そして月を捕まえた 前編

 メギトを破壊した後、ジョミーの意志を継いで新しいソルジャーとなったトォニィは、荒廃しきったテラを背に、人とミュウとが手を取りあう未来を求めてシャングリラを宇宙へ進めた。ジョミーを、長老たちを、たくさんの仲間を失ったシャングリラは悲しみに暮れていたけれど、その中でトォニィはよく仲間をまとめてソルジャーとしての役割を果たした。それは、ジョミーに託されたソルジャーとしての役割を、果たしたいという一心によるものだった。
 グランドマザーが破壊されて、機械の支配から解放された人間たちの間では、様々な混乱が起こっていた。トォニィはそれらの星々に、ミュウの長として手を差し伸べることを根気強く続けながら、アルテメシアに向かって進んだ。
 ジョミーを育んだ惑星アルテメシア――そしてミュウとしてのジョミーが生まれた場所。そこは、失った故郷であるナスカと同じぐらい、トォニィにとっては大切な場所だった。だから、シャングリラを落ち着ける場所は、最初からその惑星に決めていた。個人的な感情だけでそんな大切なことを決めてはいけないとは分かっているけれど、アルテメシアはそれだけの場所ではない。かつてはシャングリラが潜伏していた惑星でもあるし、ミュウがテラの座標を手に入れた場所でもある。ミュウにとっては、何かと因縁深い場所だ。
 だから、シャングリラをアルテメシアにというトォニィの言葉に逆らう者は、誰もいなかった。もしかしたら、長く続く放浪の果て求め続けていたテラが、思い描いたのとはまるで違う惑星だったことを知り気力を落としてしまったミュウたちにとっては、テラでないのならどこだって一緒だったというだけだったのかもしれないが。
 ミュウの多くは、シャングリラを降りて地に住み着いた。テラで救出してからずっと、シャングリラの中にいた人間たちもまた、アルテメシアに降り立った。
 けれどトォニィを含む少人数のミュウは、決してシャングリラを降りて地に住み着こうとはしなかった。トォニィが船を下りなかったのは、ジョミーが生きていた証が色濃く残るシャングリラから離れたくなかったからだった。ジョミーを育んだ大気の中に囲まれて、ジョミーが生きてきた証の残る船で生きる。他のミュウたちがどんな思いでシャングリラを降りなかったのか、トォニィは知らないけれど、トォニィにとってはそれだけがシャングリラを降りて地に根付こうとしないたった一つの原因だった。
 そして、それから百年と少しの月日が流れて――。



 窓の向こうで雲が流れていく光景を部屋の中から眺めながら、トォニィは頭につけている補聴器に手を当てた。トォニィはジョミーと同じように、何の障害もない完全なミュウだから補聴器なんて本当のところ全く必要ないけれど、これを手放そうと思ったことは一度もなかった。この補聴器には、ジョミーの記憶と想いが詰まっている。ジョミーの前の所有者であるソルジャーブルーの記憶と想いも詰まっているけれど、トォニィの中で大切なのは、初代ソルジャーのものではなくてジョミーのものだった。
(……ジョミー……)
 仲間を愛し、ソルジャーブルーの意思を継いで、悲壮なまでの決意でテラを目指したジョミーの記憶、そしてその想いがこの小さな補聴器の中に詰まっている。もっとも、細かい感情や記憶までは読み取ることはできないけれど、テラへ向かう航路の中トォニィたちに対して冷たく接していたジョミーが、その裏で本当はどれだけナスカの子らのことを大切に思ってくれていたのか、そのことが分かっただけでもトォニィには十分だった。
 他のナスカの子どもたちが、ジョミーに対して疑念と不満を抱く中で、トォニィだけはジョミーの心を信じ続けていたけれど、それでも時折どうしようもなく不安になることがあった。本当は、愛されていないのではないかと疑ってしまう一瞬があった。
 けれどこの補聴器は、ジョミーの本当の気持ちを伝えてくれる。トォニィたちナスカの子を愛してくれていたジョミーの心が、これを通してはっきりと伝わってくる。ジョミーがトォニィに向けてくれたその想いの種類は、トォニィが望むものではなかったと分かっているけれど、愛されていたという事実が確認できただけでうれしかった。
(……ジョミー……僕はあんなにひどいことしたのに……それでも貴方は、僕のことを愛してくれていたんだね……)
 そう思うと同時に、しかし泣きたくなるほどの悲しさが胸を襲う。補聴器に残っている記憶と想いは、決してトォニィにとって都合のいいものだけではない。ソルジャーブルーとジョミーが、互いをいかに大切に思いあっていたのかという事実も、この補聴器をつけていると感じられる。昔から、ジョミーが誰のことを思っているかぐらい知っていた。幼かったあのころは、それがひどく耐え難いものに思えて、トォニィは仲間の安全を盾にジョミーの体を無理やり奪った。
 それを思うと同時に、何度となく強いた行為の度にジョミーが見せた痴態が、不意に脳裏をよぎった。14歳のまま成長を止めた華奢な肢体、普段の彼からは想像もできないほど艶めいた声、快楽に歪んだ顔、トォニィを受け入れた器官のキツさ、快感に我を無くしたジョミーの破壊的な魅力なんてものは言葉で語りつくせるものではない。
 あのときトォニィは、ジョミーのことを無理やり体だけ手に入れた。けれどそのときに感じたのは、大きな満足感と、それ以上の虚しさだった。トォニィが本当に欲しかったのは、ジョミーの体じゃなくて心だったからだ。ソルジャーブルーではなくて、トォニィのことを一番好きになって欲しかった。
(でもジョミー……今、僕は幸せだよ……貴方に愛されていたことが分かったから、たとえその愛が僕の望んだものじゃなくても、それだけで僕はうれしい……でも、同じぐらい悲しくて寂しい……貴方が、もうこの世にいないそのことが、どうしようもなく悲しいんだ……)
 そうやってトォニィが目を瞑って感傷に浸っていると、不意に誰かの手に頭を叩かれた。
「いてっ……誰だ?」
 目を開けて視線を上げると、怖い顔をしたツェーレンが腰に手を当てているところだった。
「トォニィったら、またそんなことやって!」
「ツェーレン……」
「感傷に浸るのはいいけど、昼間はちゃんと仕事してよね。あれから百年以上経って、アルテメシアも他の星もずいぶん落ち着いたけど、ミュウの長が昼間から呆けてちゃ話にならないわよ!」
「部下が優秀だからな。僕が少しぐらいサボっても平気さ」
 トォニィが座ったまま肩をすくめて言うと、ツェーレンは呆れたような顔でため息を吐く。
「まあいいわ。それで、現在の人類とミュウとの人口の割合についての調査結果だけど……どこの星でも、すでに人口の三割近くがミュウになってる。生まれてくる赤ん坊の半分以上が、今はミュウ因子を持ってるみたい。それも、ジョミーやあたしたちみたいに何の障害も持たない完全なミュウばかりよ」
「ということはつまり、ミュウは進化の必然だったということなんだろうな」
「キース・アニアンが言ってたあの言葉?」
「ああ。僕たちミュウが進化の必然だったというのなら、これからもどんどん生まれてくるミュウの数は増え続けていくはずだ」
「変な感じ……たった百年前は、ミュウよりも人の方がずっと多かったのに……それももうすぐ反対になるのかしら?」
「このままのペースでミュウが増え続ければ、近いうちにそうなるだろうな。そして今度は、ミュウが人を迫害する側に回るかもしれない」
 重苦しい顔でトォニィが言うと、ツェーレンははじかれたように飛びあがる。
「まさか!そんなことするわけないじゃない!」
「ああ、僕たちはしないさ……人とミュウとがともに生きていける未来をと望んだジョミーのことを覚えている者は、そんな愚かしいことをすることはないだろう……だが、新しく生まれてきたミュウたちは違う。ツェーレン、彼らは何も知らないんだ。ただの歴史としてしか、過去のことを彼らは知らない。だから過去の悲劇も人の愚かしさも知らないで、馬鹿みたいなことばかり言う子供が増えてくる」
 声に怒りを含ませて拳を握りしめているトォニィを見下ろして、ツェーレンが問いかけてくる。
「……クリスのことを言ってるの?」
「それ以外誰がいるって?あんのクソガキ……!」
 クリスとは、ナスカの子どもが生まれて以降長い間誕生することのなかったタイプブルーのミュウだ。今はまだ10歳にも満たない子供だが、サイオンの制御もすでに完璧で、力自体は今のところまだトォニィには遠く及ばないものの、長ずればトォニィにも匹敵するだろうというほどの素質を持っている。ここ百数年の間で初めて生まれたタイプブルーということで、周りからは自然と特別扱いを受けて育ったせいか、少々生意気な性格の子供に育ってしまった。サイオンが暴走したら危険だからと言うことで、幼い頃からトォニィが特別にサイオン訓練をしていたのも悪かったのかもしれない。普通の人間やミュウにとって、ミュウの長であるトォニィは雲の上の存在だ。そんな存在に幼い頃から目をかけられて育って、増長しない子供の方が珍しい。
 大人を大人とも思わない態度のクリスを思い出して、トォニィが怒りに燃えていると、あきれたような眼差しをツェーレンから向けられた。
「何だ?」
「クソガキって言ったら、あたしたちの方がよっぽどひどかったと思うけど?」
「過去の恥は掻き捨てって言うだろ」
 あっさり自分のことを棚上げするトォニィだが、ツェーレンも幼かった頃の見苦しい行動など思い出したくないのだろう。あっさりとそれに同意した。
「それもそうね」
「力だけは一級品だから、次のソルジャーはあいつだと昔から決めてたんだが……今のままじゃ、とうてい人とミュウとの未来を任せる気にはなれないな」
「次のソルジャーって……トォニィ、もうそんなこと考えてたの!?」
「ミュウの寿命は長いが、不死というわけじゃないんだ。これから何があるか分からないだろう?」
「それはそうだけど……あたしだって、今のままのクリスがソルジャーになっても、従う気にはなれないわよ」
「そうだよな……」
 トォニィとツェーレンは二人して重苦しいため息を吐いていたが、ふとツェーレンは何か思いついたような顔になって口を開いた。
「そうだ。ねえ、過去の悲劇に実感が湧かないって言うのなら、その悲劇の実物を直接見せたらどう?」
「悲劇の実物?」
「そう。映像とか人に聞いた話なんかじゃ、実感が湧かないのも当たり前だわ。だから本物を見せるの……人の手によって荒廃を極め、人とミュウそれぞれ多くの者が命を落とした悲劇の星であり、同時に全ての始まりの惑星であるテラを」
「ダメだ!!」
 トォニィは両手を机に叩きつけて立ち上がった。
「どうして?百年以上前、逃げるようにテラを離れてから、トォニィは誰もテラに近づけないようにしたわよね。あなた自身だって、ジョミーが眠るあの星に近づこうとしなかった……今だって、ジョミーのことずっと思い続けてるくせに、どうしてあの星に行こうとしないの?」
「……テラの再生のためだ。人やミュウの手が、それを邪魔しないようにしただけだ。それなのに、ミュウの長である僕がテラに行ったりしたら、示しがつかないだろう」
「本当に?」
「本当だ」
「でもそれなら、あたしが今言ってるのは、テラの再生の邪魔をしに行こうってことじゃないから、テラに行っちゃダメだっていう理由にならないわ」
「だが」
 反論しようとするトォニィをさえぎって、ツェーレンは諭すような瞳で口を開く。
「トォニィ。これは、クリスや他の子どもたちにとって必要なことよ。過去の悲劇を忘れて、同じことを繰り返すなんてこと……そんなこと、絶対あっちゃいけない。それぐらいのこと、あなたには分かってるでしょう?」
 トォニィはうつむいて、それから数十秒後、小さく首を縦に振った。


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