合わせ鏡の虚無 魔女と鏡の表、あるいは裏

「来い」
「は……?」
 深夜。時間も考えない迷惑なチャイムの音に呼ばれて、クラブハウスの玄関戸を開けたルルーシュは、突然来いと言われて間の抜けた顔になった。
 見知らぬ女に、出会い頭に突然そんなことを言われた者の反応としては、当然のものだろう。しかもその女が、怪しげな白い拘束着に身を包んでいるのだから、自然と警戒心も湧いてくる。そもそも、時間が時間だ。
 頭のおかしい変質者かもしれないと考えるが、そんな人間が学園の敷地内に入れるはずがない。
 見るからに怪しい女の正体について、ルルーシュがありとあらゆる可能性を考えていると、女は焦れたような顔になって、ルルーシュの腕を引っ張った。
「早く来い」
「なっ……!?」
 華奢な外見からは想像がつかないほど強い女の力に、ルルーシュは腕を引かれるまま連れて行かれそうになるが、すぐにその手を振り払って、女のことをにらみつける。
「何なんだよ、お前は!こんな時間に、いったい何の用だ!?」
 怒鳴り声は、あくまで小声だ。騒いでいたら、ナナリーが目を覚ましてしまうかもしれない。チャイムの音ですでに目を覚ましているという可能性も十分にあるのだが、妹を溺愛しているルルーシュが、だからと言ってナナリーへの気遣いを怠るようなことはなかった。
「そんなことは後だ。後悔したくなければ、黙って私について来い」
 女の態度は、あくまで高慢だった。けれど、どこまでも真剣だった。
 真剣な女の瞳を見て、ルルーシュは苦い顔をして舌打ちを漏らすと、女に先導されるまま走り出した。

 普段のルルーシュならば、そんな軽率な行動を取ることはなかっただろう。けれどそのとき、ルルーシュは行かなければならないと直感的に思ったのだ。それは、日本で言うところの虫の知らせのようなものだったのかもしれない。



 そして連れて来られたのは、廃墟のような建物だった。光源は月明かりだけという中でも、今にも崩れ落ちそうなことが分かるその様に、ルルーシュは思わず眉をしかめて問いかける。
「何だ?ここは……?」
「さあな」
「さあな、って……」
 連れて来ておきながら、何とも無責任な女の返事に、ルルーシュがさらに眉をしかめると、奥の方から声が聞こえてきた。
「……C.C.……余計な真似を……」
 かすれていて聞き取りづらいが、若い男の声のようだった。
 ルルーシュは思わず身構えて立ち止まる。
「つまらん意地を張るな。会いたかったのだろう?」
 しかしC.C.と呼ばれた女は、そんなルルーシュの腕を取って、声の聞こえてきた方へと向かって歩いていく。
 ルルーシュは抵抗しようとしたが、できなかった。穴の開いた屋根から差し込む、幾筋かの月の光に照らされて、奥にいる人物の姿が明らかになったからだ。
 ルルーシュは目を見開いて、喉の奥から声を絞り出した。
「な、んで……?」
 目の前の光景は、ルルーシュにとって、ひどく信じがたいものだった。
 廃墟の奥で、壁にもたれかかるようにして座り込んでいたのは、一人の少年だった。
 黒い髪、白い肌、紫の瞳――似ていない部分を探すのが難しいほど、ルルーシュそっくりの容姿をした少年。そこに鏡があるのかと、ルルーシュ本人さえも思ってしまうほど、その少年はルルーシュそっくりだった。
 けれどそれが、鏡に映った自分だと勘違いするようなことは、ルルーシュには決してなかった。ルルーシュは知っていたからだ。鏡に映したようにそっくりな、己の片割れの存在を。
 彼は、七年前に死んだはずの、ルルーシュの双子の兄だった。
 驚きのあまり茫然自失となっているルルーシュを見て、ルルーシュそっくりの容姿をした兄は、優しい笑みを浮かべる。
「……久しぶりだな、ルルーシュ」
 そう言ってから、兄は大きく咳き込んだ。
「大丈夫か!?」
 ルルーシュは慌てて兄の側に駆け寄り、少しでも彼が楽になるように、その背をさすろうとする。しかし、そうしようとして、兄のすぐ側に膝を着いたとき、むっとするほどの血の臭いが鼻を突いて、ルルーシュは思わず動きを止めた。
「……血?」
 月という薄明かりだけを頼りに目を凝らすと、兄の口元と、口を押さえていた手のひらは、血で真っ赤に染まっていた。顔色はひどく悪く、目の下は黒く染まり、死相が強く出ている。
「なっ……!早く病院に!」
「無駄、だ」
 苦しそうな息の中で、兄は切れ切れに言う。そして彼は、もう一度咳き込んで血を吐いた。
 救急車を呼ぼうとして、携帯電話に手を伸ばそうとするルルーシュの手を押しとどめて、兄は苦しそうな顔をしながら続ける。
「すまない……お前が……お前とナナリーが、幸せに……なれる世界を、作ろうと……思ったのに……」
「謝るな!!……せっかくもう一度会えたのに、これが最後みたいじゃないかっ……!そんなこと、言うな……!」
「な……く、な……」
 今にも泣き出しそうに顔を歪めるルルーシュを見て、兄は困ったような笑みを浮かべる。
 そして兄は、また血を吐いた。一気に力を失った兄の背を右手で支えて、ルルーシュは、左手で兄の手を握る。
 兄は弱々しい力で、ルルーシュの手を握り返すと、今にも途切れそうな声で話し始めた。
「……本当は……お前には、幸せに生きて、欲しかった……ブリタニアを壊すのも、親父をこ、ろすのも、俺がぜんぶ、やるつもりだったんだ……でも……もう無理だ、な……」
「そんなことっ……今はどうでもいい!だから……だからっ、もう……話すな……」
 目じりに涙を溜めて、今にも泣き出しそうに顔を歪ませるルルーシュに、兄はいつくしむような眼差しを向けた。
「だから、るるー、しゅ……お前に、力を残していって……っ……やろう……このまま、普通に……暮らし、て、いきたいの、なら、いらないだろうが……お前には、きっ、と……ひ、つような、ちから、だ……」
「っ……そんなもの、いらない……!いらないから、生きろ!」
 すがるような顔になるルルーシュを見上げて、兄はふっと笑みを漏らした。
「ば、かを言うな……もう、助からないこと、ぐらい……っ……おまえ、だって、わかって、る、だろ……」
 その言葉に、ルルーシュはぐっと息を呑み込んで、音が立つほど強く歯を噛み締める。
 それを見て、目を細めながら兄は、苦しそうな呼吸の合間に何とか話を続ける。
「だから、おま、えに……黒、のきしだんを……や、るよ……」
 黒の騎士団という言葉を聞いて、ルルーシュは大きく目を見開いた。
 リヴァルとシャーリーの、ゼロとルルーシュの声が似ているという言葉も。ゼロの行動パターンや思考パターンが、ひどくルルーシュのそれと似通っていると感じたのも。そして今、兄が死に掛けている理由も。
 兄のその言葉で、全て納得がいった。
 ルルーシュがありえないと一度否定したように、兄がゼロだったのだ。暗闇の中、目を凝らして見ると、確かに兄の衣装はテレビの中で見るゼロそのものだった。
 驚いて固まっているルルーシュを置いて、兄はさらに続ける。
「おれの、かわり、に……おまえ、が……ぜろ、に……な、ればいい……そうすれ、ば……あいつら、は……おまえ、のめ、れいどおり、に、うご、く……か、ら……くわしい、ことは……しーつー、に……き、くといい……」
 兄は目を瞑りそうになるが、何とか意識を持ち直して、もう一度口を開いた。
「……まもれなくて、ごめ……」
 最後の力を振り絞るように、兄はルルーシュの手を弱々しく握っていた手を上げて、ルルーシュの頬に触れた。彼はその手で、ルルーシュの目尻にたまっている涙を拭うと、まるで聖母のように優しげな笑みを浮かべる。
「……あいし、て、……」
 愛してる、と言おうとしたのだろうか。けれど、その言葉が最後まで語られることはなかった。
 兄の腕は力を失って、ぱたりと音を立てて床に落ちる。同時に兄の体からは、力という力の全てが抜けていた。弱々しい呼吸音も、もはや聞こえてこない。
 ルルーシュは声にならない叫びを上げて、兄の体を抱きしめた。



 それから、どれだけの時間が経ったのか。
 滂沱のごとく涙を流して、悲しみをあらわにするルルーシュの後ろで、先ほどC.C.と呼ばれていた女が唐突に口を開いた。
「……お前の兄は、ブリタニアに殺された」
 その声に反応して、ルルーシュは涙を流したまま顔を上げて、女に視線を向ける。
 女はさらに続ける。
「兄の敵を討ちたいか?それを為せるだけの、力が欲しいか?」
「……だから、何だ。お前には関係ない……それとも、お前がそれを与えてくれるとでも?こいつが残してくれた黒の騎士団以外の何かを、お前が与えられるとでも言うつもりか?」
 涙を流しながら、皮肉げに口の端を吊り上げるルルーシュに向かって、女は至極真剣な様子で頷いた。
「ああ。私はお前に、力を与えてやれる。ただしそれは、私の願いを一つだけ叶えてもらうことと引き換えにだ。契約すれば、お前は人の世に生きながら、人とは違うことわりの中で生きることになる。異なる摂理、異なる時間、異なる命。……王の力はお前を孤独にする。その覚悟があるのなら――私の手を取れ、ルルーシュ」
 そう言って、女はルルーシュに向かって手を差し出してくる。
 ルルーシュは兄の亡骸を抱きしめたまま、差し伸べられた女の手を取った。
「……いいだろう……結ぶぞ、その契約っ!」
 悲しみと憎しみを込めた瞳で、ルルーシュは言った。
「俺はブリタニアを許さない……こいつを殺した奴を許さない……!」

 そしてその日、魔女以外誰も知らないところで、ルルーシュは兄の跡を継いでゼロになった。



 ルルーシュは知らない。
 兄を殺したのが、ランスロットというKMFに乗った親友――枢木スザクであるということを。


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