シロクロニクル 〜白の喪章 24〜


 それからしばらくの間、スザクはずっとルルーシュの手を握って、とめどない話をしていた。
 あるときふと、握った手から力が抜けたのを感じて、スザクは小さな声で彼女の名前を呼ぶ。
「ルルーシュ?」
 返事はない。目を閉じて横たわるルルーシュに、スザクは小さな声でそっと問いかける。
「眠ったの?」
 今度もまた、返事はない。返ってくるのは、規則正しい息の音だけだ。間違いなく、眠ってしまったのだろう。輸血は済んでいるとは言え、血を大量に失って体がショックを受けたことに代わりはないのだから、体が休養を必要としているのだ。
 静かに眠っているルルーシュの顔を、スザクはまじまじと見つめた。救出したときには、色を失って蒼白な顔色をしていたが、今はちゃんと普段どおりの色に戻っている。青ざめていた唇の色も赤に戻っているし、表情にも苦しそうなところはない。と言っても、ルルーシュの肌は元々白雪のような色をしているから、元通りになっても健康的とは言いがたいのだが。
 もう大丈夫そうだなと思って、スザクは安堵のために大きく息を吐く。
(良かった……あのときは、どうしようかと思ったけど……)
 地下遺跡へと続くらしい階段から、救護トレーラーまでルルーシュを運んだときのことを思い出す。
 包帯の代わりに肩に巻かれた布には、吸い尽くせないほどの血がにじんでいて、ルルーシュの細い体を抱いていたスザクの手は、トレーラーに着くころには真っ赤に染まっていた。スザクが懸念したとおり、ルルーシュは失血性ショックを起こしていて、ルルーシュ本人はたいしたことはないと言っていたけれど、実のところかなり危険な状態にあったのだ。
 幸いにも、ブリタニアの医療は世界のどの国のものよりも優れているし、しかもルルーシュは皇族、しかも帝国第3位にいる人間だ。懸命な治療の結果、命を取り留めたのはもちろんのこと、包帯の下なので今見ることはできないが、撃たれた傷も全く残らないらしい。
(……女の子の体に、傷が残るようなことにならなくて良かった)
 柔らかい笑みを浮かべて、スザクはルルーシュの手を握っている手に力を込めた。
 同時にルルーシュが小さな声を漏らして、少し身じろぎする。
「ん……」
 起こしてしまったかと思って、スザクは恐る恐るルルーシュの顔を窺った。しかし、見る限り表情は至極安らかで、寝息が乱れているわけでもない。
 ほっと肩を落として、スザクはそのままじっとルルーシュの顔を見つめた。心配が過ぎ去ると、まるで人形のように整った造作の美しさについて、純粋な感嘆に心を支配される。
(本当に綺麗だな……)
 化粧などしていないのに、この距離から見ても白い肌はまるで子供のような滑らかさを保っていて、マッチ棒が一本と言わず二本でも軽く乗ってしまいそうなほど長いまつげが、その白に影を落としている。唇が少し開いている寝顔は、普通なら間抜け顔に見えるかもしれないが、ルルーシュほどの美人がしていれば眠っているだけで絵になっているのだから、不思議なものである。常に強い光が宿っている紫電の瞳が閉ざされているせいか、普段の凛とした印象とは違って、眠っている今は物語の中に出てくるお姫様のようにも見える。
 スザクの脳裏に自然と、スリーピングビューティーの話が思い浮かんだ。
(キス……したら、目覚めるかな……)
 花のような唇を見つめて、ぼんやりとそんなことを思う。まるで引き寄せられるように、スザクはルルーシュの顔に自分の顔を近づけて――唇と唇が触れ合おうとする直前、背後からバサバサと大きな音が聞こえてきて、スザクは飛び上がった。
「なっ、何……!?」
 慌てて振り返ると、先ほど放置してしまっていた花が、床に落ちて散らばっているのが目に入った。
「うわあ……」
 スザクはため息を吐いた。向きを変えてルルーシュの様子を窺うが、幸いにも目を覚ましていないようだった。
 ほっと胸を撫で下ろして、花を拾いに行こうとして握り締めたルルーシュの手をそっと離そうとする途中、ふとルルーシュの唇が目に入った。とたん、スザクはぼっと音が聞こえてきそうなほど勢いよく赤面する。先ほど自分が何をしようとしていたのか、ようやく理解したためだった。
(ぼ、僕はなんてことを……!どうしてこんな……)
 スザクは慌ててその場を離れて、花の散らばる元へと走った。床にへたりこんで花をかき集めながら、ほてった頬を覚まそうとぶんぶんと首を横に振る。
(ごめんルルーシュ!でも、未遂だから……!)
 心の中で謝るが、申し訳なくてルルーシュの方を見られない。
 それでも少し時間が経つと、申し訳なさと、それ以上の羞恥心もだんだんと治まってくる。そして、冷静に物事を考えられるだけの余裕が戻ると、シュナイゼルに口付けられていたルルーシュの姿が脳裏に思い浮かんだ。
「っ……」
(そうだ……勝手にキスなんかしたら、シュナイゼル殿下と一緒じゃないか……!僕は、ルルーシュを困らせたいわけじゃないんだ……)
 ただ側にいて、守りたい――守ってあげたい。
(それなのに、ルルーシュが嫌がることをしてどうするんだ……!)
 誰よりも大切にしたい人にこんなことをしたくなるなんて、欲求不満なのかもしれない。ルルーシュに向けるこの感情は、欲望なんてものとは関係ない、もっと綺麗なものなのだ。少なくとも、スザクはそう思っていて、そう思いたかった。
 自己嫌悪に陥ったスザクは、拾い集めた花を腕に抱いて立ち上がった。そしてそれを、机の上に置いてある花瓶に活け始める。認めたくない醜い感情を、全く関係のないことをすることで、どこかへ吹き飛ばしてしまいたかった。
 しかしスザクはごくごく普通の少年で、ゆえにこれまで花を活けた経験なんてあるはずがない。何をどうやって活ければいいのか全く分からず、欲求不満のことなんかすっかり忘れて、思い切り戸惑っていた。
「うーん……もう、全部適当に突っ込んでいいよね」
 情緒ゼロのことをぼそっと言って、止める者が誰もいないのをいいことに、本当に言葉通り、適当に花を花瓶の中に突っ込み始める。茎を切って長さを調整したり、余計な葉を落としたり、色のバランスを考えたりということを全くしていなかったその結果――なんとも前衛的な作品ができあがった。
「これは……さすがに……」
 スザクは頬を引きつらせて黙り込んだ。
 前衛的と言えば聞こえはいいかもしれないが、飾らずに言えば、単に不恰好なだけである。適当に花瓶の中に突っ込まれた花は、明らかに全体のバランスがおかしい上に、花瓶の要領を越えて花が活けられているせいで今にも倒れそうだ。花束だったときは確かに綺麗だったはずなのに、花瓶に活けられた今の状態は、元が元なだけにかなりの憐れを催す。
 確定。スザクに花を活ける才能は皆無だ。
(でも、飾らないのも花をくれた人に悪いし……)
 スザクは仕方なく、不恰好な状態になった花と花瓶を、ルルーシュが眠るベッドの側へと運んだ。花瓶を置いて、ふとルルーシュに目をやった瞬間、唇の赤に視線を取られて、スザクは再び面に朱を上らせる。
(駄目だ!……少し、頭冷やそう……)
 スザクは犬のようにぶるぶると頭を振って、両手で音を立てて顔を叩くと、部屋の外へと出ようと扉を開けた。
「きゃっ……!」
「あ、すみません!」
 部屋の外へと足を踏み出した瞬間、誰かにぶつかる。慌てて身を引いて、少し下へ視線をやると、特徴的なピンク色の髪の毛が見えた。
「ユーフェミア皇女殿下……」
 他でもない、ユーフェミア・リ・ブリタニアがそこにいた。ルルーシュへの見舞いのつもりか、腕に花束を抱いている。彼女はおずおずと顔を上げ、ぶつかったのがスザクだということに気付くと、ほっと表情をやわらげた。まいてきたのか、近くに護衛の姿は見えなかった。
「スザク……」
「何か御用でしょうか?」
 親しげに名前を呼んでくるユーフェミアに対して、しかしスザクはあくまで事務的な口調で返事をする。そのことに、ユーフェミアは悲しげな顔になったが、スザクが心を痛めることはなかった。
「あの……ルルーシュは……?」
「今は眠っています」
「そう……お見舞いに来たんだけど……入ってもいいかしら?」
 それはあくまでも便宜上の問いかけであって、まさか入室を拒否されるとは少しも思っていない声音だった。それも当然だ。准尉に過ぎないスザクに、普通なら皇女であるユーフェミアを止める権利などありはしない。
 けれどスザクは言った。
「申し訳ありませんが、遠慮してくださいませんか?」
「え……?」
「殿下は、今眠られたところです。人の気配があったら、ゆっくり休めないでしょう」
 スザクは軍人という職業と、昔から続けている訓練のため、気配を消すことに長けているが、ユーフェミアに同じ真似はできまい。眠っているときそんな人間が側にいたら、落ち着かないだけだ。
「……それに多分殿下は、貴方に見舞われることを望んでおられません」
「っ……!」
 とたん、ユーフェミアは冷や水を浴びせかけられたような顔になった。わざわざ見舞いに来てくれた人間に対して、言うべき言葉ではないと分かっている。けれど、ルルーシュの心情を慮れば、言わずにいられなかった。
(だってルルーシュ、泣きそうな顔してた……)
「……アレクが撃たれたとき、母さんとナナリーが撃たれたときのことを思い出したと、ルルーシュ殿下はそう仰っていました」
 涙を流さないのが不思議なぐらい悲しそうな顔をして、そう言ったのだ。そんな顔になるぐらい悲しい出来事を思い出させた人間に、心も体も傷ついている今、会いたいわけがない。
「だからどうか、せめてもう少し……殿下の心が落ち着くまで、見舞いに来るのは遠慮してもらえないでしょうか?」
「そ、う…………8年前の、あの日のことを」
 ユーフェミアは、今にも泣き出しそうな顔になってうつむいた。
「……私はルルーシュに、とてもひどいことをしてしまったのね」
 そう言って、ユーフェミアは胸に抱いた花束をさらに強く抱きしめた。そしておもむろに顔を上げると、悲しそうな顔をしながらも微笑んで口を開いた。
「止めてくれてありがとう、スザク」
「いえ、僭越な真似をして、すみませんでした!」
 深々と頭を下げて謝ると、上から小さな声が降ってくる。
「……貴方みたいに、そうやって駄目なことは駄目って言ってくれる人が側にいたら……私も変わることができるのかしら……」
 誰に言うでもなくそう言って、ユーフェミアは見舞いにと持ってきた花を抱いたまま、くるりと踵を返して通路を戻って行った。



◇ ◇ ◇



 それから半月近く、スザクは最低限の軍務以外は免除されて、ずっとルルーシュの看病に徹していた。そしてそれが、国立美術館テロ事件の折に少し近くなったルルーシュとスザクの距離を、さらに縮めることに役立っていた。

 そして今日も、本日分の軍務を終えたスザクは、ロイドに見舞いとして持たされた有名店の人気商品らしいプリンを手に、ルルーシュの自室へと入っていった。
 傷が治るまでエリア18にいたらどうだと言うコーネリアの提案を振り切って、ルルーシュは二度目に目が覚めるとすぐ本国へと帰った。だから、ここは広いブリタニア宮の一角にある離宮の一つだ。名をアリエスの離宮と言うらしい。皇族の住まいにしては首を傾げたくなるぐらい、この離宮の中には人の気配というものがない。こんなので大丈夫なのかとスザクは思うのだが、そのおかげで人目をはばかることなく、ルルーシュが望む気安い口調を崩さずいることができることも確かだった。
 そんなことを思いながらスザクは、部屋の奥にある寝室へと続く扉に手をかけた。
「ルルーシュ、入るよ」
「ま、待て、開けるな……!」
 すでに扉を開けてしまった後で、そんな声がベッドの方から聞こえてくる。
 着替えていたり、体を拭いていたりしているのかもしれないという考えは、ちっとも思い浮かばなかった。なぜなら看病をし始めた当初、スザクが目の前にいるにも関わらず平気で着替えようとしたルルーシュを見て、医者でも夫でもない男の前でそういうことをしてはいけないと滔々と説いた結果、ルルーシュは一応スザクが来るような時間帯には、部屋に備え付けのバスルームで着替えをしてくれるようになったからである。
 そういった心配をせずによくなったため、どうしてルルーシュがこんな焦った声を上げているのかどうか、スザクにはきっちり予測がついた。ので、足を止めることなく突き進んで、部屋の奥にある寝台まで歩を進め、天蓋に覆われて内側の見えないベッドの上にいるルルーシュに声をかけた。
「ルルーシュ」
 天蓋を手で払いのけて、その中にいるルルーシュと顔を合わせる。ルルーシュは先ほどの焦った声からは考えられないほど平然とした顔をして、寝台の上に身を起こしていた。
「僕、昨日も言ったよね?」
「……何をだ?」
 にっこりと笑うスザクを見て、ルルーシュは自然に――そう、あくまで自然な様子でいぶかしげな表情になる。しかしスザクは、それに騙されることなく、ルルーシュが下半身を覆うようにかけている上掛けをべろりとはがす。ルルーシュが止める間もない、すばやすぎる動きだ。
 上掛けに隠されていたルルーシュの太腿には、小さなノートパソコンが置かれていた。ルルーシュはばつが悪そうな顔になる。少し元気になったと思ったら、こうやってパソコンをいじってばかりいるのだ。
「仕事以外のときは、ちゃんと休んでないといけないよって……言ったよね?」
「……これも仕事のうちだ」
「嘘。だって書類の決裁以外の仕事、今は免除してもらってるはずだ。パソコンなんて必要ないだろ」
「……情報収集も仕事のうちだ!」
「わがまま言わないでよ。今は、傷を治すことが先なんだから、ちゃんと大人しく寝てるんだ」
 抗議の声を上げるルルーシュを寝かせて、肩までちゃんとシーツをかぶせ、まるで小さな子供をあやすように頭を撫でる。
「もうほとんど治ったんだ。いい加減、仕事に復帰してもいいだろう」
「お医者様が、まだ駄目だって言ってたんだから駄目だよ。素人判断は危険なんだって知らないの?」
 諭すようにスザクが言うと、ルルーシュはむすりと黙り込んでそっぽを向く。
「……君は子供みたいだね、ルルーシュ」
「お前は口うるさい母親みたいだ」
「……僕、男なんだけど」

 こんなふうに、ルルーシュからの二人称が君からお前になって、他愛無い軽口を言い合うようになるぐらいには、ルルーシュとスザクの距離は縮まっていた。


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