世界三大オペラの一つ『椿姫』。一言で言ってしまえば、高級娼婦ヴィオレッタの恋物語だ。
快楽に生きるヴィオレッタは愛をたわごとだと言いながらも、純情な青年アルフレードの求愛に心をときめかせる。享楽的な人生を楽しむのだと言い聞かせる心と、恋を肯定する心とに引き裂かれ、彼女の心は揺れ動く。やがて出会いから数ヶ月、ヴィオレッタは貴族のパトロンとの華やかな生活を捨て、アルフレードと静かに暮らすことを決意するが――。
◇ ◇ ◇
オペラ『椿姫』が終わった後、ルルーシュはジノに食事に誘われて、ホテル最上階にある展望レストランで向かい合っていた。
ファミリーレストランなどは別として、レストランでの支払いは男性側が持つのが当たり前だ。女性が払おうとすれば、それはいっそ失礼に当たる。庶民の間では、支払いのときには男性に任せて、レストランから出た後で自分の分の金額を渡すというようなことはよくあることだが、ジノは根っからの貴族だ。そんなことは考えてもいないだろう。
ドレスも装飾品もバッグも、ついでにオペラのチケット代もジノに出させることになってしまったので、出来ることならそんな誘いなんて断ってしまいたかった。そしてその思い通り断りの文句を口にしようとしたのだが、そのとたん『先輩が一緒に食べてくれなかったら、今夜は一人寂しく食事をすることになるな……』なんて本当に寂しそうな顔で言われて、諦めた。それを笑顔でかわせないぐらいには、ルルーシュはほだされていた。それにロロは明日の朝まで帰ってこないから、ルルーシュもどうせ一人だ。これから帰って食事の支度をするのも面倒だからちょうどいい。そうやって無理に理由をつけて、そんな事実には気付かない振りをしたけれど。
食前酒を傾けながら、ルルーシュはジノに向かって微笑んだ。
「今日は誘ってくれてありがとう。オペラを見るのは久しぶりだから、楽しかった」
「それはよかった」
ジノもまたシャンパンの入ったグラスを手に笑う。
ブリタニアでは、十八歳未満の飲酒は禁じられている。ルルーシュが十八歳になるまであと数ヶ月はあるが、それを真面目に守るほど優等生ではない。またジノは真面目不真面目云々と言うよりも、社交での付き合いの関係上飲み慣れているのだろう。
「わたしから誘ったのに楽しくないなんて言われたら、泣いてしまうところだった」
「その図体でか?いっそ見物だな」
「ひどい!」
「はは、事実だ」
「ここは普通、冗談だって言うところじゃないのか!?」
「知らないのか?庶民の間では違うんだ」
ルルーシュはしらっと嘘をついた。
「そうなのか……」
一瞬だけ驚いたように目を見開いたジノは、庶民のことを知らないがゆえにそのでまかせを間に受けて。何ともやるせない顔になっている。
ルルーシュは噴き出しそうになった。彼との間にある常識の差には苛々させられることの方が多いが、たまにこんなふうに笑わせてくれることもある。気を抜けば笑い声が漏れてしまいそうになる口を引き結んで、肩の震えを抑えようと努力する。
しかしジノは、ルルーシュが持ち上げているグラスの中身が細かく揺れていることに目ざとく気付いたようで、疑わしげな目を向けてきた。
「先輩?」
「っ!」
ルルーシュは耐え切れなくなって噴き出してしまい、口元を手で覆った。
「……くくっ……そんなの嘘に決まっているだろう」
「嘘!?」
信じられないような声を上げるジノがまたおもしろくて、ルルーシュは声を上げて笑いそうになるのを堪えなければならなかった。何とか笑いの発作が治まったころには、ジノはすっかりむくれていた。
「すねるなよ」
「すねてない」
「どうだか」
ルルーシュは喉の奥で笑った。
「それにしても、よくもあの『椿姫』のチケットが取れたものだな」
「あの?」
「アリシア・ディランが主役を張る舞台だぞ?十分もしないうちにチケットが完売したとか、誰かが話しているのを聞いたな。まあ、さすがに十分というのは誇張だろうが」
無頓着なジノを見て、ルルーシュは呆れた。
アリシア・ディランは、ブリタニアが誇る歌姫だ。人気アイドルのコンサートでもあるまいし、オペラでそんなことは普通ならありえないと聞いたときには思ったが、めったにブリタニア本国から出てこないアリシアの遠征だ。その稀少性と彼女の人気を考えれば、全くの嘘というわけでもないだろう。
「ああ、わたしの父が彼女のパトロンなんだ。まだ彼女が無名だった頃から、あの歌声に惚れ込んで援助をしていたらしい。だから息子のわたしにも融通を利かせてくれる」
「無名だった頃って……何年前の話だ?」
ルルーシュが覚えている限り、確か十年も前にはすでに、アリシア・ディランは歌姫としての地位を確立していた。皇女だった頃、ルルーシュは何度か彼女が出ていた舞台を見たことがある。その頃からすでに芸術に耽溺していた義兄クロヴィスが連れて行ってくれたのだ。ルルーシュはクロヴィスのお気に入りだった。
アリシアが出ていた公演は『カルメン』であったり『トリスタンとイゾルデ』であったり、今回見た『椿姫』であったりした。さすがに『ニーベルングの指輪』は時間の都合がつかなかったので直接見に行ったことはなかったが、義兄と一緒に様々な公演を見た覚えがある。ほっそりした体に似合わぬ声量、張りのある伸びやかな声、それを今でも覚えている。あの当時に比べると、歌声に深みが増した。
「さあ……確かもう、二十年近い付き合いになるとか……」
「二十年!?……待て、アリシア・ディランはどう見ても二十代前半、上に見ても三十を越えているようには見えないんだが」
「見た目だけだよ。わたしが覚えている限りあの人、もう五年ぐらい年取っているように見えないから」
呆気に取られていたルルーシュだが、すぐに納得した。美を保つことも仕事である女優などには、別に珍しいことでもない。ブリタニア宮でも、皇妃たちはふんだんに金を使って老化を食い止めていた。それと同じことだ。女とはそういう生き物だ。美しい女ほど、自分の美が衰退していくことを恐れる。美貌を謳われていながら、ほとんどそれに頓着することのなかった母の方が珍しい。
「……そうか」
そう答えたところで、ようやくオードブルが運ばれてきた。
学園前に止まった車から降りると、外はもうすっかり暗くなっていた。ルルーシュは差し出された手につかまって、ジノと二人でクラブハウスまでの道のりを歩いていく。
「ルルーシュ先輩」
「何だ?」
「次は、庶民のデートがしてみたい。美容院で髪形を変えて、広場でジェラートを食べて、ベスパに二人乗りしてトウキョウ租界中を巡るんだ」
「それはデートじゃなくて『ローマの休日』ごっこの間違いだろう。しかもそれだとおまえがアン王女で、おれがジョーになるぞ。男女が逆転している」
「大丈夫、ベスパはわたしが運転するから」
「そんなことはどうでもいい!」
ルルーシュは思わず声を荒げた。しかしジノに悪気があるわけではないことは分かっていたし、バランス感覚があまり良くないことも事実だ。リヴァルがバイクを運転する場合にはサイドカーに居座ることに疑問を覚えたことはなかったが、ロロがまだ本当の弟だと信じていたころは、溺愛する弟に危ないことなんてさせられないと自らハンドルを握ったことはあった。しかし危なっかしいの一言で立場は逆転し、結局ロロと二人乗りをする場合にもサイドカーにしか乗せてもらえなくなったという過去がある。
「大体、EUとの関係を考えてみろ。交戦中の今、ベスパなんて手に入らないだろう」
「んー、別にベスパにこだわっているわけじゃないから、他のバイクでもかまわない」
「ベスパでも他のバイクでもどうでもいい。租界中を巡ると言っても、ここには観光名所なんてほとんどないんだぞ?これで景色が綺麗だとか言うのなら話は別だが、租界の景色なんか見ていて楽しいものでもないだろう」
「先輩と一緒ならそれだけで楽しいから、別にいいよ」
「そうか」
さらりと流しかけたルルーシュだが、すぐに何を言われたか気付いて顔を真っ赤に染めて歩みを止める。
「なっ……おま……!」
「先輩」
ジノもまた足を止めていた。彼は真剣な目をして、ルルーシュを見下ろしてくる。
「わたしは、ルルーシュ先輩が好きだ」
ジノはそう言うと、ルルーシュの顎に指をかけて、もう一方の手を腰に回した。そしてそのまま顔を上げさせて抱き寄せると、抵抗する間もなく唇を奪う。
柔らかい感触に、ルルーシュは瞠目して硬直した。口付けは初めてではない。とは言っても相手はC.C.だから、異性との口付けはこれが初めて。優しく触れていたのは最初だけ、後は息も奪うような激しさに襲われる。耳に響く水音を、口付けの合間にささやかれる告白を、その荒々しさの中でただぼんやりと聞いていた。
けれど、その時間はすぐに崩壊する。
「わたしのものになって」
そう言われたとたん、ルルーシュは半ば無意識にジノの頬を張っていた。けれど後悔することはなかった。そうされてしかるべきことを、この男はしたのだ。『もの』とジノは言った。わたしのものになって、と。それを甘い睦言を聞き流すには、ルルーシュは恋愛に絶望しすぎていて、またどうしようもないほどひねくれていた。
ジノの言葉に思い出したのは父親の姿だった。母を后として召し上げておきながら守ろうとはせず、まるで物のように死した母を打ち捨てた忌むべき男。父と母の間に愛情が介在したのか、真実は知らない。けれどルルーシュには、そこに愛などないようにしか見えなかった。母のこともルルーシュのこともナナリーのことも、愛情を傾けるべき存在としてではなく、そこいらに転がっている物と何ら変わりない存在として扱った父親。それがルルーシュにとっての真実。
事実ルルーシュは、あの忌むべき父親の言葉によって、生きていることさえ認められない物にまで成り下がった。自由意志は認められず、遠い敵国に人質として差し出され、挙句ブリタニアは死ねと言わんばかりに戦争を仕掛けてきた。あの男の前でルルーシュは物だった。
だから――『わたしのものになって』と言ったジノのことを、ルルーシュにはどうしても許すことができなかった。
怒りのあまり体が震える。けれどそのほとんどが、ジノに対する怒りではない。向けるに値すべき怒りよりも、八つ当たりのほうが大きかった。それが分かっていても、止めることはできなかった。
「……無理強いはしないと、そう言ったのは嘘だったのか?」
「違う!」
「違う?何が違うって言うんだ?ああ、それとも遊び人のおまえには、これぐらいただの挨拶に過ぎないってことか?……ふざけるな!もう恋人ごっこはおしまいだ!二度とおれに近づくな!!」
ルルーシュはそう叫んで走り出すと、クラブハウスの中に逃げ込んだ。後ろ手に鍵をかけて、扉にもたれかかる。しかし足に力が入らないせいで、みっともなく座り込んでしまうことになる。
なぜかなんて分からないけれど、ひどく胸が痛んだ。
いつもどおり朝はやって来た。ただ、いつもと違って朝食が終わる頃になってもジノは現れなかった。
ロロはそれを不思議に思ったのか、ティーカップを傾けながら首を傾げる。
「今日はジノ先輩来ないね」
「別れたからな」
「ええっ!?」
「そんなに驚くようなことか?別に、お互い好き合って付き合っていたわけじゃないんだから」
「うん、まあそうだけど……昨日までは仲良くやってたみたいに見えたから……ぼくがいない間に何かあったの?その……変なことされたりしなかった?」
ロロは心配そうな目を向けてくる。
浮かぶ表情に、どこか剣呑なものが混ざっているように見えた。ルルーシュはそれを宥めるように微笑んだ。
「おまえが心配するようなことは何もないさ」
「そっか、それならいいんだ」
ロロはほっとしたように息をついて、少しした後うれしそうな笑い声を小さく漏らした。
「どうした?」
「うん。今日からは邪魔が入らないんだなあと思うと、うれしくて」
「そうか……そろそろ時間だ。後片付けをしようか」
「うん!」
ロロはうれしそうに笑いながら頷く。
それはいつもの――ジノと付き合うまでの日常だったはずなのに、何かが足りないような気がしてならなかった。
ロロと二人で登校するのは、何週間ぶりだろうか。一月と経っていないはずなのに、随分と久しぶりのように思える。ジノと一緒に登校しているときにはふてくされ気味だったロロの顔は、今は心底うれしそうに輝いているように見える。
ロロは最近の習慣どおり、階段を上らずルルーシュの教室まで着いてこようとしたが、それはもともと二人で登校していた頃にはなかった習慣だ。ジノがわざわざ教室まで送迎の真似ごとをしたために、ロロも同じことをするようになったまでのことである。ジノがいなくなった今も続ける必要があるとは思えず、ルルーシュはそれを断った。
一人で廊下を歩いていると、すれ違った生徒たちからぎょっとしたような視線を向けられる。こうして朝に一人でいるのが、そんなにも珍しいのだろうか。ルルーシュのクラスはD組だから、教室につくまではそれなりの距離を歩かねばならず、向けられる視線が鬱陶しい。
「ルルーシュ先輩!」
背後から呼び止められたのは、もう少しで教室にたどり着こうとせんところだった。見るまでもなく、声の主は分かっている。ここ数週間、嫌というほど一緒にいた相手だ。ルルーシュは瞑目して一つため息を吐くと、目を開いてゆっくりと振り返った。
ジノは息を切らして、そこに立っていた。ここまで走ってきたのか、額には汗が浮かんでいる。
「おはようございます、ジノさま」
ルルーシュは折り目正しく挨拶する。顔に笑顔を乗せることも忘れない。ただし作り笑顔だ。
大型犬のような普段の印象からは意外なほど、ジノは鋭い。学園にいるときのどこか気の抜けた姿よりも、中華で見たラウンズとしての姿の方が、おそらくは彼の本性に近いのだろう。とは言っても、意識してやっているようには到底見えないが。だから今もジノは、ルルーシュの言葉遣いと笑顔に顔を曇らせても、その意味を正しく悟って無駄な問いを重ねてくることはない。
「先輩、昨日はすまなかった。でもわたしは」
「ジノさま。恋人ごっこはおしまいだと、そう言ったでしょう?昨日のことは忘れます。謝罪なんていりません。だからジノさまも忘れて、もうわたしに関わらないでください」
「先輩!」
「っ……」
強く肩をつかまれ、ルルーシュは思わず痛みに眉を顰めた。笑顔が崩れる。
そのとき、いつの間にかすぐ側までやって来ていたスザクが、ジノの手首をつかんだ。
「スザク……」
驚くルルーシュに向かって、スザクは安心させるような笑みを浮かべる。それからジノの手をルルーシュの肩から引き剥がすと、ジノのことをにらみつけた。
「ジノ、きみは何をやっているんだい?」
「放せ」
「放さない。放したら、またルルーシュに乱暴するかもしれないからね」
「乱暴なんて」
「きみにそのつもりはなかったのかもしれない。けれどルルーシュは痛がっていた。ルルーシュはひ弱なんだ。きみみたいな大男が手加減もせずにつかんだら、痛いに決まっているだろう?」
「あ……」
ジノはそのことに、今になってようやく気付いたように目を見開いた。つかまれた肩を手で押さえているルルーシュを見て、慌てて謝罪する。
「す、すまない!」
「いえ……悪気があったわけではないと分かっていますので。それよりジノさま、そろそろ教室に向かわないと、HRに遅れてしまいますよ?」
「遅れてもいい。わたしは先輩と話がしたいんだ」
「わたしはしたくありません」
ルルーシュはにこりと笑った。
ジノがひゅっと息を呑む。
「それではジノさま、よい一日を」
そう言ってくるりと踵を返して教室へ向かって歩き出すと、後ろからスザクが追ってくる。
「ねえ、ルルーシュ。ジノとな」
「ルル!」
何ごとか言いかけたスザクの邪魔をしたのは、そこら中に響き渡るような大きさのシャーリーの叫び声だった。
「ああ、シャーリー。おはよう」
教室を出てすぐのところに立っていた彼女は、ルルーシュが挨拶するや否や、胸元をつかみ上げんばかりの勢いで迫り寄ってくる。
「おはよう、じゃないわよー!ちょっと来て!」
「ちょっと来てって……HRはどうするんだ?」
「そんなのルルには今さらでしょ!HRどころか授業をサボりまくってるんだから!」
「いや、おれはいいけどシャーリーが……」
「いいから来るの!」
シャーリーはそう言い切って強引にルルーシュをどこかへと連れて行こうとする。
「スザクくんは駄目!これは女同士の話なの!」
後をついて来ようとしたスザクは、その一言のもとに切って捨てられた。