シロクロニクル 〜白の喪章 21〜


 数日後。
「はあ……」
 スザクは朝からため息を吐いていた。
 視察はほとんど終わっていて、それに護衛としてついて回っていただけのスザクはしかし、同じように行動していたはずの他の人たちよりもかなり疲れていた。言うまでもなく、周囲から絶えず向けられる悪意の視線と、数々の至極低レベルな嫌がらせのせいである。しかし低レベルとは言っても、スザクは一応、客分としてエリア18に来ているルルーシュの下にいる人間である。コーネリアの傘下にいる人間が下手なことをすれば、ルルーシュとコーネリアの間で諍いが起きかねないということは、低レベルな嫌がらせを仕掛けてくる連中も一応は理解しているのだろう。それは、あくまでスザクが一人でいるときか、偶然を装って行われた。陰湿である。
 こういったことには経験上(嫌な経験だが、数ヶ月前まで嫌がらせなんてものは、ナンバーズであるスザクには日常的だった)慣れていて、ワイヤーロープ並に図太い神経をしていると言われたことのあるスザクであるが、ここ数ヶ月間は居心地のよい環境にいたせいか、少しばかり沈み込んでいた。
 しかし、沈み込んでいたって何が変わるわけでもない。両手で自分の頬を叩いて気合を入れると、べちっと音が鳴る。それを合図に、スザクは部屋の扉を開けて、今日も間違いなくされるであろう嫌がらせに気をつけながら食堂へと向かって歩き始めた。
 朝のこのとき――食堂へと向かう途中の時間は、実のところ嫌がらせをしてくる輩にとってはなかなか都合のいい時間帯である。仕事が始まってからや仕事が終わった後には、ルルーシュの親衛隊や特派の面々と一緒にいて仕事の話をしたり、ただ食事をしたりしていることが多いため、スザクが確実に一人でいるときと言えば、このときか部屋にいるときぐらいだからである。
 そのため、この時間一人でいるときには、少しばかり気を付ける必要があうる。スザクが少しぴりぴりして歩いていると、少し離れたところで壁にもたれかかっているアレクセイの姿が目に入った。同時に、彼もまたスザクに気付いて、温和そうに見える笑みを浮かべて近づいてくる。
「おはよう、枢木」
「おはようございます」
「朝から悪いけど、殿下が呼んでいるんだ……付いてきてくれ」
「はい、分かりました」
 アレクセイの後に続いて、スザクは食堂とは別方向へ向かって歩き始めた。
「……この前は、変なとこ見せて悪かったな」
「え、いえ、別に……」
 そう言えば数日前の夜、彼がルルーシュに迫っている――何だか誤解を招く気もするが迫っていると書いても別に間違いではない――ところに居合わせたのだということを思す。しかもスザクは、それの邪魔をした。
 悪いことをしたわけではないのだが、妙に申し訳ない気分に駆られていると、アレクが顔だけで振り向いて苦笑した。
「あと、殿下のことも任せてしまってすまない」
「いえ……あの直後では、お二人とも気まずかったと思いますので……」
「まあ、そうだろうな……それより、その敬語やめないか?うちのところは、ナンバーズとかそんなこと気にする奴はいないから、そんなにかしこまる必要なんてないぞ?まあ、公式の場ではちゃんとしないといけないけど、日常で同じようにしてても堅苦しいだけだろ」
「しかし……」
「堅苦しいって言ってるだろ。俺のことはアレクでいい。俺も枢木じゃなくてスザクって呼ぶから、な?」
「……分かった」
 折れたのはスザクだった。初めて会った日から思っていたのだが、ルルーシュの親衛隊はかなり特殊だ。普通、皇族の親衛隊なんて居丈高にふるまっていて、ナンバーズのことなんて歯牙にもかけないか蛇蝎のように嫌っているかのどちらかである。こんなふうに、敬語はいらないなんてナンバーズであるスザクに言ってくるのは、ルルーシュに仕えている彼らぐらいだろう。それぐらいおかしなことなのだ。
(ルルーシュ殿下も敬語はやめろって言ってたし……ホント、主従ともども変わってるな……)



 そして連れて行かれたルルーシュの部屋で。
「枢木スザク、君に、今日一日の休暇を与える」
 豪華なテーブルセットに腰掛けていたルルーシュは、何故か唐突にそんなことを言い出した。
「は?」
 何故朝からわざわざ呼び出してまで休暇を与えられるのかが理解できず、スザクはぽかんと口を開けて間の抜けた顔になる。
(……何で休暇?僕、何かしたっけ……?)
 スザクがぐるぐると考え込んでいると、隣にいたアレクセイもまた不思議そうな顔をして、口を挟んでくる。
「あの、殿下……何故突然休暇などと言い出されたのか、聞いてもよろしいでしょうか?」
「ん?ああ、言い方が悪かったかな。枢木スザク、君に、休暇という名目の仕事を与える」
(ああ、それなら納得)
 スザクはそう思いながら、先ほどと全く同じ音でありながら全く別の意味を持つ返事をした。
「はっ」
「今日の午前……そうだな、10時ごろ、建物の外――この部屋からあまり離れていないところをうろついていてくれ。軍服ではなく、私服でいてほしいんだが……持ってきている、わけがないな」
 ルルーシュの言うとおり、従軍でエリア13まで行った帰りのスザクが、私服なんて持ち合わせているわけがない。
「では、後で部屋に届けさせるから、それを着てくれ。……話を戻すが、うろついているとそのうち、ピンク色のふわふわした生き物が降ってくると思うから、悪いが今日一日、それが満足するまでそれに付き合ってやってくれ。俺の命令だということは伏せてな」
(ピンク色のふわふわした生き物……?)
 何だそれと思いながらも、スザクはそれを顔に出さずに頷く。
「イエス、ユアハイネス」
「……ピンク色のふわふわした生き物って、まさか……」
 そんなつぶやきが聞こえてきて、隣を見ると、何故かアレクセイが微妙な表情をしているのが目に入った。
(何だ……?)
「あと、君はそれについて何も知らない……そういう設定だ。忘れるなよ」
「はっ」
 いい返事の裏で、スザクは不思議に思っていた。
(設定って……何?)



◇ ◇ ◇



「どいてくださーい!」
「え?」
 ルルーシュに言われたとおり、朝食後部屋に戻るとすでにそこに届けられていた私服に着替えて、午前10時になる少し前から指定の位置を不自然にならないよう適当に行ったり来たりしていると、上から突然女の子の声がした。呆気に取られて上を見ると、長いピンク色の髪をした少女が上から降ってくるところだった。
「あぶなーい!!!」
(危ないって……危ないのはそっちの方だろう!)
 スザクは元々人並みはずれた身体能力を有しているし、軍隊で鍛えているから、彼女の下敷きにされても別に大丈夫だろうが、彼女のような華奢な少女があんな高さから落ちれば、よくて打撲、打ち所が悪ければ死亡だってありうる。
 スザクは少し位置を移動すると、両手を広げて落ちてくる彼女を受けとめた。
「……あの、怪我とかしていませんか?」
「ごめんなさい。下に人がいるとは思わなくて……」
「いえ……」
(多分彼女が、殿下が言っていた『ピンク色のふわふわした生き物』なんだろうな……でも殿下……人なら人って、ちゃんと言っておいてください)
 ルルーシュの言い分では、何かの動物みたいに聞こえる。
 ふと視線を感じて上を見ると、大きく開かれた窓から、いくつか結び合わされて長いロープのようになった白い布が垂れ下がっていて、その窓の近くにルルーシュの姿が見えた。
 ぱくぱくと口を動かしているのが見えて、それを読み取ると、頼んだぞ、と言われているのが分かった。
 スザクは無言で頷いて、腕の中の少女を見た。
「えーと、どうしてあんなところから……?」
「私、実は悪い人に追われていて、だから助けてくださいませんか?」
 彼女は、ユフィと名乗った。その名前に、スザクは聞き覚えがあった。コーネリアの実妹にしてルルーシュの異母妹である、ユーフェミア・リ・ブリタニアの愛称、つまりれっきとした皇女様だ。ルルーシュとは全く似ていないが、よく見ると、実の姉であるコーネリアの顔立ちとは、意外と似通ったところがある。
(で、殿下……なんてこと押し付けるんですかー!!)
 スザクは心の中で絶叫したが、一度引き受けた仕事だ。放り出すわけには行かない。
 ルルーシュの命令どおり、スザクは彼女が皇女だなんて全く知らない振りをして、一日中ユーフェミアに付き合うことになった。



◇ ◇ ◇



「……これでいい……」
 窓辺に立ったルルーシュは、走り去っていくユーフェミアとスザクの姿を見送りながら、ぽつりと言った。
「……これで、いいんだ……」
 小さくなっていく二人の背中を見下ろす瞳は、ひどく寂しげな色を宿している。まるで、見捨てられた子供のような目だ。
「ユフィはきっと、スザクのことを気に入る……それに俺なんかよりもずっと、ユフィはスザクの理想に適っている。ユフィは無知で、でもだからこそ穢れなんて知らない純粋さと気高さがある……だから、スザクのためにはこの方がいいんだ……」
 視線を上げて、晴れ渡った空を見上げる紫眼は、ここではないどこかを眺めているように亡羊としている。まるで、今ではないずっと未来を見通しているような瞳だった。
「分かっていた……あいつの手を取ってしまった以上、ずっと側にいることなんてできないということぐらい……託すなら、ユフィが一番だということも、全部分かっている……七年の間、ずっと見守るだけで満足だったんだ。それに戻るだけのことだ……」
 ルルーシュはうつむいて、今にも涙があふれそうな瞳を抱えて唇を噛み締める。
「でも、それでも……わがままだな、俺は――」
 ――側にいたい。
 風にさらわれていったその言葉を、聞いたものは誰一人としていなかった。
 涙はこぼれなかった。

 しばらくして、ルルーシュは感傷を振り払うように首を横に振り、窓際から部屋の中央にあるテーブルセットまで足を戻した。テーブルの上に置いてある通信機の電源を入れて、それをコーネリアへとつなげる。
 仕事中であろう義姉は、すぐ通信機の画面上に姿を見せた。
『ルルーシュ、どうかしたのか?今は、ユフィと二人で茶会をしているのではないのか?』
「ええ、そのはずだったのですが……困ったことに、少し目を離している間にユフィが窓から脱走してしまって……」
『何!?すぐに捜索隊を……!』
「ええ、すみません。俺が一緒にいながら……」
『いや、こちらこそすまなかった。久しぶりにお前と会いたいと言っていたくせに、まさかこんなことをするとは……』
 画面の中で、コーネリアは深いため息を吐いた。
『すまないが、執務中だ。それだけなら、これで切らせてもらう』
「待ってください。少し、お話したいことがあります」
『何だ?出来れば、手短にな』
「申し訳ありませんが、少しばかり……長い話になりそうですよ」
 画面に向かって、ルルーシュは意味深な笑みを浮かべる。
「……財務次官のグレゴリー・ディケンズ、参謀本部・中央軍官局長のオリバー・マクスウェル――」
 ルルーシュは他に、あと数人の名前をつらつらと述べていく。
『ルルーシュ?』
「彼らは、少しばかり火遊びが過ぎたようですね。横領、テロ組織への情報漏洩等、数日ではあまり証拠もつかめませんでしたが、一度粛清の必要がありますね」
 その言葉に、画面の中のコーネリアははっと息を呑んだ。
『……エリア18の制定から、まだ少ししか経っていないというのに……』
「確かに、完全にこの国がブリタニア領となったのは少し前のことですが、数年前からブリタニアはこの国にじわじわと入り込んでいた。彼らは、その頃からここにいた人間のようです。その間に、腐敗は進んでいたのでしょう」
 嫌悪に顔をしかめて話を聞いているコーネリアに、ルルーシュはいっそ笑みすら浮かべて言った。
「腐敗は人の常……誰もが、貴方のように高潔に生きられるわけではないのですよ、義姉上」
『高潔など……私はそんな』
「少なくとも」
 コーネリアの言葉をさえぎって、ルルーシュはきっぱりと言い切った。
「俺が知る人間の中で、貴方は誰より高潔な方です……ですが、義姉上の態度は分かりにくい。ナンバーズとブリタニア人を区別なさるその態度も、貴方のことを何も知らぬ人間からすれば、差別としか思えない。だからこんなふうに、馬鹿なことをする輩も出てくる」
 ルルーシュはそう言って、何枚かの写真を画面の前にかざした。
『なっ……何だこれは!』
「俺の随員――枢木スザクに対する嫌がらせの証拠画像ですよ」
 写真には、スザクに与えられた部屋の惨状や、スザクが嫌がらせをされている姿が映っていた。
 画面の前からそれをどけて、ルルーシュは驚愕と怒りに顔を染めているコーネリアを見て、凄艶な笑みを浮かべる。
「ナンバーズが気に入らないのか知りませんが、俺の部下に対してこんなことをするなんて、いい度胸だと思いませんか?」
『……すまない。私の不手際だ』
「謝罪はいりません。彼らに対する処罰も、今回はそちらに任せましょう。ですが……二度目はないということをお忘れなく」
 その言葉は、本気だ。二度も愚を繰り返す者に、ルルーシュは容赦しない。義姉であるコーネリアはそれをよく知っているから、神妙な表情で頷いた。
『ああ、分かった』
「先に挙げた不正者のリストと一緒に、この写真もそちらにお渡しします。……ユフィがいなくなって暇なので、俺がそちらまで届けますよ。義姉上はどうぞ、仕事を続けてください」
『重ね重ね、本当にすまない』
「お気になさらず」
 ルルーシュはふわりと微笑んで、通信回線を切ってから言った。
「……ユフィをそそのかしたのは俺ですから、これぐらいはしてあげますよ」
 そそのかされたユーフェミア本人でさえ気付かないほど巧みに、総督府を抜け出して町を見てくることを決断させたのは、ルルーシュだったから、これぐらいのことは軽いものだ。


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