シロクロニクル 〜白の喪章 05〜


 軍内で、名誉ブリタニア人に回される仕事の中で、重要なものなんて絶対にない。
 書類になんてまず触らせてもらえないから、力仕事や、皆が嫌がるような雑務ばかりを寄越される。テロ殲滅の作戦を展開するときには、一番危険な役割を押し付けられる。さらには、作戦中に何かミスがあったら、そのミス全てを押し付けられてしまう。
 ナンバーズは名誉ブリタニア人のことを、ブリタニアに誇りを売って人並みの生活を保証された裏切り者と蔑んでいるが、軍人になった名誉ブリタニア人なんて、実際のところ、踏んだり蹴ったりな生活を送っているのだ。
 そしてこの日も、スザクはいつものように言いつけられた仕事をこなしていた。トイレ掃除である。ほとんど嫌がらせに近いどころの話ではない。これでは、丸っきり嫌がらせだ。
 基地内の重要なところ以外には、所定の清掃業者が出入りしているのだから、わざわざ軍人であるスザクがそんなことをする必要はないのだ。
 しかし、こういった類の低脳な嫌がらせが、後を絶つことはなかった。だからこれしきのことで根を上げたり沈み込んだり怒ったりしていたら、ナンバーズは、ブリタニア軍ではやっていけないのだ。
 普通の人間なら、仕方ないと諦めて、さっさと終わらせようとしてトイレ掃除に取りかかるのだろうが、スザクは違った。むしろ、気を緩めた人間が落としていく情報を拾うことができるから、スザクは嫌々ながらもトイレ掃除にはそれなりに精を出していた。
 個室にこもって便器の掃除をしていると、まさかそこに誰かがいるとは思ってもいないのだろう者たちは、色々なことを口にするのだ。もちろん、その大半はほとんどどうでもいいようなものでしかないのだが、ほんのたまになら、驚くようなことを耳にすることもある。
 しかしスザクは別に、得た情報をテロリストに流そうとか誰かに売ろうとか、そんな不穏なことをたくらんでいるわけではない。
 これは単純に、自衛のためなのだ。
 同じ軍人であるとは言っても、名誉ブリタニア人であるスザクは、ブリタニア人にとってはちょうどいい憂さ晴らしの対象であるらしく、よく絡まれる。そういったとき、スザクはことを穏便に解決させるため、掃除中に得た情報やら弱味やらを使って、暴力に訴えることなく引き返してもらうことにしているのだ。
 引いてくれなかったら、これをばらしますよ?と笑顔で言えば、言われた相手は悔しそうな顔をしながらも引き下がる。
 そして弱味を握られている以上、スザクにそれ以上突っかかってくることはなくなるのだ。その代わり、蛇蝎のごとく嫌われるが。
 しかし、これは仕方のないことなのだ。向こうから絡んできたとは言え、下手に抵抗して相手に怪我をさせたら、相手はスザクのせいだと言い張って、スザクは弁明することすら許されずに罰を与えられる。そんな事態を防ぐために、これは必要なことなのである。
 そして、今もスザクは、マスクとゴム手袋とゴム長靴という装備で、個室にこもって便器をみがきながら、聞こえてくる声にこっそりと耳を傾けていた。
 ニコラス将軍はメタボリックシンドロームだ、マクスウェル大尉が今度結婚するらしい、クラーク技師は誠実そうな顔をして実は上司の嫁と不倫している、トウキョウ租界のどこの店が美味い、どこの店は不味い、等々。実にくだらないことばかりが聞こえてくる。
 クラーク技師は、名誉ブリタニア人だからと言って人を差別するタイプではないので、彼の弱味は別に必要ないのだ。
 今日は収穫なしかと思い、スザクはうんざりとした気持ちでため息を吐いた。
 慣れているとは言っても、トイレ掃除が好きなわけではない。
 汚れた便器を掃除していると、自分はいったい何をしているんだろうという気持ちに駆られて、こんなことならルルーシュの申し出に大人しく頷いておけば良かったのに、と思う気持ちがないわけでもないのだ。
 ただ、内部からブリタニアを変えてみせるとの決意があるから、軍を離れられないだけであって、あの申し出に心惹かれなかったのかと聞かれれば、表向きには是とにこやかに答えつつ、心の中でスザクは否と叫ぶだろう。
 彼女からの申し出を思い出すと同時に、脳裏には、彼女の美貌が思い浮かぶ。
 月をも欺くほどの圧倒的な、国をも傾けるほどの美を思い出して、スザクがぽわんとなって意識を飛ばしていると、無人になっていたトイレに、何人かの人間が入ってきた。
 がやがやと、集団の人間が出す、独特の気配がする。何かの任務か、それとも演習の帰りだろうか。
 衣擦れの音や水音が聞こえてくる中、ふと誰かが声を低くして言った。
「……そういや、知ってたか?」
「何を?」
 怪訝そうな返事に、その誰かはどこか得意げな声で言う。
「今この基地に、黒の皇女様がお忍びでやって来てるらしいってことだよ」
 その瞬間、トイレ中にどよめきが広がる。
「マジでか!?確かなのかそれ!」
「黒の皇女様が!?」
「少しでも見られるかなあ……俺、この基地配属で良かった」
「俺も俺も……皇族の方って美形が多いけど……正直、あの方が一番キレイだよな……」
「俺もそう思う!でもさ、どうしてあの皇帝陛下から、あんな美しい方が生まれるんだ……?もはや生命の神秘だ……」
「そんなどうでもいいことより、俺はあの美しい瞳に睥睨されたい」
「俺はあの足に踏まれたい。できればピンヒール装備で」
 ずいぶんと怪しい方向に行っている話は、耳を素通りさせることにして。
 黒の皇女、という言葉に、スザクは目を細めた。
 確かそれは、ブリタニアの第三皇女を指す通称だ。艶やかな黒髪と、いつも身につけている服が黒であることから、彼女はそう呼ばれることになったらしい。
 数多くいる皇子皇女の中でも、群を抜いて優秀であり、民衆にも人気がある第三皇女。
 皇女の中で、優れているとして名が知られているのは、第二皇女と第三皇女だ。
 しかし、二人のベクトルは対極にある。女だてらにナイトメアフレームを乗りこなして戦場を駆け抜ける第二皇女とは違って、第三皇女の武器はあくまでその頭脳だと聞く。
 さらに軍部では、第二皇子と人気を二分するほどのカリスマ的存在で、母の身分が低いため生まれた当時の皇位継承権は低かったものの、ここ数年になってめきめきと頭角を現してきて、今では彼女の皇位継承権は随分と上位にあるそうだ。
 騎士候の母親を持つということで、彼女が政治や軍事に口を出すようになった当初、貴族連中からの風当たりは強かったらしいが、彼女が第二皇子の傘下に入ったことで、それもぴたりと止んだと言う。現在では、誰もが認める、第二皇子の懐刀らしい。
 そんな人がどうしてここに、と首を傾げるスザクの耳に、個室の外で浮かれ騒ぐ兵士たちの声が聞こえてくる。
「でも、あの方が来られるようなこと、最近何かあったか?」
「クロヴィス殿下は芸術肌な方だから……代わりに、テロ殲滅作戦の指揮をお取りになるとか?」
「いや、それが、今回は人を引き抜きにいらしたそうだ。クロヴィス殿下にそう言っておられるところを、うちの上司が聞いてきて……」
 そこまで聞いたところで、スザクの脳裏には、ルルーシュの姿が浮かんできた。

――率直に言おう。俺は、君を引き抜きたい。お前の上司と違って、俺は君のことを高く評価している。……俺のところに来ないか?

 スザクに向かってそう言った、ルルーシュの姿が。
 高貴ささえ感じさせるほどの、圧倒的な美貌。優雅な立ち居振る舞い。身分を感じさせる言動。
 貴族だと勝手に思い込んでいたが、ルルーシュはもしかして皇族なのだろうか。
 そう考えて、しかし、ありえないとスザクは首を振った。
 ブリタニアの皇族――しかも切れ者と名高い第三皇女が、ナンバーズのスザクを引き抜こうなんて、そんな愚考を犯すわけがないのだ、と。そう思って。





 そして、その日の午後。スザクは射撃訓練場にいた。
 いくら名誉ブリタニア人が差別されるとは言っても、一日中トイレ掃除をやらされるなんて、さすがにそんなことはない。
 週に数時間と定められた訓練の時間は、一応ちゃんと訓練をこなすことが許される。規則だから、いくらブリタニア人が名誉ブリタニア人と同じように訓練することを嫌がっても、仕方ないのだ。
 スザクは一丁の銃を手に持って、訓練場の端に座り込むと、それを解体し始めた。組み立ての知識がない者が見れば、修復不可能なほどバラバラに解体して、異常がないかを確認する。
 これもまた、訓練の一環だ。
 己の武器も点検できないような人間は、ここでは必要とされない。
 カチャカチャと小さく音を立てて、銃を解体しているスザクの周囲に、人はいない。
 訓練場いる他の者たちは、それぞれブリタニア人と名誉ブリタニア人に別れてつるんでいるだけに、一人ぽつんと座っているスザクは少し異様だった。
 名誉ブリタニア人としても異端のスザクは、他の名誉ブリタニア人たちの中になじむことはできなかった。ブリタニア人の中には、言わずもがなだ。
 銃の解体、点検、組み立てを全て終えた後、スザクはようやく腰を上げた。
 射撃ブースの前にある机に並べられた、耳あてと黒いゴーグルとを、銃を持っている反対側の手にとって、空いたブースの中へと向かう。
 そしてスザクは、耳あてとゴーグルを装着すると、15メートル先にある的に向かって、手に持っていた銃を構えた。
 発砲音が続けて響いた後、薬莢の臭いが鼻をつく。
 次々と現れる的の中心を、スザクは撃ち抜いていた。
 やがて、弾倉にある弾を全て撃ち終えたところで、的が出てこなくなる。
「……ふう」
 スザクは息を吐いて、空になった弾倉を取り替え始めた。
 結果は見るまでもない。どうせ全部、的の中心に命中しているはずだから。
 スザクは小さいころから、体を動かすこと全般が得意だった。
 銃の腕も、慣れなかった当初はひどいものだったけれど、扱うようになって数年経った今では、かなりのものとなっている。
 弾倉を取り替えたスザクが、再び射撃訓練を開始しようとしたところで、誰かの言い争うような声が聞こえてきた。
「これで文句はありませんね、義兄上?彼の優秀さは、貴方の目にもお分かりになったことでしょう?」
「だがっ……!」
「だが、何か?銃の腕だけでも、私の護衛を務めるには十分です」
 その片方の声は、今朝、聞いたばかりの声だった。
「……ルルーシュ……?」
 スザクはぽつりとつぶやいて目を見開くと、慌てて射撃ブースを出た。
 ブースの外、射撃訓練場の入り口付近で、位の高い軍人たちに囲まれるようにして、ルルーシュが誰かに食ってかかっていた。その背後に控えるように、カレンもいる。
 彼女らを囲んでいる軍人たちのせいで、その顔を見ることはできないが、おそらくはルルーシュと向かい合っている彼が、朝会ったときに彼女が言っていた兄なのだろう。
 スザクがそう思っていると、人ごみの中心から、ルルーシュ以外の声が聞こえてくる。
「だがっ!わざわざナンバーズなど引き抜かずとも、他にも優秀な者はたくさんいる!」
 その声に、スザクは目を見開いて動きを止めた。
 直に聞いたことなど数えるほどしかないが、スザクはその声の主を知っていた。クロヴィス・ラ・ブリタニア。ブリタニア帝国第三皇子にして、エリア11総督を務める男だ。
「ま、さか……」
 スザクは、意識せずつぶやいていた。
「ルルーシュが……黒の皇女……?」
 第三皇女の名前を、スザクは知らない。数多くいるブリタニア皇族の名を、全て覚えているほど、スザクは無駄に頭が良いわけではなかったから。
 けれど、その皇女の名を知らずとも、ルルーシュが誰かということはもはや、明らかだった。
 ここに義兄がいる、との言葉。
 高貴な身分を感じさせる、優雅な立ち居振る舞い。
 軍の高官か、あるいは皇族か貴族しか入れないギャラリーにいた理由。
 今、お忍びでここにやって来ているという黒の皇女。
 他にも、ルルーシュと黒の皇女とをイコールで結びつける要素は、たくさんあった。
 呆然として立ち尽くすスザクに気付くことなく、ルルーシュは口元に笑みすら浮かべて目を細め、焦ったような顔をしているクロヴィスに向かって言う。
「そうですか?では、銃の腕で彼に敵うものが、ここにいますか?」
 大仰な仕草で腕を伸ばして、射撃訓練場にいる兵士たちを指し示し、ルルーシュは目を細める。その動作に、彼女が羽織っているマントがばさりと音を立てて翻った。彼女は、朝会ったときとは違って、黒を基調とした軍服に身を包み、その上にマントを羽織っていた。
 翻ったマントが大人しくなるのも待たず、たたみかけるような口調でルルーシュはさらに続ける。
「剣は?体術は?……資料を見た限りでは、彼以上に優秀な者など、ここにはおりませんでしたが……どうなんですか、義兄上?それに、お忘れのようなら思い出させてさしあげますが、我がブリタニアの信念は、強者こそが全て。そこに、ナンバーズとブリタニア人の差別など、関係ありませんよ」
「ぐっ……!だ、だが、ナイトメアフレームの騎乗経験もないような者に、お前を任せることは……!」
 クロヴィスの、苦し紛れの言葉を、ルルーシュはすっぱりとためらうことなく切って捨てた。
「そんなもの、これから経験すれば良いことです。それに……」
 そう言って、ルルーシュは背後に控えるカレンに目をやって、不適な微笑を浮かべる。
「ナイトメアを駆り私を守る者なら、すでに存在しますので、お気遣いは不要です。……カレン・シュタットフェルトという我が最強の盾を筆頭に、自慢の親衛隊が、ね」
「ルルーシュ様……!」
 ルルーシュの言葉に、カレンは感極まったような声を漏らす。カレンと並んでいた兵士たちもまた、嬉しそうな顔になる。彼らが、ルルーシュ自慢の親衛隊なのだろう。
 しかしクロヴィスは、眉をしかめてルルーシュからカレンに視線を移した。
「カレン・シュタットフェルト……シュタットフェルト家の娘か……女性ならば、美しく着飾って笑っていれば良いものを……君もルルーシュも、どうしてこんなことばかり……」
 軍服を颯爽と着こなしているカレンを見て、続いて、黒を基調とした軍服を身に着けているルルーシュを見て、クロヴィスは大きなため息を吐く。
 ルルーシュはそれを聞くと、嘲るように口の端を吊り上げて目を細めると、辛らつな口調で皮肉るように言った。
「義兄上。それと同じことを、義姉上に向かって言うことができるのなら、着飾って大人しくしているということを、考えてあげてもかまいませんよ。女はドレスを着て大人しく家に閉じこもっていろ、なんて命知らずなことを、あの義姉上に向かって言うことができるのならの話ですが」
「うっ」
 義姉上というのが誰のことを指しているのか、スザクにはさっぱり分からなかったが、クロヴィスは分かったらしい。一気に顔色を青ざめさせると、言葉に詰まったような声を上げている。
「……できないのなら、あまり女を差別するような発言はなされぬ方が賢明でしょう。女とて、着飾るよりも戦うことを選ぶ権利はあります」
「そ、そうだな……」
 皮肉げな口調から一変して、諭すような口調になったルルーシュに、クロヴィスは青い顔をして何度も頷いている。
 十代の少女に、何年も前に成人を越えた青年が諭されているというのは、かなり異様な光景だったが、誰もそれを指摘するような者はいなかった。むしろ、クロヴィスよりも明らかに優位に立っているルルーシュのことを、ほとんどの軍人がうっとりとした顔で見つめていた。さすがに、クロヴィスの側近連中について言えば、そんなことはなかったのだが。
 軍部では、黒の皇女と言えば、第二皇子と人気を二分するほどのカリスマ的存在なのだ。軍人たちの反応も、当然と言えば当然だった。
 しかしそれにしても、ゴツイ軍人連中がうっとりとした顔でたった一人を眺めているその光景は、何かの怪しげな宗教のようで、正直少しばかり気持ち悪い。
 ルルーシュが皇女だという展開に付いていけなくて、スザクはぼんやりと、そんなくだらないことを考えていた。


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