分厚いガラス窓の向こうで、航空機が飛び立っていく。出発ロビーに立ちながら、ルルーシュはそれを虚ろな目で見送っていた。今はもう、何もかもがどうでも良かった。母が死んで、ナナリーも死んだ。そして、実の父親からは存在さえ否定されたルルーシュにはもう、何がどうなってもかまわなかった。たとえ、これから日本という、ブリタニアとの緊張が高まっている国へ送られようと、どうだって良かった。日本で待っている生活が楽ではないことは、ルルーシュの優秀な頭脳なら深く考えるまでもなく分かっていたけれど、生きる気力をなくしたルルーシュにとってはそんなこと、些細な問題でしかなかった。
もうこれ以上生きていたいとは思わない。けれど、血と臓物を床に散らして倒れていた母の醜い死に様を鮮明に覚えているルルーシュは、積極的に死を選ぶこともできなかった。
「ルルーシュ様」
少し離れたところに立っていた黒いスーツの男が、そっと近づいてきて声をかけてくる。
「お時間でございます」
ルルーシュはのろのろと視線を動かして、男を見上げた。そのままぼんやりと見つめ続けていると、男は居心地悪げに身じろぎする。ルルーシュは興味をなくしたように男から視線を外して、再びガラス窓の向こう、広がる青空を見上げた。そして、青空のずっと向こうに存在する島国を想像する。
(日本……)
世界的なサクラダイトの産出地で、それゆえに現在、ブリタニアとの関係が悪化している異国。
ルルーシュはもう、生きていたいとは思わない。けれど怖くて、積極的に死ぬこともできない。それならば、生きることを拒否してゆるやかに死へと向かおうと決めたのに、ブリタニアにいたのでは看護体制が整っているせいで、それすらままならない。けれど、これから行く国は違う。敵として認識している国の皇女を、丁寧に看護してくれるはずなどないだろう。だからきっと、ルルーシュはそこで死ぬことができる。
(……どうせ、最初から生きてなんかいなかったんだ……)
それならば、死んで、母とナナリーに会いたい。ルルーシュはぼんやりと空を見つめながら、そう思った。
(日本……僕の、死に場所……)
◇ ◇ ◇
ここから先は、車では進めない。護衛はその旨を告げて、ルルーシュに車から降りるよう促した。歩こうと歩くまいと、そんなことは心底どうでも良かったので、大人しく外に出る。扉の外に出ると、目の前には、めまいがするほど長い石段が広がっていた。日本で預けられる先、現首相である枢木ゲンブの邸宅は、これを上った先にあるらしい。枢木の家は神社の家系だ。神社の神威を高めるには相応しい立地かもしれないが、生活していく上では不便なことの方が多いだろう。ルルーシュは石段を見上げながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。
無表情で石段を見上げているルルーシュの姿に、何を誤解したのか、護衛の一人が話しかけてくる。
「僭越ながら、上までお運びしましょうか?」
「……必要ない」
視線をやることもなく、ルルーシュはその申し出を切って捨てた。この石段を上らねばならないのだと考えると、確かにうんざりするが、他人に運んでもらうことを考えると自分で上った方がずっとマシだ。母が殺された日から、ルルーシュは他人を信じられなくなった。そしてその傾向は、実の父親に存在をさえ否定された日から、いっそう強くなった。少し触れられるだけで嫌悪を感じるのだ。抱き上げて運ばれるなんて、選べるわけがない。
相手はそれを子どもの意地だとでも受け取ったのか、どこか鼻白んだような空気が漂ってくるのが分かる。けれど、どうせ枢木の家に着いてしまえば別れてしまう他人だ。気を使う必要性など感じられなかった――もっともその必要性が感じられたとしても、今のルルーシュは他人に対して気を使ったりしないだろうが――ため、ルルーシュはフォローの一つも入れることなく石段に足をかけた。
十段も上ると、息が切れてくるのを感じる。いくら何でもひ弱すぎるが、つんと冷たい硬質な空気を漂わせているくせに、どこか儚さも持ち合わせているルルーシュには似合いの貧弱さだった。しかしルルーシュも、元からここまで体力がなかったわけではない。母に続いてナナリーが亡くなってから、何もかもがどうでも良くなったルルーシュは、食事を取るのを止めた。生きることを放棄しようとした。けれど、仮にもルルーシュはブリタニア皇族。栄養失調で一度倒れた後は、最高の看護体制の下で体調管理をされていたせいで、死ぬことはできなかった。それでも、看護体制がいくら整っていても、ルルーシュに生きる気力を取り戻させてくれるようなものはなかったので、点滴によって命をつながれたルルーシュだが、体力がそれまでよりもずっと低下してしまった。その結果が、石段をほんの少し上っただけで息切れするひ弱さである。だからルルーシュが、この体力の無さを恥じることはなかった。むしろ、体力の低下がほんの少しでも死に近づいていることの証なら、喜ぶべきことなのだろう。
うだうだとそんなことを考えていると、日本特有の蒸せるような暑さもあいまって、汗が噴き出してくる。小さいころからずっと伸ばし続けていた髪が、首筋にべったりと張り付いてきて鬱陶しかった。そのうち、暑さと疲れのあまり、めまいがしてくる。それでもルルーシュはただ、黙々と石段を上り続けた。
他人に触れたくないという思いだけで上りきった石段の上では、枢木家からの出迎えが待ち受けていた。今まで付いてきていた護衛たちは、彼らにルルーシュを引き渡して、再び石段に足を戻す。これで完璧にルルーシュは、この異国の地で一人になった。けれど、寂しいとは少しも思わなかった。何故ならナナリーを亡くした日に、ルルーシュにとって世界から他人ではないものは消えたからだ。寂しさを感じる心なんて、あの日とっくに凍ってしまった。
ルルーシュが無表情で突っ立っていると、迎えの一人が口を開いた。
「どうぞ、こちらへ。お部屋へ案内いたします」
そして彼らは、ルルーシュが頷く前に踵を返して歩き始める。それは、ブリタニアの皇女の意思など必要ないのだという意思表示なのだろう。けれどそんなことはどうでもいいことだったので、ルルーシュは無表情のまま歩き始めた。神社の境内を横切って、そのまま邸宅に向かうのかと思えば、どうやら違うようで邸宅をぐるりと囲んでいる雑木林に入っていく。そのままいくらか歩いていると、こぢんまりとした建物が見えてくる。案内役の人間はその前で立ち止まると、慇懃無礼な態度で言う。
「こちらでございます」
そう言って指し示された建物は、家というよりもいっそ土蔵と言ったほうが正しいようなものだった。造りは二階になっていて、決して狭いわけではない。けれど、四方を支える柱は黒ずんでいて、白い壁面はところどころ塗装が剥がれ落ちている。決して客人を案内するような場所ではなかった。ましてや、皇族なんていう立場の人間を。
歓迎されていないことは分かっていたが、まさかここまでとは。全てに対して無気力になっていたルルーシュも、この扱いにはさすがに少し驚いた。けれど、これが今の日本とブリタニアの関係なのだろうと理解して、すぐに平常心に立ち戻る。
足を踏み入れると、背後で案内の者たちがそそくさと立ち去っていくのが、気配で分かる。ルルーシュは振り返ることもなく、後ろ手に玄関の古びた引き戸を閉めた。それから見回した薄暗い室内も、外観を裏切らないものだった。床の隅にはほこりが積もっているし、天井には蜘蛛の巣が張っている。床の隅にしかほこりがないのは多分、掃除をしたとかそんな理由ではなくて、ここで生活していくに当たって最低限必要なものを運び入れた際、人の足がほこりを払ったのだろう。それを示すように、二階に上がって寝室らしき部屋に入ると、ほこりにまみれた家具の中、新品のベッド――とは言っても、それはとても皇女のために用意されたとは思えないほど粗末なものだったが――とその周囲の床だけが綺麗だった。
ルルーシュはふらふらと歩を進め、ベッドの上にうつ伏せに倒れこむ。
(……疲れた……)
体力が低下した体に、あの石段は過酷だった。大きなため息を吐いた後、ころりと寝返りを打って仰向けになり、天井を見上げる。染みの浮かぶ天井を見上げながら、ほとんど気絶するようにルルーシュは眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇
スザクは怒っていた。当然だ。今まで自分のものだった秘密基地が、突然預かることになったブリタニアの皇女に占領されることになってしまったのだから。
(あそこは俺の場所だったのに……!)
屋敷を囲む雑木林の中を少し進んだ場所にある、まるで土蔵のような見た目の古びた小さな家は、もう何十年も前に打ち捨てられたものだったため、誰も足を運ぶことはなかった。だからスザクは、そこを自分の秘密基地として定めていたのだ。それなのに、昨日、何日かぶりにその場所へ行ってみれば、家の中にはいくつか家具が増えていた。驚いたスザクが、屋敷の者にそれとなく尋ねてみると、そこには明日――もう今日だが――からブリタニアの皇女が住むのだと教えられた。
だからスザクは今、一言文句でも言ってやろうと思って、その場所へと走っていた。相手は女なのだから暴力に訴えたりはしないけれど、文句の一つや二つぐらいは吐かないと気が治まらない。
ややもすると、見慣れた白い壁が見えてきて、スザクは走るのを止めた。この中には、ブリタニアの皇女がいる。シンリャクシャの国の皇女。そう思うと、何となく緊張して、スザクは足音を消して引き戸まで近づくと、そっと戸を開いた。
しかしふと、そんな自分に違和感を覚える。
(何で俺がこんなことしないといけないんだよ!)
ここはスザクのものだったのだ。後からやって来たような奴に、遠慮するような必要などあるものか。それからは、わざと足音を荒くして歩き、皇女とやらの姿を探した。一階にはいなかったため、足音を立てて二階に上がっていくが、誰も姿を見せる様子はない。
(……いないのか?)
こんなあからさまに存在を明かしているのに姿を現さないということは、もしやどこかに出かけているからではないのか。そう思いつつも、階段を上がってすぐの扉を開ける。その瞬間スザクは、自分の懸念が間違っていたことを知った。
薄暗い部屋の中には、一人の少女がいた。その子は、暑い夏の盛りだというのに、熱をよく吸収する黒いワンピースを着ていた。粗末なベッドの上で、仰向けになって四肢を投げ出しているのは、眠っているからなのだろう。スザクはそっと足音を忍ばせて、ベッドの側に近づいた。足音を殺したのは、白いシーツの上に散らばる黒髪を見ていると、何だかいけないことをしているような気分になったからだった。室内は狭く、数歩も歩けばすぐにベッドまでたどり着く。スザクは、ベッドに横たわる少女をまじまじと観察した。それは、今まで見たことがないぐらい綺麗な少女だった。白い肌はまるで透き通るようだったし、黒いまつげは驚くぐらい長いし、幼いながらも鼻筋は通っていて、唇は赤く色づいていた。
スザクがぼうっとなって見とれていると、その子は小さなうめき声を上げて、わずかに身動きする。
その瞬間スザクは正気に戻って、慌ててその場を逃げ出した。これまで経験したことがない激しさで、心臓が音を立てていた。
ブリタニアは、日本の敵だ。それなのに、敵国の皇女に見とれていたなんて、そんな事実をスザクは認めたくなかった。だからスザクは、この秘密基地のことも、ここで見たブリタニアの皇女のことも、全部忘れることにした。
◇ ◇ ◇
ふと、何か物音が聞こえたような気がして、ルルーシュは目を開けた。ゆっくりと身を起こすと、扉の方からガタンと音が聞こえてくる。振り向くが、そこにはすでに誰の姿も見て取ることはできなくて、閉めたはずの扉が開いているのだけが見えた。
「……誰だ?」
気になったのは、一瞬。その後は、そんなことがあったことすら忘れて、ルルーシュは再び眠りの世界へ旅立った。
それからずっと、ルルーシュは食事を取ることもせず、ただひたすら眠り続けた。
数日後、生活をしている様子がまるでないのを不審に思ったのか、枢木の女中が一人、土蔵のような建物へとやって来た。そこで彼女が見つけたのは、脱水症状と栄養失調を起こして今にも死にそうになっているルルーシュの姿だった。彼女は慌てた。いくら憎い敵国の皇女であろうと、今ここでルルーシュが死んでしまったりしたら、いったい日本がどれほどの窮地に追い込まれるか、そんなことを考えるまでもなく明らかで。
その日以降。勝手に死ぬことがないように、ルルーシュは監視と看護がしやすいよう、土蔵から枢木家の隠し部屋に居を移すことになった。
◇ ◇ ◇
「いないのか……?」
少し前まで自分の秘密基地だった建物をくまなく探した後、スザクは困惑げに顔をしかめた。あの日、この場で見つけたブリタニアの皇女らしき少女は、まるで幻のように消えうせていた。ブリタニア人なんかに見とれてしまったのが許せなくて、スザクは必死になって彼女のことを忘れようとした。けれど、どうしても忘れられなくて、あの日から十日近く経った今になって再びここを訪れたのだ。それなのに、どれだけ探しても彼女の姿は見当たらない。
「何だよ……」
スザクは苛立たしげな様子で、壁に手をたたきつけた。
それから後も、スザクは何度となくその建物を捜索したが、再び少女を見つけることはかなわなかった。そして移り気な子どもらしく、半年も経つころには、その少女のことなどほとんど忘れてしまっていた。