教育ステーションE-1077 安心する

「……う……っ……」
 朝、いつものように目覚まし時計のアラーム音で目を覚ますと、やけに体が重かった。
(昨日何かあったっけ……?)
 昨日あった出来事を脳内で振り返りながらジョミーは体を起こす。
(授業は別にいつもどおりだったし……マザー・イライザからコールを受けるのも、僕は問題児だから日常茶飯事だ……)
 くっと口元に皮肉げな笑みを刷いていると、こめかみを冷や汗が伝い落ちる。
 大切な記憶を失いたくなかった、過去を思い出したいと願うことが、どうしていけないことなのか。テラの未来のために必要なことだと言われれば、頭は納得する。けれどどうしても、心が納得してくれない。忘れたくなかった、覚えていたかったと強く訴えてくる。たった一つの言葉以外、その他には何一つ過去のことなど覚えていないと言うのに、不思議なことだ。覚えてもいない過去を思い出したいと望んでしまうのは、やはりジョミーが子供だからなのだろうか。
 キースもジョミーと同じで、この教育ステーションに来る前の記憶を持っていないけれど、いつまでも過去にこだわるジョミーとは違って、未来に向けてのしっかりとしたヴィジョンを持って先へと進んでいる。他の生徒たちだって、ジョミーのようにいつまでも昔の記憶にこだわっている人間なんて、一人もいない。多分それが、大人になるということなのだろう。けれどそんなものが大人だと言うのならば、ジョミーは大人になんてなりたくなかった。
(頭……痛いな……)
 刺すような痛みを訴えてくる頭を抱えて、ジョミーはベッドの上で丸くなる。汗をかいているせいで、長い髪が顔や首筋にぺたりと張り付いてうっとうしい。腰ほどまでもあるこの長い髪を、周囲の皆は綺麗だの何だのと褒めてくれる。これだけ長く伸ばしていたということは、昔の自分はそれなりに髪に思い入れがあったようだが、今のジョミーには全くそんな気が湧いてこない。こんなに長い髪なんて洗うだけでも一苦労だし、汗をかくと肌に張り付いて気持ち悪いし、運動するときには邪魔なだけだ。
「今度の休みに、短く切りに行こう……」
 そう言って、いつまでも寝ているわけにもいかないので、ジョミーは普段の元気さからは考えられないほどのろのろとした動作で服を着替え始めた。



 入学してから一ヶ月も経つと、一緒に行動する人間も決まるが、食堂や教室でどの席に誰が座るかというのも大体決まるものである。いつもの二倍以上の時間をかけてジョミーが服を着替え終えた後、頭痛をこらえて食堂のいつもの席に向かっていると、すでに席に付いているキースたちの姿が見えた。いつものジョミーなら、それを見たとたん三人のところへ鉄砲玉のような速度で走りよって行っただろうが、今の体調でそんなことをしたら絶対に倒れると分かっていたので、ジョミーはのろのろと歩いてそちらに向かった。
「……おはよう」
 どこか硬い表情の三人に声をかけると、彼らは弾かれたように振り返る。
「ジョミー!おい、大丈夫か!?」
「昨日はどうしたの?就寝時間ギリギリまでラウンジで待ってたけど帰って来なかったから、心配したのよ?」
「……何かあったのか?あの発言をSD体制に対する批判と取られて、マザーに罰でも受けたか?」
 三者三様、心配そうな顔で話しかけてくる三人に向かって気だるげな動きで首を傾げて、ジョミーはぽつりと言った。
「……そう言えば僕、どうやって自分の部屋まで帰ったんだっけ……?」
 いつになく精彩を欠いてぼんやりした様子のジョミーを見て、キースたちは顔を見合わせている。それに気付くことなく、ジョミーはテーブルに着くとずるずるとその上に倒れこんで、大きなため息を吐いた。
「……別に、マザーの呼び出しはいつもと変わらなかったよ……いつもと違うと言えば、簡単な検査をするとか言われたぐらい……何の検査したのか全然覚えてないけど……そんなのより、頭痛い……」
 いつもと比べておかしなぐらい元気がないことに気を取られていたせいでこれまで気付かなかったのか、キースたちはここに来てようやくジョミーの顔色が最悪なことに気付いたようだった。
「今日は休んだ方がいいんじゃないのか?」
「ノートなら後で貸してやるから、今日は寝てろって。な?」
「そうよ、教授には私たちから説明しておくわ」
「……嫌だ。だって今日は最後の授業、徒手格闘訓練じゃないか……体動かす授業少ないのに、体調不良なんかで休んだらもったいない……」
 血の気の引いた顔で、それでもきっぱりと言い切るジョミーを見て、三人は困ったように顔を見合わせた。



◇ ◇ ◇



 訓練ルームで、徒手格闘訓練の教官が今日の授業についての説明をしている。朝よりは体調も幾分マシになったジョミーがぼんやりとそれに耳を傾けていると、斜め後ろにいるサムからこそこそと声をかけられた。
「おい……なあジョミー、やっぱりこれ、休んだ方がいいんじゃないか……?」
「嫌だ。出る」
 ジョミーが強情に首を横に振って拒否していると、今度は隣にいたスウェナが心の底から心配そうな顔で言う。
「でも、今日の授業、対短剣訓練で本物の短剣を使うって教授が言ってるわ……そんなにふらふらしてるのに、怪我したらどうするの?」
「しないから大丈夫。前に木刀でやったときは、一撃も喰らわなかったし心配いらないよ」
 最後に真後ろにいるキースが、ジョミー自身の体調云々の問題ではジョミーは折れないと判断したのか、もっともなことを口にする。
「お前が怪我をするだけならいいが、ペアを組んだ相手に怪我をさせたらどうする」
「じゃあ、キースがペアになってくれればいいだろ……キースなら、ふらふらになってる僕の短剣ぐらい簡単に避けられるだろ」
「それはそうだが……」
「じゃあこれで決まり」
 が、ジョミーの方がキースより一枚上手だった。ジョミーが強情で、一度言い出したら意見を曲げないのはいついものことだ。キースは仕方ないとでも言いたげなため息を吐いて、それ以上何か言うのを諦める。
 やがて、教官が見本の型を見せた後、二人でペアを組んで練習に移るように告げる。ジョミーが動く前に、キースは短剣を一本取りに行って戻ってくると、訓練ルームの端へとジョミーを引っ張っていく。普段のキースは場所なんかにこだわる人間ではないから、ふらふらのジョミーが他のペアとぶつかったりしないようにとの配慮なのだとすぐに分かった。その気遣いがうれしくて、ジョミーが青ざめた顔色のままふにゃりと笑っていると、それに気付いたキースは何だか奇妙なものでも見るような視線を向けてくる。
「……何?」
「いや……何も……どちらが先に剣を持つ?」
「……キースが取りに行ってくれたんだし、キースでいいんじゃない?」
「そうか。では、ちゃんと避けろよ」
「ん」
 ジョミーが頷くと、キースは腕を放して少し距離を取る。ジョミーが構えているのを見ると、キースも短剣を構えて、行くぞと一言短く告げると手に持ったそれをジョミーの首目がけて突き立てるように動いた。体調は最悪でも、体を動かすことは大好きなジョミーである。他のペアたちよりもずっと滑らかに、キースの攻撃を受け流して短刀を取り押さえるところまでの型を、対順手突きのみならず様々な型をこなしていく。
 本物の短剣を手にするのがこの授業で初めてとは思えないほど流麗な動きを見せるジョミーとキースのペアは、訓練ルームの一番端にいるにも関わらず、あっと言う間に衆目を集めることとなった。普段のジョミーなら、ここで皆に向かってひらひらと手の一つや二つでも振ってやるぐらいの無駄なサービス精神を発揮しただろうが、さすがにこの体調でそんなことをするほど馬鹿ではない。
 キースの目の動きと短剣の動きだけに集中して、体調が平常であるときよりも真面目に訓練を受けている。
(……やっぱり、体動かしてた方が楽でいいや)
 体調不良にも関わらず、ジョミーがそんなことを考えていると、その罰とでも言わんばかりに突然めまいに襲われて、ぐらりと体勢を崩しかける。
「っ……ジョミー!」
 キースの切羽詰った声に正気づいて、すぐに体勢を立て直すが、鋭い短剣の刃はジョミーの長い金髪を一房持っていってしまった。パラパラと音を立てて、ジョミーの長い金糸が床に散らばる。
(あー……切れちゃったな……)
 一部分だけ不自然に短くなった髪を見ても、ジョミー自身はそれぐらいにしか思わなかったのだが、周囲の反応は面白いぐらい騒がしかった。
「ジョミーの髪が!!」
「キース、あんにゃろうっ」
「あんなに綺麗な髪だったのに……」
「かわいそう」
「女の子の髪を切るなんてひどい」
 ほとんどの反応は、ジョミーに同情的でキースを責める色が多かった。ちゃんと避けなかったジョミーが悪いことは明らかなのに、ジョミーに同情する声がほとんどなのは、ジョミーが皆の人気者でキースが敬遠されているからに他ならない。
(何だよ……僕がちゃんと避けられなかったのが悪いのに、皆キースのこと悪く言って……!)
 カッとなったジョミーは、困惑して立ち尽くしているキースの手から短剣を奪い取ると、自分の毛を根元近くでガシッとつかんでそこに刃を押し当てた。一瞬の後、ザクッという音とともに、ジョミーの髪の毛は見るも無残に短くなっていた。
「あー、すっきりした!」
「ジョミー、何を……!?」
 驚愕の声を上げるキースに、ジョミーはあっけらかんとした口調で言う。
「何って、髪切っただけ。この長い髪うっとうしくって、いい加減切りたいなあと思ってたから、いいきっかけができてちょうどよかったよ」
 周囲が皆呆気に取られている中で、ジョミー一人だけが満足げに笑っていると、背後から怒りを含んだ低い声が聞こえてくる。指導教官の声だ。
「……ほう、ジョミー・マーキス・シン……髪を切るのはいいが、今が授業中だということを忘れているのではないか?」
「げ」
 ざんばら髪のジョミーが恐る恐る振り向くと、笑顔の後ろに般若が見えるという恐ろしい雰囲気を身に纏った強面の教官と目が合った。
「さっさと片付けんかー!」
「はーい!」
 ジョミーは肩をすくめて返事をして、掃除道具を取りに走り出そうとするが、その際再びめまいに襲われる。体勢を崩して今度こそ倒れそうになると、その前にキースがジョミーのことを抱きとめてくれる。
「……ごめ、……きー、す……」
「気にするな……申し訳ありません、教官。実は、ジョミーは朝から少し体調を崩していて……この場所の片付けは僕が責任を持ちますので、彼女は隅で休ませてもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ……そういうことなら」
「ありがとうございます」
 教官の許可を得るや否や、キースはジョミーの華奢な体をひょいっと抱き上げると、全く危なげない足取りですたすたと部屋の隅へと向かって、壁のすぐ近くにそっとジョミーを下ろした。そしておもむろに上着を脱ぐと、それをてきぱきとたたんで床に置いて、その上にジョミーの頭を乗せて寝かせる。
「これでも枕にして大人しく眠っていろ……授業が終わる頃には、少しはマシになるだろう」
「ん……ごめんね、キース……迷惑かけて……」
「気にするな」
 キースはそう言った後、少しためらうような顔で言った。
「……そんなことより、早く元気になれ。お前が元気じゃないと、何だかこちらまで調子が狂う」
 まさかキースがそんなことを言ってくれるとは夢にも思ったことがなかったので、ジョミーは一瞬ぱちぱちと目を瞬いた後、ものすごくうれしそうに笑った。
「……ありがと、キース」
 照れくさかったのか、キースからの返答はなかった。



◇ ◇ ◇



 キースの言うとおり大人しく休んでいたためか、授業が終わる頃には体調は格段に良くなっていた。それでも、普段よりもずっと血の気の引いた顔色をしているので、周囲はこぞって医務室行きを勧めたが、ジョミーはもう大丈夫だってと気楽に笑ってそれを拒否した。こういったとき、普段なら誰より強くジョミーに医務室行きを勧めただろうキースは、自分のせいでジョミーに髪を切らせてしまったという負い目を感じているためか、あまり強く言うことはなかった。
 それどころか、キースがジョミーに髪のことを謝っているうちに、何故かざんばらになったジョミーの髪をキースが切りそろえるなんて約束をさせられてしまって、キースは今、ラウンジの端でハサミを手にしてジョミーの頭を前に苦闘していた。
「どうして僕がこんなことを……」
「えー、だってスウェナは意外と不器用だし、サムは見ての通り細かい作業苦手だし、残ってるのキースしかいないからじゃない?」
「……本職に任せればいいだろう」
「外に行ける休日まで、この髪のままでいろってか?」
「そうよ、キース。女の子にこんな髪のままでいさせるなんて、かわいそうだわ」
「僕は別に気にしないけど?」
 サムとスウェナの提言に、ジョミーはきょとんとした顔で答えるが、ジョミーが気にしなくても周りが気にするという反論を受けて黙り込んだ。キースもようやく観念したのか、見るも無残な状態になっているジョミーの髪に、慎重な手付きでハサミを入れていく。
「……もったいないな……」
 思わずといったふうにキースがこぼすと、ジョミーがぐるんと振り向く。
「何が?」
「動くな」
 キースは眉をしかめてジョミーの頭を元の位置に戻させると、再びハサミを動かし始める。
「ねえ、で、何がもったいないって?」
「……お前の髪だ。あんなに綺麗だったのに……」
「綺麗ね……キースがそんなこと言うなんて意外」
「客観的事実を述べたまでのことだ」
「ふうん……じゃあ、これからはキースのために伸ばしてあげようか?」
 ジョミーがいたずらっぽく笑ってそう言った瞬間、周囲の空気はぴしっと凍りついたが、キースはその意味深な言葉をあっさりと流した。
「そうか」
「反応うっすいなー、キースってば……この前テラ古典文学大全で読んだ話だったら、男はこう言われたら喜ぶものだって書いてたんだけどな……」
 つまらなさそうに唇を尖らせてぶつぶつ言っているジョミーを見て、周囲は先ほどの言葉が、告白でもなんでもなくて単なる揶揄なのだと気付いて総じてほっと息を吐く。ステーション中の人気者が、メンバーズエリートへの道目指してまっしぐらのため恋愛なんてものには微塵も興味を示さないキースに振られて落ち込むところなど誰も見たくなかったというのもあるし、ジョミーに想いを寄せている男子生徒たちやスウェナ含めキースに想いを寄せている少数の女子生徒たちはまた別の意味で安堵したというのもある。
 そんな周囲の様子をまるで気にすることなく、ジョミーはマイペースな様子でキースに話しかけていた。
「あの本が間違ってるのかキースが変なのか、どっちだと思う?」
「そんなことを本人に聞くな……それより、テラ古典文学大全なんて聞いたこともないな……また妙なものを読んでいるのか?」
「妙って何だよ!れっきとした文学作品だよ!」
「だから動くなと言っているだろう」
「あいたっ!」
 眉をしかめたキースに、無理やりぐきっと首を回転させられて、ジョミーはうめき声を上げる。キースはそれを無視して、慣れてきたのか先ほどよりもずっと板についた手つきでジョミーの髪を整えていく。
「……キースの手、やっぱり安心するな……どうしてだろう」
 ジョミーは目を瞑って、誰にも聞こえないような小さな声でぽつりと呟いた。


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