希望に手を伸ばさなかった

 久しぶりに目にする、思い出したくない記憶にばかりつながっている異母兄の顔を凝視して、ルルーシュは固まっていた。
 顔は色を失い、まるで紙のような白さを呈している。しみひとつないなめらかな頬からは血の気が失せ、紅を差したように赤い色をしていた唇は、すっかり赤みを失って青ざめてしまっていた。整いすぎるほど整った相貌が色を失ったその様は、生きている人間というよりもむしろ、希代の人形師の手により作り出された美しい人形のようでさえある。しかし、アメジストのように美しい紫の双眸には、人形には決してありえない感情が宿っていた。それは、生きている人間にしか持ち得ないものだ。
 常ならば皮肉な光をたたえているか、不遜に他者を見下すような色を移している瞳は怯えをにじませ、目じりには涙さえ浮かんでいて、明らかに尋常ではない様子を表している。
 端から見ていてもはっきりそうと分かるほど、ルルーシュはシュナイゼルに怯えていた。
 けれど真正面から怯えを向けられているというのに、シュナイゼルは優しげな笑みを崩すことはなかった。彼はゆっくりと、ルルーシュの方へ向かって歩いてくる。ルルーシュが怯えきっていることなど、人の感情の機微に聡いシュナイゼルは分かっているはずだ。だというのに彼は、親しげな口調で話しかけてくる。
「久しぶりだね。ずっと心配していたんだよ?」
「っ……!」
 ルルーシュは息を呑んで、視線はシュナイゼルに向けたまま、思わず抱きしめていたナナリーの華奢な体にしがみついた。
 ルルーシュの怯えを感じ取ったのか、ナナリーは宥めるようにルルーシュの背に手を回して、ルルーシュを抱き返してくる。
 月を欺くほどの美貌のルルーシュと、野に咲く花のように可憐なナナリーがしっかりと抱き合うその光景は、まるで一幅の絵画のように見事で、観賞に堪えるものだった。
 事実、周囲を取り囲んでいた学生や一般人たちは感嘆するようにため息を吐いて、抱き合う二人のことを眺めている。報道陣はすかさず、その美しい光景をカメラに捉えてさえいた。
 それとは裏腹にシュナイゼルは、抱き合う二人のことを笑顔を浮かべながら、それとは正反対の冷たい視線でにらみつけていた。いや、正確に言うならば、その絶対零度の視線が向けられているのはナナリーに対してだけであった。
 シュナイゼルの瞳に浮かんだ凍てつくような冷気は、瞬きするほどの短いうちに消えうせてしまった。だからそれは相当目端が利く者か、あるいは彼の本性を知るルルーシュぐらいにしか見て取ることはできなかっただろう。それを示すように、ナナリーに向けられた視線の冷たさに気付いたルルーシュが、大きく身体をすくませるのを見て、群衆のほとんどが理解できないような顔をしている。
 明らかに異様な空気をかもし出している、ブリタニアの第二皇子と、一般人にしか見えない男子学生。群集たちは、好奇心をそそられたような顔で、その二人をじっと見ていた。
 不意に、緊迫した空気を打ち破る声があった。
「シュナイゼルお兄様……!あの……」
 心底怯えきっているように見えるルルーシュを見て、理由は分からないながらも憐れを催されたのだろう。ルルーシュから少し離れたところで、シュナイゼルの訪れに驚いて突っ立っていたユーフェミアが、兄の歩みを止めようとしてその側に走り寄って行く。
 そんな彼女に向けてシュナイゼルは、穏やかな声で、けれど決然とした口調で言いきった。
「ユフィ、私はルルーシュと話がしたいんだ。邪魔をしないでくれるかな?」
 シュナイゼルが片手を上げて合図をすると、周囲を囲む軍人の一人が丁寧な動作でユーフェミアの腕をつかみ、この場を離れるように促した。
 ユーフェミアは、半ば引きずられるような体勢になりながら、それでも必死な様子で声を上げる。
「でも、お兄様……!」
「悪いようにはしないから安心しなさい。私が昔からこの子をかわいがっていたのは、君も知っているだろう?」
 穏やかな笑顔で、優しい口調で、なだめるような声でシュナイゼルは言う。
 それを受けて、今度はユーフェミアも安心したような顔になって、促されるままにこの場を去って行く。
 シュナイゼルの言っていることは、間違っていない。庶民出の皇妃から生み出された第三皇女を、シュナイゼルがとてもよくかわいがっていたのは、皇族貴族ともに周知の事実に近かった。少なくとも、周りの人間にとってはそう見えただろう。
 ルルーシュが、シュナイゼルの振る舞いをどう思っていたかという事実を置き去りにして。
 シュナイゼルはルルーシュに優しかったのかもしれない。けれど、その優しさが本当に優しさであったのかと言えば、ルルーシュは否と答えた。そうでなければ、かまわれるたび怯えて震えるルルーシュを知っていたにも関わらず、それからもずっと同じようにかまうようなことをシュナイゼルはしなかっただろう。シュナイゼルが本当にルルーシュのためを思ってくれていたなら、ルルーシュのことを放っておいてくれただろう。
 ルルーシュが日本で身を隠していた理由を、彼が分からないはずがないのだから、こんなふうにわざわざ公の視線の前で――しかも報道陣までいるような状況で、ルルーシュを迎えに来たりしないだろう。
 シュナイゼルはただ面白がっているだけだ。彼の笑顔の裏に潜む虚無に、たった一度チェスの勝負をしただけで気付いたルルーシュが物珍しくて、ルルーシュで遊んでいるだけなのだ。お気に入りのおもちゃで遊ぶ、子供のように。
 ルルーシュが怯えていても笑っていても、シュナイゼルには関係ない。彼は自分のやりたいように行動するだけなのだから。
 ユーフェミアに向けられていた視線が再び自分に戻されるのを見て、ルルーシュはひっと音を立てて息を呑む。
「どうしたんだい、ルルーシュ?そんな顔をして」
 ゆっくりと歩いていたシュナイゼルは、とうとうルルーシュのすぐ近くまでやって来た。彼はルルーシュの頬に触れようとして、手を伸ばしてくる。
「いやだっ……!」
 ルルーシュはとっさに、音を立ててその手を振り払った。
 しん、と一気に場が静まり返る。それは、皇族に対して許されるような仕打ちではない。いくら第二皇子が温厚で知られているからと言って、周囲の人間が今の無礼な振る舞いを許さないだろう。そう思って、周囲の人間たちはルルーシュに同情を寄せた。
 そんな空気の中で、軍人たちが囲んでいる輪の内側に、一箇所だけシュナイゼルの通り道として空いていたスペースを走り抜けて、一つの影が入り込んできた。少女の形をしたその影――ミレイは、今にも倒れそうな顔色のルルーシュを庇うように、シュナイゼルの前に立ちはだかって口を開いた。
「失礼します、殿下!」
「っ……会長……」
 驚きに目を瞠るルルーシュを背後に、ミレイは強い目でシュナイゼルを見据え、物怖じしない態度で言う。
「我が校の副会長の無礼は、この学園を経営する者の孫として、またこの学園の生徒会長として私が謝罪いたします。だからどうか、この場はお引きください」
「君は、アッシュフォードの……確か、ミレイと言ったかな?私は別に、怒ってなどいないよ。この子も、突然のことに動転してしまっただけだろう。何しろ、こうして会うのは随分と久しぶりのことだからね。それにこれぐらいのことで、かわいい妹を怒ったりするほど私は狭量ではないつもりだよ。――そうだろう、ルルーシュ?」
「っ……」
 ミレイの後ろで、ルルーシュはビクリと身体を揺らす。
 周囲では、信じられない展開に、人々が声を潜めて高速で会話を交わしていた。
 ミレイはそんな周囲の様子など、目に入っていないとでも言いたげな余裕のない様子で、ルルーシュのことを横目で確認した。それから彼女は無表情を崩さないようにこっそりと歯を噛み締めて、再び口を開いた。
「……何のご冗談を。この子の名は確かにルルーシュですが、制服を見ても分かるように男の子ですわ。シュナイゼル殿下、貴方の妹姫であったルルーシュ・ヴィ・ブリタニア皇女殿下は、七年前にお亡くなりになられたはずでしょう?ブリタニアの、日本侵略の際に」
 普段の行いこそふざけたものであるけれど、人一倍聡明なミレイにはもう、分かっているはずだ。こんな場所で身分をばらされた以上、いくら否定しようと、マスコミはすぐに真実を見つけてしまうなんてことは。
 男装していようと、ルルーシュの容貌はあくまで女性的なもので、母であるマリアンヌに似すぎている。しかもナナリーはルルーシュのように変装しているわけではないし、二人とも苗字は変えていても、名前までは変えていない。
 そんなことをミレイが分かっていないはずはない。それなのに、それでもこうやって庇ってくれているのはルルーシュが怯えているからだ。
 幼い頃からの付き合いであるミレイは、シュナイゼルに対するルルーシュの怯えも、ルルーシュがどれだけ皇室に戻りたくないと思っているかも、とてもよく知っている。だから、無駄と知りつつも、何とかして逃げ道を作ろうとしてくれている。
 けれど、もはや逃げ切れないことはルルーシュ本人が一番よく分かっていた。シュナイゼルはもう、ルルーシュを自由にしてくれることはないだろう。
 戻るのは、怖い。
 それでも、戻らなければ、ナナリーや学園でできた友人たちがどうなるか分からない。ルルーシュが強情を張ってシュナイゼルの手元に戻ろうとしなければ、この義兄はきっとアッシュフォード学園でのルルーシュの居場所を壊しにかかる。ルルーシュ本人ではなくて、ルルーシュの大事にしている人物を傷つける。それは、幼い頃から見ていた兄の行動傾向を考えれば容易に想像できた。
 今、何とかしてルルーシュたちのことを守ろうとしているミレイも、これ以上過ぎたことを言えば、間違いなくシュナイゼルの不興を買うだろう。ミレイの身に不幸が起こることを、ルルーシュは望まない。だからもう、ルルーシュには、ミレイが守ろうとしてくれたことだけで十分だった。
 ナナリーを抱きしめる腕から力を抜いて、ルルーシュは折り曲げていた膝をまっすぐに伸ばして、姿勢を正す。ナナリーが不安そうな顔で見上げて、ルルーシュの手を握り締めてきたが、ルルーシュは優しくその手を外させた。
 物言いたげな顔で見上げてくるナナリーから視線を外したルルーシュは、懸命にルルーシュを庇おうとしてシュナイゼルに対峙しているミレイの肩に手を置いて、ほとんど聞こえないような小さな声でぽつりと言った。
「……会長、もういいんです……」
「でも、ルルちゃん……!」
 その瞬間、勢いよく振り向いたミレイに、ルルーシュは泣き笑いのような顔で笑いかける。
「……本当に……もう、いいんだ……ミレイ」
「っ……!」
 ミレイは息を呑んで、黙り込んだ。
 ブリタニア皇族としての自分を捨ててから、ルルーシュはずっとミレイのことを、敬称を付けて呼んでいたし、高校に入ってからは会長と呼ぶことしかなかった。それはルルーシュが“ルルーシュ・ランペルージ”として決めた、アッシュフォードに対する線引きだった。
 そのことを知っていたミレイは、自分も泣きそうになって、ルルーシュのことを見つめ返してくる。
 そんな彼女に向かってルルーシュは、感傷を振り切るように完璧なロイヤルスマイルを浮かべて告げた。
「ありがとう、ミレイ……そして、さようなら。アッシュフォードの献身を、私が忘れることはないだろう」
 それはミレイに対する別れと同時に、自由であった“ルルーシュ・ランペルージ”という自分への別れでもあった。
 皇女であるというのに、物心ついたときから普段は絶対に使っていなかった私という一人称も。ミレイ個人ではなく、わざわざアッシュフォードという家の名を出してきたのも。ルルーシュが皇族としての自分を意識しているのだということを、何より如実に示していた。
「っ……」
 それに気付いたミレイが息を詰まらせた後、はらはらと涙を流し始める横をすり抜けて、ルルーシュはシュナイゼルの目の前に立つ。
 ルルーシュは慇懃な動作で頭を下げて、感情のこもっていない声で言った。
「……お久しぶりです、シュナイゼル義兄上。神聖ブリタニア帝国第三皇女ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア、ただいま戻って参りました」
 ルルーシュがそう口上を述べた瞬間、周囲を取り囲んでいた群集は、一気にどよめきを上げ、落ち着きなく騒ぎ始めた。
 当然だ。
 死んだはずの第三皇女が、実は生きていたという事実。女性的な美貌の持ち主であるが、少年の格好をしている人物が、皇女の名乗りを上げたということ。そして、アッシュフォード学園の生徒たちはさらに、あの副会長が実は女で、それどころか皇女殿下だったという事実に心底驚愕していた。
 騒ぐ周囲を全て無視して、ルルーシュはさらに続ける。
「七年もの長きに渡り、死を装って皇室を留守にしていた罰は、どのようなものでも受けます。ですが日本侵略のあの日、父上に死ねと命じられたも等しき我ら姉妹の思いも、どうか察していただきたい。私たちはあの日、ブリタニアに見捨てられたのです。そんな国に戻ろうという思いが、どうして起きましょうか。ですが、戻らぬと決めたのは私の独断……ナナリーは関係ありません。ですからどうか」
「相変わらず君は、うらやましくなるほどナナリーを大切にしているね」
 ナナリーには罰を与えぬよう、嘆願するルルーシュの言葉を途中でさえぎって、シュナイゼルはわずかに目を細めて笑う。
 けれど、表情が笑っていても、その瞳が笑っていないことに、ルルーシュはすぐに気付いた。昔からそうだ。シュナイゼルは、ルルーシュが大切にしているものを、いつだって嫌っていた。
 お気に入りの侍女は、ルルーシュが知らない間にどこかにやられてしまった。クロヴィスから譲り受けて以来ずっと大切にしていた年季の入ったチェスボードは、シュナイゼルが送ってくれた新しいものと取り替えられて、捨てられてしまった。他にも数え切れないほどのものを、人を、シュナイゼルは取り上げてきた。
(昔は、取られるのを、壊されてしまうのを怯えるだけだった……でも、今は違う)
 ルルーシュは決意を秘めた瞳で目の前のシュナイゼルを見上げた。
「ええ。……たった一人の、同母の妹です。ですから、どうかお願いです、義兄上」
(今の俺には、力がある)
 同じ人間には一度しか使えない、絶対遵守の力。それを、ルルーシュは持っている。
 ここでシュナイゼルに使ってしまっては、後々ルルーシュの身に危機を招くかもしれない。それでも今使わなければ、シュナイゼルはナナリーに何をするか分からない。
 母は死に、スザクはユーフェミアのものになり、自由に暮らせた日々も、今はもうルルーシュの手元には残っていない。今ルルーシュに残されているのは、ナナリーだけだ。
 だからナナリーを守るためなら、後に自分が危なくなる可能性なんて、ルルーシュにはどうでもよかった。
 今までルルーシュは、シュナイゼルには何一つ頼ったことはなかった。そのルルーシュからのお願いという言葉に、怪訝そうな顔を崩そうともしないシュナイゼルの瞳を覗き込んで、右目に意識を集中する。
 そしてルルーシュは、迷うことなくギアスを発動させた。
「私はどうなってもかまいません。ですがナナリーは……ナナリーだけは守ってください。これが私の、最初で最後の願いです。どうか全力で、ナナリーを守ってください」
「……分かったよ、ルルーシュ」
 絶対遵守の力を使ったおかげで、願い事を快く了承してくれたシュナイゼルを見て、ルルーシュはほっとしたように息を吐いた。
 ギアスを使わなければ、表面上はどうであれ、ナナリーを守れという願いをシュナイゼルが聞き届けてくれたはずがない。それを考えると、ここでギアスを使って良かったのだと、心からそう思うことができた。
 ふと、視界の端に無骨な外観をしたナイトメア――ガニメデが目に入った。そちらに目を向けると、コックピットに座ったまま、目を見開いて固まっているスザクと目があった。
 その瞬間、るるーしゅ、とスザクの唇が動く。そしてスザクは、ナイトメアに乗っていることも忘れたように、迷子になった子供のような表情でルルーシュに向かって弱々しく腕を伸ばそうとする。もちろんガニメデの腕ならまだしも、スザク自身の腕が届くことなど、物理的な距離を考えてみればありえないことだったが。
(スザク、俺は……)
 ルルーシュの瞳が一瞬、泣きそうな色を宿す。しかしそれはすぐに掻き消えてしまった。それとほとんど同時にルルーシュは、スザクから視線を逸らした。
 昔のように、何をためらうこともなく、手を伸ばすことができれば良かった。
 例えば子供の頃、切り立った斜面を登ろうとしたときのように。助けてほしいのだと言葉で言うことはできなくても、全身で示すことができたなら、どれだけ良かっただろう。
 けれどそれは、過ぎ去ってしまった過去にのみ許された、つかの間の夢。
 スザクはユーフェミアを選んで、ルルーシュはもう皇族に戻ることを選んでしまった。
 幸せだった昔には、もう戻れない。
 悲しげに目を伏せて、ルルーシュが唇を噛んでいると、目の前に立つシュナイゼルから手を差し出された。
「おいで、ルルーシュ」
 ルルーシュはゆっくりと視線を上げ、手を差し出すシュナイゼルと目を合わせると、少しぎこちない笑みをうかべる。
「……はい、義兄上……」
 従順に頷いたルルーシュはもう一度スザクの方を見ると、全ての感傷を振り切るようにすぐに視線を逸らして、そして自分からシュナイゼルの手を取った。


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