切望を知らなかった

 ルルーシュ。
 そんな名前をした異母妹の存在を、シュナイゼルが初めてそうと意識したのは、幼いその義妹にクロヴィスがやたらとかまっていたからだ。
 ブリタニアの現皇帝が召し抱える后妃の数は、もうすぐ百に届こうかといったところ。その彼女らの腹から生み出された子どもの数は、后妃の数に比べればずっと少ないとは言え、決して少ないわけではない。少なくとも、全員を数えきるのに両手の指では足りないぐらいには多い。
 皆が皆それぞれ皇帝という頂点の座をめぐって争うブリタニア皇族は、基本的に兄弟仲が悪い。多くの兄弟姉妹は単なる情報としてお互いを認識している。
 実際はどうだとしても、対外的には温厚で優しい皇子として知られているシュナイゼルでもそれは変わらない。他の兄弟たちに優しくしてはいても、それは単に対立して余計な恨みを買うようよりもその方が楽だと知っているからで、それ以上の何かああるわけではない。
 シュナイゼル自身は別段、帝位に興味があるわけではない。凡庸な義兄オデュッセウスよりも周囲から期待を寄せられることは知っているが、自分よりもふさわしい人間がいるのなら、その相手を帝位につけることに全力を尽くすつもりだ。もちろん自分以上にふさわしい人間がいないのなら、帝位につくことを拒むつもりもない。
 だがこんなふうに考えているシュナイゼルの方が特殊なのであって、皇族たちは自分が帝位につこうと必死になって争うのが常なのだ。
 それでもコーネリアとユーフェミアのように、同じ母親から生まれた者同士ならば、家族として親しむことは決して珍しいわけではない。
 しかしクロヴィスとルルーシュは同母の兄妹などではない。
 クロヴィスはブリタニアの大貴族を後見として持つ身であり、母親の身分も高い。それに反してルルーシュはアッシュフォード家を後見にこそ持つもが、母親のマリアンヌ后妃は庶民出であり、そのため生まれた順よりいくらか皇位継承権も低い。
 マリアンヌ后妃は女性ながらナイトオブラウンズにまで上り詰め、『血の紋章事件』では当事のナイトオブワンを仕留めたほどの実力者だ。その事件直後に后妃として召されることがなければ、ナイトオブワンになっていたのはビスマルクではなく間違いなく彼女だったと言われるほどの女傑である。その鬼神のごとき強さのために『閃光のマリアンヌ』という異名で軍部には圧倒的な人気があり、また庶民の人気も高い。しかしそれは、貴族たちや皇族たちにとってはほとんど意味のないことであった。
 クロヴィスの母であるガブリエッラ后妃もその例に漏れず、異端の后妃マリアンヌを嫌っている。もっとも、マリアンヌの方はまるで相手にしていないらしいのだが。
 そんな二人を母親たちに持つクロヴィスとルルーシュが、どうして個人的に親しく付き合っているのかと言えば、その理由はクロヴィスの性格にあった。
 クロヴィスがルルーシュをかわいがり、アリエスの離宮を良く訪れる理由を、一度聞いてみた貴族があったという。あくまで噂で聞いたことだからはっきりしないのだが、クロヴィスの答えは次のようなものだったらしい。

 ――あの子はとてもかわいらしくて美しいだろう?絵を描く意欲を掻き立ててくれるんだよ。

 要は、幼い義妹の人並み以上に整っているらしい容姿を殊の外気に入っていたのが、ルルーシュをかわいがる理由だったらしい。クロヴィスが皇族でなければ、ロリコンいう悪口が出てきてもおかしくないぐらい馬鹿げた理由である。
 正直シュナイゼルはこれまで、クロヴィスは馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、その噂を聞いたとき確信した。クロヴィスはただの馬鹿ではない、正真正銘の馬鹿で阿呆の間抜けなのだと。
 宮殿内に流れる全ての噂を鵜呑みにするほどシュナイゼルは愚かしくはないが、後でさりげなく本人に確かめてみたところ、クロヴィスは噂とほとんど同じようなことを言っていたので、この噂に間違いはないのだろうと判断した。
 クロヴィスは皇族として生まれて皇族として育ってきながら、根っから芸術家肌の人間だった。美しいものを愛で絵を描くことを愛し、争いごとを厭う。第三皇子として周囲からの期待や敵意にさらされて生きてきて、ここまで皇族らしくなく育つことができるのか、とシュナイゼルがいっそ感心するほど、クロヴィスは己の感性に生きる人間だった。
 いや、他人の思惑や視線を丸っきり無視して迷うことなく突き進んでいける性格は、ある意味とても皇族らしいと言えるのかもしれない。
 そんなわけで、シュナイゼルはルルーシュという妹の存在こそ知っていたものの、特別気にかけていたわけでも何でもなかった。
 かつて戦場で閃光のマリアンヌと恐れられた母皇妃の能力を受け継ぐのなら、利用価値もあるだろう。しかしルルーシュは部屋で本を読むことを好み、護身のための稽古もあまり好いていないような大人しい子供らしいから、その可能性は低いと見ていい。読書を好むのならば政治的な能力を期待できるかもしれないが、まだ何年か経たないとそれもはっきりしない。
 今のところは特別気にかける必要もあるまい。そんなふうに思っていたシュナイゼルが、ルルーシュに対してわずかばかりの興味を覚えたのは、またしてもクロヴィスがきっかけだった。


◇ ◇ ◇


 その日シュナイゼルはちょっとした用があって、クロヴィスら母子に与えられた宮殿を訪れていた。シュナイゼルとクロヴィスは母親同士が親しくしていることもあって、昔からそれなりの付き合いがある。そのため通されたのも応接室なんかではなく、クロヴィスの自室であった。
 用事はたいしたものではなかったのですぐに終わり、席を立とうとした瞬間に、ふとした違和感にシュナイゼルは気付いた。
 クロヴィスの部屋には色々なものが飾られている。それは彼自身が描いた絵であったり、美しい硝子細工であったり木彫りの彫刻だったりした。それらのものはどれもが芸術的に優れたもので、絶妙な配置のもと、室内を美しく彩っていた。
 しかし今、その中で異彩を放っているものが一つ。
 壁際に備え付けてある背の低い棚の上に、何故か一体のテディベアがぽつんと置かれているのだ。他の調度品とは全く趣を違えるそれは多大なる存在感を発していて、どうして今まで目に留まらなかったのか不思議なぐらいだ。  そんなことより不思議なのは、あと少しで十代も半ばに突入しようとする男の私室に、どうしてぬいぐるみのクマなんて物体が置いてあるのかということだ。
 カノンを副官として取り立てているということからも分かるように、シュナイゼルは他人の趣味思考がどのようなものであれ、ほとんど気にすることはない。ないのだが、センスだけは抜群に良かった義弟の趣味とも思えないものであっただけに、そのテディベアがやけに気になった。
「クロヴィス、少し聞きたいのだが……あれは何かな?」
 周囲からの重圧に負けて、何かおかしな趣味に目覚めてしまったのかもしれない。シュナイゼルは思った。
 しかしクロヴィスは話題に上げられている物体が何であるかに気付くと、シュナイゼルが予想していたものとは全く違う答えを返してきた。
「ああ、あのテディベアですか。あれはルルーシュにもらったんですよ」
「……ルルーシュ?君がかわいがっている、あの第三皇女のルルーシュかい?」
「ええ。私がチェスボードとチェスの駒をあげたら、代わりにと言って、あれをくれたんです。かわいいでしょう?」
 クロヴィスがかわいいと言っているのは、テディベアではなくてルルーシュのことなのだと分かっていたが、ここでそれを肯定すれば延々聞きたくもない義妹自慢を聞かされそうだと思ったので、シュナイゼルはわざととぼけることに決めた。
「さあ、私にはぬいぐるみのことはあまり良く分からないからね」
「はあ……そうですか……」
 狙い通り、思っていた方向に話が進まなかったことで、クロヴィスは落ち込んだような顔になり、黙り込む。
 そんなクロヴィスに向かって、そう言えば、とシュナイゼルは話しかけた。
「チェスボードと言ったが、もしかしてあのチェスボードを譲ったのかい?」
「ええ、あれですよ」
 クロヴィスは笑顔で頷く。
 クロヴィスが昔、チェスを始めたばかりの頃だっただろうか。彼は名のある職人に命じて、特別性のチェス盤とチェスの駒を作らせた。シンプルで重厚なデザインのそれはいたくクロヴィスのお気に召していたようで、部屋の飾りとして何年もの間、今テディベアが占拠している場所に置かれていた。
 あまりチェスが強いとは言えない異母弟の手元にあるぐらいなら、いつかクロヴィスがそれに飽きるぐらいの頃に譲ってもらおうとシュナイゼルはこっそり思っていたのだ。あまり物に執着がないシュナイゼルだが、それでも少し残念だと思うぐらいには気に入っていた。
「つい一月ほど前ルルーシュに、戯れにチェスを教えてみたら思いのほか気に入ったようで、アリエスの離宮に行くたびチェスをしてくれとせがまれるのですよ。私はあまりチェスをするわけではありませんから、部屋の飾りになっているよりあの子に使ってもらった方がいいかと思って譲ったんです。……実は情けない話なのですが、ルルーシュは私よりもうずっと強いんですよ」
 情けないと言いながらも、クロヴィスはどこか誇らしげな顔をしている。
「たった一月で、君よりも強くなったのかい?」
 シュナイゼルは驚いて、わずかに目を見開いた。
 一月ほど前に手解きを受けた五歳の子供が、もうクロヴィスを追い越したなんてことは普通ならありえない。確かにクロヴィスのチェスの腕はあまりいいとは言いがたいが、それでも弱いわけではない。初心者が勝てるような腕前ではないのだ。
「いいえ、本当です。最近では、私では相手にならなくて、ルルーシュはつまらないと拗ねてばかりいるんです。そうだ、今からアリエスを訪れようと思っていたのですが、義兄上も一緒にいかがですか?一度あの子の相手をしてやってはもらえませんか?まだ五歳とはとても思えないほど聡明で、将来有望な子ですよ」
 クロヴィスは簡単に言うが、シュナイゼルは十代も半ばの年でありながら、すでに多くの重要な政務を任されている。クロヴィスほど暇人ではないのだ。しかし元々優秀な人間であるため、期日が迫っているような書類は残っていないし、火急に片付けなければならない仕事も残っていない。
 だからその義妹が今後役に立つ人間であるかそうでないか、帝位につけるに値する人間か否かを確かめるため、シュナイゼルは笑顔で言った。
「そうだね、一緒に行かせてもらえるかな?」



 そうして初めて会った異母妹は、予想以上に頭が切れた。
 クロヴィスがいくら強いと褒めようと、相手は五歳の子供で、一ヶ月ほど前にチェスを始めたばかりの初心者。本気を出すほどではないだろうと最初は侮っていたのだが、シュナイゼルはその認識をすぐに改めることになった。
 シュナイゼルは白、ルルーシュは黒の駒を使っての勝負。シュナイゼルとしては初心者のルルーシュに白を譲ろうかと思ったのだが、ルルーシュがそれを拒んだため、ルールに則った白黒の決め方をして、結果決まった駒の色だ。
 少し甘い手を打てば、十数手先の展開を考えると白にとって非常に厳しい手が即座に返って来る。それが一度なら偶然の一言で片付いただろうが、何度も続けば偶然なんてものではなくてルルーシュの実力であることは明らかだった。
 一手にかける時間の短さに、初心者にありがちな適当さや投げやりさはどこにもない。時間の短さに比例せず、考え込まれた良い手をルルーシュは打った。
 いくつものパターンを頭の中で計算して、ルルーシュは常に最善の一手を考えているのだろう。しかも彼女が見据えているのは、目先の得ではない。十数手、あるいは数十手先に待ち受けるチェックメイト。
 未だ幼い異母妹の持つ思考能力の高さとその速度のすばらしさ、そして先を見据える能力の高さがゲームを通して見て取れる。予想以上の才知と聡明さを感じ取ったシュナイゼルは驚きと同時に、この才能を恐ろしいと思った。そんなことを思ったのは、考えてみれば生まれて初めてだったかもしれない。
 先を見通して策を弄し、場を支配する指揮官としての飛びぬけた才能がルルーシュにはあった。幼い今でこれほど高い能力を見せているのだ。長ずれば、シュナイゼルをも越す才になるかもしれない。
 自分以上に帝位にふさわしい存在がいるのならば、その人間が皇帝となるのを邪魔する気はないシュナイゼルだったが、これまでそれに足る存在と出会ったことはなかった。けれど、今はまだ幼く未熟なこの子どもは、もしかしたらその稀有なる存在になりえるかもしれない。
 その可能性を楽しみに思いながらも、シュナイゼルはとりあえず現時点での力量差をルルーシュに示すために、少々大人気はないけれど、ルルーシュをチェスで完敗させることにした。クロヴィス程度に勝ったからといって天狗になって、研鑽することを忘れられては困る。叩き潰したことで腐ることも考えられるが、そうなったらそれだけの存在だったと見切りを付けるだけのこと。
 いくら才能があるとは言っても、まだ幼い上に初心者のルルーシュである。叩き潰すのは、簡単とは言わないがそう難しいことでもなかった。少しばかり本気を出せばそこで決着はついた。
 クロヴィスを倒したルルーシュは、きっと自分の強さに、それなりの自身を持っていたことだろう。それは、自惚れが強く視野の狭い子供としては当然のことだ。
 幼い異母妹が今からどんな反応をするのか、シュナイゼルには楽しみで仕方がなかった。
 追い詰められたとき、人は本性をさらす。自信があったチェスで負けて、ルルーシュはいったいどのような顔を見せるだろう。
 子供らしく癇癪を起こすのか。あるいは、悔しさに唇を噛み締めながらもプライドの高さゆえにそれを押し隠して、作った笑みを浮かべるのか。それとも無邪気に笑って、シュナイゼルの強さに感服するのか。その対応で、この子どもの器が知れる。
 シュナイゼルがそんなことを考えていると、ルルーシュは盤面の情勢が悪くなったときからずっとうつむいていた顔を上げて、シュナイゼルを見た。他の兄弟たちの誰よりも純粋な紫に近いその目に宿っていたのは、間違いなくシュナイゼルに対する怯えであった。
 いくらシュナイゼルでも、ここで怯えられるとは全く想像していなかった。あまりに意外で、彼にしては珍しく数秒間動きを止めてしまったぐらいだ。
 シュナイゼルは勝負の最中であっても笑顔を崩さなかったし、態度を荒ませることもなかった。それなのにルルーシュは、どうしてこうも怯えているのだろう。盤上では確かに容赦なく追い詰めたかもしれないが、それはあくまでゲームの中でのことだ。
 シュナイゼルがそんなことを考えている間に、ルルーシュは見事なまでに怯えを身の内に覆い隠してしまった。彼女はわずかに青ざめた顔に笑みを浮かべると、シュナイゼルに時間を取らせたことに対する礼を言った。それからシュナイゼルと、勝負を観戦していたクロヴィスとを部屋の中から追い出そうとする。
 それは勝負に負けた子供が起こす癇癪そのもので、先ほど見えた怯えは見間違いだったのかと勘違いしてしまいそうになったほど自然だった。
 けれど、そう思った次の瞬間にルルーシュと目が合って、シュナイゼルはそれが間違っていることを確信した。ルルーシュはシュナイゼルに怯えている。表情が、声が、態度が、どれだけ平静を装っていても、稀有な色をした瞳の中にある怯えまでは隠しきれてはいない。
 シュナイゼルはこれまで、こんなふうに怯えられたことは一度もなかった。それなのにルルーシュは、どうしてこんなふうにおびえているのだろう。まさかとは思うが、たったこれだけの短い時間で、笑顔の裏にシュナイゼルが抱える虚無に気づいたとでも言うのだろうか。
 そう思うと、自然と顔には笑みが浮かんできた。
 己を越すかもしれない才能。それだけでも稀有だというのに、この子どもはこの短時間でシュナイゼルの虚無に気づいた。
 面白い。そう思った。利用価値や器の大きさなんてものに関係なく、純粋におもしろいと思った。こんなにも興味を引かれる存在は初めてだった。気分が高揚して、自然と顔にも笑みが浮かんでくる。
 ルルーシュはそれを見て、怯えたように一瞬ビクリと身をすくませた。

 誰にも何にも興味を持つことのできなかったシュナイゼルが、初めて興味を引かれた存在。それがルルーシュだった。


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