07

「先輩、無事!?」
 そんなことを叫びながら、ジノがダイニングに姿を現したのは翌朝のことだった。
 ロロと二人、何の問題もなく朝食の席についていたルルーシュは、叩き開けるような勢いで開けられた入り口に立つジノを見て、眉を顰めた。
「騒ぐな。食事中だ」
「え、あれ……?」
 真剣な顔をして飛び込んできたジノは、パンケーキを切り分けているルルーシュとロロを見て、困惑したように眉尻を下げる。
「えーっと、一つ聞きたいんだけど、いいか?」
「何だ?」
「玄関の扉が壊れていた理由は?」
 チャイムも鳴らさずやって来て、無事かと叫んだのはつまり、玄関の扉が壊れていたからルルーシュたちに何かあったのか心配したからなのだろう。まあ確かに、知り合いの家の入り口が壊れていたら、ルルーシュも心配する。
「昨日の夜、スザクが来て蹴り壊していった」
 端的な事実を述べてみただけなのだが、端的すぎてこれだけだと、スザクがむしゃくしゃして八つ当たりに扉を壊したみたいに聞こえる。案の定、ジノはぎょっとしたようだった。
「スザクが!?」
「そうだ。おまえ昨日、スザクにおれと付き合っていることを言ったらしいな?その真偽を聞きたかったみたいだ」
「……変なことされてないか?」
「だから、玄関の扉を壊されたと言っただろう」
 そう返すとジノは脱力して、片腕を扉に置いて寄りかかった。
「いや……そうじゃなくて」
「じゃあ、ランスロットを足に使って来られた?」
「……そうでもなくて……って言うか、昨夜の騒ぎはそのせいだったのか……」
「それでもないなら、いったい何だって言うんだ」
「分からないならいい。気にしないで」
 怪訝な顔をするルルーシュに向かって、ジノは苦笑する。それから扉を閉めて、食卓まで歩いてくるとルルーシュの隣に座った。行儀悪く横を向いて肘をつき、優雅な仕草で手を伸ばしてくる。
「玄関を見たとき、テロリストが侵入したのかもと思った……先輩が無事で良かった」
「っ……!」
 触れるか触れないか、ぎりぎりの危うさで軽く頬を撫で上げられて、優しい笑みを向けられる。とっさにその指を叩き落したルルーシュは、悲鳴を上げそうになるのを堪えなければならなかった。
 たったそれだけのことで体をがちがちにしたルルーシュを見て、ジノは一瞬きょとんとした顔になった後、すぐ悪戯っぽい笑顔になる。
「かわいい」
「っ……年上をからかうんじゃない!」
「年上って言っても、一つだけだ。たいして変わらない。それに……からかってなんかいないよ」
 ジノは声を低くして目を細める。それだけで普段の子どもっぽい雰囲気は失われて、大人の――男の顔に変わる。視線が、仕草が、再び伸ばされる手の動きが、これまでとまるで違うもののように艶にあふれている。
「先輩」
「っ……」
 低い声が、まるで知らない男のもののように聞こえる。こちらを見つめる目が怖い。とっさに逃げようと体は後ずさるが、椅子に座っているため、すぐに背もたれに当たって逃走劇は終了する。伸ばされた指先が、頬に触れてくる。頭がぐるぐるして、それが熱いのか冷たいのかさえ分からない。
「姉さん」
 そのとき斜め横から聞こえてきたロロの声は、まるで救いの啓示に似ていた。ルルーシュは正気を取り戻して、ジノの手を全力で叩き落とした。
「何だ!」
「ジノ先輩に、お茶を淹れてきたらどうかな?ほら、玄関から走ってきたみたいだし、喉が渇いてると思うんだ」
「いや、そ」
「そっ、そうだな、ロロ!気が利くな!」
 ルルーシュは何か言いかけたジノをさえぎって音を立てて立ち上がり、ティーポットを手にそそくさとキッチンへ逃げ込む。そして調理用テーブルの上にそれを置き、テーブルに手を着いて大きく息を吐いた。
「なっ……何なんだ、あれは……」
 まだ胸がバクバク言っている。思考は上手くまとまらないし、頬は熱があるときのように熱い。いわゆる男の色気というものに当てられたのだと分かるには、断絶して久しい恋愛に関する思考回路は、全くの役立たずだった。



 一方その頃、ダイニングに残されたロロとジノはと言うと、笑顔で威嚇しあっていた。
「ロロ……恋人同士の語り合いを邪魔しないで欲しいな」
「あはは、嫌だなぁ、ジノ先輩。ぼくはあなたみたいな人が姉さんの恋人になるなんて、認めていませんよ」
「きみが認めようと認めまいと、わたしと先輩はすでに恋人同士だ」
「はっ、昨日姉さんに仮初めの恋人呼ばわりされた事実を忘れたんですか?都合のいい脳みそですね」
「忘れていないさ。だから名実ともに恋人になるために、ルルーシュ先輩を口説いていたのに……」
「ぼくの目が黒いうちは、そんなことさせませんよ」
「きみの目は元々黒くないだろう」
「言葉のあやですよ、あや。そんなことも分からないんですか?」
 ロロはあざ笑うような視線をジノに向けてくる。
 たいていのことなら気にせず流すジノも、さすがにこれにはひくりと頬を引きつらせた。
「……きみは先輩がいるときといないときで、性格が全然違うな」
「当たり前です。姉さんはぼくの全てなんだ……あの人は、一人だったぼくに未来をくれると言った。おまえの未来は、おれとともにあるって……そう言ってくれた。姉さんは温かくて優しくて、いつも強いくせに、たまに弱くて脆くて……誰かを守りたいとか誰かのために何かしたいとか、ぼくの中にそんな感情があることを、姉さんだけが教えてくれたんだ。あの人がいたから、ぼくは初めて人間になれた」
 ロロはとても優しい顔でそう言って、ポケットから取り出した携帯電話のストラップをきゅっと握りしめる。それは明らかに、姉を語る態度ではなかった。幼い子どもが親に向けるような思慕のようであり、あるいは信者が神に向ける崇拝のようでもあった。ひどく危うい妄信、執着、そして慕情。
 その危うさに、ジノは思わず眉を顰める。他の生徒たちと違って寮に入っておらず、クラブハウスに二人だけで暮らしていることから考えて、この姉弟には何かしらの事情があることは分かる。しかしそれにしても、この危うさは何なのだろう。普通に暮らしてきた人間が、これほどまでの歪みを抱え込むことがあるのだろうか。
 そう思うジノの前で、ロロは表情を一変させてこちらをにらみつけてくる。釣りあがった目には、一般人とは思えないほどの殺気がにじんでいた。
「だから、ジノ先輩。あなたみたいにいい加減な気持ちで姉さんに近づく人を、許すことなんてできないんです」
「いい加減って……わたしは、」
「御託は結構。姉さんのこと、本気で好きでもないくせに……それなのに恋人なんて、冗談でしょう?あなたなんか、姉さんにふさわしくない」
「わたしは……」
 ジノはそれきり黙りこむ。反論の言葉は出てこなかった。
 ロロの言うとおりだ。キューピッドの日にジノがルルーシュの帽子を奪ったのは、めったに見ないような美人に対する興味と、庶民に対する好奇心、そして退屈しのぎからである。ロロが言った本気というような感情は、そこにはない。ジノにとっては女性と付き合うことも恋をするということも、カードやチェスなどの遊びと何ら変わりはなかった。もちろん、付き合っていた女性たちのことは好いていたし、それなりの扱いをしてきた。けれど本気の恋などしたことはない。ジノは恋がどんなものなのか知らない。だからここまで言われても、何も言い返すことができない。
 ルルーシュに対する感情が、今まで付き合ってきた女性に対するものとは、何となく違っていることは分かる。
 今までなら、恋人の身内にこんなことを言われようものならば、即座に別れようと思ったはずだ。ジノは面白いことは好きだが、面倒ごとは嫌いだった。付き合い続けることで、面倒な相手と関わり続けなければならないぐらいなら、すっぱり別れてしまう。いつものジノなら、そうしていたはずだ。それなのに、ルルーシュと別れようとは――別れたいとは思わない。
 昨日の夜、スザクにルルーシュと付き合うことになったと言ったのも、考えてみれば自分らしくない。あれじゃあまるで嫉妬しているみたいだ。
 それでも、これが恋かどうかなんて分からない。ただ、自分らしくないことだけが分かる。それだけが、今明らかな真実。



◇ ◇ ◇



「じゃあ先輩、わたしはこれで」
「またお昼にね、姉さん」
 ルルーシュを教室まで送り届けた後、にこやかな笑みを浮かべたジノとロロが手を振りながら去っていく。ただし二人の間には、一メートル以上の距離が開いていた。
「ああ、昼にな」
 ルルーシュも手を振り返しながら、二人の姿を見送った。このやり取りはもう、ここ数日ですっかり定着して習慣になっている。教室の中にいるルルーシュの視界から、二人の姿はすぐに消える。その瞬間、ルルーシュの肩からわずかに力が抜けた。
 気を取り直して席に着き、一限目にある授業の用意を鞄から取り出す。時計を見ると、HRの時間まではまだ十五分ほど余裕があった。一眠りでもしようかと考えていると、誰かが机の横に立つのが見えた。
「おはよう、ルル」
「はよ」
 シャーリーとリヴァルだ。
「おはよう、二人とも」
 一人だけ座っているのも何なので、ルルーシュは言いながら立ち上がる。
「今日もジノくんと一緒だったね」
「クラブハウスまで迎えに来るんだ。まさか無視するわけにもいかないだろう」
 ルルーシュはむすっとした顔で答える。面白がるようなシャーリーの口調が不愉快だった。
 だと言うのに、不機嫌顔のルルーシュを目の当たりにしたシャーリーはなぜか、くすくすと楽しそうな笑みを漏らしている。
「うんうん、そうだね」
「最初はどうなることかと思ってたけど、おまえら案外上手くやってるみたいだな」
「上手くって……別にそんなことは」
 リヴァルの言に反論しようとしたルルーシュだが、その途中でシャーリーに詰め寄られて口をつぐんだ。
「あるでしょ。ルル、ジノくんが側にいると、いつもよりちょっと緊張してるんだもん。それって、ジノくんのことを意識してるってことだよね」
「変なことをされないように警戒しているだけだ」
 ルルーシュは特に態度を変えることもなく、淡々とした態度で答える。
 しかしシャーリーは諦め悪く不審の目を向けてくる。
「でも、初日なんかは全然そんなことなかったじゃない」
「シャーリーが気付かなかっただけだろ」
 疑わしげな目を避けて、ルルーシュはつんと顎をそらした。
 スザクが来た翌日の朝、ジノはそれまでの態度とは全く違う面をルルーシュに見せた。それはそのときまで見せていた子どもっぽい顔や、戯れのスキンシップからはとても想像できないもので、全くの別人みたいに思えた。怖かった。頭がぐるぐるして胸がバクバクして、ロロが割って入ってくれなければいったい自分がどんな失態を犯してしまったかと思うと……穴を掘って埋まってしまいたくなる。父親のこともあって、自分が恋愛ごとに向いていないことは自覚していたが、まさかあれだけのことで頭が真っ白になるとは思わなかった。
 ゆえにあれから約一週間、同じような事態に陥らないようにジノのことを警戒し続けてきたのだが、ルルーシュの警戒をよそにジノは何もしてこなかった。
 とは言っても朝は毎日迎えに来たし、昼は食事に誘いに来たし、夕方は軍の仕事がないときならクラブハウスまでついてきた。夕食をふるまったこともある。ただ、それだけなのだ。一緒にいるだけで、やけに大人しいのだ。馴れ馴れしく抱きついてくることはなくなったし、冗談でも口説いてくることはなくなった。
 もしかしたら恋人ごっこに飽きたのかもしれない。そう考えたことも一度ではすまない。しかし、それならばどうして別れようと――この馬鹿げた遊びをやめようと言ってこないのか。また、どうして一緒にいようとするのかという壁にいつもぶち当たり、理由が分からないまま日々が過ぎていくばかりである。
 シャーリーには否定したが、意識しているというのはおそらく間違いではない。態度が変わる直前に、あんなことがあったのだ。経験皆無の上に恋愛ごとが苦手なルルーシュにはいつまた同じことをされるか全く予測がつかず、ずっと警戒し続けてきた。それなのにジノは何もしてこなかった。結果として、下手にかまわれ続けるよりもずっとジノのことを意識してしまったと言ってもいい。
 人はそれを、『押して駄目なら引いてみろ』作戦成功の典型と見るだろう。やったジノ本人には、全くそんな意図はなかったのだが。さらに言えば、結果として彼にそんな行動を取らせることになったロロにしてみれば、誤算としか言いようのないことであっただろう。
「……あ、分かった。何かされたんだ」
 シャーリーがぽつりとつぶやく。
 ルルーシュはぎくりと体を強張らせた。げに恐ろしきは女の勘。普段どおりの態度を取っていたはずなのに、どうして分かったのだろう。
 そんなルルーシュの変化を見逃すようなシャーリーではなかった。
「やっぱりそうなんだ!」
 そう言って、ぱちんと両手を叩き合わせて破顔する彼女は、やけに楽しそうだ。思春期以上の女にとって、他人の恋愛ごとは最大の娯楽と言ってもあながち間違いではない。シャーリーは興奮を隠しもせず、ルルーシュににじり寄ってくる。
「付き合い始めてもう一週間以上経つんだし、当たり前だよね」
「好きで付き合ってるわけじゃないんだぜ?ジノが何かしようとしても、ルルーシュが許さないだろ」
「えー、でもルルって突然のことに弱いじゃない。隙をつかれてキスとか、それぐらいならありだと思うなぁ」
「ない!そんなことは、ぜんっぜんされていない!変な想像をするな!」
 ルルーシュは全力で否定した。こちら側に立った発言をするリヴァルと違って、シャーリーがやけに遠い場所にいるのはなぜなのだろう。友達ならば、他人の恋愛についての興味関心なんかよりも、友情を大切にしてくれるものではないのだろうか。
 そう考えるルルーシュは知らない。女同士の友情なんて、そんなものである。さすがにキス以上のことをされたり、ルルーシュが蛇蝎のようにジノのことを嫌っているように見えたりしたのならば、シャーリーの態度も変わっていたかもしれないが。ルルーシュに好きな人がいないということも、シャーリーの態度を助長している原因だろう。早く友人にも好きな人ができて、女同士の会話を思う存分楽しみたいという思いは、この世代の少女には決して珍しいものではない。
「むー、慌てて否定するところが怪しい」
「怪しくなどない!」
「じゃあ、そういうことにしといてあげる。でも、デートぐらいはしたでしょ?」
「するわけがないだろう」
 ルルーシュは胸を張って答えた。無駄に誇らしげだ。
 リヴァルは呆れたし、シャーリーはたっぷり十秒の沈黙の後叫んだ。
「してないの!?え、待って、だってじゃあ休日は何してたの!?」
「おれは自分の用事を済ませていた。あいつが何をしていたかは知らん。あれでも一応ラウンズなんだから、仕事でもしていたんじゃないのか」
「でも、恋人なら普通、休みの日にはデートするものじゃないの!」
「そんなこと、おれに聞かれても困る」
「するものなの!うー、そう言えば休日にはデートってことは教えてなかったかも……甘かったわ」
 何やらぶつぶつとシャーリーがつぶやき始める。
「朝も毎日迎えに言ってるみたいだし、お昼もちゃんと誘いに来てるし、女の子ははべらせてないし……うん、教えればジノくん、これもちゃんとやってくれるよね」
「……おい」
 ルルーシュは顔を引きつらせた。つまり、朝も早くから迎えに来て朝食の邪魔をしたり、昼食を毎日一緒に食べたりと、ジノがまったく貴族らしくない行動を取っていたのはシャーリーのせいなのか。
「何話してるの?」
 不思議そうな顔をしたスザクが、リヴァルの後ろから顔をのぞかせたのはちょうどそのときだった。
 ルルーシュは目を見開いて、怒りとはまた別の声を上げた。
「スザク!?おまえ、休学してたんじゃ……」
「うん。でも一番忙しい時期は過ぎたから、復学することにしたんだ」
 にこにこと笑顔で答えるスザクの首に、リヴァルががしっと腕を回して体重をかける。
「おいおい、水臭いじゃねーか。それならそうと、一言連絡でも入れろよ」
「ごめん。でも、前みたいに一年も休学してたわけじゃないんだし、これぐらいなら別にいいかなと思ってさ」
「それ、前も連絡して来なかった人が言うセリフじゃないよ」
「あれ、そうかな?ごめん」
「もういいよ。今度こんなことがあったら、ちゃんと連絡入れてよね」
「分かったよ」
「うん、じゃあ……おかえり、スザクくん」
 シャーリーは温かい笑顔を浮かべて言った。それに続いて、リヴァルも同じことを言う。ここで同じことをしなければ不自然だから、ルルーシュもまた口を開いた。
「おかえり、スザク」
 シャーリーとリヴァルの言葉を聞いたときには笑顔で聞き流していたスザクはしかし、ルルーシュのそれを聞いたとたん、信じられないような目を向けてきた。それから少しして、彼はどこか複雑な顔をして笑って言った。
「……ただいま、ルルーシュ」


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