シロクロニクル 〜白の喪章 01〜


 現在、皇暦2017年。神聖帝国ブリタニアは、世界各地にいくつもの属領を有している。
 ブリタニアの属領の中に、エリア11と呼ばれる地域がある。エリア11とは、ほんの数年前まで日本という名で呼ばれていた国を示す、現在名称だ。
 皇暦2010年8月10日。それまで緊張状態にあったものの、日本とそれなりの友好関係を築いていたブリタニアは、突如日本に宣戦布告した。
 圧倒的軍事力の前に、日本という国は失われた。日本の残骸に残されたのは、日本人という名前さえも失くした、イレブンと呼ばれる人々。
 国も名も、そして誇りさえも奪われた人々をゲットーに追いやって、ブリタニアはエリア11に租界を作った。
 租界とは、ブリタニア人が住むために整えられた地域のことである。太陽光発電のパネルから得たエネルギーが供給される、豊かな場所。中心街には、ブリタニア帝国軍によって整えられた新市街があり、ブリタニア本国にも負けず劣らず栄えている。
 そこは緑と光にあふれ、人々は笑顔で明るく暮らしている。
 しかしその光景は、高架線路を境にすっぱりと二分されていた。
 高架線路を境に、租界と隔てられた場所にあるのは、ゲットー。そこは、太陽光発電のパネルのせいで、日中であっても光が当たることはほとんどない。光が当たらないせいで、道端の草花はしおれていて、人の表情もまた色あせたものしか見えない。
 ゲットーに住む人々は、租界の豊かさとは比べ物にならないほど、貧しく抑圧された生活を送っているのだ。



◇ ◇ ◇



 街灯すら存在しないシンジュクゲットーの中を、夜空の下、月と星の明かりのみを頼りに歩いている少年が歩いていた。
 しかしゲットーには、太陽光発電のパネルのせいで、月光さえ満足に届かない。さらに、戦争とさえ言えなかった侵略の痕が色濃く残るゲットーの道は、石や建物の瓦礫が数え切れないほど転がっていて、夜道を無造作に歩いていると転んでしまう者が頻出する。
 そんなゲットーの道を少年は、ひょいひょいと軽い動作で大小様々な邪魔物を避けながら、全く危なげない足取りで歩いていた。
 年のころは16、7であろうか。わずかに幼さを残すその顔は、青年と呼ぶにはまだ少し若い。
 肌の色は黄色人種のもので、彼がブリタニア人ではないことは明らかだった。
 すらりとした体は、服の上からでも、程よく筋肉が付いた均整なものであるということが窺える。その筋肉は見せるためのものではないため、傍目からは細身に見えるかもしれないが、ひとたび何か事が起これば、少年は他の誰よりも敏捷かつ力強く動くことができた。
 小作りな顔に収まっている瞳は、翡翠のように深い翠色をしていて、どこか子供らしいあどけなさを残している。
 少年の顔は優しげに整っているが、それは精悍とか男らしいとかそういった類のものではなく、よほどかわいらしいという言葉の方が似合うものである。
 けれど彼が身にまとう雰囲気は、全くの子供といったわけではなく、少年と青年の狭間にある者だけが持つことができる、危うい潔癖さと美しさがあった。
 少年は、ある建物を目指して歩いていた。このゲットーの中で、一番高い建物だ。と言っても、先の侵略の際に、背の高い建物はほとんど壊されてしまったから、一番高いと言ってもせいぜい五階までしかない建築物であるのだが。
 少年が目指す、その五階までしかないというものも、元はもっと背の高いものだった建物が、五階よりも上を破壊されて、五階建築となっただけのことである。
 少年はすぐに、目的とする建物の前にたどり着いた。窓は割れ、外壁は大きくひび割れていて、塗装はまだらに剥げ落ちていて、ところによっては大きな穴が開いている。今にも倒壊してしまいそうな風情だ。
 しかし、少年はためらうことなく足を進めると、その建物の中へと入り込んでいく。
 入って少し歩いたところに、今にも崩れ落ちそうに危なげな階段があった。一度に二人程度しか並んで登ることのできない、幅の狭い階段だ。建物に足を踏み入れたときと同じように、少年はためらうことなくその段に足を乗せた。
 見た目よりはずっと丈夫にできているのか、少年が上へと向かって歩いて行っても、階段が崩れ落ちることはなかった。
 少年は、足を止めることなく上へと進んでいく。やがて、少年の目に無機質な天井ではなく、満天の星空が飛び込んできた。これより上の階とこの階の天井は、七年前の侵略の際に壊されてしまったため、このような光景が目に入るのだ。
 さらに言えば、天井どころか横の壁も、総面積にして半分以上にもわたる大きな穴が開いている。そのため、周囲の風景を見渡すことができた。
 少年は穴が開いた壁の間際に寄っていって、ようやく歩みを止めた。ほんの少しでも体勢を崩せば、穴から下へと落ちてしまいそうなほど外へと寄っているのだが、少年はそのことに対する恐怖など全く感じていないようだった。
 ただ、翡翠のような瞳で、大きく開いた穴から外の光景を眺めている。
 高架線路を境に、ひどく対照的な都市の姿が、そこにはあった。
 明るいネオンに照らされて、美しく整えられたトウキョウ租界が、高架の左に。
 外灯すらない中、ぽつぽつと人家の灯りだけが小さく光る、シンジュクゲットーが高架の右に。
 少年はただ黙って、ひどく対照的なその光景を眺めていた。
 それから数分が経ったころ、少年はふと口を開いた。
「……いい加減、出てきたらどう?」
 そう言って、少年はくるりと後ろを振り返る。優しげな顔に似合わない、鋭い視線で階段のあたりを睨み付けて、彼はさらに続ける。
「さっきからずっと、人の後を付け回したりして、いったい何の用なんだい?」
 その声に答えるように、わざと足音を高く立てて、頭まですっぽりとマントで覆った人間が階段を上がってきた。目深くフードをかぶっているせいで、その人物の顔を見ることはできない。
 いかにも怪しげな格好の者を見て、少年はスッと瞳を細めて警戒態勢を取る。
 相対する相手はそれを見て、振り払うようにフードを取り払って口を開いた。
「ふん。気付いてたのなら、さっさと声をかけたらどうなのよ」
 あらわになったその姿を見て、少年は驚いて目を見開いた。
「……女?」
 その人物は女、むしろ少女と言ったほうがいいような年頃の若年者だったのだ。しかも、十人中十人が美しいと言うような美少女。
 こんな夜遅くに、気配を忍ばせて後を追ってくるような者だから、もっと物騒な輩だとばかり思っていた少年は、毒気を抜かれて黙り込んだ。
 少年のそんな様子に、少女は気を悪くしたように眉をしかめる。
「女だからって、いったい何だって言うわけ?」
「え……あ……ご、ごめん……?」
 少年は戸惑ったような顔になり、謝罪の言葉を吐いた。人を付け回すような輩に、そんなことをする必要などないということを、彼はすっかり失念している。
 謝る少年を見て、少女は小さな舌打ちを漏らして燃えるような赤い髪を揺らし、粗暴な仕草で顔を逸らして言う。
「わざわざこんなところまで来させて……ルルーシュ様が怪我したらどうしてくれるのよ。ただでさえ、あの人運動神経良くないのに、こんなところじゃ危なすぎるじゃない」
「ルルーシュ様……?」
 聞き慣れぬ名に、少年は首を傾げた。
 この国に生まれた者には、ありえない名前だ。しかも、様という敬称付け。どうやら少女のほかに、それなりに身分の高い人がもう一人いるらしい。
 目上の人間に対する態度としては、少女の言葉は気安すぎるような気がするが、と少年が疑問に思っていると、階段の下から声が聞こえてきた。
「やめろ、カレン」
 女の声にしては低く、男の声にしては少し高い。若い声だということは分かるが、少年のものなのか、果たして少女のものなのか、はっきりと言い切ることは難しい。
 そんな声が響くと同時に、少女が先ほどしていたのと同じように、フードを目深くかぶった人物が階段を上ってこの階に姿を見せる。
「ルルーシュ様、でもっ!」
 カレンと呼ばれた少女は、不満そうに、彼女がルルーシュと呼んだ人物に口答えする。
 しかしルルーシュというらしい人物は、少女の言をぴしゃりとした声で叩き落した。
「声をかけずに、後を付けていた俺たちが悪い。……それと、俺の運動神経が良くないというのは、正しくない。俺の運動神経は極めて一般的なものだ。お前の運動神経がおかしいぐらいに発達しているだけだろう」
 そう言って、ルルーシュはカレンの隣に並んだ。
 運動神経がおかしいぐらいに発達しているとの、年頃の少女に対するものとしてはあんまりな言葉に、カレンはむっとしたような顔になるが、ルルーシュの流し目一つで大人しくなる。
 静かになったカレンから視線を外して、ルルーシュはくるりと向きを変えると、スザクのことを見つめてきた。
 床を蹴る足取り、体の脇に無造作に垂らされた腕。何気ない動きのどれもが、非常に優雅にして流麗、かつ気品あふれるもので、その人物が立つ階級の高さが窺われる。
 少年はこれまで、自分を付け回しているのは、自分のことを気に入らないから誰も見ていないところでリンチしようという目的の、どうしようもない輩なのだと思っていた。過去に何度も、ある理由からそういった行為を受けた経験があったため、少年の勘違いも仕方がないものだったのかもしれない。
 けれどこれは、そんなものとは違う。少年はそう、はっきりと理解していた。
 それでも、いったいこれはどういった状況なのかまでは分からず、少年は困惑に眉根を寄せた。


|| BACK || NEXT ||