ルルーシュは、困惑する少年のことを見て、フードの下に垣間見える整った唇を動かした。
「不快な思いをさせてしまったようで、すまない。俺はただ、君と話がしたかっただけなんだ」
そう言ってその人は、指先まで優雅な仕草で、ゆっくりとフードを払いのける。
果たして、あらわになったその顔は、言葉では表し切れないほどの美貌だった。
けれど矛盾を冒し、あえて一言でたとえるならば、傾国という言葉以外当てはめようがないほどの美。国を傾けるほどの美貌なんてものがあることを、少年は初めて知った。
ルルーシュの隣に並ぶカレンという少女は、確かに美しいのだろう。けれどその美は、ルルーシュの美に比べれば、かすんで見えた。ルルーシュは美しすぎて、もはや男か女かということさえ分からない。中性的というよりむしろ、性を感じさせない美貌だ。
その上半身を彩る黒髪は、烏の濡れ羽色という言葉にふさわしい艶を放っていて、まるで絹のごとき滑らかさで腰ほどまで伸びている。
肌は抜けるように白く、誰も踏み込んだことのない新雪の無垢を思い起こさせた。
しなやかな柳眉、スッと通った鼻筋、薄くも厚くもない唇が、小作りな顔にバランスよく収まっている。
切れ長の瞳はどこまでも美しく、どんな宝玉でさえかなわないような輝きを放ちながら、今は少年だけを映している。
ルルーシュは、宝石よりもなお美しい瞳をわずかにすがめて、そっと唇を開いた。
「枢木スザクだな?」
美しい唇から放たれた名が、自分のものであるとは到底思えなかったが、少年――スザクは一応の反応を返すことに成功した。
「……そうだけど、君は?」
「俺の名は、ルルーシュ」
その言葉に、スザクは眉根を寄せた。
「それだけ?」
ルルーシュはスザクの本名を知っているくせに、ルルーシュはファーストネームしか名乗らないなんて、不公平だ。
そんな思いを込めた言葉に、ルルーシュはふっと笑みを漏らした。
「姓を名乗るのは、またの機会に残しておこう」
そう言って、ルルーシュはゆったりとした動作で、こちらに近づいてくる。気だるげな動作が、ひどく似合っていた。
ゆっくりと歩を進めながら、ルルーシュは口を開く。
「……ブリタニア帝国軍所属、枢木スザク一等兵。身体能力は高く、銃も剣も体術も、一等兵にしておくには惜しい腕をしている。ナイトメアフレーム騎乗シミュレーションの数値も高いが、ナンバーズゆえに、騎士になることはできない。愚かしいことに、我が祖国ブリタニアでは、ナンバーズとブリタニア人との間に厳然たる区別が設けられているからな」
その言葉に、スザクはいぶかしげに顔をしかめる。
「何を……?」
「力が欲しくはないか?全てを変える力が」
そう言ってルルーシュは、そんなスザクの頬に向かって、ゆっくりと手を伸ばしてくる。頬に触れた指の繊細さと柔らかさに、スザクはようやく、ルルーシュが性を持たないわけではなくて、女性なのだということを知った。
「率直に言おう。俺は、君を引き抜きたい。お前の上司と違って、俺は君のことを高く評価している。……俺のところに来ないか?」
思いがけない言葉に、スザクは頭が真っ白になった。
それは、軍を離れて、私兵になれということなのだろうか。
ルルーシュが言ったとおり、スザクはナンバーズ――イレブンと呼ばれる人種の一人だ。
ただしスザクは、名誉ブリタニア人となってブリタニア帝国軍に参加しているから、普通のイレブンとは少し事情が違う。
イレブンに限らず、ナンバーズと呼ばれる人間が名誉ブリタニア人になるということは、彼らがブリタニアの犬になった証と同じことである。彼らは、ただのナンバーズよりもずっと良い暮らしを手に入れるために、国民としての意地と矜持を捨てたのだ。
しかし、それでもスザクは、自分のことをイレブン――否、日本人だと思っていたし、祖国である日本のことが好きだった。他の名誉ブリタニア人たちと違って、心までブリタニアに売り渡したつもりは、スザクにはない。
スザクが名誉ブリタニア人になったのは、ブリタニア帝国軍に参加して、内部からブリタニアを変えたいと思ったからだ。ナンバーズであるスザクは、名誉ブリタニア人にならなければ、ブリタニアの軍に入ることは許されない。だから、名誉ブリタニア人になったのだ。
父が死んだ後、枢木の家に残された直系男子はスザクしかいなかったから、家の人間は必死でスザクを説得しようとした。わざわざブリタニア軍に入らなくても、日本を取り戻すためならば、他にも手段があると言って。
けれど、それはテロリストになれということと、同意だった。
スザクは、そんな間違った生き方はしたくなかった。
だから、たとえその道を選ぶことで、枢木の家と縁が切れることになろうとも、スザクは己の意思を変えようとはしなかった。
そしてその結果、ブリタニアの軍人となった今のスザクがいる。
なまじスザクが優秀であるだけに、ブリタニア人の軍人たちの一部は嫉妬して、スザクによく絡んできたことがあった。先ほど、後を付け回されていた理由を勘違いした原因は、ここにあった。
名誉ブリタニア人となっても、ナンバーズであることに変わりはない。だからブリタニア人からは、所詮ナンバーズと軽んじられ、同じイレブンからは、ブリタニアの犬と罵られる。
そして、ルルーシュが言ったように、ナンバーズ出身のスザクはどれだけがんばっても、高位まで昇進することなど夢のまた夢であるし、ナイトメアフレームに乗って戦場を駆けることなど、一生許されない。
内部から、ブリタニアを変えてみせると決意した。けれど本当は、スザク一人がどれだけもがいたところで、何も変わらない。何の力も持たないスザクがあがいても、何一つ変わりはしないのだ。
毎夜、スザクはこの国の現実を忘れぬようにと、ゲットーを散歩する。ブリタニアを変えてみせるとの誓いを、決して忘れることのないように、ゲットーの惨状を脳裏に刻み付ける。
けれど、どれだけ誓っても、何もなすことはできない。あがけばあがくほど、痛いほどに己の無力を突きつけられる。それは、自分の存在理由すら分からなくなるほどの絶望だった。
己を無力だと感じているスザクにとって、だから、ルルーシュの申し出は、本当に意外だったのだ。
未だ何も為せていないというのに、それでもスザクのことを評価してくれる。そんな人間が存在するなんて、スザクは考えたこともなかった。
ましてや、ルルーシュはブリタニアの貴族である。
我が祖国ブリタニア、と先に彼女が言ったことから、ルルーシュがブリタニア人だということは、あまりに明白な事実。
そしてまた、スザクが軍に属する身でありながら、己のところに引き抜きたいという申し出は、彼女が相当身分の高い人間であることを示している。
いくらスザクがナンバーズの一等兵に過ぎないのだとしても、国に仕える軍人を所属から引き抜こうという行為は、それなりの権力を持っている人間でなければ、叶えることはできない。
洗練された立ち居振る舞い、匂い立つような美しさ、身分の高さをうかがわせるその言動。
おそらくルルーシュは、貴族なのだろうという考えにスザクがたどり着くのも、当然のことだった。
ブリタニア貴族の子女が、こんな夜遅くにたった一人の供しか付けずゲットーを出歩くことは、かなり危険で常識外れなことなのだが、それ以外考えられない。
しかも、ブリタニアの貴族だというだけではなく、これほどに美しい少女なのだ。ここがゲットーでなくとも、彼女のような人間が夜に出歩くなど、危険すぎる。
幼いころから武術の訓練を受けてきたスザクには、身のこなしや体つきを見るだけで、大体その人の実力をはかることができる。
カレンという少女は、見たところ相当腕が立つようだが、このルルーシュという少女はたおやかな姿形そのままに、かなり弱そうだ。どう見たって、屋敷の中で大切に育てられた深窓の令嬢にしか見えない。
「スザク……聞いているのか?」
段々と、全く関係のないことに意識を飛ばしているスザクに気付いたのか、ルルーシュが再び声をかけてくる。美しいその顔は、いぶかしげにしかめられていた。
「えっ!?う、うん、じゃなくて、はい……」
スザクは慌てて顔を上げて、頷いた。けれど、おそらくは貴族なのだろうルルーシュに対して、その態度は不敬に当たると気付いて、慌てて言葉を丁寧にする。
それを聞いたルルーシュは、わずかに目を細めて唇を噛み締める。何かを堪えるような顔だった。
けれど、瞬き一つの後には普通の表情に戻っていたため、スザクはそれを見間違いだったのだと思った。
そして、気分を切り替えて、ルルーシュの申し出について考えてみる。
なるほど、確かにその申し出は、スザク以外の名誉ブリタニア人にとっては魅力的なものなのだろう。
ナンバーズに過ぎないスザクを引き抜こうとするなんて、妙な貴族もいるものだ。世間知らずのお嬢様のわがままだとしても、おかしなことである。
スザクが知る限り、普通のブリタニア貴族なんてものは、ブリタニア人以外の人種を、ほとんど人間とは思っていないような感じだからだ。何たる傲慢さ。
それはそうとして、スザクは彼女の申し出に、是と答えるつもりはなかった。ブリタニアを、内部から変えたくてスザクは軍に入ったのだ。貴族の私兵なんてものになってしまったりしたら、その目的を叶えることはできないだろう。
ちなみに、ルルーシュが軍の高位にいる人間かもしれないとスザクが考えなかったのは、ルルーシュには、軍人らしさが全くなかったためである。軍人は、たとえどんな人間であれ、独特の雰囲気を持っている。ルルーシュにはそれがなかった。
だからスザクは、頬に当てられたルルーシュの手をそっと下ろして、自分とほとんど変わらない位置にあるルルーシュの瞳をまっすぐに見つめて言った。
「せっかくのお言葉ですが、自分は貴方の手を取ることはできません。自分は、ブリタニアの軍人です。ブリタニアに仕えるのが自分の仕事。自分は、特定の個人を守るために腕を磨いたわけではありません。だから貴方にお仕えすることは、自分にはできません」
スザクはきっぱりと言い切った。
それまで事態を傍観していたカレンが、それを聞いて憤ったように声を荒げる。
「お前……!ルルーシュ様の申し出を断るなんて……!」
「別にかまわない、カレン」
ルルーシュはスッと腕を伸ばして、背後に視線を流した。それだけで彼女は、怒り憤懣といった様子のカレンを押しとどめた。
そして、スザクの目をまっすぐに見つめ返して、ルルーシュは言った。
「ブリタニアに仕えるのが仕事……そう言ったな、枢木スザク?」
「はい」
素直に返事をしたスザクに、ルルーシュは満足したように微笑んだ。
「……その言葉、忘れるな」
月をも欺くような美貌の笑みを、真正面から直視してしまったスザクが思わず放心した。
そうしているうちに、ルルーシュはくるりと踵を返すと、カレンを引き連れてその場を去って行った。
また会おう、という言葉だけを残して。
数分後、スザクは正気に戻って、一人ぽつりとつぶやいた。
「いったい何だったんだろう……?」
その言葉は、先ほどまでの状況を、何よりも端的に表していた。