今日もまた、ガラスを叩く音がする。一日が経ったのだ。ジョミーはゆっくりと目を開けて、去って行く白衣を着た男の背中を見送った。閉じていた入り口の扉が開いて、男がそこから出て行った後にまた閉じて、部屋の中はいつもどおりの空間に戻る。それを確認した後、ジョミーはきょろきょろと前後左右に首をめぐらせて、落胆から深いため息を吐いた。
(今日も、――は来ない……)
――が来ないと、相手をしてくれる人間がいないジョミーには、一日が退屈でたまらない。そして退屈だけでなく、ひどい寂しさをも感じる。――以外、ここにやって来る者たちの目はひどく無機質で、温かさなどどこにもないからだ。また、――以外の者たちと話す手段を、ジョミーは持っていない。話すことができれば少しは寂しさも紛れようが、誰も――のように、心の中で話すだけのジョミーの言葉を聞き取ってはくれないから、それは無理な話だった。
水槽のガラスに額をもたれかけると、こつんと小さな音がする。その音に気付いたのか、向かいの水槽に入っている少年がふとこちらを見た。相手は何の反応も返してくれないと分かっていたが、だからと言って同じ境遇の相手を無視することもできない。ジョミーは彼に向かってへらりと笑いかけた。すると、いつもなら何ごともなく視線をそらされて終わりのはずなのに、少年はジョミーに向かってぎこちなく笑いかけてきたのだ。
ジョミーが驚きに目を見開いている間に、少年はいつもと同じ無感動な顔に戻るが、いつもとは違う反応が返ってきたことがうれしかった。目が合うたび、笑いかけてきた努力がようやく報われたのだ。――は来なかったけれど、そのことだけで今日はいい日だったと思えた。向かいの水槽にいる彼とは話すことはできないけれど、こんな境遇にいる人間同士、少しでも仲良くなることができたらいいと、そう思った。
◇ ◇ ◇
他にすることがないので、いつものようにうつらうつらとまどろんでいると突然、待ち望んだ声が頭の中に直接聞こえてくる。
『ジョミー』
(――!)
ジョミーは心の中でその人の名前を呼びながら、慌てて目を開けた。すると水槽の分厚いガラス越しに、大好きな人の姿が見える。目が合うと、その人はふわりと優しげに微笑んで口を開いた。
『久しぶりだね、いい子にしていたかい?』
穏やかな口調で問いかけてくるその人に、ジョミーは拗ねた顔をして、心の中で食ってかかる。
(――、ひどいよ!一ヶ月も来てくれなくて、僕暇だったんだから!)
『ああ、すまないジョミー。そんなに怒らないでくれたまえ』
久しぶりに会えたのはうれしい。けれど、この一ヶ月の間退屈でたまらなかったことを思い出すと、いくら困ったような顔で宥められても怒りを静める気にはなれなかった。
(やだ、――なんか知らない!)
『僕の太陽、お願いだから機嫌を直して』
(知らないもん、――の馬鹿!)
ジョミーがそう言ってつんと顔を背けると、――はほとほと困りきった顔になる。
『ジョミー……』
情けない顔で名前を呼んでくる――をちらりと横目で見ていると、ジョミーは自分の中の怒りが勢いを無くしていくのを感じた。忙しい彼が会いに来てくれるのを喜びこそすれ、怒る権利なんてないのは分かっている。――は、本当はこの場所に来ることなんてできないはずなのに、無理をしてジョミーに会いに来てくれているのだ。それは分かっているから、八つ当たりをするのはこれぐらいにして、妥協案を出すことにした。
(……外のこと、いっぱい教えてくれたら許してあげる)
『ジョミー!』
とたん、喜びを満面にたたえてこちらを見つめてくる――に、ジョミーは無理やり不機嫌な顔を作ってぷいと横を向く。
(教えてくれたら許すって言っただけで、まだ許してなんかないんだから)
ジョミーがわざと尖った態度を取っているのなんて見通しているように、ブルーは優しい目をしてジョミーを見つめながら言う。
『ではジョミー、君に、僕が見てきた外の光景を見せよう。さあ、手を合わせて、僕に心をゆだねて……』
ガラスの向こうにある――の大きな手に、自分の手を重ねるようにガラスに触れる。そうすると、不思議なことに頭の中に知らない光景が入り込んでくる。
――が見せてくれるこの光景が、彼が教えてくれる外の知識が、そして――自身のことが、ジョミーは大好きだった。
◇ ◇ ◇
今日はもう眠りすぎたせいでこれ以上眠ることもできず、ジョミーは退屈していた。――が来てくれないかと思うが、そう都合よく来てくれるわけがない。ふと、向かいの水槽の中で漂っている少年と目が合った。
(暇だよー!)
八つ当たりをするように心の中で叫ぶが、やはり――とは違って聞こえないのだろう、不思議そうな顔をしている。それがつまらなくて、ジョミーが不満にうなっていると、少年は困ったように少し眉根を寄せる。初めて笑顔を見た日から一年程度の月日が経っているが、相変わらず表情の動きが少ない。けれど昔よりはずっとマシだ。ほとんどの時間を無感動な瞳で過ごしている彼は、ジョミーと目が合ったときだけだが、ほんの少しだけ感情を動かす。この退屈な日々の中では、たったそれだけのことでもうれしい。
(ねえ、君の名前は?)
通じないのは分かっているけれど、ジョミーは少年に向かって心の中で話しかける。他にすることがない今、無駄と分かっていても、少しでも反応を返してくれる相手に話しかけずにはいられなかった。
案の定、少年は困ったような顔をするだけだったけれど、それでも何の反応も返ってこないよりはずっとマシだった。
(君は誰?)
◇ ◇ ◇
目が覚めると何故か、空の上に浮かんでいた。
(は?)
状況が理解できなくて、ジョミーは何度も目を瞬かせながら周囲を見渡す。
(外……?何で?って言うか、ここどこ……?)
しばらくの間困惑していたジョミーだが、ずっとあの水槽の中にいた彼女にとって、初めて見る外はあまりに魅力的で、すぐに困惑を忘れてしまう。――には、何度も外の光景を見せてもらったけれど、実際に見るのとではまるで違う。
(すごいすごい、ビルってこんなに高いんだ……人間が豆粒みたい!)
空に浮かびながら、近くに建っている建物の高さに呆気にとられ、その遥か下の地面でうごめいている人の姿の小ささに驚嘆する。そうしてしばし外の世界を堪能していたジョミーだが、ふと、ぴたりとある方向に視線を固定する。高層マンションの一部屋。何故かそこに気を引かれて、ジョミーはふらふらと近づいていく。
ベランダに足を下ろして中を覗き込むと、床に座り込んで絵本を眺めている子どもの姿が見えた。じっと見つめていると、子どもは視線に気付いたのか顔を上げてこちらを見る。
「誰?」
(僕?僕はジョミー)
話しかけてから、声に出さない自分の言葉が――以外には通じないのだということを思い出して、ジョミーは寂しさに瞳を揺らした。けれど子どもは、にこりと笑って言った。
「ジョミーって言うの?僕は――」
◇ ◇ ◇
『……みー……じょ……』
どこからか声が聞こえてくる。
『ジョミー……ジョミー、平気かい?』
目を開けると、――が心配そうな顔をしてジョミーのことを見つめていた。どうしてそんな顔をしているのか分からず、ジョミーは首を傾げていたが、しばらくして何があったのか思い出した。
何故かは分からないが気付いたら外にいたジョミーが、そこで出会った子どもと少し話をしていたら、その途中で突然――がやって来たのだ。――は最初、ジョミーに向かって心配したとか探したよとかいうようなことを話していたが、ジョミーと話していた子どもの存在に気付くと驚いたように目を見開いて、子どもに向かって話しかけ始めた。そしてしばらくの間、――は子どもを説得するように話をしていたが、何か言葉選びに失敗したようで子どもを怒らせてしまったらしかった。そこまでは覚えている。けれどそれからどうなったのか分からない。いつの間に、この水槽の中に戻ってきたのかさえ記憶にない。
(ねえ――、何があったの……?)
問いかけると、――は苦い顔になる。
『……弾き飛ばされた。僕より力は弱いのに、思いの力で、彼はそれを補った』
(……?)
何を言っているのかよく分からなくて、ジョミーが首を傾げていると、――は苦笑した。
『それよりジョミー、――が使えるようになったのかい?』
(――?何それ?)
『だって、思念体で外に……ああ、無意識だったのか……言われてみれば、君の力は確かにまだ眠ったままだね……思念体で外に出ることができたのは、退屈だと思うあまり、まだ眠ったままの力が感情に呼応してわずかに発露した、というところか……』
――が何を言っているのが分からなくて、ジョミーが無言でぶすくれていると、それに気付いた――が困ったように笑う。
『ああ、すまない。無視していたわけではないんだ』
(それなら別にいいんだけど)
ぶすくれながらもジョミーがそう言うと、――は急に黙り込んだ。どうしたのかと思って、ジョミーが不安に瞳を揺らしていると、――は苦しそうな顔で口を開いた。
『ジョミー……君に話さなければならないことがある』
(何?)
『成人検査のことは、前に話したことがあったね?』
(うん)
『君も、あと少しで十四だ。成人検査の年になれば、君はここから出て、おそらくこのステーションでエリートとして生活を送ることになる。ここにあるのは機械への妄信、そして従順……君には、ここでの生活はつらいものになるだろう』
そう言って、――はくしゃりと綺麗な顔を泣きそうに歪める。
『本当は、今すぐこんな場所から君を連れ出してしまいたい……けれどそれは無理だから、せめて……鍵をかけるんだ……心に強く鍵を……本当の僕が、君を迎えに行くその日まで……僕のことも僕が教えたことも、君が――なのだということも全て心の奥底に封じ込めて、鍵をかけなさい。いつかきっと、思念体なんかじゃなく、生身で君に会いに行く。だから……』
◇ ◇ ◇
夢から覚めるたびにジョミーは思う。これは、本当に夢なのだろうか、と。