次の日。
ゲットーから軍用宿舎まで戻ったのは、かなりの夜更けであったにも関わらず、スザクは午前五時半ぴったりに目を覚ました。
夜の警備番にでも当たっているか、あるいは特別な任務を与えられていない限り、通常兵士の起床時刻は午前六時半と定められているから、これだけ早く起きている人間などほとんどいない。
優しいとは言いがたい軍の毎日のせいで、皆疲れているため、時間ギリギリまで寝ている者がほとんどなのである。
しかし、スザクは違った。どれだけ疲れていても、どんな時間に寝ても、絶対に朝の五時半には目が覚める。
スザクにとってみれば、早起きは小さいころからの習慣となっているため、目覚ましをかけずとも寝坊するようなことはないのだ。朝に弱い人間にとってみれば、うらやましいことこの上ない体質である。
起きたばかりであるにも関わらず、テキパキとした動きで、スザクは寝巻き代わりに使っている軍支給のアンダーウェアの上に、スラックスを身に付けた。
衣擦れの音に目を覚まして、文句を言ってくる同室の人間は、今はいない。
一等兵に過ぎないスザクは本来ならば、二人で一部屋を使わなければならないのだが、つい先日行われたテロリスト殲滅作戦のせいで、同室だった男が殉死してしまった。
だから、新しい志願兵か、他の基地から回されて来た人間がやって来ない限り、スザクは一人部屋を堪能できることとなったわけである。それも、名誉ブリタニア人であるスザクは、根っからのブリタニア人とは同室になることはできないため、やって来るのが名誉ブリタニア人でない限り、スザクの悠々たる生活は続くのだ。
日本屈指の名家に生まれた一人っ子だったスザクにとって、同じ部屋に他人と一緒に暮らすということは、普通の家に生まれた人間よりもずっと抵抗があることだった。
しかし、喜ぶべき他人との窮屈な共同生活の終わりは、同室だった男の死によってもたらされたものであったため、一人で部屋を使えるということ自体はうれしくても、そうなった理由を考えると痛ましい思いに駆られる。
そして、さして親しくもなかった同室者に対する追悼以前に、明日は我が身かもしれない運命を考えると、素直に喜べないのが現実だった。
スザクは小さなため息を吐くと、自主訓練をするために、部屋を出て訓練場へと向かった。
入り口の照合機にIDを通して、訓練場に入ると、誰の姿もなかった。いつものことだ。
スザクが今いるここは、主に体術やナイフ戦の訓練をするときなどに使われる部屋だ。
朝から自主訓練をするような物好きな輩は、スザク以外にも、いないことはない。けれど彼らは基本的に、射撃訓練やナイトメアフレームのシミュレーションを行っているから、この時間、この訓練場に来る者はいないのだ。
スザクとて、腕を磨くという目的のためならば、ここよりも射撃訓練場に行くことを選んでいただろう。戦場では、体術やナイフなんてものよりもずっと、一丁の銃の方が有効だからだ。それでも、一体のKMFの前には、一丁の銃など何の意味もないのだが。
では何故ここにいるのかと言うと、エリア11がまだ日本と呼ばれていたときに、教育の一環として受けていた古武術の、型のさらえをするためである。
軍の訓練で行う体術や刃物の扱いは、ブリタニアのものであるからして、日本のものとは大きく異なっている。訓練だけではない。言葉も生活習慣も、軍の中にいる限り、ブリタニアのものを強制される。
だからスザクは、朝のこの時間に、幼いころ教えられた日本古武術の型をさらうことで、自分は日本人なのだと確認する。たとえ名誉ブリタニア人になったのだとしても、自分は本当は日本人なのだと、そのことを忘れないための儀式だった。
毎夜の習慣となっている、ゲットーの散歩と似たようなものだ。
スザクは倉庫に入って、一振りの木刀を手に取った。どうしてブリタニアの軍施設に、日本の木刀なんてものがあるのかは知らないが、スザクが入軍したときにはすでに、この倉庫の隅に一本だけ転がっていた。誰か個人が持ち込んだのなのかもしれない。
慣れた仕草で木刀の柄を握り、スザクは倉庫を出た。
そして、広い訓練場のほぼ中央に立った。
まずは精神統一から。目を閉じて、呼吸を整える。
慣れたことであるから、雑念はすぐに消え去った。閉じたまぶたに映るのは暗闇のみ、耳に聞こえてくるのは己の心臓の音だけとなり、意識は外界と遮断される。
スザクは目を開いて、前を見据え、刀を構えた。
「……一の型」
凛とした声でそう呟いて、スザクは刀を振るい始めた。
それから数十分後。
全ての型をさらい終えたスザクは、刀を構えた腕を下ろすと、少し疲れたように目を閉じて息を吐いた。
刀を握る手とは反対の手で、わずかに汗のにじむ額をぬぐう。
弓術・剣術・槍術・棒術・杖術等、たいていの武術を叩き込まれたが、その中でスザクは剣術が一番好きだった。
剣を振るっている間だけは、無心になることができたからだ。それが真剣でなく、木でできた木刀であっても、刀を手に持つと、どこか意識が切り替わる気がした。
スラックスのポケットに突っ込んでおいた懐中時計を出して、時間を確認する。
これからシャワーを浴びて着替えて、としていたら、朝食の時間にはちょうどいい頃合になっているだろうとスザクは判断した。
懐中時計を再びポケットにしまって、スザクは小さく礼をする。誰に対してしたものでもなく、鍛錬の終わりの区切りとしてのものである。
そして、木刀をしまうため、スザクが倉庫へと歩き出そうとしたとき、突如背後から声が聞こえてきた。
「……綺麗なものだな」
「っ……!?」
スザクは驚いて息を呑み、大きく目を見開いた。
一度聞けば、忘れようがない美しい響きを持つ声。それは、昨日の夜に行った散歩の際に会った――と言うよりもむしろ、スザクの後を付けて来ていたと言った方が正しい――佳人のものだった。
型をさらうことだけに集中していたせいとは言え、人の気配に気付かないなんて、うかつすぎる。
慌てて振り返るが、そこに彼女の姿はなく、スザクはいぶかしげに眉根を寄せる。
そこへ、再び声がかけられた。
「違う、こちらだ。上だ、上」
上、という声につられて視線を上げると、二階にあるギャラリーに彼女はいた。彼女は手すりに手をかけて、こちらを見下ろしている。
そこは、軍の高官か、あるいは皇族及び貴族の持つIDでしか、入ることのできないスペースだ。彼らが、兵士の訓練の様子を見るために設けられた場所なのだ。
上半身しか見えなかったが、それで見る限り彼女は軍服を着てはおらず、白いシャツの上に、黒を基調とした上着を羽織っていた。シンプルなデザインだが洗練されていて、俗なことを言うならば、とても高級そうだ。
軍施設の中を歩いているというのに、軍服を着ていないことから、彼女が軍の高官だという可能性は消えた。もっともスザクは、そんな可能性を少しも疑っていなかったのだが。
そうなるとつまり、彼女が貴族だというスザクの推測は、当たっていたのだろう。先にも述べたとおり、このギャラリーに入ることができる人間は、ひどく限られているので。
しかし、夜のゲットーを一人の供しか付けずに出歩いたり、ナンバーズのスザクを引き抜こうとしたり、こんな朝早くから軍施設を出歩いたりしたり、と相当変わり者のお嬢様のようだ。
ギャラリーに立つ人間はたいてい、訓練している兵士たちを見下すような目で見てくるものなのだが、こちらを見つめるルルーシュの瞳に、そんな感じの悪いものは全くなかった。スザクを見る彼女の目は、むしろ優しい。
呆然としているスザクを見下ろして、ルルーシュは微笑を浮かべて口を開いた。
「おはよう」
「……おはよう、ございます」
一瞬、素でおはようと言ってしまいそうになったスザクだが、すぐに気付いて、ございますと付け加えて、頭を下げた。
ルルーシュが単なる一般人ではないことは、もはや明白だったからだ。
スザクが頭を下げたままでいると、ルルーシュから再び声がかけられる。
「顔を上げてくれないか?……俺は、そんなふうにされるより、普通に接してもらいたいんだ」
「ですが……」
渋るスザクに向かって、ルルーシュは続ける。
「他の人間がいる前でまでそうしろとなんて、無茶は言わない。だが、今ここには俺たちしかいないんだ。……それでも、ダメか?」
わずかに傾げられた首。不安そうに下げられた眉。捨てられた子犬のような目。
そんなふうに見つめられて、否と言えるはずがなかった。
かわいらしい圧力に屈したスザクは、諦めのため息を吐いて言った。
「……はい、分かりま」
「違う」
しかし、全て言い終える前に遮られた。
何なんだと思って見上げると、不機嫌そうな顔をしているルルーシュがいた。
「普通に接するのに、敬語なんて必要ないだろ」
わずかに唇をとがらせて眉をしかめて目を細めるという、むすっとした様子丸出しの顔は、怜悧なまでの美貌を、どこかかわいらしく見せている。
スザクは、まるで子供のようなルルーシュの様子を見て、思わず噴き出していた。
「くっ……あはははは!」
「なっ……!?」
突然笑い始めたスザクに、ルルーシュは驚いて絶句していた。しかし、いつまで経ってもスザクが笑い止まないのを見て、不機嫌そうに声を荒げる。
「何を笑っている!!」
「だ、だって君……そんな顔してるのに……!あはは!」
「なっ、そんな顔!?失礼な奴だな!」
「いや、悪い意味じゃなくって……」
スザクは笑いを噛み殺しながら、困ったように眉尻を下げた。
単にスザクは、気品さえ感じさせるほどの美貌の主が、これほど子供っぽい表情をするのがあまりに意外で、そのギャップについつい笑ってしまっただけなのだ。決して、ルルーシュの容貌をけなしたわけではない。
しかしルルーシュは、完璧なまでの美貌を持っているくせに、己の容姿をけなされたものと思って、ぶすりとした顔をしている。
それでも、不機嫌そうな顔をしたルルーシュは、困ったような顔をしているスザクを見ると、諦めたような顔になった。彼女は目を瞑り、小さなため息を漏らして言う。
「……別に、もういい」
「いや、だからちが」
慌てて弁明しようとするスザクの言葉を途中でさえぎって、ルルーシュは言う。
「無理にフォローしてもらわなくても、構わない」
そうは言っていても、ルルーシュの顔は、どこか不機嫌そうに見えた。やはり、女の子なのだから、己の容姿をけなされては――実際のところスザクは、そんな意味で言ったつもりは全くなかったのだが――いい気はしないのも当然だ。
スザクに口を挟む隙を与えず、ルルーシュは続ける。
「顔の美醜など所詮、皮一枚剥いでしまったら、同じようなものだからな」
確かに、顔の皮を剥げば誰でも、筋肉の束や血管や肉で構成された目に優しくないものとして見えるだろう。だが、そんな問題じゃない。
と言うか、こっちが逆にフォローされてどうする。スザクは心の中で、ひっそりと不甲斐ない自分につっこんだ。
「だが、その皮一枚のことにこだわる人間は多い。特に、女には、な。俺以外の女にそんなことを言ったら、多分、渾身の力で殴られるぞ。……気をつけろ」
さらには、心配そうな顔で、忠告までされてしまった。
あまりの情けなさに、スザクはいっそ泣きたくなっても、仕方のないことだった。