亡き皇子のためのパヴァーヌ 01

 部屋の中央に、テーブルセットが一つ。その椅子に腰掛けて、二人の人物がチェスをしている。そこから少し離れたところでは、棋譜の記録をするものや、ビデオカメラを構えた業界の人間、他に数人の関係者たちが静かにゲームの行方を見守っていた。
 この国――日本ではどちらかと言うと、囲碁や将棋といった盤上遊戯を好む人口の方が多いのだが、それは単にもともとの文化的なものが関係しているだけであって、別段チェスが蔑ろにされているというわけではない。過去、当時存在したブリタニアという軍事大国に侵略を受けてから後百年ほどの間は、日本独自の文化以外のものは敬遠される動きにあったらしいが、それからさらに数百年経っている今となっては、そんなことは全くない。
 この場で行われているのは、チェスの日本選手権のトーナメント、準決勝の一局である。優勝賞金は二千万もの大金が出るほどの大きな大会なので、準優勝ともなると、テレビ局がビデオカメラを抱えてくるのもそう珍しいことでもない。
 いくつかの目とカメラのレンズが見守る中、二人の対局者のうち年かさの男が白い駒を動かした後、対局時計に手をやりながら、口元ににやりと笑みを浮かべて言う。
「そろそろ苦しくなってきたように見えるが、無様な姿をさらさないうちに、早々に投了したらどうかね?」
「苦しく、ねえ……」
 年かさの方が言ったように、盤面の情勢は確かに、彼の駒――白が優勢に見える。しかし対局相手である若い少年は、どこか余裕さえ感じられる笑みを浮かべている。盤面を見る双眸にも、かすかな笑みを浮かべる口元にも、負けそうになっている焦燥など少しも見当たらない。
 状況にそぐわない相手の態度に不審を覚えたのか、年かさの男は顔をしかめて対局者をにらみつけた。
「……何が言いたい?」
「いえ……ただ、貴方の目にはそう見えるのか、と思っただけですよ。無様な姿をさらすことになるのは、さて、どちらでしょうね」
「強がりを……!」
「強がりかどうかは、すぐに分かりますよ」
 少年はかすかに浮かべた笑みを深めて、見とれるほど優雅な仕草で黒のキングに手を伸ばした。



◇ ◇ ◇



「ば、馬鹿な……こんな……」
「チェックメイト」
 信じられないような顔をしてうろたえている対局者に、少年は静かな声音で告げる。
「俺の勝ち、ですね」
 決定的な言葉を放ってもなお、負けた男は呆然としていた。信じられないのは、十以上も年の離れた若造に負けたことか、それとも劣勢だったはずの黒が嘘みたいな鮮やかさで状況をひっくり返したことか。少年が席を立った後も、自分が負けたことがよほど信じられないのか、男は長いこと盤上を見つめたまま固まっていた。
 それを横目に部屋を出ながら、少年は喉の奥で小さく笑う。
「馬鹿が……舐めてかかるからだ」
 時計を見ると、もうすぐ正午になりそうなところだった。十二時ちょうどに、この会場前で幼馴染と待ち合わせをしているのだ。
「これなら間に合うな……」
「ランペルージさん!」
 待ち合わせに遅れないよう早足になろうとしたところを、背後から聞き覚えのある声に呼び止められて、少年――ルルーシュ・ランペルージはぴたりと足を止めた。その顔には、苦い色が浮かべられている。嫌だということを全く隠そうとしない表情を浮かべながらも、こうして動かないでいるのは、逃げても無駄だということが分かっているからである。以前、彼の相手をすることが耐えがたくなって、呼び止められていることに気付かないふりをして逃亡したことがあった。その結果、警察にストーカー被害の届けを出したくなるぐらいの勢いで付け回されたのだ。以来、いくら鬱陶しくてもきちんと相手をすることにしている。精神の安寧のため。
 肺の空気を全て押し出すように大きなため息を吐いた後、ルルーシュはゆっくりと振り返ることにした。ついさっきまで対局していた部屋からこちらへ駆け寄ってくるのは、果たして予想通りの人物だった。
「……ディートハルトさん」
「そんな他人行儀な……!どうぞディートハルトと呼び捨てにしてください。それより、準決勝通過おめでとうございます!」
「……ありがとうございます」
 人としての礼儀は忘れたくないので、一応礼を言っておくことにする。たったそれだけの言葉しか口にしていないのに、ディートハルトは手に持っているメモ帳に何やらガリガリと書き込んでいる。メモするほどのことを言ったわけでもないのに書き取ってしまうのは、おそらく職業病なのだろう。
「前半、劣勢だったように見えましたが、あれはわざとですね?意図的に己を劣勢に追い込んで相手の油断を誘った後、一気に叩き潰す!前回優勝者相手にあんなことを仕掛けるなんて、さすが貴方だ!」
「別に、そこまで言うほどのことをしたわけじゃありません」
 確かにディートハルトの言うとおり、先ほどまで対戦していた相手は、この大会の前優勝者だった。しかしだからこその油断があったから、そこをついたまでだ。
「次はいよいよ決勝戦ですね!何か意気込みは?」
「別に……勝てるよう全力を尽くす。それだけです」
「そうですか。ご協力、ありがとうございます。……話は変わりますが、特集の話、考えてくれましたか?」
「……それは断ると、何度も言ったはずですが」
「そこを何とか!」
 思い切り顔をしかめて拒絶の素振りを示すが、ディートハルトは熱意あふれる目をしてにじり寄ってくる。
 ルルーシュがディートハルトから逃げ回っている理由は、ここにあった。どこが気に入ったのやら知らないが、ディートハルトはルルーシュの特集を組みたがっていて、顔を合わせるたびに話を持ちかけてくるのだ。
「その強さに、この美しい容姿!しかも男物の服に身を包みながら、実は女!」
「なっ、あまり大きな声で……!」
 ルルーシュは慌ててあたりを見渡した。幸いにも、誰にも聞かれていなかったようだ。
 そう、ディートハルトが言ったように、現在男性用のスーツを着て少年のようなナリをしているルルーシュだが、本当の性別は女である。どうしてこんな格好をしているのかと言えば、別段男装趣味だとか倒錯癖があるとかそんなわけではない。男装は対局者に舐められないための、単なる手段である。男女平等が謳われるようになって久しい世であるが、今になっても性別の問題だけで女を軽視する男は多い。それどころか、負けた理由に『女相手だったから手加減してやったんだ』なんてことを言い出す輩まで存在する。無駄にプライドが高いルルーシュはそういったことを嫌って、公式の場でチェスの試合をするときには男装することにしていた。とは言っても、別に提出書類上でまで性別を偽っているわけではないし、詐称した性別を口にしているわけでもないので、ディートハルトのように知っている人間は知っている。だが、すらりと背が高く、あまり女性らしい体つきをしていないルルーシュは、男物のスーツに身を包んでしまえば線の細い中性的な少年にしか見えない。そのため、男装姿を見た相手が勝手に誤解して、多くの人間が彼女の性別を間違って認識しているのが現状だった。
 単に男物のスーツを着ているだけで体型を偽る手段を用いているわけでもないのに、性別を誤解されるのは、それなりに癪に障った。女らしい性格をしているとはお世辞にも言えないが、ルルーシュとて一応立派な”お年頃の女の子”なのである。しかし、女だとばれて対局相手に妙な文句を言われるよりは、男だと勘違いさせておいた方がマシである。
 これ以上妙なことを口走ることがないよう、ルルーシュはディートハルトを思い切りねめつけるが、相手は怯むどころかうっとりしている。
「ああ、やはり貴方はカオスの権化だ……」
 陶酔したような顔つきをしている男に、ルルーシュは思わず顔を引きつらせて一歩後退する。ディートハルトの言うことは、たまに訳が分からない。熱のこもった眼差しを向けられて、全身の毛穴が開くような感覚に襲われた。
「そ、それじゃあ、俺はこれから用事がありますので、これで!」
 これ以上は耐え切れないと判断したルルーシュは、全力でその場を逃げ出した。



 しばらく走った後で振り向くと、幸いにもディートハルトの姿はなかった。少しの時間でも、ちゃんと会話を成り立たせたのが良かったのだろう。
 ほっと胸を撫で下ろした後、ルルーシュは走るのを止めた。時計を見ると、待ち合わせの時刻を少し過ぎている。しかし精神的疲労のため再び走り出す気にはなれず、のろのろとした足取りで歩きながら会場を出ると、前方に幼馴染の見慣れた姿が見えた。
「ルルーシュ!」
「スザク、遅れてすま」
「遅い!」
 謝罪しようとしたところをさえぎられて、ルルーシュは口元がひくりと動くのを感じた。遅れて悪いと思っていた気持ちが、猛烈な勢いでなくなっていく。
「十二時に待ち合わせだって約束しただろ。今何時だと思ってるんだよ!」
「俺だって好きで遅れたわけじゃない!あんなやつにつかまらなければ、十分間に合ったんだ!大体、五分やそこら遅れただけでそこまで怒らなくてもいいだろう!」
「へえ、遅れておきながらいい態度だな。悪いとも思ってないのか?」
「思っているに決まってるだろう!」
「じゃあ素直に謝れ!」
「謝ろうとしたのを邪魔したのはお前だろうが!大体、お前のその偉そうな態度を見ていると、謝罪しようという気も失せるんだよ!」
「はあ?人のせいにするなよな!」
 呆れたような視線を向けられて、ルルーシュはさらに言い返そうとするが、寸でところで冷静に返る。こうした言い合いはスザクとの間では日常茶飯事であり、喧嘩でさえない。むしろ遠慮なく物を言い合えるのでストレス発散のいい手段だと思っているぐらいだが、こんなところで言い合いをしていたら、またディートハルトにつかまるかもしれない。ここは一つ、自分が大人になって引いてやろうとルルーシュは決めた。
「……遅れて悪かったな」
「最初からそう言えばいいんだよ」
 満足げな顔でうんうん頷いているスザクを見ていると、思わず殴ってやりたい衝動に駆られる。しかし、一見細身に見える幼馴染が実は『脱いだらすごいんです』を地で行く上に、優しげな顔立ちを裏切って鬼のように強い男だと知っているので、何とかその衝動を押さえつけた。それでも顔が引きつるのは止められなかったが。
「ほら、行くぞ」
「ちょ、おい!引っ張るな!」
 手首を捕まれて、ぐいぐい引っ張られる。身長はルルーシュの方が少し高いのだが、性別の差のため、当然スザクの方が歩幅は大きい。転びそうになって抗議の声を上げると、スザクはちょっと振り返って面倒そうな顔でこちらを見た後、少しだけ歩調を緩める。本当に少しだけ――ちょうどルルーシュが何とかついて行けるぐらい。
 そうなると、周りを気にする余裕が出てくる。傍目には男が男の手を引っ張っていると見えるのだろう。視線が痛い。
「スザク、手を離せ!」
「何で」
「馬鹿か、周りを見ろ!」
「周りは周り、俺は俺だ」
「っ……お前は何様だ!」
「決まってるだろ?」
 そう言ってスザクは、少しだけ振り向いて横目でルルーシュを見ながら、悪役さながらの笑みを浮かべた。
「俺様」
 ルルーシュは顔を引きつらせて絶句した。我が道を行くどころか、道のないところにまで道を作って己を貫く幼馴染の性分は十分承知していたつもりだが、さすがに今の発言には引く。
 そんなルルーシュのことを、スザクはにやにやと楽しそうに笑いながら見つめてくる。
「ほら、スザク様と呼んでいいぞ?」
「誰が呼ぶか!お前みたいなやつを敬えるわけないだろう、この馬鹿が!それより前を見て歩け、危ないだろう!転んだらどうする!」
「誰が転ぶか。俺はお前みたいに鈍くさくない」
「鈍くさ……ふん、お前みたいな筋肉馬鹿と違って、俺は頭脳派なんだ!」
「誰が筋肉馬鹿だって?」
 以下、歩きながら延々と言い争いが続く。傍目には喧嘩をしているようにしか見えないが、休日にわざわざ一緒に出かけるぐらいには、この二人は仲がいいのである。


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