誰かが立てる足音。それは決して大きなものではないはずなのに、この静寂の中では意外なほど大きく響く。その証拠にその音は、今の今までゆったりと眠りの淵をたゆたっていたジョミーを現実に引き戻した。もっとも眠っていたと言っても、他にすることが何もないここでは、一日中眠るかぼんやりするか以外することなど何もない。今日は少し眠りすぎた。そのせいで今はひどく眠りが浅い状態だったため、もしかしたらそれは別に足音の大きさを証明するわけではないのかもしれないが。
それはともかくとして、その足音は一定の間隔でこちらに近づいてくるのが分かった。――が来たのかもしれないと思って、ジョミーは期待に瞳を輝かせながら目を開く。眼球に触れるのは空気ではなく、少し粘性のある液体の感触。けれどそれは常のことであるから、ジョミーは特に気にすることもなく、足音が聞こえてくる方向に視線を向けた。
そしてとたんに落胆する。見えたのは、白衣を着た無表情の研究者の姿。ジョミーがその来訪を心待ちにしている人の姿ではない。
気落ちして視線を落としているジョミーにかまわず、その男はこちらに近づいてくると、ジョミーを閉じ込めている水槽の分厚いガラスを軽く二度叩く。一日に一度、二度ずつ誰かがガラスを叩く。決まって繰り返されるこの習慣だけが、ここから外に出ることのできないジョミーが時間の流れを知ることのできる唯一の方法だった。
心の中で、待ち望む人の名前を呼ぶ。けれど返事は返ってこない。――は忙しい人だから、ずっとジョミーにばかりかまっているわけにはいかないのだと、頭では分かっている。けれど、前に会ってからもう半月以上経っているのだ。
(……つまんない……)
そう思ってため息を吐くと、口から漏れた空気がこぽりと泡となって上っていく。それを見るともなしにしばらく眺めた後で、ジョミーはそっと目を閉じた。
◇ ◇ ◇
目覚まし時計のアラームが聞こえてくる。毎朝のように、その音によってジョミーは覚醒した。目を開けると、見慣れた自室の天井が見える。
「……ゆ、め……?」
横たわったまま、ジョミーはぽつりとつぶやく。
(あれが、夢……?)
信じられない。そんな思いに縛られて、ジョミーは瞬きすることも忘れて、ぼんやりとした瞳で空を見つめ続ける。
あの足音も、ジョミーを閉じ込めていた水槽も、そこに満ちていた液体の感触も、分厚いガラスを叩く音も、その全てが夢とは思えないほどのリアルを伴っていたというのに、あれは全て夢なのだろうか。けれどそう思うと同時に、あれが現実であるわけがないとも思う。あんな場所に人間が閉じ込められるなんて、それは決して許されることではないはずだからだ。
それでも、常識はそう判断するのに何故か、あの夢がただの夢だったのだとはジョミーには思えなかった。
それは、ジョミーがセキ・レイ・シロエと出会った翌日のことだった。
◇ ◇ ◇
授業が終わった後、ジョミーはいつものメンバーと一緒にカフェに向かっていた。何か甘いものでも食べようということになったからである。その道のりで、ジョミーがあくびを噛み殺していると、隣を歩いていたスウェナが聞いてきた。
「ねえジョミー。貴方最近ずっと眠そうにしてるけど、どうかしたの?」
「んー……ここんとこずっと夢見が悪くて……なんかさ、水槽の中に閉じ込められている夢を続けて見るんだ」
「水槽?」
「そう。それでそのせいで、あんまり眠れてないんだよね……」
妙な現実感を伴ったあの奇妙な夢の中で、ジョミーはずっと誰かが来るのを待っている。それが誰なのか、夢の中のジョミーは知っているのに、起きたら名前どころかその人がどんな姿をしているのかさえ思い出すことができない。夢とは思えないぐらいリアルなのに、それは一体どうしてなのだろうか。そしてどうして、もう何週間もずっと同じ夢ばかり見続けるのだろう。
「あまりひどいようだったら、睡眠薬を処方してもらったら?このままじゃ、授業に差支えが出てしまうわ」
「うーん……」
薬は嫌いなので、ジョミーが返事を渋って話をごまかそうとしていると、スウェナはそれに気付いたのか目を険しくする。しかしスウェナのお説教が始まる前に、サムが別の話題を提供してきた。
「なあ、宗教学総合理論のレポート、皆もう出したか?」
「サムったら、まだ出してなかったの?期限は明日なのよ」
説教の矛先がサムへ向けられたことにほっと胸を撫で下ろしたジョミーだが、ふと嫌なことに気付いた。
「いや、あと少しで完成するから、もう書いたなら意見を聞きたいなあと……」
「レポートは自分の力で仕上げるものだ」
「キースの言うとおりだわ。まだ一日あるんだからがんばりなさい」
まだ何か言おうとするスウェナをさえぎって、ジョミーは恐る恐る口を開いた。
「ねえ……宗教学総合理論のレポートって、明日提出だったっけ?」
「そうだけど……まさかジョミー、貴方……」
「そのまさか。忘れてた……うわー……」
いくら夢見が悪くて寝不足だったからといって、普段ならありえない失態だ。レポートはいつも、出されてすぐ書くようにしているのに。ジョミーはため息を漏らしながら言った。
「仕方ない、おやつは諦めるよ……今から図書館にこもってくる……」
使えそうな資料を背表紙だけで半ば直感的にいくつか選んだジョミーは、それを手に空いている机を探すことにした。しかし、なかなか空いている席がない。しばらくさまよっていると、何やら本を読んでいるシロエの姿が見えた。
「シロエ、隣座ってもいい?」
近づいて声をかけると、彼は不機嫌そうな顔をして視線を上げた。しかし、そこに立っているのがジョミーだと知ると、表情から不機嫌さを即座に拭い去り、代わりに困惑したような顔になる。何故そんな顔をされるのか分からず、きょとんとした顔で立ち尽くすジョミーに、シロエは挨拶を寄越した。
「ジョミー……久しぶりですね」
「うん、久しぶり。で、隣、いいかな?」
ジョミーが小首を傾げて問いかけると、シロエはますます戸惑ったような顔になる。それを見たジョミーは馴れ馴れしすぎただろうかと少し不安に思った。初めて会って以来、キースは何度かシロエと顔を合わせているらしいが、ジョミーはこれでまだ二度目だ。しかし、シロエは結局首を縦に振った。
「……どうぞ」
「ありがとう」
ジョミーはにこりと笑って礼を述べ、机の上に持っていた本を載せてからシロエの隣に着席した。
「そう言えばシロエ、キースの成績抜いてやるって宣言してるのって、本当?」
つい最近、サムが憤りながら言っていたことを思い出して尋ねると、シロエは一瞬眉根を寄せた後、開き直るようにして口を開いた。
「本当ですよ。それが何です、僕なんかに大切な恋人の成績が抜けるはずがないと文句でも言いに来たんですか?」
「まさか!」
ジョミーは驚きに目を見開きながら首を横に振った。そんなことをジョミーが言うと思っていたから、シロエは変な顔をしていたのだろうか。別にジョミーはキース信仰者でもなんでもないのだから、わざわざそんなことをしたりしない。ジョミーはただ純粋に、シロエが本当にそんなことを言ったのか気になったから尋ねただけだ。
「何で文句なんか言わなきゃいけないのさ。キースもいい競争相手ができて、張り合いが出るよ、きっと」
「いい競争相手って……貴方はそうじゃないんですか?」
「僕?」
きょとんと目を見開いたジョミーは、やがてからからとそれを笑い飛ばした。
「無理無理、僕はやる気ないから。勉強は嫌いなんだ。それとシロエ、君、勘違いしてるよ」
「勘違い?」
「僕とキースは恋人なんかじゃないよ。皆よく勘違いするんだよね。ずっと否定してるのになあ……」
ジョミーにとって、キースは大切な友人だ。それ以上でもそれ以下でもない。母親がいたらキースみたいだったのかと思うことはあっても、女のジョミーがまさかそれを恋と勘違いするようなことはない。万が一、男だったら話はまた別だったかもしれないが。それなのに周りは何故か、ジョミーとキースが付き合っていると勘違いするのである。いくら否定しても、キースがあからさまにジョミーのことを特別扱いしているので、よほど仲良くしている友人たちしか、付き合っているわけじゃないというジョミーとキースの言い分を聞いてくれないのだ。
「何でって……だって、キース先輩、明らかにジョミーにだけ優しいじゃないですか」
「キースは別に僕だけに優しいわけじゃないよ」
ジョミーは本気で言ったのだが、シロエは妙なものを見るような目を向けてくる。シロエの気持ちも分からないではないので苦笑した。キースは皆が思うような冷血人間ではなくて、ちゃんと優しいところもあるのだが、それを表現するのがものすごく下手だ。皆が誤解しても無理はないということをジョミーは事実として正しく理解している。
「まあ、キースは分かりにくいからね」
肩をすくめながらジョミーがため息混じりに言うと、シロエはジョミーの長い髪の毛を見て口を開いた。
「では、髪の毛の件は?貴方は、あの人のために髪を伸ばしていると聞きましたが……」
「うわあ、懐かしい。何年前の話だよ、それ……あれは、ああ言ったらいくら朴念仁のキースでも少しぐらい慌てるか何かするかなーと思って言ってみただけで、それ以外別に意味はなかったんだよ。しかも結局、いつもどおりの反応しか返ってこなくてつまらなかったしなあ……大体シロエ、よく考えて見てよ。キースだよ?マザー・イライザの申し子とまで言われてるキースだよ?恋をしたり家庭を持ったりするのは、一般コースのコモンに任せておけばいいとまで言う奴だよ?そのキースが、誰か特定の子と付き合ったりすると思う?」
「思いませんけど……そんなこと言ってもいいんですか?恋人ではないにしても、キース先輩とは友達なんでしょう?」
ジョミーのあまりの言い様に、シロエは皮肉げに口角を吊り上げて尋ねてくる。それに対して、ジョミーは肩をすくめて答えた。
「僕は事実しか言っていない。キースのことは好きだし友達だと思ってるけど、ああいう割り切りすぎたところは嫌いだ」
嫌いときっぱり言い切ったことに驚いてか、シロエが大きく目を見開く。ジョミーがそう言ったことは、そんなに意外だっただろうか。人と付き合っていれば、嫌いなところの一つや二つ必ず出てくるのは当たり前なのに。
「あと、マザーに従順すぎるところもね」
ジョミーはそう締めくくって、レポートに取り掛かろうとして目の前に積んだ本に手を伸ばす。すると、適当に積んでおいたのが悪かったのか、本の山はバランスを崩して倒れ、シロエの前のスペースにまでなだれ込む。
「あ、ごめん」
慌ててそれらをかき集めて元に戻そうとしたジョミーは、何度目かにつかんだものが、自分が持ってきた本ではないことに気付いて首を傾げた。それは、一冊の古びた絵本だった。
「何これ……『ピーター・パン』?」
「っ……返してください!」
ジョミーの手からひったくるようにして、シロエはそれを奪った。いつもの余裕ぶった態度とは大違いの、感情的な態度だ。ジョミーが驚いて目を見開いていると、シロエははっと正気に戻って気まずそうに謝罪してくる。
「……すみません。大切なものなので、つい……」
「いや、いいけど……それ、シロエの私物?どんな話?」
「知らないんですか?子供向けの話の中でも、かなり有名なものですよ?あらすじを聞いたことぐらいはあると思うんですが……」
ものすごく怪訝そうな顔をしたシロエが見つめてくる。ともすれば馬鹿にしているような響きを伴ったそれを気にすることなく、ジョミーは曖昧に笑って言った。
「昔は知ってたのかもしれないけど、少なくとも今は知らないなあ……僕、成人検査以前のこと何も覚えてないから」
驚愕に、シロエは目を丸くする。
「嘘でしょう?」
「本当だよ。一般常識とかは頭に入ってたけど、それ以外は何も覚えてないんだ。でも、普通は何か少しでも覚えてるものらしいね。今のところ、昔のこと全部忘れてるお仲間はキースぐらいしか見つかってないからなあ……でも、何も覚えてないのは同じなのに、キースは僕みたいに過去にこだわったりしない……思い出したいなんて、絶対言わない……僕だって、理屈では分かってるんだ……でも、どうしても納得できない」
「っ……そんなの当たり前です!」
悲しみのため泣きそうに顔を歪めるジョミーに向かって、シロエは声を荒げた。
「大切な記憶を思い出したいと思って何が悪い!僕だって、忘れたくなんてなかった!父さんのことも母さんのことも、全部覚えていたかった……!!」
「シロエ……」
「それなのに……今はもう、顔も思い出せない……っ」
泣きそうな顔でうつむくシロエの肩をそっと抱き寄せて、抱きしめる。機械に支配されたこの暮らしの中で、初めて会った同士を慰めるために。大丈夫だとも、きっといつか思い出せるとも、そんな不確かな気休めを言うことなんてできないから、ただ黙ってジョミーはシロエを抱きしめた。それだけしかできないということが、もう四年近くこの中で生きてきたジョミーには分かりきっていた。