昼休みになって、ジノはいつもと同じようにお弁当を持ってやって来た。しかしいつもと違ったのは、教室の扉を開いた次の瞬間、何事かを言いかけた体勢のまま硬直したことである。たっぷり十秒は固まっていた後、ジノはようやく口元の筋肉を動かした。
「……どうしてスザクがいるんだ……?」
「どうして?きみは変なことを聞くね。ぼくもこの学園の生徒だ、おかしなことなんて一つもないだろう?」
一見邪気のない笑顔でにっこり笑うスザクに対抗するように、ジノもまた口元に笑みを刷く。
「仕事はどうしたんだ?わたしの記憶が正しければ、書類、かなりの量がたまっていたと思うんだけど」
「書類なんて急ぎのものだけその場で仕上げて、残りは期日までに仕上げればそれでいいんだよ。大体書類のことを言うのなら、アーニャだってかなり溜めてたよね」
「……スザクほどじゃない」
いつの間にかやって来ていたアーニャが、淡々とした口調でぼそっと会話に混ざる。
「それにいざとなったら、ジノに手伝わせる。だから平気」
「おいおいアーニャ、人任せは駄目だって何度言ったら分かるんだ?ってそうじゃない。書類のことはいいとしても、ナナリー総督の補佐はどうしたんだ?それに護衛も。きみたちが学園に行っている間は、ぼくがナナリーのことを守るから心配いらない……なんて言ってたのはどこの誰だったけ?」
「ぼくがここにいるのは、総督のご意志でもある。総督はご自分が学校に行けない分、せめてぼくには学生生活を楽しんで欲しいと思っておられる。補佐にはミス・ローマイヤがいるし、護衛は信頼できる人たちに任せてきた。問題ないよ」
「男が一度言ったことをひるがえすのはどうかと言っているんだ」
「ジノ、きみは臨機応変という言葉を知らないのかい?」
どちらも表情は笑顔だというのに、周囲の空気は凍りつきそうなほど冷たい。文句をつけたい人間は大勢いただろうが、相手はどちらもナイト・オブ・ラウンズ。ただでさえ気安く話すことなどできないというのに、それが文句ともなれば余計に難易度は高くなる。しかし中にはそんなことをもろともしない人物もいるわけで。
「おい、おまえらいい加減にしろ」
その人物――ルルーシュは心底呆れながら、盛大なブリザードを振りまいているスザクとジノに声をかけた。中華で見かけたときには仲良くやっているように見えたのだが、あれは仕事中だけのことで、この二人実は仲が悪いのだろうか。いやしかし、スザクの歓迎祭にまで来ていたのだから、そんなこともないはずだ。つまり、何らかの理由があって仲たがいしているのだろう。
「喧嘩をしたいのなら別のところに移ってやってくれ。空気が悪くなる」
ルルーシュは腰に片手を当てて、びしっと言い放つ。ただし、もう一方の手にお弁当包みが下げられているせいで、全く格好がつかない。
「嫌だなあ、ルルーシュ。喧嘩なんてしてないよ。ちょっと話をしていただけさ」
にこにこ笑顔でスザクが言う。白々しいことこの上ないが、この場を収めるだけの効果はあった。
「そんなことより、ぼくお腹空いちゃった。早くお昼にしようよ。今日はどこで食べるの?中庭?校庭?屋上?」
「生徒会室。最近はずっとそこで食べている。人目がないから楽でいい」
「じゃあ行こうか」
スザクはそう言って、空手のままルルーシュの手を引いて歩き出す。あまりに自然な動作だったため、誰もがそれを疑問に思うことを一瞬忘れた。
ついでに手を取られた本人はと言うと、子どもの頃と同じことをされただけだったので、気にも留めていない。その代わり、スザクが何も持っていないことを目ざとく見咎めて問いかけた。
「おまえ、弁当はどうした?」
「え、ないよ、そんなの」
「だが、ジノとアーニャは持っているぞ」
「……うん、まあぼくにもいちおうセシルさん、あ、技術部の人で色々心配してくれるお姉さんみたいな人で……とにかくその人が作ろうかって言ってくれたんだけど……あの人の料理はもう料理なんて言えるものじゃないから、必死になって理由をつけて断ってきたんだ」
「大丈夫か?顔色が悪いぞ」
「はは……今でもあの味は鮮明に思い出せるよ……おにぎりにジャムから始まった悪夢……お願いです、セシルさん、あんこをお寿司にのせるのはやめてください。ごぼうサラダは生クリームじゃなくて、マヨネーズで和えるんです……本当にもう勘弁してください。斬新さとか全然必要としていないので、普通の料理を、普通の料理をお願いします……」
「お、おい、おまえ軍でいったい何を食べさせられているんだ!?」
あまりの内容に、ルルーシュはぎょっとして立ち止まった。
おにぎりにジャムを合わせるなんて、そんな訳の分からないことをする人間がいるのか。あんな料理とも言えないようなもの、普通なら調理初心者でもそれなりの出来に仕上げることはできるだろうに、その破滅的な組み合わせは何なんだ。それに、あんこと寿司を一緒にしようだなんて、セシルなる女は何を考えているのだろう。極めつけは、ごぼうと生クリームだ。何をどうしたらそんなものを組み合わせようと思うのだ。見た目か、見た目だろう。いくら生クリームとマヨネーズの見た目が似ているからと言って、それはない。想像するだけで吐き気がしてくる。料理上手のルルーシュには理解できない世界だ。
「大丈夫だよ。最近はほとんど被害も受けてないから……悪気がないから余計に性質悪いんだよね、あの人……」
「そ、そうなのか……大変なんだな」
どうやら苛めではないらしいが、スザクの言うとおりその彼女に何の悪気もないというのなら、むしろ苛め以上に性質が悪いかもしれない。
「もう慣れたよ。それより、早く行こう。ぐずぐずしてると、パンがなくなっちゃうよ」
スザクは肩をすくめると、立ち止まっているルルーシュの手を引いて教室から出て行く。
「購買に行くのなら、リヴァルと二人で行けばいいだろうが。おれたちは先に生徒会室に行っ」
「先輩の言うとおりだ、スザク」
「ほあっ!?」
話の途中で不意に後ろから回ってきた腕に抱き寄せられて、ルルーシュは丸く目を見開いた。バランスを崩して倒れそうになるが、床よりも柔らかい何かに頭と背中をぶつけてそれはまぬがれる。後ろに傾いた体勢のまま少しだけ視線を上げると、真剣な顔をしているジノが目に入った。
「なっ、おいこら、放せ!」
暴れるルルーシュのことなど気にも留めず、ジノとスザクは言い争いを始める。
「それにいくら幼馴染だからって、その年で手をつなぐのはあまり褒められたことではないな」
「きみには関係ないと思うんだけど」
「ある。先輩はわたしの恋人だ」
「へえ、恋人。ふうん」
「……何が言いたいんだ?」
「それはきみ自身が一番分かってるんじゃないのかな」
眉を顰めるジノに、スザクは他意のなさそうな笑顔を向ける。
二人の会話が途切れたそこを見計らって、ルルーシュは声を荒げた。
「放せって言っているのが聞こえないのか!?」
「だってさ、ジノ。早く放してあげたら?」
「おまえもだ!!」
まるで他人事みたいに言うスザクを、ルルーシュは強くにらみつけた。渾身の力で暴れると、後ろから回されていたジノの腕も、手をつかんでいたスザクの手も、どうにか振り払うことができた。慌てて二人から距離を取って、ルルーシュは毛を逆立てた猫のように威嚇態勢に入る。
「喧嘩をしたいのなら別のところでやれと言っただろう、おれを巻き込むな!!」
ルルーシュはそれだけ叫んで、くるりと踵を返すと、足取りも荒く廊下を突き進んでいく。
「あ、待って、姉さん!」
慌ててロロがその後についていく。
ジノとスザクもそれに続こうとしたが、ぼそっとつぶやかれアーニャの毒舌に足を止めた。
「……あなたたち、馬鹿?」
アーニャはいつもと同じ無表情だというのに、やけに視線が痛かった。そんな二人の心境などおかまいなしに、彼女はすぐに興味をなくしたようにルルーシュの後を追っていく。
どうしたものかとおろおろしていたシャーリーも、アーニャにつられたようについていった。
「……とりあえず二人とも、購買に行こうぜ」
何とも言えない顔をしたリヴァルが、スザクとジノの肩をたたく。
ジノはそれを鬱陶しげに振り払った。
「いや、わたしは先輩の後を追う」
そう言ってジノは、ルルーシュが歩いていった方へと向かおうとする。
そこへすかさずリヴァルが口を挟む。
「ルルーシュってプリンが好きなんだ。怒らせたお詫びに買っていけば、機嫌直ると思うけどなあ」
ジノはぴたりと足を止めて、ぽつりと言った。
「……行く」
◇ ◇ ◇
「先輩、デートしよう!」
どこか切羽詰った調子でそんなことを言ったジノに拉致されたのは、そんな日が何日か続いた後のことだった。
決して大げさに言ったわけではない。生徒会の仕事も終わり、クラブハウスへ帰っている途中のことだった。ロロには黒の騎士団関連の仕事を頼んでおいたため、一人で歩いていたところを、前述の言葉を叫んだジノに文字通り拉致されたのだ。あまりの早業に、抵抗する間もなく黒塗りの高級車に連れ込まれた。ジノの手際云々と言うより、単にルルーシュがイレギュラーに弱いだけとも言えたかもしれないが。
車が動き出したところで、ルルーシュはようやく我に返った。
「な、な……いきなり何なんだ!」
「だから、デートしようって」
隣の席に座っているジノは、珍しくご機嫌だ。最近は――と言うかスザクが復学した日から、なぜか不機嫌な顔をしてスザクと言い争っていることが多かったから、こんな笑顔は久しぶりだ。
「そうじゃない!人を無理やり拉致するようなことをして、いったい何の真似だと言っているんだ!」
「だって、こうでもしないとスザクに邪魔されるから」
「大体おまえ、今日は仕事があるからって帰ったんじゃなかったのか!」
ジノだけでなく、スザクとアーニャもそう言って帰っていった。あれはでまかせだったのだろうか。
「うん。だからやれるだけやって、後はアーニャに任せてきた。今度書類仕事を手伝うって交換条件を出したら、快く引き受けてくれたよ。いい同僚を持ったな、わたしは」
「交換条件って……そんなのでいいのか、ラウンズ……」
帝国最強の騎士の実態がそんなものだったという事実に、ルルーシュは盛大なめまいを感じた。思わず頭を抱えてため息を吐く。敵戦力の要と見ていた騎士たちがそんな適当集団だったことは確かにショックだったが、しかしそれが本当ならば攻略方法は一気に広がる。うつむいているのと頭を抱ええているので顔が隠れているのをいいことに、ルルーシュはあくどい考えに身を浸していた。
「いつもはこんなことしないさ。でも最近先輩、スザクとばっかり一緒にいるから……」
それはそうだ。スザクはルルーシュの記憶が戻っていないか監視しているのだろうから、一緒にいようとするのは当たり前である。しかしそれをジノに告げるわけにはいかない。どうして監視されているのかと聞かれたら、答えようがないからだ。
「友達だからな。それに、以前スザクが通っていたときにいた生徒たちは皆本国に帰ってしまったから、あいつはまだ校内に知り合いが少ないんだ。寂しいんじゃないのか……何だ?」
話している途中、視線を感じた。怪訝に思って顔を上げると、何とも言えない顔をしてこちらを凝視しているジノと目が合う。どうにも不愉快な視線だった。
「おい、何だその顔は」
「……さすがにスザクがかわいそうになってきて」
「はあ?スザクが?なぜ?」
「何でもない。とにかく、最近先輩がスザクに取られてたから、挽回しようと思ったんだ。たまには恋人らしいこともしないと、先輩はわたしと付き合ってることなんて忘れてしまいそうだしね」
つまり、最近かまってもらえなくて寂しかったということか。そう結論付けたルルーシュは、長い足を組んでゆったりと手を組んだ。帰ってからやろうと思っていた予定に緊急のものはない。いかようにでも変更可能だ。デートぐらいなら付き合ってもいい。
「いいだろう。だが、どこへ行くんだ?」
どうやらシャーリーに色々と入れ知恵されていたようだから、制服デートという言葉ももしかしたら知っているのかもしれないが、ジノはラウンズの制服だ。一応これも制服だから、このまま町を出歩いても制服デートになる。しかしさすがにこれでデートなんかする気はないだろう……ないだろうと思いたい。ジノのこれまでの行動を思い返して、ルルーシュは色々と不安になった。
「オペラ」
「……はあ!?」
ルルーシュはぎょっとして飛び上がった。ここまで散々庶民感覚に合わせていたくせに、ここでいきなり貴族感覚まで引き上げるなんて予想外だ。
「ちょっ、待て!オペラってあのオペラか?」
「どのオペラかは分からないけど、先輩が思っているので間違いないと思うよ」
「馬鹿かおまえは!こんな格好でそんなものが見られると思うのか!」
ジノが連れて行くようなところだ。当然、気軽に入れるようなオペラハウスではあるまい。連れが連れだから、この格好でも入場できるかもしれないが、周りから浮くこと間違いなしである。
「まさか。ドレスと装飾品はこれから見に行く」
「そんな無駄金はない!」
「わたしが無理に誘ったんだ。それぐらいプレゼントするよ」
「施しを受ける気はない!」
「施しって……」
ジノはぽかんと口を開けた。しかし驚きはすぐに去ったのか、ややもせず困惑したような顔になる。
「そんなつもりはないんだけど……」
「そのつもりがあろうがなかろうが、施しは施しだ。さっさと下ろせ。帰る」
「待って!えーっと……う……あ!じゃあこういうのはどうだろう。わたしはここのところ毎日朝食をご馳走になっているし、たまに夕食にもお邪魔しているから、そのお礼に送るということで……駄目かな?」
駄目に決まっている。ジノが選ぶような服飾品と、ルルーシュが作った食事なんかを同列に並べられるわけがない。しかしここで断っても、何だかんだと理由をつけられて、結局受け取ることになってしまいそうな気がする。そんなことで時間を無駄にするのは面倒だったので、ここらへんで妥協しておく方が賢明だろう。
それに、遠慮も何もなしに食事を平らげていくジノのせいで家計簿に赤が付きそうだったから、いい加減何か一言文句でも言ってやろうと思っていたところだったのだ。本人がお礼をしたいと言っているのだから、文句なんかを言うよりも、したいことをさせてやる方がいいだろう。ルルーシュはどうにか自分を納得させた。
「それなら、まあいい」
ふんと鼻を鳴らしてそっけなく答えたルルーシュだが、十数分後、車が止まったすぐ前にある店の名前を見て、やはりさっさと帰っておくべきだったと後悔した。特徴的なロゴは有名で、わざわざ店名など見る必要もない。そこは、ブリタニア本国でも人気の高級ブランド店のトウキョウ支店だった。
「おい、ちょっと待て……!」
引きつった顔になるルルーシュの手を引いて、ジノは店の扉を開けた。そのとたん、中から店員が寄って来る。
「いらっしゃいませ。これはこれは、ヴァインベルグさま。ようこそいらしてくださいました。どうぞこちらへ」
「ああ、わたしのタキシードと、それからこちらの彼女にイブニングドレスを頼む」
「かしこまりました」
「おい、ジノ!」
「プレゼント、させてくれるって言っただろう?」
店員の先導に従って店の奥まで歩いていく途中、ジノはようやくルルーシュを見た。彼はどうしてルルーシュがそんな顔をしているのか、心底理解できないというような顔をしている。
これだから貴族は、とルルーシュは罵倒なのか呆れなのか自分でも理解できない叫びを内心でこっそり上げた。
ため息をついているうちに連れて行かれたのは、店の奥にあるVIPルーム。皇女として暮らしていたころは、職人が離宮にやって来るのが当たり前の生活だった。日本に来てから一年間はまともに買い物をできる場所さえほとんどなかったし、その後は庶民として生活していたから、こんな部屋に通されるのは初めてだ。
少し物珍しさを感じたが、そんなことを考えている暇はすぐになくなった。フィッティングルームに連れて行かれたかと思ったら、服を脱ぐように言われて、さらには下着まで替えさせられる。それから何着かドレスを試着させられ、そのたびジノの前まで連れて行かれ、また別のものを着せられる。ジノが満足して首を縦に振るまでそれは続けられた。
ドレスが決まったら決まったで、今度は髪を結い上げられて左耳のすぐ上に大輪の薔薇を差し込まれ、顔に化粧を施されていく。肉体的な疲れというより精神的な疲労でへろへろになった頃、ようやくルルーシュは解放された。
ジノはすでに支度を終えていて、疲れ切った顔でよろよろ歩いているルルーシュを見て、苦笑しながら話しかけてくる。
「お疲れ様」
「全くだ」
ルルーシュは憮然とした顔で返した。
胸も背中もそれほど大きく開いているわけではないが、やはりイブニングドレスである以上それなりに露出している。夜の正装なのだから、別に恥ずかしがる必要はないと分かっているのだが、普段からあまり肌を出すような服を着ることのないせいで落ち着かない。
憮然とした顔の下で恥らっているルルーシュに気付いたのか、ジノはオーガンジーのショールを差し出してきた。ドレスと同色の紫紺だ。
「先輩、これ」
「あ……ありがとう」
「どういたしまして。では、お手をどうぞ、先輩」
まるで昔見た映画に出てくる俳優のように、ジノは手を差し出してくる。
何となく気恥ずかしくて、ルルーシュはわざと不機嫌な顔をしてその手を取った。
綺麗なドレスとアクセサリーを身につけてこうしてエスコートされていると、まるで皇女だったころに――まだ愛も恋も信じていたあの頃に、戻ったような気がした。