失望はすぐそこに

 ふわふわと、まるで空を飛んでいるかのように気分は良かった。目の前は真っ白で、不安なんてどこにもないような気がしてくる。いつまでもこのままでいたいと思うほどだった。
 多分自分は眠っているのだろうと、ルルーシュははっきりしない意識のもと、ぼんやりとそう思った。こんなふうに何の不安も感じずにいられるのは、現実ではもうずっとなかったことだから。
 いや、性格に言うのならば、夢でさえこれほど穏やかな気分になれたことはなかった。ここ何年もの間ずっと気を張って暮らしていたから、満足に眠れた記憶なんていったいいつのことになるだろう。
 ふと、誰かの大きな手に頭を撫でられる感触がした。
 その手がとても優しいものに感じられて、ルルーシュは目を閉じたままふわりと微笑む。頭を撫でられるのも、ずいぶんと久しぶりだ。母親が死んでから、ルルーシュにそんなことをしてくれる人は一人もいなかった。だから、こんなふうにされるのは七年ぶりになるのか。
 優しく触れてくる手に甘えるようにすりよったとたん、なぜかその手はぴたりと動きを止めた。それを不満に思って目を閉じたまま眉を顰めると、その手は少し戸惑っているかのようなぎこちなさで、再びルルーシュの頭を撫で始める。
 それがあまりに心地よくて、ルルーシュがふにゃりと口元を緩めると、頭の上から小さな苦笑が降ってくる。
「……起きているときもこうだったら、私も苦労しないのだがね……」
 聞こえてきた声は、ルルーシュが大嫌いな異母兄のものだった。しかしいつもと違って、恐怖を呼び起こさせるようなものではなかった。それはその声が、ルルーシュの頭を撫でる手と一緒で、とても優しいものだったからかもしれない。
 これは夢なんだと、ルルーシュは夢さえ届かない深すぎる眠りに意識をさらわれそうになりながら、ぼんやりと思った。そうでなければ、シュナイゼルの声がこれほどまでに優しく聞こえるはずがない。ルルーシュのことを珍しい玩具程度にしか思っていない異母兄が、こんなふうに優しくに声をかけてくるはずはない。
 だから、これは夢なのだ。
 そう勝手に決め付けていると、頭を撫でていた手がするりと肌の上をすべって顎までやってくる。それから壊れ物を扱うように繊細な仕草で、その手はルルーシュの顎を持ち上げた。
 それが少し苦しくて、ルルーシュはまるで子どもがむずかるような仕草で首を横に振ろうとするが、顎を固定する手はそれを許さない。それが不快で顔をしかめていると、唇に柔らかな感触が当たった。何なんだと思っていると、口の中にとろりとした少し苦い液体が流れ込んでくる。
 反射的にその液体を吐き出そうとするが、柔らかい何かに口をふさがれているせいでかなわなかった。それでもあきらめずにもがいていると、口の中に何かが進入してきてルルーシュの舌を絡め取る。息ができなくて、とても苦しい。そしてそれ以上に、口に入ってきた何かが口の中で動くたび、背筋をぞくぞくとした感覚が走り抜けていく。
 今まで感じたことのないその感覚は嫌ではなかったけれど、ルルーシュをひどく落ち着かない気分にさせた。だから仕方なく口に流し込まれた液体を飲み込むと、舌を絡め取っていた何かは、ようやくルルーシュを解放する。それと同時に塞がれていた唇も自由になり、ルルーシュは大きく息を吸い込んだ。
 酸欠気味でぐったりとしていると、耳元で声が聞こえてくる。
「もう少しだけ眠っていなさい」
 それもまた、とても優しい声だった。
 夢の中とは言え、あのシュナイゼルがいったいどんな顔をしてこんな声を出しているのか激しく気になった。それなのに、目を開けようとしてもまぶたが重くて開かない。シュナイゼルの裏のない笑顔なんてものは、夢の中でも見られないぐらい、ルルーシュの想像力の限界を超えているのだろうか。
 そんなことを考えているうちに、まるで何かに引き込まれるように、ルルーシュはさらに深い眠りの底へと落ちていった。


◇ ◇ ◇


 目を覚ましてまず目に入ってきたのは、白をベースに精緻な模様の描かれた美しい天井だった。寝転がったまま視線をめぐらせると、部屋の中央付近の天井に、明かりの落とされたシャンデリアが見える。その代わりに、壁際の小さな照明が淡い光を放っている。
 ルルーシュが眠っていたのは、キングサイズのベッドだった。適度な柔らかさを誇るベッドに手を付いて、起き上がって周囲を見渡す。動くと少しだけ頭痛がした。さらに言うならば、なぜか体がひどく重い。しかし、頭痛といっても耐え切れないほどの痛みでもなく、体が重いのも動けないほどでもないから放っておくことにした。
 足が妙に肌寒い。不思議に思って目をやると、腿のあたりまで素足がむき出しになっていた。足先から順に上へ視線を持っていくと、自分が膝丈ほどの黒いワンピースを着ていることに気づく。七年近く男装し続けていたから、こんなものを着るのはずいぶん久しぶりで落ち着かない。ずっとズボンばかりはいていたから、足元が何だか頼りない感じがする。
 ルルーシュは素足をスカートで隠すように座りなおしてから、再び周囲に視線を戻した。室内にある調度品は全て派手さこそないが重厚なもので、見るものが見れば一目で高価なものだと分かる。クラブハウス内でルルーシュたちが居住地区と使っている部屋は貴族趣味な内装ではあるが、ここまで金をかけていない。クラブハウスではないことは明らかだった。
「どこだ、ここは……?」
 ルルーシュが警戒して顔を険しいものに変えると、唐突に扉が音を立てて開く。
 音源に目を向けると、そこにはシュナイゼルが立っていた。
「おや、目を覚ましたのかい?おはよう、ルルーシュ。……とは言っても、もう夜なんだけどね」
 シュナイゼルはそう言って苦笑を漏らした。
 そんな異母兄の姿を見た瞬間、ルルーシュは学園祭で起こった出来事を思い出していた。
「義兄上……」
(そうだ、俺はシュナイゼルに見つかって……)
 あの後ルルーシュはシュナイゼルに連れられて、車で政庁まで移動させられた。もちろん、ナナリーも一緒だ。それから浮遊航空艦アヴァロンに乗せられて、ブリタニアへ帰るのだと言われた。それに否を言えるわけもなく、帰りたくもない祖国へ帰るのだと言われても黙って頷くことしかできなかった。それから少し話をしたいと言われて、ルルーシュだけがアヴァロン内にあるシュナイゼルの部屋へと連れて行かれた。
 ナナリーと離れることに不安を感じないわけはなかったが、シュナイゼルの言葉に逆らうわけにはいかない。幼いころの恐怖は未だにルルーシュを支配していた。
 その部屋で出された紅茶を飲んでからの記憶が、ルルーシュにはない。
(一服盛られたか。だが、何のために……?)
 先ほどから続く体の異変も、薬の副作用のせいだろう。どれだけ眠っていたのか知らないが、四肢の動かしにくさから考えてかなり長い間眠っていたはずだ。
 眠っていた時間の長さを推測していると、不意に空腹が襲ってきた。しかし素直にそれをシュナイゼルに言うのは屈辱的だったので、黙って耐えることにする。シュナイゼルに食べ物をねだるぐらいなら、空腹のままの方がマシだ。
 そんなことより問題は、どうしてわざわざシュナイゼルはルルーシュに薬を盛ったかということだ。あんな状況の中で逃げようとするほど、ルルーシュは愚かではない。シュナイゼルから逃げ切れるなんて馬鹿なことを考えてはいない。逃げようとするならば、もっと綿密な計画を立てないとすぐつかまることぐらい分かっているからだ。
 それなのにどうして薬を使ったのか、いぶかしんで顔をしかめているルルーシュのところへ、シュナイゼルはゆっくりとした足取りで近づいてくる。幼いころの記憶が脳裏をよぎって、ルルーシュは思わず大きく身を震わせた。けれどすぐに笑顔を作って、シュナイゼルに話しかける。
「おはようございます、義兄上。お……私は、どのくらい眠っていたのですか?」
「丸一日、といったところかな?良く眠っていたようだが、そんなに疲れていたのかい?」
 丸一日もの間眠っていたのだと聞かされて、ルルーシュはわずかに眉をしかめた。それだけ長い間眠らされて、意識がなかった間に運ばれて、しかも着替えまでさせられたのかと思うとさすがに不快感が湧いてくる。
 そもそも、薬を盛った本人が『良く眠っていたようだが』なんて良く言ったものだ。幼いころに、裏表の激しい皇族たちの中で過ごした――特に外面と内面にすばらしいほど差があったシュナイゼルと共にいた経験がなければ、顔が引きつっていたかもしれない。
「ええ、学園祭の準備で少し寝不足でしたので……」
「そうか」
 ベッド際にたどり着いたシュナイゼルは優しげな笑みを浮かべて頷くと、ベッドの上に腰を下ろして、シーツの上にぺたりと座り込んでいるルルーシュに向かって手を伸ばした。シュナイゼルの大きな手がルルーシュの頬に触れる。頬を撫でるように、シュナイゼルの親指が動く。
 ルルーシュは、逃げたいと心底思った。だが、まさかそんなことをするわけにもいかないので、ぐっと我慢して動かないようにすることしかできない。シュナイゼルは何がしたいのか、ルルーシュの頬を撫でたまま、無言で見つめてくるばかりである。その場に流れるそこはかとなく微妙な空気に耐えかねて、ルルーシュは口を開いた。
「っ……あの、義兄上、ナナリーは……」
 その瞬間、シュナイゼルの周囲の空気が一気に冷たくなった気がした。それは幼い日、薔薇園を目の前で焼き払われたあのときと同じ冷たさだった。
 ルルーシュはそれを悟っていたが、最愛の妹に関することで引けるはずがない。それに、シュナイゼルにはすでに頼みごとの形を借りた『ナナリーを全力で守れ』という命令を下してある。だから彼は絶対に、ナナリーにだけは手出しできない。それだけは確かだった。
 ただ、一つだけ問題がある。ルルーシュのギアスが、いったいどれだけの期間有効なのかということだ。実験してみたところ、数ヶ月以上もつということは明らかになったが、期限があるものなのか永続するものなのかまでは分かっていない。だが、それもまだ今はそれを心配する必要はない。シュナイゼルの言を信じるのなら、彼にギアスを使ってから一日程度しか経っていないのだから。
 だから今心配すべきは、ナナリーの身ではなく自分の身だ。シュナイゼルは昔からなぜかルルーシュの周囲に危害を加えても、ルルーシュにだけは手を出そうとはしなかったから、そんな心配は必要ないのかもしれないが、常にいくつものパターンを考えておくのはすでに癖になっている。
 もしルルーシュが死んでしまった場合、その後もずっとギアスの効果は続くのか。それともルルーシュの死とともに効力も消えてしまうのか。頭の片隅でそんなことを考えながらシュナイゼルの瞳をまっすぐ見つめ返して、ルルーシュは少し硬い口調で問いかける。
「ナナリーはどこにいるのでしょうか?」
「別の部屋で休んでいるよ。安心しなさい」
「少しだけ、会いに行ってもいいでしょうか?」
「……どうしてかな?」
 酷薄に細められたシュナイゼルの瞳を見ていると、どうしようもなくこの場を逃げ出したくなる。これはもう、幼いころに培われてしまった条件反射だ。
 シーツの上でわずかに身を引きながら、ルルーシュは唇を噛み締めた。
「……心配だから、です」
「侍女が面倒を見ているよ」
「それでも……」
 ルルーシュがなおも食い下がろうとすると、シュナイゼルは顔から笑みを消して、乱暴な仕草でルルーシュをベッドの上に押し倒した。
「っ……!」
 突然の事態に、ルルーシュは息を詰めて目を瞑った。それから恐る恐る目を開けて、体の上に覆いかぶさっているシュナイゼルを見上げる。シーツの上に縫い付けられた両の手首が小さな痛みを訴えていたが、それどころではない。いったい何がシュナイゼルの逆鱗に触れたのか。
 異母兄は無表情のまま口を開いた。
「ナナリーナナリーと……少しうるさいよ、ルルーシュ。君は昔からそうだ。私と一緒にいても、違うものばかりを見ている」
「ですが、ナナリーは……!」
 たった一人の実妹の心配をして、いったい何が悪いと言うのだろうか。ルルーシュはそんな想いを込めて反論しようとするが、その前にシュナイゼルが再度口を開いた。
「君の大切にしているものを全て壊したら、君は私を見るようになるのかな?」
「っ……!」
 ルルーシュは目を見開いて、大きく息を呑んだ。
「ナナリー、アッシュフォード……そして、黒の騎士団」
「なっ……!?」
(どうしてそれを……?)
 ユーフェミアは誰にも話していないと言っていた。それなのにどうして、そう思うが、今はそんなことについて考えていられるような余裕はない。ルルーシュがゼロだということは事実でも、黒の騎士団に関わっていたことを認めるわけにはいかないのだ。そんな弱みをシュナイゼルに見せるわけにはいかない。
「……何のことでしょう?」
 何を言われているのか分からないといった感じで、困ったような顔をして、ルルーシュはいっそ見事なまでにしらばっくれてみせる。
 シュナイゼルは無表情を微笑に変えて、ルルーシュの両手首を頭上でひとくくりにして片手で押さえつけると、もう一方の手でルルーシュの頬に触れてきた。
「しらばっくれても無駄だよ」
 そう言って、シュナイゼルはルルーシュの左目の下を指でなぞった。
 なぞられた場所が場所だけに、ルルーシュは思わず固まった。左目には、C.C.に与えられた王の力が宿っている。
 そんなルルーシュを気にすることなく、シュナイゼルは笑顔で続けた。
「少しばかり悪戯が過ぎたね、ルルーシュ。ゼロなんてテロリストになって……悪い子には、お仕置きをしないといけないね」
 お仕置きという不穏な単語を耳にしたルルーシュは眉根を寄せて身構えるが、予想もしていなかった事態に襲われて大きく目を見開いた。
 シュナイゼルは、自らの唇でルルーシュの唇を塞いでいた――つまり、ルルーシュにキスしていたのだ。
 驚きすぎて抵抗することも声を上げることもできないでいると、キスはさらに深いものになる。シュナイゼルの舌が、ルルーシュの唇を割り開いて口の中に入り込んでくる。舌を絡められたかと思うと次の瞬間には上あごを舐められ、さらには歯列をなぞられた。
「っ……ふ、ぁ……」
 巧みな技巧に、色事に対して免疫のないルルーシュは抵抗することすら許されず、キスの合間にあえかな声を上げることしかできない。白い頬は赤く色づき、切れ長の美しい瞳は快感のため細められて、焦点を定めていない。
 しかしシュナイゼルの手がルルーシュの胸を触ったとたん、彼女は正気づいたように目を見開いて、シュナイゼルから逃れようとして抵抗を始める。
 その抵抗をやすやすと抑え込んだシュナイゼルは、最後にルルーシュの唇を舐めてからキスをやめて、己の下で暴れ続けるルルーシュを見下ろした。
 そんなシュナイゼルを見つめ返して、ルルーシュは険しい顔になる。
「どういうつもりですか!」
 ルルーシュの怒りなど意にも介さないと言いたげな態度で、シュナイゼルは口の端を吊り上げる。
「仕置きだと言っただろう?」
「だからって、どうしてこんな……俺たちは兄妹なんですよ!?」
 私と一人称を取り繕うことも忘れて、ルルーシュは悲鳴に近い声を上げる。
 エリア11――日本とは違ってブリタニアでは、親愛を示すために、キスをする習慣がある。日本にそんな習慣がないことを、ルルーシュは一応知っていたのだが、七年前スザクと仲良くなったばかりのころ、つい癖でスザクの頬にキスをしてしまったときには、何とも気まずい空気が流れたものである。二人して馬鹿みたいに焦ってしまった記憶がある。
 そんなふうに、あくまで親愛のキスは頬や額にするものであって、唇にすることはまずないと言ってもいい。
 いくら色事にうといルルーシュでも、シュナイゼルの言う『お仕置き』が何をしようとしているものなのかは、何となく想像できた。唇へのキス、そして胸に触れてきた手。それで分からなければ、よほどの馬鹿か鈍感だ。
 ルルーシュは馬鹿でも鈍感でもない。だから分かった。
 けれど、それは決して許されない行為だ。
 母こそ違えど、シュナイゼルとルルーシュは同じ父を持つ異母兄弟。ブリタニアでも、何百年も昔にさかのぼれば異母兄弟間における婚姻は禁忌でも何でもなかったらしいが、それはあくまでインセスト・タブーが確立していなかった昔の話だ。
 今の倫理観念に照らし合わせて考えてみれば、異母兄弟であるシュナイゼルとルルーシュが交わることは、明らかな禁忌。人に知られるようなところとなれば、シュナイゼルもルルーシュも皇位継承権を剥奪されて、皇族の席を追われることになるだろう。もちろんルルーシュにしてみれば、皇位継承権も皇族であるということも別段どうでもいいことなのだが、これから行われるだろうことについてはそんなふうには思えない。
 ルルーシュは、生物学上で言えば女という種類に分類される。いくらこの七年間ずっと男装していたとは言え、実際に男になれるわけではない。夢見がちというには程遠い性格をしているルルーシュでも、一応女であるからには、初めてというものに少しぐらい夢を見ていた。
 いつか、誰か好きな人と。
 ブリタニアを出ることがなければ、そんな考えを抱くことはなかっただろう。スザクと出会うことがなければ、皇女としてのそんな運命を疑問に思うこともなく過ごしていたのだろう。政治の道具としてどこか他国へ嫁ぐか、貴族に下賜される。それは皇女としての義務だ。
 だから、意に沿わぬ相手と娶わせられる覚悟は、ブリタニアに戻ると決めたとき一緒に決めた。しかし、異母兄に初めてを持っていかれる覚悟なんてものはさすがにない。と言うか、そんな覚悟を決める人間は普通いない。
 非難の意を込めて、ルルーシュは強い瞳でシュナイゼルを睨み付ける。
 しかしシュナイゼルはそれがどうしたとでも言いたげな顔をして、優雅な仕草でわずかに首を傾げ、軽い口調で言う。
「兄妹だから、何だと言うんだい?そんなことは関係ないよ」
「なっ……!」
 ルルーシュが驚きのあまり目を見開いて絶句していると、シュナイゼルは再び顔を寄せてくる。
 はっとして慌てて顔をそらそうとするが、シュナイゼルの方が早く、ルルーシュは再び唇を奪われていた。顔を振って、何とか逃れようとするが、顎を固定されてしまう。それならと足をばたつかせようとしても、上から体重をかけてのしかかられてしまえば、少しの抵抗も許されない。手はいつの間にか解放されていたが、胸を押してもシュナイゼルはびくともしなかった。
 それどころかルルーシュの抵抗を楽しむかのように、間近にある瞳は愉悦に細まるのだ。
 何とか身をよじって逃れようとするが、暴れたせいでむき出しになっていた太腿を大きな手で触れられる。ルルーシュはぎゅっと目を瞑った。
(嫌だっ……!)
 悔しさと本能的な恐れに、涙がにじんでくるのが分かった。どれだけ抵抗しても無駄だということが分かると、抵抗の意欲も薄れてきてしまう。
 どうしてシュナイゼルがこんなことをするのか、本気で分からない。兄妹でこんなことをしていることが発覚すれば、シュナイゼルは身の破滅だ。そんな危険を犯すほどこの異母兄は愚かではなかったはずだ。いや、もしかしたらシュナイゼルのことだから何をしてもばれないように、根回しぐらいは済んでいるのかもしれない。
 だがルルーシュには、もっと根本的なところが分からなかった。次期皇帝に最も近く、数いる兄弟の中でも格段に整った容貌をしたシュナイゼルには、わざわざ血のつながった異母義妹に手を出す理由がない。女に困っているということはありえない。それなのにどうしてこんなことをするのか、ルルーシュには本気で理解できなかった。
 女にしては高すぎる身長に、やせすぎているせいで少年のような印象を与える体。母親に似たおかげで、顔は確かに人並み以上に整ったものなのだと自覚はしている。けれど、胸も尻も小さいルルーシュに女としての魅力なんてないはずだ。
 ここ何年も男として過ごしてきたのだから、一般の男性がどのような女性に性的欲望を覚えるものなのかくらい、ルルーシュにだって分かっている。
 だからこそ不思議なのだ。ルルーシュに手を出しても、シュナイゼルは少しも楽しくないだろう。ルルーシュに対する罰ならばもっと別のことをすればいいのであって、わざわざこんな己の身を危険に晒すようなことをする必要がない。
 それともシュナイゼルはこんな倫理に反したことをしてまで、ルルーシュを苦しめたいのだろうか。半分とは言え、血のつながった妹を犯すという禁忌を犯してまで。

 太腿を撫でていた手がさらに奥へと入り込んでくる。その段階でルルーシュはハッと正気づき、抵抗する意欲を取り戻した。
 大人しくしていたルルーシュが突然抵抗を再開したことで、押さえつける力が緩んだのだろう。シュナイゼルの胸を押すと、予想に反して義兄はあっさりとルルーシュから唇を離して、楽しげな目で見下ろしてくる。
 ルルーシュは歯を食いしばって、涙にうるんだ瞳でシュナイゼルを睨み付けた。そんな目で睨んでも欲情を煽りこそすれ威嚇になど少しもならないことを、ルルーシュは全く気付いていない。
「っ……いい加減にいてください!悪ふざけにも程があるでしょう!?」
「悪ふざけでこんなことをすると思うのかい?」
「本気なら、なお悪いです!やめてください!!」
「聞けないよ。……ナナリーを守れなんて言わなかったら、逃げられたかもしれなかったが……残念だったね。君にはもう、私に対して何を強制することもできない」
 ルルーシュは目を見開いた。
「な、にを……?」
 シュナイゼルは硬直しているルルーシュの左頬に手をやって、ルルーシュの左目の下を指で撫でた。
 先ほどと同じ仕草に、ルルーシュは今度こそ確信した。シュナイゼルは、ルルーシュの左目に宿っている力を知っている。ナナリーのことを持ち出してきて、しかも左目を指し示しているのだから、もはやそれは明白だった。
(どうして……)
 問題は、どうしてそれをシュナイゼルが知っているのかということだ。
 C.C.を研究していたのはクロヴィスだったらしいから、シュナイゼルがギアスについての知識を持っているということに、さほどの不思議はない。だが、マオのギアスは両目、そしてルルーシュのギアスは左目というように、どの瞳に力が出るのかということに決まりはなかったはずだ。能力もまた、ギアスを与えられた個人によって異なるものだ。それは、マオがルルーシュの絶対遵守の力とは異なる力を持っていたことから分かっている。
 だから、ギアスについての研究をしていたからといって、ルルーシュの能力まで明らかにされるわけがないのである。本来ならば。
 固まっているルルーシュの左頬を撫でながら、シュナイゼルは口元に笑みを刷いて言う。
「あんな人前で使うべきではなかったね。ましてや、カメラがあるような前では、ね」
「っ!」
 学園にシュナイゼルが迎えに来たあのとき、報道陣は確かにカメラを回していた。ルルーシュがシュナイゼルにギアスをかけた現場もまた、カメラは捕らえていたことだろう。
 ルルーシュが薬で眠らされている間に、シュナイゼルは録画されたそのときの映像を見たのだ。
(迂闊だった……!)
 思わず唇を噛み締めるルルーシュを見下ろして、シュナイゼルは続ける。
「君がゼロだと分かってから、ゼロが映っている映像を全て集めさせた。そして、ゼロが最初に姿を現したときのものを見て気付いたよ――君のギアスは他人に命令を下せる力だと。だが、あのオレンジ事件の映像だけでは回数制限までは分からなくてね。一度だけしか使えないものなのか、それとも何度と回数が決まっているのか、あるいは制限などないのか」
「……だから、わざわざあんなたくさんの人がいる前で迎えに来た、と?」
 ここまでばれてしまっているのなら、もはや隠すことに意味などない。そう結論付けたルルーシュは唇を噛み締めた。
 シュナイゼルは意味深に笑って口を開く。
「相変わらず、君は頭がいい。君の思っている通り、私は試しのだよ。君のギアスが、どれほどのものなのか……秘密裏に迎えに行けば、その力を使って君は私から逃げるだろう?だがマスコミのいる前で迎えに行けば、君は逃げられない。その場は逃げおおせたとしても、身分が発覚すれば結局逃げ場はなくなってしまうからね。そしてナナリーを守るためなら、君は持つ力の全てを使うということは分かっていた。事実、君は使っただろう?――君のギアスを」
「っ……」
「それから飛行艇に乗り込むまでの間、君のギアスが何度も使えるようなものであるのなら、それを私に対して行使する隙は何度でもあった。だが、君はあれ以降ギアスを使っていない。君は使える力を出し惜しみするような人間ではない。利用できるものは、使える限り利用するタイプだ。つまり、君のギアスは同一人物に対しては一度しか使えない。……私にはもう使ってしまったから、やめろと言われても、大人しく引き下がってあげる理由は無いね」
「ひあっ……!」
 唐突に、下着の上から秘所に触れられて、ルルーシュは妙な声を上げた。シリアスな状況に突入していたせいですっかり忘れてしまっていたが、今ルルーシュは貞操の危機に陥っていたのだ。それを思い出して、ルルーシュはこの場を逃れるために暴れようとする。
「ルルーシュ」
 しかし、シュナイゼルに名前を呼ばれただけでそんな気持ちは簡単にくじけた。先ほどまでの戯れのような空気など、今はもうどこにも残っていない。
「大人しくしていれば、優しくしてあげよう。……だが、暴れればどうなるか……賢い君なら分かるね?」
 恐る恐る、上に覆いかぶさっているシュナイゼルのことを見上げる。異母兄の瞳は、間違いなく本気の色を宿していた。
 これ以上逆らい続ければ、シュナイゼルは間違いなく、逆らったことを後悔するようなひどいことをしてくるに違いない。どうせ逆らったって逃がしてくれないのだろう。それなら、大人しくしていた方が負担は少ない。
 逃げることを諦めて、ルルーシュは体から力を抜いた。
(早く、終わればいい……)
 目を伏せて、それだけを思う。美しい紫の瞳には、何もかもを諦めきったような色が浮かんでいた。
(好きじゃない奴にされるのなら、誰だって一緒だ……)
 たとえ血がつながっていてもそうでなくても、心がこの場にないということだけは変わらないのだから。


◇ ◇ ◇


「っ……う……」
 目が覚めると同時に、股関節やとても口に出しては言えない部分に痛みが走り、ルルーシュは小さなうめき声を漏らした。全身が何とも言いがたい疲労感に包まれている。
 起き上がろうとするが腕に力が入らなくて崩れ落ちそうになり、慌てて両腕に力を込める。何とか身を起こしたルルーシュは、周囲を見渡した。シュナイゼルの姿はもうベッドの上にはなかった。
 窓からは明るい光が差し込んできている。この部屋には時計が無いから正確な時間は分からないが、明るさから判断するに、もう朝なのだろう。
 ルルーシュは裸のままだったが、汗と精液で汚れていたはずの体はいつの間にか清められていて、ぐちゃぐちゃだったはずのシーツも清潔なものに変えられている。シュナイゼルがそんなことをするはずがないから、誰か別の人間がやったのだろう。
 そう思うと、こんな状態の自分を見られたことに対する屈辱と、年相応の羞恥が湧き上がってくる。ルルーシュは頬を赤く染めて唇を噛み締めた。
 シーツを引き寄せてキスマークだらけの体を隠していると、扉が開く音がした。目を向けると、シュナイゼルが入ってくるところだった。裸のルルーシュとは違って、彼はもうすっかり正装を身にまとっている。たったそれだけのことすらも、立場の差を思い知らされているようで、ひどく不愉快で屈辱的だった。
 シュナイゼルは眉をしかめているルルーシュに向かって、内心を悟らせない優しげな笑みで挨拶をしてくる。
「おはよう」
「……おはようございます」
 返す笑顔は思い切り引きつってしまったが、ルルーシュに非は無いだろう。むしろ、半分しか血はつながっていないとはいえ、実の兄に犯された翌日の反応としては上出来のはずだ。
「今日は朝から父上との謁見の予定がある。死んだと思っていた君たちが生きていたのだからね。その祝いに、夜にはパーティーも開かれるから楽しみにしているといいよ」
「……はい」
 正直、そんなもの全く楽しみに思えなかったが、ルルーシュは従順に頷いて、体にシーツを巻きつけてからベッドを降りた。着替えを求めてクローゼットへと足を進める。自分より身分も皇位継承権もずっと高い異母兄に対して取っていいような態度ではないことぐらい分かっていたが、これ以上シュナイゼルと会話することに堪えられなかった。
 体に巻きつけたシーツを引きずって毛足の長い絨毯の上を進んでいくと、窓際にある背の低い棚の上に、妙なものを発見して足を止めた。常識的に考えれば全く妙なものではないのだが、この部屋にあるという事実がとても妙なのだ。
 妙なものとは、全長四十センチメートルほどの大きさのテディベアだった。
(まさか、シュナイゼルの趣味ではないだろうし……俺に対する嫌がらせか?)
 幼いころならまだしも、ぬいぐるみを部屋に飾って喜ぶような趣味はない。嫌がらせという結論に達したのは、ナナリーになら間違いなく似合うだろうが、自分にぬいぐるみなんてかわいらしいものは似合わないだろうとルルーシュが思っているからである。
 足を止めたルルーシュが睨むようにそのテディベアを見つめていると、いつの間にそこまで歩いて行っていたのかシュナイゼルがテディベアを持ち上げて、とても美しく笑って言った。
「これはクロヴィスの形見だよ」
「……え……?」
「もう十年以上前になるのか……君がこれをクロヴィスにあげたのだろう?それからずっクロヴィスはこれを常に自室に飾って、とても大切にしていたのだよ」
 シュナイゼルが近づいてきているにも関わらず、ルルーシュは呆然とした顔で、無防備なまま立ち尽くしていた。
「元々君のものだったんだ。君が持っているといい」
 そう言ってルルーシュにテディベアを預けると、シュナイゼルはそのまま室内を出て行った。
 残されたのは、ルルーシュ一人だけ。だからルルーシュは誰にはばかることなくそのテディベアを床に投げつけて、乱暴な口調で言った。
「馬鹿じゃないのか……あいつ……!こんなもの、何年もずっと捨てずにいるなんて……!」
 ルルーシュはそのまま足元のそれを踏み潰そうとする。しかしどうしてもできなくて、ぐっと唇を噛み締めた。
「ホント……馬鹿だ……馬鹿だよ……」
 そう言っている最中に、視界がにじんできた。膝から力が抜けてその場に座り込むと、床に転がっているテディベアを抱き上げる。それをぎゅっと抱きしめて目を閉じると、頬を温かい感触が伝うのを感じて、ぐっと歯を食いしばった。クロヴィスのために泣く資格なんて、ルルーシュにはもうないのに。
「あに、うえ……クロヴィス義兄上……!」
 優しかったクロヴィスのことが、幸せだったころの記憶が、脳裏によみがえってくる。
 幼いころは頻繁に遊んでもらっていた。肩車をしてもらったことも、絵を描いてもらったことも、チェスの勝負をしたこともある。馬鹿みたいに甘くて、政治よりもずっと芸術を愛していて、少しも皇族にふさわしくない義兄だった。
(……でも、俺が殺した……)
 この世界を、ナナリーにとって優しい世界に変えたくて、ルルーシュはゼロになった。結果として、ルルーシュはクロヴィスを殺した。
 かつては仲良くしていた異母兄。彼を殺したという事実に堪えることができたのは、ひとえにブリタニアを壊すという目的があったからだ。
 けれど、今のルルーシュはどうだ。
 シュナイゼルに見つかった今、彼の目をかいくぐってゼロとして行動することなど到底不可能。しかも、相手はルルーシュがゼロだということを知っているのだ。
 ブリタニアでのルルーシュは無力だ。身分も皇位継承権も低く、何の力も持っていない。
 ブリタニアを壊すなんてこと、今のルルーシュにはとてもできない。
(俺がっ……!)
 ルルーシュが殺した兄は、ならば何のために死んだのだろう。
 ルルーシュがもうブリタニアを壊すことができないのなら、いったい何のために。


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