シロクロニクル 〜白の喪章 15〜


 シュナイゼルの許可も取り終え、晴れてルルーシュの下に付くことになった特派は、その日から早速ブリタニア宮から少し離れたところにある広い実験施設の中で、ランスロットの起動実験を行っていた。
 ここに入ったときは、元々ルルーシュの下にいたらしいラクシャータという技術者と、ロイドとが険悪な空気を漂わせるというハプニングがあったりした。どうやら、この施設は今まで、ラクシャータを中心とする技術者集団が使っていたらしいのだ。古参の者と新参者、仁義なき戦いが始まるかとスザクは少しハラハラしていたのだが、二人ともマッドサイエンティスト的性格をしているらしく、それぞれの副官が実験の一言を匂わせると、すぐさま機器の近くへ飛んでいった。ラクシャータを中心とする彼らと特派とは、異なった部屋を与えられているらしく、それ以降顔を合わせることもなく、実験は順調に進んでいた。
 そして、実験開始から何時間が経ったのか。
 少なくとも実験中に、セシルがスザクに二回は、日本において片手で食べられるものの代表――つまりはおにぎりを運んできてくれた。どうやら、イレブンのスザクを気遣って、わざわざ作ってくれたらしい。それでも、ここで食事のためにスザクに実験を休ませてくれないあたり、彼女も技術者なのだと痛感させられる。
 別に、食事はゆっくりと食べたいなんて贅沢なことを言うつもりはないから、スザクはそのこと自体はあまり気にしなかった。しかし、おにぎりの具に関しては思い切り気になった。いくら何でも、おにぎりの具にブルーベリージャムなんてものを選ばないで欲しい。今度からは、セシルが作った料理は絶対に遠慮させてもらうことにしようと心に決めた。あれは食物兵器だ。
 それはともかく、通常ならば、空腹を満たす時間すら惜しまれるような実験は忌避されるべきことなのかもしれないが、今のスザクにはむしろありがたかった。
 忙しく体を動かしていれば、無心でいられる。そして、無心でいることができるのならば、先ほど見た、ルルーシュがシュナイゼルにキスされている光景を忘れることができる。異腹の母を持つとは言え、血がつながった兄妹同士なのに、どうしてシュナイゼルはルルーシュにあんなことをするのかなんて、スザクは考えたくなかった。
 しかし、スザクの無心を妨げるように、突如ロイドがぱんぱんと両手を叩き始めた。ランスロットの中にいても、ハッチは開いているため、その音ははっきりと耳に響いてくる。
「おーめーでーとー!今日の実験はこれにて終了!いやあ、いいデータが取れたよ〜。枢木准尉、君ってやっぱり、最高のパーツだねぇ」
 続けて、ロイドは何事かを楽しげに言っていたが、スザクの耳には入ってこなかった。実験は、終了した。そうなると、もう気を紛らわせることはできない。無心になるために、どこか場所を探して、体を動かしてみるべきだろうか。
 ランスロットから降りて、着替えるために別室へと向かおうとして通路へと出る。すると、ちょうどここへ入って来ようとしていたのか、突然開いた扉に驚いたような顔をしたルルーシュと鉢合わせた。しかし、すぐに普通の顔に戻ったルルーシュは、体を後ろにずらしてスザクが通路に出られるようにした。
「で、殿下、すみません……!」
 スザクは謝りながら、電子扉をくぐった。
「いや、気にするな。実験は……終わったみたいだな」
 閉じ行く扉の隙間から、部屋の中で上機嫌でぱんぱん両手を叩き合わせているロイドを見て、ルルーシュは呆れたようなため息を一つ漏らす。
「ロイドに付き合うのは大変だろう。……こんなところにやったりして、悪かったな」
「いいえ。僕、体力だけはありますから、心配いりません」
「そうか……」
 にっこり笑って否定するスザクを見て、ルルーシュはほっとしたように笑う。ルルーシュとスザクは身長がほとんど変わらないため、スザクはその笑みを直視することになった。
(ホント、凶悪だな……)
 スザクは思わず、少し赤くなった。
 ただ微笑んでいるだけなのに、こんなにもキラキラしいのはどうしてだろう。動作としては、目尻を下げて唇の両端を吊り上げているだけである。たったそれだけのことで、まるで花がほころぶような印象を受ける。やはり、美人はもはや生きている世界が違うということなのだろう。
「それなら、少し聞きたいことがあるんだが……いいか?」
「ええ、もちろんです、殿下」
「それじゃ……ここは少し、不味いな」
 きょろきょろと、周囲を見渡して、場所を物色し始めるルルーシュ。すぐに彼女は、何かを見つけたような顔になると、スザクの腕を取って歩き始めた
「で、殿下?」
「……人にあまり聞かれたくない。ここでいいだろう」
 突然腕をつかまれて戸惑うスザクに、ルルーシュはそう言って、デヴァイサーに与えられた更衣室の扉を開けた。確かに、この更衣室はデヴァイサー専用のもので、ゆえにスザク以外の誰かが入ってくるということは、ほとんどないと考えていい。
 そのことに関しては問題ないのだが、男と密室で二人きりという状況が、どれだけ危ないことなのか、彼女は分かっているのだろうか。これだけの美人なのに、どうしてこういうことに無頓着なのだろう。
(実の兄に、あんなことされてるっていうのに……)
 いや、むしろ、シュナイゼルがあんなことをするほどルルーシュに執着していて、他の男なんて寄せ付けなかったからこそ、男という生き物の危険さについてここまで無知なのかもしれない。
 そう思うと、何だか胸がむかむかしてきた。
(どうしてだろう……?)
 苛立ちの理由が理解できないでいると、部屋の中に誰もいないことを確認していたルルーシュが、声をかけてきた。
「それで、スザク……」
「はい、殿下。何でしょうか?」
 名前を呼んだきり、戸惑うように黙り込んでしまうルルーシュにスザクがそう問うと、ルルーシュはふっと寂しげな顔になる。
「……もう、ルルーシュとは呼んでくれないんだな……」
「それは……」
 そんなこと、できるはずがない。単なる貴族相手ならまだしも、ルルーシュは皇族だ。しかも、ブリタニアの副宰相というかなり高位の人物。そんな人に対して、礼儀を欠くことをするわけにはいかない。
 そう思って困り顔になっているスザクを見て、ルルーシュは諦めたように目を伏せる。
「……困らせるつもりはなかったんだ。すまない……もう、こんなことは言わないから、気にするな」
 と言われても、こんなふうに寂しげな顔をされたのでは、気にしないではいられない。スザクは冷血漢ではないのだ。
 しかし、フォローする時間を与えてくれることもなく、ルルーシュは話を続ける。
「それより、スザク」
 フォローしようと思っているのに、許されない。ルルーシュとの会話では、こんなことばかりな気がするのだが、気のせいだろうか。何だか、自分がひどく情けない人間であるかのように思わされて、スザクは少し落ち込んだ。
「……あー、その……何だ……」
 ルルーシュは何やら口ごもっているが、突然何だと言われても訳が分からないのはスザクの方である。
「……その……義兄上が、俺に……」
 それきり、困ったような顔で黙り込むルルーシュだったが、義兄という単語が出た以上、皆まで言われずとも分かる。多分ルルーシュは、シュナイゼルがルルーシュにキスしていた場面を見たのではないのか、とスザクに尋ねたいのだろう。スザクは特別鋭くもないが、鈍くもない。
 ルルーシュはまだ、言いづらそうに口ごもっている。
 これ以上困らせるのは本意ではなかったし、スザクもそのことについて多大な疑問を抱いていたため、自分から尋ねてみることにした。
「……シュナイゼル殿下は、いつも貴方にあんなことを?」
「っ……」
「ブリタニアの兄妹なら、もしかしてあんなことも日常茶飯事なのかなあと一瞬思ったりもしたんですが……そうじゃないんですよね?」
「あの人のアレは……ただのお遊びなんだ」
 ルルーシュはうつむいて、吐き捨てるような口調で言う。スザクが目撃したような行為を、ルルーシュが嫌がっているように見えたのは、間違いではなかったらしい。
 眉をしかめたルルーシュはうつむいて、言いづらそうに口を開く。
「……俺は、目的のためにあの人の下に付いた。そしてあの人は、俺が逆らえないのを知っていて、俺で遊んでいるんだ……あの人は、昔からそうだ。いつもいつも、何が楽しくてあんなことを……」
 そう言って、ため息を吐くルルーシュの顔には、諦めているような色が浮かんでいた。
 ただの遊びで、実の妹に対してあんなことをするものだろうか。シュナイゼルもルルーシュも、立場ある人物である。兄妹同士であんなことをしているのが公になれば、失脚は免れないだろう。スザクが見たのは、キスをしているだけの光景だったが、明らかにあれは親愛のキスなどではなかった。普通、兄弟間での親愛のキスに、舌など入れるわけがない。
 スザクが見た限りでも、シュナイゼルのルルーシュへの執着は、相当のものに思えた。そうでなければ、シュナイゼルがルルーシュにキスをしている光景を、スザクが見ているのに気付いたとき、わざわざ挑発するように笑ってキスを深めたりしないだろう。あれはきっと、スザクがルルーシュに手を出したりしないように、との牽制だ。
 ルルーシュはうつむいたまま、部屋の中央にあるシンプルな黒いベンチに腰を下ろした。自然、スザクはルルーシュを見下ろす格好になる。
(あれ……?)
 ふと、スザクは気付いた。普通なら軍服の詰襟に隠れて見えないが、上から見下ろしたらギリギリ見えるぐらいの位置、ルルーシュの白い首筋に、赤い跡が点々と残っていることを。それを虫さされと誤解するほど、スザクは初心ではない。キスマーク、だ。誰にやられたのかなんて、わざわざ尋ねることもなく分かる。シュナイゼルの仕業だろう。
(キスだけじゃなくて、こんな跡を残したりするなんて……)
 ルルーシュが嫌がっている分だけ、初雪のように白い肌に残された所有の印は、ひどく痛ましいものに思えた。
 ルルーシュは、シュナイゼルに逆らえないと言った。事実、ルルーシュはシュナイゼルに対して、ひどく緊張しているような態度で接していた。そして、あの行為はただの遊びに過ぎないのだともまた、彼女は言った。
 ロイドは、シュナイゼルがルルーシュに執着していると言った。スザクが見た限りでも、シュナイゼルはルルーシュに、ひどく固執しているように見えた。だから、あんなことを遊びでルルーシュにするような人には思えなかった。
 果たして、どちらが正しくて、どちらが間違っているのだろう。
「頼む。義兄上に、俺があんなことをされているなんて、誰にも言わないでくれ」
 ルルーシュは顔を上げて、スザクに頼みこんでくる。
「ですが、嫌なら誰かに言えば……!」
「そんなことをすれば、俺はこの地位を失ってしまう」
「そんなことっ……!」
「この国で生きようとすれば、力を手に入れるしかないんだよ、スザク。……そして俺は、力を手に入れる代わりに、あの人におもねった。地位も権力も持たない、無能な皇族がどのように扱われるか、知っているか?」
 首を傾げて問いかけてくるルルーシュに、スザクは首を横に振った。
「……いいえ」
「政治の道具として他国に送られ、そこで蔑みの目にさらされて命を脅かされる生活を送るか、皇女ならばあるいは、意に染まない結婚を強いられるか……多いのは、そんなものだな。己の意思で進む道を決められない、そんな日々を送ることが、果たして生きていると言えるか?そんなものは、死んでいるのと同然だ」
 自嘲するように笑って、ルルーシュは暗い目をして言う。その言葉は、ひどく重みがあって、否定を許さないものがあった。
「俺は、何をしても生きると決めた。だから、今の地位を守り己の意志を貫くことができるのならば、義兄上の戯れに耐えるぐらい、たやすいことだ」
 強い瞳をして言い切ったルルーシュは、一転して弱々しい仕草で視線を伏せて、スザクと視線を合わせないで問うてくる。
「……軽蔑するか?地位のために、義兄上を拒まない俺のことを」
 そう言ったルルーシュは、この短い間で見てきたどの彼女とも違って、弱々しくて儚げで――守ってあげなければならない、普通の無力な女の子に見えた。
 スザクには、軽蔑するかというルルーシュの問いに、首を横に振る以外の答えなど持っては射なかった


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