――鍵をかけるんだ……心に強く鍵を……本当の僕が、君を迎えに行くその日まで……。




教育ステーションE-1077 思い出せない




 こぽりと小さな音を立てて、細かく白い泡が上へ向かって流れていく。息が泡となって上っていくのだ。視界の端では、長い金糸がゆらゆらとまるで海草のように漂っている。水あるいは水らしきものの中にたゆたっていると言うのに少しも息苦しさを感じないことへの不思議は、頭の中に疑問として思い浮かぶことさえない。何故ならそれが――。



◇ ◇ ◇



 閉じたまぶたの裏に、明るい光の存在を感じる。それが光なのだと、ジョミーは知っている。けれどまぶたを閉じたままでいても、感じられる明るいその光は、これまで一度も体感したことがない未知のもののような気がしてならなかった。
(馬鹿だな……そんなはず、あるわけないのに……)
 これまで普通に生きてきたのなら、明るい光を感じたことがないなんていうことはありえるはずがない。そう思って、ジョミーが知っている一番明るい光源である太陽の記憶をたどろうとしたジョミーは、頭の中に何も思い浮かんでこないことに気付いて愕然とした。
(え……?)
 太陽というものについて、知識はある。けれどそれを見た記憶を思い出そうとしても、何故か全く脳裏に思い浮かぶ記憶がないのだ。
(……何で……?)
 呆然となったジョミーはそれ以外の記憶を探ろうとして、何も思い出せない自分を知って、さらなる驚愕に襲われた。
 名前は分かる。ジョミー・マーキス・シン。14歳で性別は女。出身は育英都市アタラクシアで、14歳になって目覚めの日を迎えたから、成人検査受けて――と、そういったことは瞬時に脳裏に浮かんでくる。けれどそれだけだ。思い浮かぶのは知識だけ。自分を育ててくれた養父母の記憶も、育った都市がどんな場所だったか、通っていた学校はどんなだったか、友達はいたのか、自分はどんな子供だったのか――これまで14年間生きてきたうちで蓄積してきたはずの記憶が、まるで思い出せない。
(そんな……どうして……)
 半覚醒状態のジョミーが半ばパニックに陥っていると、不意に誰かの言葉が脳裏を駆け抜けていくのを感じた。

 ――鍵をかけるんだ……心に強く鍵を……本当の僕が、君を迎えに行くその日まで……。

(心……鍵……?)
 心に鍵をかけろとは、いったいどういうことなのか。大体、本当の僕だなんて言っているということは、偽物が存在するということなのだろうか。ジョミーはぐるぐると悩みこむ。
(……って違う!そんなことより、これは誰が言ったんだ……?)
 何の記憶も思い出せないジョミーの心に、ただ一つ残っているこの言葉。その言葉を発したのは、声からしてみると年若い少年のように感じられた。
(……思い出せない……知っている人のはずなのに……)
 声以外の何も思い出すことはできなくても、何故かその声の持ち主のことを、ジョミーはよく知っていたような気がする。それなのにのに、全く思い出せない。その人がどんな姿をしていて、ジョミーとどんな関係だったのか。思い出したいのに思い出せない。それがどうしようもなく寂しくて悲しくて、ジョミーの閉じた瞳から、一粒の涙がぽろりと零れ落ちる。
 その瞬間、聞き覚えのない声が耳に響いた。
『どうしました、ジョミー?』
 ジョミーはその声に導かれるように、髪と同じに金色をした長いまつげを震わせて、それからゆっくりとそのまぶたを開いた。開いた視界の中、一番に目に飛び込んできたのは、長い黒髪をした美しい女性の顔だった。しかし実体ではなくて立体映像なのか、その姿は半分向こうが透けて見える。
 ジョミーは、見覚えのない部屋に置かれた寝台の上に寝かされていたようだった。隣にはもう一つ同じような寝台が置かれていて、そこには乏しい表情ながらも困惑したような色を顔に浮かべている少年が一人、シーツの上に手をついて身を起こしているところだ。視界の端にぼんやりと映る光景からそれらのことが分かったが、だからと言ってこの状況を理解するには情報がまるで足りない。いったいどうしてこんな場所で眠っていたのか、訳が分からなくてジョミーもまた隣の寝台にいる少年と同じように困惑した顔で体を起こした。同時に、眦に溜まっていたらしい涙がまろやかな白い頬を伝い落ちる。
『悲しい夢でも見たのですか?さあ、涙を拭いて』
 半透明の美しい女性はそう言って、ジョミーの眦を拭う仕草をする。しかし、実体ではない彼女の指が、ジョミーに触れることはなかった。真似事の触れ合いだった。なので、ジョミーが自分の服でごしごしと涙を拭っていると、彼女は子供を安心させるような顔でふわりと優しく微笑んだ。しかし、それを見たジョミーの胸に広がったのは、安心なんかとは程遠い感情だった。
(……何、この人……なんだか気持ち悪い……)
 ジョミーは思わず、きゅっと唇を噛み締めて目を伏せた。初対面の人、しかもこんなふうに親切に接してくれている人に対して思うべきようなことではないと分かっているが、どうしてもその気持ちは消えない。
(顔は笑ってるのに……心が空っぽな、そんな気がする……優しいの、表面だけみたいな……)
 表情と中身がちぐはぐな印象を、目の前の女性からは感じる。自分の主観だけでそんなことを決め付けてはいけないと分かっていても、やはりその思いは消えない。
 苦い顔をしているジョミーに、女性は心配そうな顔を向けて問いかけてくる。
『どうしました?まだ気分が悪いのですか?』
「あ、と、その……いいえ、大丈夫です。何も……何もないです」
 思っていることを素直に言うなんてさすがにそんな失礼なことはできず、ジョミーがぶんぶんと首を横に振って誤魔化した。そうすると、腰ほどまでもの長さのある髪の毛が揺れて、ぱさぱさと服に当たる音がする。それは妙になじみのない感触で、ジョミーは少し戸惑った。しかし、これだけの長さが急に伸びたりするわけないのだから、気のせいだと決め付けて脳裏から追い出した。
『そうですか……では、二人とも目を覚ましたことですし、少し話をしましょう。まず、ここはE-1077、教育ステーション――その管理コンピュータ、私マザー・イライザのメディカルカウンセリングルームです』
「カウンセリング……ルーム……」
 隣の寝台に座っている少年がぽつりと呟くのを横目で見て、ジョミーは目の前の女性――マザー・イライザを見上げた。
「あの……どうして僕ら、こんなところにいるんですか?」
『あなた方は二人とも、宇宙港へ到着した直後に倒れたのです。覚えていませんか?』
「……すみません……」
「ちっとも」
 丁寧な謝罪をするという大人びた反応を返す少年とは正反対に、ジョミーは子供っぽい仕草で首を横に振った。
『そう……ジョミーには先ほど聞きましたが、キース、あなたの方は気分はどうですか?』
「もう、大丈夫です」
『……そうですか。では、新入生は皆、ホールへ集まっています。あなた方も新入生としてガイダンスを受けなさい』
「分かりました」
 素直な返事をして寝台を降りるキースというらしい少年に習って、ジョミーも寝台を飛び降りると、その少年に追いつこうとして小走りになる。早くこの部屋から――否、マザー・イライザのいないところへ行きたかった。
 そう思ってうつむき加減になっていたせいで、前をちゃんと見ていなかったのが悪かったのだろう。突然歩みを止めて立ち止まったキースの背中に、ジョミーは小走りのままぶつかった。
「ぶっ……!」
 身長差のおかげで、顔を頭にぶつけることがなかったのがせめてもの幸いだろうか。とは言っても、14歳の男の背中ともなればそれなりにしっかりと出来上がってきているので、ぶつけた額と鼻の頭はじんじんと鈍い痛みを訴えてくる。ジョミーが顔を手で押さえて小さくうめいていると、上から心配そうな声が降って来た。
「すまない、大丈夫か?」
「……大丈夫。僕も前見てなかったから、君だけのせいじゃないよ。それより、早く行こう」
 ジョミーはそう言って顔を上げると、すぐ目の前で立ち止まっているキースの体を押して、自動的に開いた扉をくぐり抜ける。ぐいぐいと無理やりキースのことを押し出して扉から少し距離を取ると、背後で扉の閉まる自動音が聞こえて、ようやくマザー・イライザと離れられたと思って安心のあまり、ジョミーは思わずほっと大きく息を吐いた。
 その様子を、怪訝そうな顔をしたキースが見つめていることに気付いて、ジョミーは顔を上げた。怪訝そうな顔とは言っても、無表情とほとんど変わらないような乏しい表情だったが、ジョミーにはその変化がはっきり見て取れた。優しい笑顔の裏で何を考えているのか分からないマザー・イライザなんかよりも、表情に乏しくてもちゃんと感情の動きの感じられるキースの方が、ジョミーにとってはずっと好ましく思えた。
 だからジョミーはそれまでとは打って変わって明るい表情になると、にっこりと屈託なく笑って、キースに向かって手を差し出して言った。
「今さらな気がするけど、初めまして。僕、ジョミー・マーキス・シン。出身はアタラクシア。これからよろしく。それで、君の名前は?」
「……キース。キース・アニアン。育英都市トロイナスの出身だ」
「へえ、トロイナスかぁ……アタラクシアからは結構離れてるよね。どんなところだった?」
「さあ……覚えていない」
 その返答に、ジョミーはきょとんとして大きな目を瞬かせた。
「……君も?僕もさ、アタラクシアの記憶がない……って言うか、さっき起きたところからしか記憶がないんだ……何なのかな、これ……何か……やだな」
 ジョミーはうつむいて唇を噛み締めるが、キースは理解できないというような顔をしている。
「何がだ?」
 過去の記憶がないというのに平然とした態度を崩さないキースを見て、ジョミーは驚いたように目を見開いた。
「君は嫌じゃないの?だって、ママとパパのこととか、通ってた学校のこととか友達のこととか、全部忘れちゃってるんだよ?……僕のママとパパはどんな人だったんだろう?ママは美人だったのかな、優しかったのかな?僕はどんな子供だったんだろう?何が好きで何が嫌いで……何が大切だったのかな……」
「僕たちは目覚めの日を迎えて大人になったんだ。大切なのは過去ではなくて、これからテラのために、どうやって力を尽くしていくかだろう?」
「それはそうだけど……でもやっぱり、寂しいよ。これまでの僕の14年間、少しも思い出せないのは……」
「……そうか……」
 ジョミーがうつむいて沈み込んでいると、頭の上に手のひらの感触を感じた。不思議に思って顔を上げてみると、どうして僕はこんなことをとでも言いたげな顔をしたキースが、不可解そうな表情をしながらもジョミーの頭をぎこちなく撫でているところだった。それが何だかおかしくて、ジョミーが思わず噴出すと、それを見たキースがムッとしたような顔になる。
「何がおかしい。人がせっかく慰めてやっているのに……」
「っ……くっ……いや、ありがとう、キース……」
 必死になって笑いの衝動を堪えながら礼を言うが、当然のごとくキースの機嫌は直らない。しかしジョミーは、そんなことを気にせずキースの腕に抱きついて、にっこりと満面の笑みを浮かべて言った。
「キースは優しいね。僕のママもこんなふうだったのかな」
 その言葉にピシッと凍りついたキースに気付かず、ジョミーはキースの腕を放すと、にこにことまぶしいほどの笑みを浮かべたまま、近くを通りかかった先輩らしき人の集団に片手を上げて声をかけ走り寄っていく。
「すみませーん」
「お、新入生か?」
「かっわいいねー!」
「ちっちゃーい!すっごくかわいい!」
「どうしたんだ、こんなところで?」
 あっという間に男女こもごもの先輩たちに囲まれたジョミーだが、特に慌てる様子も見せず、人好きする笑顔を浮かべたまま対応する。
「僕ら、宇宙港に着いてすぐに倒れちゃったみたいで、今までメディカルカウンセリングルームに寝かされてて、ガイダンスをやってるホールの場所が分からないんです。申し訳ないんですけど、教えてもらえますか?」
「ああ、そのホールなら、そこの角を曲がってまっすぐ行くといいよ」
「そうですか、ありがとうございます」
 ジョミーが小さく頭を下げて礼を言うと、その拍子に長い金髪もぴょこんと揺れて、ジョミーを囲んでいたの上級生のうち一人の男にぺちっと当たった。
「わ、す、すみません!」
「あはは、別にいいって、これぐらい。……にしても、綺麗な髪してんだな。これだけ綺麗な金髪には、なかなかお目にかかれな」
 慌てるジョミーの髪を一束すくい上げて、その先輩はまじまじとジョミーの髪を見つめている。どうしたものかとジョミーが困っていると、横から髪に触れている手を叩き落す手があった。
「何だっ……てめぇ!」
「初対面の女性の髪に軽々しく触れるのは、あまり褒められた行為ではないと思いますが」
 怖いぐらいの無表情のキースが言う。
「あ、キース!」
 思わぬところからやって来た救いの手に、ジョミーはぱあっと顔を輝かせる。邪気のないその笑みに、今にもキースにつかみかかろうとしていた上級生もキースも毒気を抜かれたような顔になって、二人して小さくため息を吐いてから臨戦態勢を解いた。
 ジョミーはにこにこ笑いながら、もう一度上級生に向かってにっこり笑って礼を言った。
「本当にありがとうございました。僕はジョミーで、こっちはキースって言うんですけど、もしまた機会があったらよろしくお願いします」
「おう、また道に迷ったら俺たちに聞けよー」
「親元から離れたばっかりで不安だろうけど、ここは安全だから安心しろよ」
「勉強で分からないところがあったら、教えてあげるわね」
 明るい笑顔と無邪気な態度のジョミーは、あっという間に上級生たちに気に入られたようで、彼らは口々に温かい言葉を返してくれる。優しくされるのがうれしくて、ジョミーが照れくさそうな顔ではにかんでいると、スピーカーから放送が流れてくる。
『これより、新入生ガイダンスを行います。新入生の皆さんは、センターホールにお集まりください』
「あ、それじゃ先輩方、僕らはこれで失礼します。キース、行こう」
 ジョミーがキースの腕をつかんで走り出すと、後ろから大きなため息が聞こえてくる。
「どうかした?ため息なんて吐いて」
「……君が、僕と同じ14歳だなんて信じられないと思ってるんだ」
「えーっ、何で?」
 ジョミーは唇を尖らせて拗ねたような顔になるが、キースは答えることなくため息を吐くだけだった。


|| BACK || NEXT ||