次の日、仕事を終わらせて看病に行くと、ルルーシュが医者の診断書を差し出しながら言った。もう大丈夫だから、看病はいらない。通常の仕事に戻ってくれ。手間をかけさせて悪かったな、と。
本人が大丈夫だと言うだけならば、また無理をしているのかと疑ったところだが、医者の診断書という折り紙つきだ。だからその日以降、スザクがアリエスの離宮へと足を踏み入れることはなくなった。以前のように、ルルーシュとは顔を合わせることすら滅多にないような日々に戻った。
寂しいと思ったけれど、それは仕方のないことなのだと、スザクにはちゃんと分かっていた。ルルーシュはブリタニアの皇女殿下で、しかも副宰相という立場の人で、スザクはナンバーズで、しかも一介の兵士に過ぎない。遠くなったこの距離をどれだけ寂しく思おうと、それはどうにもならないことなのだ。
そしてどれだけ寂しくても、かつてスザクが犯したあの罪を許してくれたルルーシュのために働くことができるのならば、側にいられなくても別に良かった。ルルーシュのために働くことができるのなら、それで良かった。本当に、それだけで良かったのだ。
◇ ◇ ◇
それから二ヶ月と少し経ったある日。スザクはいつものように、ブリタニア宮から少し離れたところにある広い研究所の中で、マッドサイエンティストであるロイドによってキリキリ実験させられていた。それ自体は別にいつものことなので、体力には定評があるどころか、むしろありすぎて体力馬鹿とののしられるぐらい体力にあふれているスザクは文句一つ言わずそれに付き合っていたのだが、その途中いつもと違うことが起こった。
突然扉が開いて、そこからルルーシュが中に入ってきたのである。
「殿下ぁ!いらっしゃーい!」
ロイドは機器全てを放り出して、歓声を上げると満面の笑みで、パタパタと足音を立ててそちらに向かっていく。これでいいのかマッドサイエンティスト。スザクはロイドに対する呆れ半分、ルルーシュと久しぶりに会えることに対する喜び半分で振り返り、ランスロットのコックピットを離れる許可を、視線だけでセシルに求めた。セシルもスザクと同じような表情で頷いて、自分も席を立って小走りでルルーシュのところへと向かっていく。スザクもそれに続いた。
三人分の足音に気付いてか、うつむいていたルルーシュが顔を上げる。それまでうつむいていたため気付かなかったが、ルルーシュは何故か顔の左半分を手のひらで覆っていた。そしてその顔は、半分しか露になっていないにも関わらずはっきりと傍目に分かるほど、いつもとは違ってどこか空虚な表情をしていた。常ならば強い光を宿している紫電の瞳も今は、ただの無機質のように虚ろに光を反射している。
しかし人心の機微には全く疎いロイドは、そんなことを気にせずいつもと同じようにルルーシュに話しかけている。
「今日は何の御用で?いえもちろん、用なんかなくたって、僕の顔見たさに寄ってくれたなんて理由でも大歓迎ですよぉ!」
普通ならばここで、調子付いたロイドの発言をボコボコの滅多切りにするような発言が絶対零度の冷気をまとった声で出てくるはずなのだが、ルルーシュの唇から出てきたのは小さな、吐息のように弱々しい声だった。
「……そう、かもな……」
「えええええ!?ほ、本当に!?」
「……嘘に決まってるだろう。馬鹿が」
信じられないような顔でどもっているロイドを見て、ルルーシュは吐き捨てるように否定する。それを聞いていたスザクは、こっそり胸をなでおろした後、どうして自分が安堵しているのか首をかしげている。胸を撫で下ろしていたスザクは気付いていなかったが、しかしその声にもやはり、どこか力がなかった。そもそもにして、ルルーシュは基本的に、こんな嘘を吐いたりする人間ではない。
半年程しか付き合いのないスザクにだって分かるのだから、その事実がロイドに分からないはずがなかった。そのことでようやくロイドはルルーシュの異変に気付いたのか、難しい顔になって問いかける。
「殿下、どうかしたんですかぁ?元気ないですね」
「……別に。いつもどおりだ」
「うーそー!僕に分かるぐらいなんですから、相当ですよぉ!!」
そのやり取りの間も、ルルーシュは顔の左半分――と言うより、左目のところを覆った手を外そうとしない。それに気付いたスザクは、不思議に思って手を伸ばしてルルーシュに触れようとする。
「ルルーシュ、左目、どうかしたの?どこか怪我でも?」
しかしスザクの手が触れる前に、ルルーシュは瘧がついたように体を震わせると、後ろに一歩退いた。拒絶されたように感じて、スザクが瞳に傷ついた色を浮かべると、ルルーシュははっとしたような顔になって慌てて口を開く。
「あ、いや、その……何でもないんだ。怪我をしたわけじゃなくて……さっきまつげが目の中に入って、取るには取れたんだが、左目はまだ充血しているから隠しているんだ。……その、みっともないから見ないで欲しい」
「そうなんだ」
(……良かった)
スザクは心の中でそう思って、安堵の笑みを浮かべる。ルルーシュはそれを見て、どこか寂しげな笑みを浮かべると、ぽつりと言った。
「……もう帰る……近くまで来たから、少し寄ってみただけなんだ。邪魔をしたな」
「あ、ではお気をつけて」
「ええー!もう帰っちゃうんですかぁ!?」
対照的に大人と子供の反応をするセシルとロイドの後で、スザクも一言気をつけて、と言うと、ルルーシュはやはりどこか寂しげに笑って言った。
「じゃあな」
◇ ◇ ◇
翌日未明、ブリタニア宮にてクーデターの勃発。首謀者は第2皇子であり帝国宰相シュナイゼル・エル・ブリタニア、クーデターには副宰相の立場にある第3皇女ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが力を貸しており、宮殿内は瞬く間に制圧される。第98代皇帝シャルル・ジ・ブリタニアを討ち取ったのは、第3皇女ルルーシュであったが、彼女も同時に倒れる。そして、第99代皇帝シュナイゼル・エル・ブリタニアが誕生する。
◇ ◇ ◇
「……ルルーシュ……」
部屋の中で一人硬い椅子に腰掛けて、スザクは誰よりも大切な人の名前を呼ぶ。今はもうこの世に存在しない人の名を。
スザクがクーデターの報を聞いたのは、全てが終わった後だった。けれど、ブリタニア宮でクーデターが起こったことも、新しい皇帝が誕生したことも、スザクにとってはどうでもよかった。ブリタニアを変えること、たとえそれが自分の手によるものではなくても、ブリタニアの変化を熱望していたはずなのに、スザクがその事実に喜ぶことはなかった。
ルルーシュが死んだ。そのたった一つの出来事だけが、スザクの心を占めていた。もしルルーシュが生きていたら、素直にブリタニアの変化を喜ぶことができただろう。けれど、ルルーシュは死んでしまった。この世界には、もういないのだ。
皇帝への即位が終わった後、一番にシュナイゼルが取り行ったのはルルーシュの葬儀だった。類を見ないほど盛大な葬儀だった。スザクも参加したけれど、スザクのいた場所からでは、ルルーシュの眠る棺は遠すぎて全く見えなかった。けれど、近くで棺を見たロイドに聞いても、棺には蓋がされていて中が見えなかったと言ったから、どこにいても変わりはなかったのかもしれない。
政変に伴って、あらゆる殖民エリアから使節が派遣されて、エリア18からはユーフェミアもやって来ていた。魂が抜けたように呆然としているスザクに向かって、何か声をかけてきたような気もするが、あまりよく覚えていない。
「……ルルーシュ……」
呆然とした声で、スザクはルルーシュの名前を呼ぶ。葬式が終わった今になっても、未だスザクには信じられなかった。もうルルーシュがこの世にいないなんて。遺体を見ることすらかなわなかったから、そのせいかでもあるかもしれない。けれど、冗談や悪ふざけで国を挙げてあれほど盛大な葬式を行う人間などいないだろう。だからルルーシュの死は曲げようのない事実なのだ。
「っ……ルルーシュ……」
一人の部屋で、スザクは泣いた。悲しくて悲しくて、仕方がなかった。
7年前の、あの夏の日。たった一つの過ちを犯したあの日から、たった一つのこと以外、怖いものなんてなくなった。スザクが怖かったのは、隠匿されたあの罪が、白日の下にさらされることだけだった。怖いのは、それだけのはずだった。だからスザクは、罰を与えられることすらなかった罪をあがなうために、綺麗に生きて、綺麗に死にたかった。
望んだのは、ただそれだけだったはずなのに、どうしてだろう。いつの間にかスザクが一番怖いのは、あの罪が白日の下にさらされることではなくて、ルルーシュを失うことに変わっていた。死にたいではなくて、ルルーシュのために生きたいと思うようになっていた。それなのに、ルルーシュは死んでしまった。ルルーシュがいなくなって、どうやって生きていけばいいのだろう。スザクには分からなかった。けれど、生きていく理由さえ見失った中で、代わりに気付いた真実が一つだけあった。
今までずっと、自分がルルーシュに向けている感情は、敬愛だとばかり思っていた。年若く聡明な主を、ただ守りたいという綺麗な心でルルーシュを見ているのだと、スザクはずっと自分を騙してきた。けれど違った。誰よりも綺麗なルルーシュに、スザクは初めて会ったときから惹かれていたのだ。容姿だけでない。いつだってスザクの欲しい言葉をくれて、いつも毅然としているくせに時折ひどく儚げな様子を見せるルルーシュのことが、スザクは好きだったのだ。そしてその恋情はルルーシュが、かつてスザクが犯した罪を許してくれたことによって、単なる恋情から執着と依存の入り混じったひどく複雑な感情へと成長した。
ルルーシュが死んだと聞いた瞬間まで、ただスザクが気付いていなかっただけで、その感情はずっとスザクの中にあったのだ。けれど、今さら気付いてもどうしようもない。ルルーシュはもういない。
行き場のない思いを胸に、スザクが沈み込んでいると、唐突に背後から幼い声が聞こえてきた。
「初めまして、枢木スザク」
スザクはのろのろと顔を上げて振り返った。いつの間に部屋の中に入ってきていたのか、そこには一人の幼い少年が立っている。無表情で、子供らしくない雰囲気をした子供だった。
「……君は?」
「僕の名前はV.V.……暗い顔してるね。ねえ、君はまさか、本当にルルーシュが死んだと思ってるの?」
「……だって、葬式が」
「あんなの形だけに決まってるじゃないか」
その言葉に、スザクは大きく目を見開いた。
「……じゃあ、まさか……」
「そのまさかだよ。ルルーシュは生きている。神殿の巫女としてね」
「神殿の巫女……?」
「神殿の巫女は、世間では死んだことにされて神殿の中で一生を過ごすことになるんだ。ルルーシュはその巫女として選ばれた。あの神殿は、ブリタニアの礎。巫女の一生を犠牲にして、この国は成り立っている」
普段の精神状態ならば、子供の戯言と笑い飛ばしたかもしれない。けれど今のスザクは、すがれるものになら何だってすがった。
「生きてる……ルルーシュが……」
呆然とした表情で呟いていると、V.V.なんてふざけた名前を名乗った子供が再び口を開く。
「……取り戻したくない?ルルーシュを、神殿から」
「とり、もどす……」
「そうだよ。だって君、ルルーシュのこと好きなんだろう?それなのに、君からルルーシュを奪った神殿が、ブリタニアが憎くないの?ルルーシュを取り戻したいと思わないの?」
誘導するようなV.V.の言葉に、スザクは素直に屈した。刷り込みのように、その言葉は胸の奥へと浸透していく。
「……そうか……」
スザクはぽつりと言った。
「……生きてるのなら、取り戻せばいいんだ」
●白の喪章・END●