も知らぬ子どもを助けるために、実の父親を手にかけてしまったことに対するショックが、あの子どもと別れた今になって襲ってきたのだ。
「っ……父さん……!」
 刀を刺したときに感じた肉の感触、鉄が錆びたような血のにおい。その瞬間の記憶が、生々しくよみがえってくる。
 けれど同時に、別れ際にスザクの手を包んだささやかなぬくもりが、再び手を包み込んだような気がした。

『君は僕を助けたんだ……君のこの手は、人を救うことのできる手だ』

 スザクは走りながら、まじまじと己の手を見つめた。父を刺したときのまま飛び出したせいで、手のひらは血にまみれていた。時間が経った血は、ぱりぱりと乾いて手に張り付いている。汚い手だった。
 こんな手で、人を救うことなんてできるわけがない。スザクの理性はそう叫んでいたけれど、感情がそれに蓋をした。父親が人を殺すところを見たくなかったから、父親を殺したのではなくて、あの子どもを助けるために父親を殺したのだと、子どもの言葉に飛びついた。
 そしてスザクは、これ以降二度と自分のために力を使うことはしないと心に決めた。己の力はただ、人を救うためだけにあるのだと。


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