教育ステーションE-1077 好きの意味

 位相幾何学の教授が授業の終わりを告げたとたん、ジョミーは机の上に突っ伏して体から力を抜いた。
「んー……!やっと終わったぁ!!」
 そのまま机になついてごろごろしていると、ジョミーの左隣の席に座っていたキースが奇妙なものでも見るような視線を向けてくる。
「……何をやっている、ジョミー」
「疲れたから休んでるの!見て分からない?」
 ジョミーが机に突っ伏したまま、隣にいるキースを見上げると、キースは器用に片眉だけを上げて言った。
「分からないから聞いている」
「あっそ……ちぇっ、これだから天才は……」
 まるで子供のようにぷうっと頬を膨らませたジョミーは、拗ねたような目でキースを一瞥すると、疲れたように目を瞑って大きくため息を吐く。
「……はあ……僕、位相幾何学なんて嫌いだ。もっと何て言うの、こう……実践に役立つようなことやってくれないかなー……」
「だが、理論を学ぶことは重要だろう?」
「それはそうだけどさ……分かってても嫌いなものは嫌いで、苦手なものは苦手なんだよ」
 ジョミーはぶすくれた顔でそう言った後、ようやく体を起こして机の上を片付け始めていると、キースの左隣から、サムが苦笑しながらひょっこり顔を出した。
「おいおいジョミー、そりゃないだろ。キースに次いで成績優秀なお前が勉強嫌いとか言ってたら、俺たちはどうなるんだよ?」
「どうって……そんなこと言われても……」
 成績優秀であるのと、勉強が好きなこととは全くの別物だ。しかしだからと言って、この問いにその答えを返すのはあまりにデリカシーに欠けている気がする。ジョミーが言葉に詰まっていると、背を向けていた右隣の席からスウェナの声が聞こえてくる。
「そうよね……皆も貴方もキースのこと天才って言うけど、私からしたら、ジョミー、貴方の方がずっと天才肌に見えるわ」
「スウェナ、何言うんだよ!?」
 ジョミーが驚愕に目を見開いて体ごと振り向くと、細い指にぺしんとおでこをはじかれる。
「あいたっ」
 スウェナの指に力はほとんど入っていなかったので別に痛いわけではなかったが、ジョミーは反射的にそう言って額を覆った。恨めしげな顔をしてスウェナを睨みつけていると、今度は鼻の前にぴしりと指を突きつけられる。ジョミーは思わず上半身を後ろに倒した。
「だって、キースはレクリエーションルームに来ることもなくいつも真面目に勉強しているけど、ジョミーは空き時間、ゲームとか皆と話してばっかりいるでしょう?ジョミーがもっとちゃんと勉強したら、もしかするとキースの成績だって抜かしちゃうんじゃないかしら?」
「えー、無理だって。僕、キースみたいに空き時間ずっと部屋にこもって勉強なんかしてらんないもん。あれも一種の才能だって。僕には絶対無理無理。一日中部屋にこもってたりとか耐えられないね。僕勉強嫌いだし!」
 軽く拳を握って最後の言葉を大声で宣言すると、方々から苦笑を含んだ声がかけられる。
「おっ、またそんなこと言ってんのか、ジョミー?」
「もう、ジョミーったらまたそんなこと……マザー・イライザにコール受けても知らないわよ?」
「でもそこまできっぱり言い切るとむしろカッコいいぞー」
 それ以外にも次々に寄せられる声に、ジョミーは明るい笑顔で手を振って返す。
「あはは、ありがとう、皆!マザーにコール受けるのはごめんだから、今度からは嫌いと思っても黙っておくことにするよ」
「ホントかよー?」
「ま、ジョミーのがんばりを温かく見守ってやろうぜ」
「何日続くか見物だけどな、ははっ」
 離れた場所からかけられる声の色が全て温かいことから、ジョミーの人気の高さがたやすく窺える。それでも皆がこうして遠くから声をかけてくるだけで側まで寄ってこないのは、ジョミーのすぐ側にキースがいるからだ。優等生ではあっても無愛想でとっつきにくい感があり、人間らしさを感じ取りにくいキースは、あまり気安く話しかけることができる対象ではないらしい。気にせず話しかけていたりするのは、サムとスウェナとジョミーぐらいだ。それを証拠に、キースといるとき以外なら、新入生の仲間たちはジョミーを中心に輪を作るし、同級の生徒どころか先輩たちから声をかけられたりお茶や遊びに誘われたりすることも頻繁にある。
 成績は良くてもやること為すこと破天荒で、邪気なんて知らないように澄み切ったひどく印象的な瞳をして、太陽みたいに明るい笑顔を振りまくジョミーは、ステーション中の人気者だ。教授陣でさえ、破天荒なジョミーの言動に眉をしかめることは多いものの、ジョミーの強い求心力に巻き込まれて、すぐに厳しい顔を崩してしまうのが常である。機械であるマザーイライザも、ジョミーが問題行動を起こすたびにジョミーをコールするが、『その型破りな行動が、これからのテラには必要なのかもしれません』などと言って、基本的にジョミーのことをあまり強く咎めることはない。
 今も周囲に向かって、明るい笑顔を振りまいているジョミーに、不意に背後から不機嫌そうなキースの声が降って来る。
「……失礼なことを言うな。何も僕だって、空き時間中ずっと部屋にこもっていたりしない」
 周囲の同級生たちとジョミーの会話が途切れるのを律儀に待っていたのか、今頃になっての抗議にジョミーは心の中でこっそり笑みを浮かべながら言い返す。
「でも、部屋にいなくても勉強ばっかりしてるのには変わらないじゃないか。図書館行ったり教授の手伝いしたりとか、どうせそんなのばっかりだろ?」
 振り向いて、少し意地の悪い目をしてキースを見上げてやると、キースは言葉に詰まったように黙り込む。推測だったのだが、この反応を見ると事実なのだろう。ジョミーはそれを一瞥してから、次の授業に行くために立ち上がってスウェナの背を押して通路に出て、スタスタと歩き始める。キースとサムも後ろからついてくる。
 それを後ろ目に見ながら、ジョミーはキースに恨めしげな目を向けた。
「休日だって、僕が遊びに行こうって誘っても全然頷いてくれないし……たまには気分転換に買い物ぐらい付き合ってくれてもいいじゃないか」
「お前なら、僕なんか誘わなくても、他に一緒に出かけたり遊んだりする奴ぐらいいくらでもいるだろう」
「僕はキースがいいの!だって僕、キースのこと好きだし」
「そうか」
 キース本人はさらりと流したジョミーの告白に、大きな反応を示したのは周囲だった。ちょうど隣を通りがかった生徒たちは思わずと言ったふうに足を止めて硬直していたし、サムとスウェナも手に持っていた荷物を床に落とした。
「ああっ!二人とも何やってるんだよ、もう」
 ジョミーは慌ててしゃがみこんで二人の荷物を拾うと、それぞれに向かって差し出すが、二人とも受け取ろうとしない。何なんだと思って、助けを求めてキースを見ると、キースもキースで訳が分からないと言いたげな顔をしている。ジョミーは首を傾げて、キースはほとんど無表情のまま、二人していぶかしんでいると、引きつった顔のサムが口を開いた。
「あー……ジョミー……好きって……キースのこと好きって、それは……その、恋愛対象としてってことか……?」
 予想外すぎてこれまで考えたこともないような質問をされて、ジョミーは数秒間ぽかんと口を開いて間抜けな顔をしていたが、聞かれたことを理解するや否やカラカラと笑い、胸の前で手を振って思い切り否定した。
「まさか!キースのこと好きっていうのは、普通に友達の好きだよ。キースは優しいし、何だか一緒にいて安心するんだよね」
 その言葉に、サムは納得したように頷いたが、スウェナは未だに疑わしそうな顔をしている。が、二人とも一応正気に戻ったようなので、ジョミーは拾い上げた二人の荷物を押し付けると、止まっていた歩みを進め始めた。キースも歩き始める。
「皆はさ、成人検査の前の記憶、曖昧でもちゃんと覚えてるんでしょ?」
 顔だけで振り向いてジョミーが問いかけると、サムとスウェナははじかれたように頷いて、ジョミーとキースを追って歩き始めた。
「でも僕、ここのメディカルカウンセリングルームで目が覚めてからの記憶しかないんだ。キースもそうなんだよね?」
「ああ」
「だから多分、仲間意識を感じてるのもあるだろうし……後は刷り込みかな?」
「……刷り込み?」
 眉根を寄せて問いかけてくるスウェナに、ジョミーは無言で頷きを返す。
「目が覚めて初めて見た人間がキースだったんだ」
「僕よりも先に、マザー・イライザを見ただろう?」
 キースがそう言ったとたん、ジョミーは一気に無表情になる。
「……マザーはコンピュータだろ。人じゃない」
 いつも明るいジョミーからは考えられないような表情に、キースたち三人が首を傾げているうちに、ジョミーは元通りの笑顔を取り戻していた。だから三人とも、先ほどの無表情は何かの見間違いだったのだと思った。
「大体僕、恋愛とかそんなの考えたこともないしなあ……あ、もちろん、サムとスウェナのことも好きだよ」
 にっこり笑ってジョミーが言うと、サムは照れくさそうに笑い、スウェナは安心したように微笑んだ。それを見たジョミーは、何かに納得したような顔になると、不意にスウェナの腕をつかんで彼女を引き寄せ耳元でこそりとささやいた。
「だから安心してね」
「なっ……ジョミー!」
 耳まで真っ赤になって怒鳴りつけてくるスウェナに、ジョミーは悪戯っ子のような笑みを向ける。
「何だ?」
「秘密!」
 不思議そうな顔をして問いかけてくる男二人にそう言って、ジョミーはスウェナの腕を引いて走り始める。
「おいジョミー、待てよ!」
 それを追いかけるサムを見て、キースも仕方ないなとでも言いたげにため息を吐くと、無言でその後を追って走り始めた。


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