シロクロニクル 〜白の喪章 14〜


 そして突然、その光景はスザクから切り離された。扉を守っている兵士たちが、扉に手をかけたまま突っ立っているスザクに耐えかねたのか、扉を閉めたからである。
 しかし、扉が閉められても、スザクはその場でただ、呆然とすることしかできなかった。
(今の……何……?)
「枢木准尉、何してるの?置いてくよー?」
「あ……」
 数メートルほど離れたところからかけられたロイドの声に、スザクは何とか正気づいて答える。
「はい、今行きます!」
 くるりと踵を返して、ロイドのところまで走って行く。追いつくと、歩調を普通のものに変えて、ロイドの斜め後ろの位置を保って歩き始めた。
 ふと、少し離れたところに見える、背後の扉を振り返った。ぴったりと閉ざされた扉。その中に、スザクが最後に見たものは果たして、本当に現実のものだったのだろうか。
(だって……兄妹、なのに……)
 異母兄妹とは言え血のつながった家族なのに、あんなことをするなんて、スザクの常識からしてみればとても考えられない。けれど、あれは幻なんかではなくて、現実だった。
 ルルーシュは、嫌がっているように見えた。普通の倫理観念を持つ人間ならば、それも当たり前だろう。本当に嫌がってたどうかなんて、あの光景を垣間見ただけのスザクには分からないけれど、少なくとも嫌がっているように見えた。
(だから、なのかな)
 シュナイゼルの執務室へと向う途中、ルルーシュの背中が、どことなく強張っているように見えたのは。ああいった類のことをされるのが分かっていて、それが嫌で、緊張していたのだろうか。スザクは、彼ら兄妹のことなんて何も知らないから、憶測で物事を考えることしかできないのだが。
「相変わらずあの人、ルルーシュ殿下のことはかわいがってるんだから……僕もやりにくいったら……」
 ロイドはぶつぶつとぼやいているが、あれが果たして、本当に妹をかわいがる義兄の態度なのだろうか。むしろあれは、嫌がらせか、あるいは――。
(妹とかそんなこと関係なく、恋愛感情でルルーシュ殿下のこと好き……だとか……)
 まさか、と思ってスザクは首を横に振る。
「あーあ、僕も殿下のこと、膝抱っこしたいなあ」
 そんなことをぼやいているロイドに、己が抱いた考えを払拭するため、質問をしてみることにした。
「ロイドさん、あの……ブリタニアの兄弟って普通、あんなに仲良いものなんですか?」
「へ?まっさかあ!」
 ロイドはからからと笑って、スザクの質問をあっさりと否定した。
「まあでも、皇室の家族関係はどうしても殺伐としたものになりがちだから、それに対応して同母の兄弟同士なら、それなりに仲良くなるのが普通だよ。例を挙げるなら、コーネリア殿下とユーフェミア殿下とか。そう言えば聞いた話だけど、ルルーシュ殿下も、妹君のことはとてもかわいがってたらしいよ」
「かわいがってた?」
 どうして過去形なのか、理解できず首を傾げるスザクを後ろ目で見やって、ロイドは歩きながら肩をすくめた。
「彼女、もう生きてないからね。殺されたんだ、テロリストに。殿下の母君と一緒にね。ま、それは表向きにそう言われてるだけなんだけど」
「表向き……?」
 スザクの尋ねに、ロイドは答えを返すことはなく、ただ肩をすくめるだけだった。
「でも、異母兄弟となると、ひどいものだよぉ。謀略、暗殺なんて当たり前。皆、少しでも皇位継承順位を上げようと必死。強者が弱者を踏み倒していく、皇室こそ、ブリタニアの理念の縮図!」
 大仰な身振り手振りで、芝居がかった動きをするロイド。一緒に歩いているのが、少し恥ずかしいスザクだった。
「だから、シュナイゼル殿下みたいに、どの兄弟に対しても分け隔てなく接する人なんて、本当に珍しいんだよ。ま、あの人の場合、どこまで本心なのか分からないんだけど。……でも、あの人は、ルルーシュ殿下に対してだけは、ひどく執着している」
「執着?」
「そ、しゅーちゃく!あの、誰に対しても態度を変えないあの人がだよぉ?最初に見たとき、僕、目が壊れちゃったのかと思ったよ。頬にキスの挨拶は当たり前、隙があれば抱き寄せたり膝の上に乗せたり……はあ、うらやましい」
 本音が出ている。
(って言うか、それが当たり前って……やっぱり普通の兄妹にしてはおかしいよね……)
 少なくとも、二十代後半と十代半ばの兄妹の図としてはおかしい。
「正直、ただの兄妹にしては行き過ぎの態度だとは思うんだけど、あの人に聞いても笑ってはぐらかされるから、ルルーシュ殿下に聞いてみたら、変なことを聞くなって怒られたよ……だって、どこから見ても怪しすぎじゃないか。何年もあの人の部下として働いてるけど、ルルーシュ殿下以外にあんなことしてるあの人、一度も見たことないんだよ?」
 口同士でのキスを見ていないロイドにも、あの二人の関係は怪しく見えるようだ。それならば、唇を重ね合わせていた二人の姿を見てしまったスザクが、ルルーシュとシュナイゼルの関係を疑ってしまっても、もっともなことだろう。
「ま、行き過ぎた家族愛なんだとは思うけど、一応ね」
 肩をすくめてロイドは言うが、スザクには、あれが家族愛だとはとても思えなかった。日本人に、挨拶でキスをする習慣がなくても、いくら何だって分かる。唇へのキスは普通、恋人にしかしないことぐらい。



◇ ◇ ◇



 小さな水音が、耳を打つ。実際にはただ口付けているだけだというのに、静かな部屋に響く水音は、ひどく隠微なものを感じさせた。
「んっ……ふ、あ……」
 抑えきれない声が、シュナイゼルの唇と重なった己の唇から漏れる。このような妙な声など、出したくないと思っていても、唇を舌でこじ開けられてしまえば、そんな思いはたやすく踏みにじられた。逆らうことなんてできないから、ただ、終わるのを待つことしかできない。
 歯列をなぞられ、舌を絡め取られ、上顎を舐められ、と。まるで貪るようなキスをされる。こうされるたび、食べられてしまいそうだと、いつも思う。
(まだ……扉が閉まってないのに……)
 普通の兄妹ならば、決してするはずがないような深いキスに犯されながら、ルルーシュが考えていたのはそんなことだった。
 異母腹とは言え、兄妹でこんなことをしているのを、誰にも見つかってはいけない。
 そう思っているのは、ルルーシュだけではなくて、シュナイゼルにとっても同じであるはずだ。だから、彼がルルーシュに口付けを強制するときはいつも、誰の目もない密室のみに限られていたというのに、今日はいったいどういった心境の変化なのだろうか。
 しかし、シュナイゼルがどのように思っているのかに関係なく、こんなところを見られるわけにはいかないというのがルルーシュの本音だった。
 扉が開く音は聞こえたが、閉じる音は聞こえなかった。もし、シュナイゼルにこんなことをされているのを、誰かに見られていたら。そう思うと、背筋が凍りつくような思いに駆られる。一人二人の目撃者ならば、もみ消すことはたやすいだろうが、噂話好きの人間が多々いるこの宮殿の中、どこから噂が広がるか分からない。
 ロイドとスザクが、わずかな物音にこちらを振り向くことがないよう、ルルーシュは身じろぎしないように気をつけた。同時に、いつまで経っても慣れることのない快感のために潤んだ目を少し開けて、横目で扉の方を見やる。
 そして、驚いたように目を見開いたスザクが、こちらを凝視していることに気付いて、ルルーシュは体を強張らせて、耐えるように強く目を閉じた。直後、扉の閉じる音が響く。これで、密室の完成だ。
(見られた……!)
 一番に思ったのは、口止めしなければ、ということだった。シュナイゼルにこんなことをされているということを、公にされるわけにはいかないのだ。
 そして、次に心を襲ったのは、スザクに軽蔑されるかもしれないという恐れと、そうなっても仕方がないという諦めだった。兄妹でこんなことをしている場面を見れば、そんな可能性も低くはない。けれど、それでもルルーシュには、シュナイゼルの手を振り払うことはできなかった。シュナイゼルという後ろ盾がなければ、今のルルーシュの立場が危うくなるからだ。
 血のつながった兄に、こんな行為を強制される嫌悪感がないわけではない。けれど、そんなことよりもルルーシュにとっては、兄妹でこんなことをしていることが発覚して、今の地位を取り上げられてしまう方が余程切実な問題だった。これぐらいのことで、シュナイゼルがルルーシュの後ろ盾を買ってくれるのならば、安いものだ。ルルーシュ一人が我慢すればいいだけのことなのだから。
 母を亡くし、父に存在すら否定され、さらには最愛の妹までも失って、世界全てに絶望したのは八年前のことだった。あのころのことは、ほとんど覚えていない。生きようという気力さえ、あのころのルルーシュは失っていたから、外界への執着などもはや皆無だったのだ。
 けれど、何もかもに絶望したときから、約一年後のある日。
 生きろ、と。そう言われた。政治の道具として送られた、生国を遠く離れた地――今はエリア11と呼ばれているが、かつては日本と呼ばれた国で出会った少年。彼は、ルルーシュの命を救って、ルルーシュに生きろと言った。
 子供特有のまっすぐな瞳で、お前を助けたいんだと、生きろと言われたあのとき、ルルーシュは決めたのだ。彼がルルーシュを助けた理由が、ルルーシュのためを思ってのものなんかではなかったのだとしても、そんなことはどうでも良かった。
 実の父にさえ、生きていることを否定されたルルーシュに、その少年は生きろと言ってくれたのだ。だからルルーシュは、生きて、どんなことをしても生きて、彼のためにできることをしようと思った。
 ブリタニア皇室の中で生き残るには、力が必要だった。だからルルーシュは、役立たずな皇女として、使い捨ての政治の道具として扱われることのないように、政治にも軍事にも口を出すようにして、己の発言力を高めていった。それを癪に思う異母兄弟たちや貴族たちに潰されることのないように、シュナイゼルに自分を売り渡すこともした。こうやって、気紛れに弄ばれることは、その代償だ。
 そうやって、何年もかけてやっとここまで来たのだ。それを、こんなくだらないことで壊してしまうわけにはいかない。
 たとえ、ルルーシュに生きろと言った少年が、ルルーシュのことなどすっかり忘れてしまっていても、そんなことは関係ない。彼が、ブリタニアという国を変えるために力を望むのならば、ルルーシュはそれを与えられるだけの地位にいなければならないのだ。
(スザク……お前が、俺のことなんて覚えてなくても、それでも俺は……)
 ただ、彼の望みを叶えたかった。
 本当は、こんな急なやり方で、彼を迎え入れる気などなかった。けれど、そうも言っていられない事情ができた。
 ルルーシュは、運命の魔女と契約を結んでしまったから。神殿に棲むと言われている、ほとんど皆が存在を幻だと思っている魔女と。
 だからもう、ルルーシュには時間がない。左目に宿った王の力が、ルルーシュの体を全て蝕んでしまうまで、どれだけの時間が許されているのか、ルルーシュには分からない。己の意思で、この力を制御できなくなってしまったその日に、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの生は終わるのだ。だから、時間がない。
 不意に、シュナイゼルが、貪っていたルルーシュの唇を解放した。
「はっ、あ……」
 唾液が糸を引き、すぐに切れる。息苦しさから解放されて、ルルーシュは大きく息を吸い込んだ。
 苦しげに息をするルルーシュを見下ろして、シュナイゼルは優しげに微笑むと、ルルーシュの頬を撫でながら言った。
「クロヴィスから聞いたよ。あれに、君からキスをしたんだって?」
 穏やかな顔の裏に潜んだ怒りを感じ取って、ルルーシュは体を震わせる。クロヴィスの機嫌を直すために最良の手段だとあのときは思っていたが、まさか頬へのキスだけで、シュナイゼルがこんなふうに怒るなんて、予想外だ。
「……唇にしたわけではありません。ただ、頬に――」
「頬にでも、私以外に対して君がそんなことをするのは、許せないね。……さて、どうしようか、ルルーシュ」
 弁解するルルーシュの言葉を最後まで聞くこともなく、シュナイゼルは言う。
 その声の冷たさに、ルルーシュはびくりと震えて彼を見上げた。シュナイゼルは、ルルーシュのそれよりも幾分薄い色をした紫の瞳に、酷薄な色を浮かべて、ルルーシュを見下ろしている。思わず、といったふうに肩を揺らすルルーシュを見て、面白くなさそうな顔をしていたシュナイゼルは、ふと良いことを思いついたように口の端を吊り上げた。
「今はまだ、キスだけで許してあげようと思っていたけれど……君は、自分が誰のものなのか分かっていないみたいだからね」
「何を……?」
「印を付けるだけだよ」
「え?……っ!!」
 シュナイゼルは突然、ルルーシュの軍服の襟を緩めると、露になったその白い首筋に唇を落とした。
「いっ……!」
 ちくり、とわずかな痛みが走り、ルルーシュは思わず声を上げてしまう。そして、そこから唇が離されたかと思うと、今度は別の場所に口付けられ、同じように小さな痛みがルルーシュを襲った。
「あに、うえ……?」
 こういった方面の出来事にはとんと疎いルルーシュは、何をされているのか理解できず、戸惑っている。
 シュナイゼルはあと数箇所、同じように唇を落とした後、顔を上げて何故か満足したように微笑んだ。
「今日は、これで許してあげるよ。ただし、同じことをもう一度すれば、これだけでは済まさないよ」
「……はい」
「忘れてはいけないよ、ルルーシュ。君は、私のものだ」
「分かっています」
 とっくの昔に、ルルーシュは己をこの義兄に売り渡した。自分が皇帝になることなど望まず、シュナイゼルを皇帝の座に就けるために働くことを誓った。他の誰も知らない、運命の魔女との契約さえ、この義兄には話してある。
 それは全て、シュナイゼルのためでもなければ、自分のためでもない。七年前に会った、たった一人の少年のためだけに――。


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