03

 そしてやって来たキューピッドの日。
 ルールの説明は前もって行われているため、意中の相手がいる生徒たちはやる気満々で鼻息を荒くしている。登校した直後から、数多くの生徒が首を長くして始まりの合図を待っている中で、とうとう始まりを告げる鐘――放送のチャイムが鳴った。
『みなさーん、今日で最後の生徒会長ミレイ・アッシュフォードでーっす!間もなくわたしの卒業イベント、キューピッドの日を開始しまぁーす!』
 校内放送で流れてくるのは、お祭り会長の声だ。イベント概要についてはすでに説明が為されているが、確認として主なルールが繰り返されていく。
「ねえルル、ルルはどうするの?誰かの帽子、奪いに行く?」
 放送の最中、大半の生徒たちと同様に楽しそうな顔をしたシャーリーが話しかけてくる。あの日、ひとしきり怒りを爆発させたことで機嫌は直ったのか、次の日から彼女は普通の態度に戻っていた。
「いや、興味がない」
「もーっ、またルルったらそんなこと言って!いっそのこと、ここでそのメガネ取っちゃったら……」
「ば、馬鹿!やめろ!」
 ルルーシュは慌ててメガネを押さえた。今までなら、メガネを取られても特に問題はなかったのだが、ジノとアーニャがいる前でなるべく素顔を出したくない。特にジノは、公爵家の人間だ。どこで昔のルルーシュを、あるいはマリアンヌを見たことがあるとも限らない。それに、このイベントを前に素顔をさらすのは、どうにも危険な気がする。
 ルルーシュは慌てて相手の気をそらしにかかった。
「しゃ、シャーリーの方はどうなんだ!」
「わたし?」
「そうだ!誰か意中の相手はいないのか?」
「やだぁ、そんなのいないよ。前はいたけど、ブラックリベリオンの後で本国に帰っちゃったし……」
「……そうか」
 かつてルルーシュは、彼女から父親を奪った。そして、友人である自分の記憶も。けれど、奪ったのはそれだけではなかったのだ。そのことを悟って、ルルーシュはそっと視線を伏せた。
 そんなことを話しているうちに、どうやらイベントは開催直前にまで迫っていたようだった。
『……では、スタートの前にわたしから一言』
 スピーカーから、大きく息を吸う音が聞こえてくる。直後聞こえてきた声に、ルルーシュは大きく目を見開いた。
『三年D組ルルーシュ・ランペルージの帽子とメガネを持ってきた部は、部費を十倍にしまぁす!』
「何!?」
 ミレイの言葉に、それまで意中の相手を思い描いていた生徒たちは、いっせいにこちらへ視線を向けてくる。その殺気だった視線の数々にルルーシュは、自分が当事者となってしまったことを理解した。完全に部外者でいられるはずだったのに、と顔を引きつらせていると、隣にいたシャーリーが静かに声をかけてくる。
「ルル」
「シャーリー!」
 すがるような気持ちで視線を向けたルルーシュは、そこにいた友がすでに味方ではないことを悟らずにはいられなかった。
「ごめんね、ルル。部費が十倍になったらね、シャワールームの修繕と新しい飛び込み台の設置ができるの」
「友達を売って部費を得るのか!?」
「会長のところに持っていくんだから、変な人と無理やり恋人にさせられるなんてことはないよ。大丈夫。それに、そのメガネを取るいい機会だよ」
「ふざけるなっ!」
 距離を取ろうとして後ずさるが、シャーリーもまたついて移動してくる。あっと言う間にルルーシュは、壁際まで追い詰められた。ルールでは開始するまで、ターゲットとは二メートルの距離を取らなければならない。しかし、二メートルなんてすぐに縮められるし、ここから逃げられたとしても敵は学園中にいる。体力のないルルーシュはすぐに追い詰められてしまうだろう。ギアスを使えば逃げられるかもしれないが、ラウンズが二人もいる中で使うのは得策ではない。しかしそうなると、どう考えても逃げることは不可能。額を汗が滑り落ちていくのを感じた。
『それでは、スタート!!』
 ミレイの合図に、周りを取り囲んでいた生徒たちがいっせいに突進してくる。ルルーシュもまた駆け出した。体力はないが、瞬発力は悪くないのだ。捕まえようとする手をすり抜けて廊下に出ると、そこにもまた生徒たちが鈴なりになっている。
「勘弁してくれ!」
 そう叫んで、人垣の中へとつっこんでいく。個々人がばらばらになってルルーシュを捕まえようと動いていたために、場は激しく混乱し、どうにか逃れることができた。学園の地図は頭の中に入っているし、人目につかない道、隠れることのできるスペースなども全て把握済みだ。体力でかなわないことは分かりきっているので、その情報を駆使し、知略を尽くして逃亡する。しかしいつまでもそうしていられるわけがない。時間が経つにつれ、生徒たちは部員同士で協力して行動するようになるため、難易度がぐっと上がるからだ。
 そうなる前に、絶対捕まることのない場所へ逃げ込もうとして、ルルーシュは図書室へ走った。姿を見せないことを不審に思われるのなら、咲世子を代わりに出せばいいと思って。
 幸いなことに、図書室の中に生徒の姿はなかった。追跡者もまいてきたため、室内に他の人間はいない。それを確認してから、地下司令部につながる入り口の仕掛けを作動させようとして、入り口のある棚へと向かおうとしたそのとき、不意に後ろから肩を叩かれた。
「ルルーシュ先輩!」
「ほわあっ!」
 ルルーシュは文字通り飛び上がった。驚きのあまり、心臓は喉から飛び出しそうな音を立てている。猛スピードで脈打つ胸を押さえながら振り向くと、丸く目を見開いたナイト・オブ・スリーがいた。
「ヴァインベルグ卿……」
「ジノ、ですよ。先輩。社会的立場は無視してくださいって言ったでしょう」
「ああ、そうでしたね……」
 ルルーシュは安堵の息を吐いた。アッシュフォード学園に属する生徒は皆、何かしらのクラブ活動に参加しなければならないという校則があるが、ジノ以下ラウンズ三名は特別処置として生徒会に所属することでそれをまぬがれている。軍務に差し支えることがないようにという、ミレイの配慮である。だからジノは、部費十倍の言葉に踊らされることはない数少ない安全牌なのだ。
「ではジノさま、あまり驚かせないでください」
「ん?ああ、すまない。そんなに驚くとは思わなかったんだ……じゃない、です」
「それで、何か御用ですか?」
「いや、女の子たちから逃げている途中、先輩がここに入るのを見たから追いかけてきただけで、特に用事はなかったんだけど……」
 貴族にしてラウンズの一員、男らしく整った顔立ちをしているジノなら、それはもう大量の女子に追いかけられたことだろう。先ほどの自分の状況と被らせて、ルルーシュは彼に同情した。
「ジノさまも大変でしたね」
「いや、楽しかったからかまわない。庶民というのはおもしろいな」
「……お願いですから、変な誤解をしないでください。庶民が皆こんなことをしているわけではありません」
「そうなのか……じゃない、そうなんですか?」
「そうなんです。ところでジノさま、敬語、使いづらいんでしょう?普通に話したらいかがですか?」
「でも、先輩には敬語を使うのが普通だって聞いたから……」
「そうじゃない後輩もたくさんいますよ」
「そうなのか。なら、そうさせてもらおう。実は、敬語なんてめったに使わないから、窮屈でたまらなかったんだ」
 その言葉に、ルルーシュは目を細めた。
 めったに使わないというのも、ジノの身分を考えれば嘘ではないだろうが、彼自身気付いていないだろう理由がおそらくもう一つある。格下の庶民相手に敬語を使うことに、無意識かの抵抗があるのだ。どれだけ気さくでおおらかに見えようと、ジノはしょせん貴族だ。社会的立場は無視するようにと言っておきながら上から目線を崩さないところや、言葉の端々に見られる庶民という言葉が、ジノの身に貴族というものの性質が見に染み付いていることを感じさせる。ルルーシュが嫌いな、貴族というものの傲慢さを。しかしジノの態度は傲慢さと同時に、無邪気さも感じさせた。そう、まるでユーフェミアのように純粋で、愚かで、それなのにどうしようもなく愛おしいあの性質を――この手で殺した義妹のことを思い出して、ルルーシュはそっと視線を伏せた。
「……すみませんが、用がないのならそろそろ手を離してくれませんか?」
 声をかけられたときから、ルルーシュはジノの手に肩をつかまれたままだった。他の生徒相手なら邪険に振り払うこともできるが、さすがにラウンズ相手にそれはできない。
「いや、用ならある」
「ですが先ほど、特に用事はなかったとおっしゃっていましたよね」
「ああ。なかったけど、ついさっきできた」
 ジノはそう言って、ルルーシュのメガネをさっと外した。視界が一気にクリアになる。
「あっ」
「やっぱり。驚いたときの声が同じだったからもしかしてと思ったんだけど、屋上で会った彼女、先輩だったんだ」
 ばれた理由が馬鹿らしすぎる。そんなことで変装がばれるとは、とルルーシュは顔を引きつらせた。
 この反応を見る限りどうやらジノは、マリアンヌの姿とも子どもの頃のルルーシュとも、今のルルーシュを結び付けていないようで、それだけが救いである。
「あの、返してください」
 メガネを取り返そうと手を伸ばすが、頭一つ分以上高いジノが頭の上に持ち上げて光にかざしているせいで、指先すらかすめることができない。
「んー、このメガネ、度が入ってないな。先輩、どうしてこんな無粋なものをかけてるの?」
「いい、からっ……返してください、ってば!」
「あはははは、やーだよー、だ!」
 ジノは楽しそうに笑いながら、必死になってメガネを取り返そうとするルルーシュから逃げ回っている。運動神経も体力も足の長さもかなわない男をどれだけ追いかけまわそうと、相手につかまってくれる気がない限り、捕らえられるはずがない。罠を仕掛ける時間があったり仲間がいたりしたならば話は別だが、そのどちらも今はない。ここまでの逃走劇で疲れ切っていたルルーシュは、早々に諦めて足を止めた。
「もう、いいです……」
 どうせ地下司令部に逃げこめば、素顔を見られることもない。さっさとジノにこの場から立ち退いてもらって、誰かに見つかる前に逃げ込んでしまえばいいだけのことだ。
 そう思っていたのに、ジノはそのまま立ち去ってくれることはなく、不思議そうな顔でこちらへ近づいてくる。
「あれぇ、怒った?」
「いいえ。呆れているだけです」
 足を止めたとたん逃げるのを止めるなんておまえは犬か!とつっこみたくなるのをこらえて、ルルーシュはため息を吐いた。
「用はもう済んだんでしょう?メガネの一つや二つ諦めますから、どうぞ外に出て、このイベントを心行くまで楽しんでいってください。こうしたイベントはほとんどが会長発案のものですから、彼女が卒業してしまうと、もう二度とこんな機会はないかもしれませんよ」
「うーん、それは困るなぁ」
「なら」
「それならわたしは、わたしなりにこのイベントを楽しませてもらおう」
 そう言って、ジノはいたずらっ子のような笑みを浮かべると、すばやい動きでルルーシュと自分の帽子を取り替える。そしておもむろにルルーシュのことを抱き上げたかと思うと、そのまま走り始めた。いわゆるお姫様抱っこである。
「ちょ、あ、なっ!?」
「あはははは、何言ってるのか分からないよ」
「は、離してください!」
「聞けないなぁ。それより先輩、暴れると落ちるよ」
 ジノがそう言うと同時に、背中を支えていた腕が離れる。
「ひっ!」
 ルルーシュは反射的にジノの首にしがみついた。
「そんなにしがみつかなくても落とさないって」
「う、嘘だ!今、腕……!」
 からかうような顔をしているジノに食ってかかるが、彼は楽しそうに声を上げて笑うばかりだ。
 そうこうしているうちに、二人は人が群がる校庭までやって来ていた。その中に知り合いの姿を見つけて、ジノが大きく声を張り上げる。
「あ、ミレイ!」
「あら、ジノと……ルルーシュ」
 その呼びかけに周囲が凍り、直後盛大な驚き声が上がったが、喧騒の真ん中にいる三人は気にしなかった。
「あんた、また意外な人につかまったのね」
「誰のせいだと思ってるんですか!」
 ジノの腕の中から、ルルーシュはとっさに反論した。この状態は半分以上自業自得だが、責任の一端はミレイにもある。彼女が妙なことを言い出さなければ、部費十倍という餌に釣られた生徒たちの襲撃を受けることもなく、そして襲撃を受けることがなかったら図書室へ逃げ込む必要もなく、ジノに遭遇することもなかったのだ。
 恨みがましい目でにらみつけるが、ミレイはにんまりと笑うばかりである。それが無性に気に障って、文句を言おうと口を開きかけるが、その前にミレイはジノに話しかけていた。
「帽子を交換しているところを見ると、わたしにその子の帽子とメガネを献上してくれるわけでは……ないのよね?」
「もちろん!これでわたしは、ルルーシュ先輩と恋人同士になれるんだろう?」
「それがルールだからね。でも、ルルちゃんはあまり色事には慣れてないんだから、無理強いしちゃ駄目よ」
「そんなこと言うぐらいなら、この馬鹿げたルールを取り消してください!!」
「だぁーめ!」
 そう言って悪戯っぽく笑ったミレイは、直後真面目な顔になって言った。
「ねえルルーシュ、せっかくの学生生活、もう少し楽しみなさい。せっかく美人なのに、そんな野暮ったいカッコして過ごして……目は悪くないんだから、メガネなんて必要ないでしょう?」
 ナナリーのことも、ルルーシュが皇族だったことも忘れているミレイが、そう言う気持ちも分からないではない。今のルルーシュに、変装をする理由などどこにもないのだから。しかし、こんな方法じゃなくても良かったのではないだろうか。
「ロロのことばっかりかまってないで、少しは自分のことも省みなさい。生徒会長からの最後の命令よ!」
 良いことを言っている。ものすごく良いことを言っている。思わず流されてしまいそうになるが、ルルーシュは現状を忘れていなかった。
「それは善処しますが、だからって……!」
「シャーラァップ!ジノなら下手な男と違って、無理強いしたりはしないだろうから、とりあえず付き合ってみなさい」
「そうそう、わたしは紳士だからね。優しくするよ、先輩」
 ジノはそう言ってウィンクしてくる。ルルーシュは顔を引きつらせた。
「男避けにもなるし、ちょうどいいじゃない」
「わたしの先輩に手を出す輩には、トリスタンでお相手しよう」
「美男美女で、見た目もつりあってるし?」
「はは、ありがとう、ミレイ。ところで庶民の恋人たちってのは、どんなふうに過ごしているんだ?」
「うふふ、そうねー……」
 勝手に話を進めていくミレイとジノに向かって、ルルーシュは声を張り上げた。
「おれの意思を無視しないでください!!」


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