それから一週間後。
ルルーシュが富士のふもとに造られた会場に到着したのは、特区設立宣言が行われる予定時刻より少し前のことだった。ブリタニア帝国宰相補佐という役職が、決して暇ではないという証である。
G-1ベースが止められている近くにチャーター機を着陸させて、ルルーシュは優雅な足取りでそこから降りていく。コーネリアが着ているような黒い正装に身を包んだその姿は、男装の麗人という言葉がぴったりだ。
背後からは、シュナイゼルに付けられた護衛の軍人たちが隙の無い動作で降りて来る。護衛と言うよりもむしろ、監視するような目を向けてくる彼らの存在はかなり気詰まりだったが、彼らとしてもシュナイゼルの命令に従っているだけなのだから文句を言っても仕方ない。ギアスを使えばすぐにでもこんな気詰まりな状況からは解放されるが、くだらないことに使ってしまって必要なときに使えなくなったら困るのは自分だと分かっていたから、そうすることはやめた。
チャーター機を降りるとそこには、機長から連絡が行っていたのかユーフェミアと数人の護衛たちが立っていた。
(ん?……スザクが……いない?)
ユーフェミアの騎士であるスザクが彼女の側にいないことを不思議に思ったが、何か仕事があるのだろうと結論付けて、すぐに脳裏から彼に関する思考を放り出す。スザクのことを考えると、今自分が置かれている状況から逃げ出したくなってしまう。毎夜シュナイゼルに抱かれていても、スザクに対する気持ちを忘れることはなかった。今さら叶うはずもない想いだと言うのに、愚かしいことだ。
ルルーシュがふっと自嘲する様な笑みを浮かべると、ユーフェミアが軽やかな足取りで近寄ってきて、無邪気な笑みを向けてくる。
「ルルーシュ!ようこそ、行政特区日本へ。久しぶりね」
「ああ、久しぶりだね、ユフィ。時間ギリギリになってしまってすまなかった。本当はもう少し余裕を持って来るつもりだったんだが……」
「いいのよ。ルルーシュにだってお仕事があるのでしょう?宰相補佐のお仕事はどう?ルルーシュは昔から頭が良かったから、私が心配する必要なんてないと思うけど……」
「その通りだな。人の心配をする前に、君は自分の心配をした方がいい」
「まあ、失礼ね。私だって、いろんな人に手伝ってもらったけど、この行政特区日本だってちゃんと形にすることができたわ」
ユーフェミアはそう言って少しだけ振り返り、この日のために設立された会場を手で示す。
「シュナイゼルお義兄様はすばらしいと思うよって褒めてくださったのに……ルルーシュは褒めてくれないの?意地悪ね」
「意地悪か……」
すねたような顔をするユーフェミアを見て、ルルーシュは苦笑を漏らした。
自分は善いことをしているのだと、まるで疑っていない顔。明るい未来だけしか考えていない、甘すぎる考えが透けて見える表情。世界の汚さなんてまるで考えていない幸せな皇女。お飾りと呼ばれても、それはユーフェミア自身の責。甘やかして育てのはコーネリアでも、どんな手段を講じてでも学ぼうとしなかったのは他でもないユーフェミアだ。
綺麗なだけでは、人は生きていけない。子供の頃ならそれもまだ許される。だが、大人になっても未だ穢れを知らないということは――無知であるということは、それだけで罪。
けれどそれは同時に、多大なる幸福でもある。
「……君は幸せだな」
ルルーシュはぽつりと漏らした。
ユーフェミアは、自分が不幸になることなんて考えてもいないのだろう。敬愛する義兄シュナイゼルに捨て駒として利用されていることも、ルルーシュが心の中で彼女の甘さを苦く思っていることも、そんなこと予想だにしていない幸せなお姫様。何も知らないユーフェミア。
ルルーシュだって、色々なことを知らなければどれだけ幸せだっただろう。例えば、シュナイゼルの本性を知ることさえなければ彼に目を付けられることもなく、今のように毎夜血のつながった義兄に犯されるなんてこともなく、普通に暮らしていられたはずだ。そのことについて考えるだけでも、知らないということがどれだけ幸せなことなのかが分かる。
暗い顔をしているルルーシュを見て、ユーフェミアは不思議そうに首を傾げた。
「ルルーシュ?ルルーシュは今、幸せじゃないの?」
「幸せ?」
ルルーシュはくっと唇の端を吊り上げて笑った。側にいた護衛を手の動きだけで、声の届かないところまで下がらせる。それからようやくルルーシュは、不思議そうな顔をしているユーフェミアの耳元に口を近づけて、答えを与えた。
「俺がゼロだったことを知っている君が、それを言うのか?」
「ルルーシュ!」
「聞こえないさ。そのために下がらせたんだ」
焦ったような顔をして、ルルーシュの口を塞ごうとするユーフェミアを、鬱陶しげな素振りで突き放す。
「憎いブリタニアに連れ戻されて穏やかな日常を奪われ、もはや大切な友人と会うことすらできない。目も足も不自由なナナリーは、いつどんなふうに利用されてしまうかも分からない……こんな状況で、どうして俺が幸せになることができる?」
いつもいつもいつも!ユーフェミアの考えることは甘すぎて、反吐が出そうになる。八つ当たりだとは分かっていても、優しい言葉を吐くことなど今のルルーシュにはできなかった。
「……ルルーシュ……」
「ああ、すまない。幸せしか知らない君にこんなこと分かるわけがなかったな。慈愛の皇女様?」
あからさまな皮肉を言うルルーシュに向かって、ユーフェミアは今にも泣き出しそうな顔になりながらも食ってかかった。
「わ、私だって、幸せなばっかりじゃないわ!」
「へえ?」
「いっぱい政策を考えたけど、いっぱい駄目出しされたし!」
「それは、政治家ならば当たり前のことだ」
「っ……ルルーシュは冷たいし!」
「いつものことだ。ナナリー以外に優しくする必要がどこにある」
「スザクは突然いなくなっちゃったし!」
「そうか、スザクが……スザクが?」
ルルーシュは目を見開いた。
ユーフェミアは堪え切れなくなったようにぼろぼろと涙をこぼし始める。
「スザクがいなくなったって……一体どうして……?」
「わ、分からないの……ルルーシュが本国に戻った次の日から、突然姿を消してしまって……探そうとしたんだけど、お姉様が無駄なことに人を使うのはやめろって……ナンバーズを探させるなんてことに、無駄な労力をかけさせるなって……っ……き、騎士なら、もっと優秀な人間を探してやるって……っ」
「……泣くな、ユフィ」
涙を流すユーフェミアを前に、ルルーシュは先ほどまでの態度を改めざるを得なかった。今はどれだけ疎ましく思っても、ユーフェミアはかつて、優しくて綺麗な記憶を共有していた異母妹なのだ。そんな彼女を放っておけるわけがなかった。
C.C.にもシュナイゼルにも言われたように――ルルーシュは甘いのだ。その甘さを、ルルーシュ自身は決して認めたくなかったけれど。
「だって……!」
「俺が見つけてやるから」
「……ルルーシュが?」
ユーフェミアは驚いたような顔になって、顔を上げた。
「そんなことできるはずがないわ。だってルルーシュ、忙しいのでしょう?」
「誰も、俺本人が探すとは言っていない……軍の一隊にでも命じれば、すぐに見つかるさ」
「でも、エリア11の軍は全てお姉さまの管轄下にあるから……ルルーシュが言っても、きっと聞いてくれないわ」
「聞くさ……俺が本気で命令したら誰だって逆らえない。スザクを探せと言えば、何をおいても探さざるを得ないんだ。どんな命令――たとえ、俺を殺せという命令でも」
さすがにその言葉には、ユーフェミアも少し怒ったような顔になる。
「ルルーシュ、からかわないで」
「からかってなんかいないさ。全部本当だ……例えば、日本人を殺せと言ったら、君の意思とは関係なく――」
「っ……!」
そのとき、突然ユーフェミアが目を見開いて息を呑んだ。
「……いや……私はっ……いや……!」
「……?」
(ユフィ……?)
ユーフェミアが何を嫌がっているのか分からず、ルルーシュは困惑してわずかに首を傾げる。
「殺したくないっ……!……っ……いや……ぁ、っ……ぅ……っ……」
ユーフェミアはかぶりを振って後ずさり、へなへなとその場に座り込む。
「っ……まさか……!」
ルルーシュは直感的に、彼女に、そして自分に何が起こったのかを理解した。
驚きに目を見張るルルーシュの前で、ユーフェミアは突然顔を上げて、それが当たり前のような口調で言う。
「そうね。日本人は殺さなきゃ」
「っ……!!!」
本来のユーフェミアならば、決して言うことがない言葉。甘くて無知で、けれど優しい彼女なら絶対に言うはずのない言葉が、花のような唇からこぼれ出る。
(俺もマオと同じように、ギアスのオンオフができなくなった……!?)
「今の命令は忘れろっ……!ユフィ!!」
ルルーシュは慌ててしゃがみこみ、ユーフェミアと視線を合わせて言った。しかしユーフェミアはそれが聞こえなかったような顔をして立ち上がり、ルルーシュに背を向けて走って行ってしまう。
「っ……待ってくれ、ユフィ!」
手を伸ばして引きとめようとしたが、ルルーシュの手はユーフェミアに届かない。追いかけようとするが、シュナイゼルに付けられた護衛に止められる。
「ルルーシュ様、何が……?」
「邪魔をするなっ!どけ!!」
ルルーシュの腕をつかんで引き止めている護衛の一人に向かって叫ぶように言うと、彼は人形のように従順に頷いた。
「イエス、ユアハイネス」
(やはり……!)
今、ルルーシュはギアスをかけたつもりなんてなかった。ただ、邪魔をするなといっただけなのだ。それなのに、目の前の相手の様子はまるでギアスをかけた者のように、どこか虚ろな瞳をしている。そう、先ほどのユーフェミアと同じ瞳を。
このことから考えてみるに、マオのギアスのように、ルルーシュのギアスはオフにすることができなくなった。それで間違いないだろう。一瞬の間にそう考えをめぐらせて、ルルーシュはユーフェミアが走っていった方向に目をやった。もうすでに、かなりの距離が開いている。向こうが走っていて、こちらが静止しているのを考えれば当然だ。
ルルーシュは運動神経が悪いわけではないが、決定的に体力というものに欠けていた。しかも今は毎夜シュナイゼルに抱かれているせいで、体調は最悪レベル。このまま追いかけても追いつくことは不可能だ。
すばやく状況判断を下したルルーシュは、側にいた己とユーフェミアの護衛を睨み付けて言った。
「ユフィを追いかけて止めろ!今すぐに!」
彼らはそろって返事をすると、即座に走り出した。ルルーシュもその後に続く。
けれど会場に着いたときには――全てが遅かった。
先に向かわせたユーフェミアとルルーシュの護衛たちは、壇上に上がることができず、その前で足止めされていた。彼らよりも大分遅れて走っていたルルーシュは、まだ彼らが足止めされているそこへさえたどり着けていない。
マイクを通して、ユーフェミアの晴れやかな声が大音量になって聞こえてくる。
『えーっと、自殺して欲しかったんですけど、駄目ですか?』
晴れやかな声に不似合いな、ひどく残酷な内容だった。
『じゃあ、兵士の方々、皆殺しにしてください!虐殺です!』
「やめろ!ユフィ!」
足止めされている護衛の横をすり抜けて行こうとすると、すかさず邪魔が入る。おそらく、集団になってユーフェミアのところへ行こうとしている護衛たちが邪魔で、ルルーシュが誰かということが分からなかったのだろう。不敬きわまりないことに、長い銃剣を向けられて恫喝される。
「止まれ!」
「邪魔をするな!どけ!!」
ルルーシュがそう叫んだとき、一発の銃声が響いた。最前列に座っていた日本人の一人が、胸から血を流して椅子の上からずるずると崩れ落ちていく。
ユーフェミアの右手には、どこから手に入れたのか一丁の拳銃が握られていた。銃口からは、静かに硝煙が立ち上っている。
甲高い誰かの悲鳴を皮切りに、会場中から悲鳴が聞こえてくる。怯えと哀しみに彩られた悲鳴がルルーシュの耳を突く。
(どうして……)
ユーフェミアが人を殺した光景を見て、ルルーシュは動きを止めて立ち尽くしていた。ただ、立ち尽くすことしかできないでいた。
(どうして、こんな……)
いなくなったスザクを探してやると言った。それだけだったはずなのに、今のこの状況は何なのだろう。
血と、悲鳴と、恐怖と。場を支配するのは、ユーフェミアに不似合いなものばかりだ。
「俺は……こんな……」
ルルーシュはかぶりを振りながら、ゆっくりと後ずさる。
こんなことを望んだわけじゃなかった。ゼロを続けていて、行政特区日本を破滅させようと目論んでいたとしても、ここまで悪辣なことを実行したりしなかっただろう。たとえば、ゼロとしての自分が偶然で同じ状況を作ったのならば、まだ救いはあったかもしれない。ブリタニアを壊すという目的さえ残されていれば、この残酷な現実に、意味を与えることもできたのかもしれない。
しかし、ゼロとして生きる道を閉ざされてしまったルルーシュにとって、目の前の現実はどうやっても正当化することのできない悪夢でしかなかった。
『さあ!兵士の皆さんも早く!!』
急かすようにそう言ったユーフェミアをいさめようとしたダールトンが、ユーフェミアに撃たれる。邪魔する者がいなくなった今、再度ユーフェミアは兵士に虐殺を指示する。
そして、ナイトメアフレームによる日本人虐殺が開始された。
ルルーシュがただ呆然とそれを見ていることしかできないでいると、背後から声をかけられる。
「殿下、こちらへ……」
「っ……」
それに正気づいて、ルルーシュは避難を促す腕を振り払って声を張り上げた。
「ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが命じる!今すぐこんな馬鹿げた行いをやめろ!今すぐにだ!!」
しかしその声は、銃弾の雨にかき消されて届かない。ナイトメアが、生身の軍人が、情け容赦なく日本人を殺していく――ユーフェミアの命令によって。
(どうしてこんなことに……)
ルルーシュは力なくうなだれて、強く歯を食いしばった。
どうしてと自問するまでもなく、ルルーシュの中ではもう答えが出ていた。それでも問いかけずにはいられないのは、この状況を信じたくないからだ。けれど、そんなことで目の前の現実が変わるはずもない。
ルルーシュは目を閉じてうつむき、ぎりっと歯を鳴らした。
この状況は、ユーフェミアが――ルルーシュの不用意な言葉が引き起こしたものだ。ならば幕を下ろすのもまた、ルルーシュの役目なのだろう。
目を開けて顔を上げ、ルルーシュは目の前の光景をにらみつけた。先ほどまでマシンガンで日本人を虐殺していたユーフェミアの姿は、もうそこには見えない。
(探さないと……)
ルルーシュはふらふらと、ユーフェミアを探すための歩き始めた。