「今日は驚くことばかり。ルルーシュとナナリーはこんな近くにいて、しかもスザクの友達だったなんて」
ユーフェミアは意外だとでも言いたげな口調でそう言って、ふわりと微笑んでみせる。
うれしげな空気を振りまく彼女から目をそらして、ルルーシュは眉を顰めた。
ルルーシュたち姉妹がアッシュフォード学園にいたことに驚くのは、まだいい。皇族の存在を隠蔽し、許可もなく勝手に自家で保護するのは、法に照らし合わせてみると明らかな重罪だ。いくらアッシュフォード家がかつてヴィ家の後見を務めていたからといっても、生半可な覚悟でできることではない。
けれど自分たちがスザクの友人だったということに、どうして驚く必要がある。
スザクは枢木ゲンブの息子だ。本人も周囲も、そのことをことさら隠そうとしているわけではない。そして、ルルーシュとナナリーがかつて人質として日本に差し出されたときどこに預けられたのかということは、少し調べればすぐに分かることだ。それを知っていれば、ルルーシュたちがスザクの知人であることぐらい簡単に推測できる。
それなのにユーフェミアは、その事実に驚きを感じている。ルルーシュからしてみればとても信じられないことだ。
ユーフェミアは、ルルーシュがゼロだということを知っている。知ったのならば、ルルーシュが日本へ送られてからこれまでどうやって過ごしてきたのか、普通は調べたりするものではないのだろうか。
そんなことも思いつかないから、お飾りの副総督と言われることになるのだ。
(コーネリアの手で、大切に守られてきた皇女様は、成長する必要性すら感じなかったのか……?)
しかし、とルルーシュは思い直す。
(下手に知恵が回るようになって、俺の生存を本国に報告するような人間に育っていないだけ、マシというものか……)
ブリタニアにはもう二度と戻りたくない。このままナナリーと二人で、穏やかに生きていきたい。七年前にそう思ったからこそ、ルルーシュは仮初めの自由と知っていながら、皇族としての自分を殺した。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアではなく、ルルーシュ・ランペルージとして生きていくことを決めた。
生きていることが知れれば連れ戻されることは必至。だからルルーシュもナナリーも、息を潜めて暮らしてきた。決して見つかることのないように。
遠い目をして過去を思い返しているルルーシュに気付かず、ユーフェミアは言う。
「私は、皆が幸せにならないと嫌なの」
(幸せ?)
ルルーシュは歯噛みした。
(君が俺たちに会いに来ることで、俺たちが負うリスクも考えない君が、それを言うのか?)
ユーフェミアは、ルルーシュたちのことを誰にも言っていないと言った。だが、それが何の保障になるというのだ。今こうして会っていることがすでに、ルルーシュが必死になって守ってきた七年の平穏を壊すかもしれない可能性を秘めていることを、気づいてさえいないくせに。
ユーフェミアが不審な行動を取れば、その報告はコーネリアへいく。知り合いなどいるはずもないエリア11の学園で取った一般人と護衛抜きで話すというこの行動が、コーネリアに報告されないとどうして言える。そこからコーネリアが、ルルーシュとナナリーの生存を知ることがあるかもしれないと、どうして考えないのだ。
それでも、見つかるのがコーネリアならばまだマシだ。あの姉は一見したところ非情に見えるが、身内にはかなり甘い。泣き落としでもすれば、ルルーシュたち姉妹を見逃してくれる可能性は高い。
けれど今、この国に滞在している皇族は他にもう一人いる。ブリタニアの第二皇子シュナイゼル。ルルーシュの異母兄の一人。この国には今、シュナイゼルがいるのだ。あの恐ろしい義兄に見つかったら……そう想像するだけで、背筋にぞっと怖気が走る
コーネリアのように見逃してくれるような甘さは、シュナイゼルにはない。見つかってしまったら、今の幸せも平和も自由も全て奪い取られてしまう。優しい義兄の仮面をかぶったシュナイゼルの手によって。
そんな想像をして怯えるルルーシュの思いなど知らず、ユーフェミアはほわほわと幸せそうに微笑んでいる。彼女に向かって、ルルーシュは低い声で告げた。
「……でも、会うのは今日が最後だ」
「ううん、いい方法を見つけたから」
階段の上、隣に座ったユーフェミアは、何ら気負う様子もなくそう言ってのける。
(いい方法?……一人じゃ何もできない君が?)
嘲るわけでもなく、ただ本心からそう思って、ルルーシュはしんなりと細い眉を顰めた。
自分が言ったことが、どれだけ難しいことであるのか、どれだけ現実味のないことなのか。ユーフェミアはそのことに、少しも気付いていないように見えた。少なくともルルーシュには。
コーネリアに溺愛されて、何一つ不自由なく大切に育てられ、美しい世界の中にいきてきたお姫様。
同じ皇族だというのに、ルルーシュともナナリーとも違いすぎる、幸せな少女。不幸な境遇に生きることを余儀なくされたルルーシュたちの前で、幸せに生きてきたユーフェミアが、どうしてそんなことを言えるのだろうか。
ユーフェミアが口にしたそれは、自分が幸せであるからこそ言える言葉だ。もしかしたら、自分が幸せでなくてもそう口にできる根っからの善人は存在するのかも知れない。けれどユーフェミアは違う。いつだってコーネリアに蝶よ花よと守られてきたユーフェミアが、幸せでなかったはずがない。
自分が幸せだから、他人も幸せじゃないと嫌。それは他人が不幸だと、自分の気分が悪くなるからだ。ユーフェミアの願いは、そんな自分勝手な思いからもたらされる偽善に過ぎない。自分が幸せだから、他人を憐れんでいるに過ぎないのだ。皆が幸せにならないと『嫌』なのだという言葉からも、それは簡単に分かる。彼女のそれはただのわがままだ。
幸せを願うとその口で言いながら、彼女は不幸な人々のことなど、本当は何一つ考えてはいないのだ。
その考えが悪意に寄り過ぎているということは自覚していた。それが分かっていても、胸の奥底から湧き上がってくるこの悪意を止めることはできなかった。
たった八歳で辛酸を舐め尽くした自分とは違いすぎるこの義妹が、憎くて憎くてたまらなかった。
八歳のときに、ルルーシュは母を失った。どうして母を守らなかったのだと抗議にいった父からは辛らつな言葉を浴びせかけられて、日本へ行けと命じられた。明確な言葉にされることはなかったけれど、自分たちが人質なのだということを、聡明なルルーシュは正しく理解していた。
送られた日本で与えられた住まいは、古びた土蔵だった。締め切られた蔵は換気すら滅多にしないのかよどんだ空気に覆われていて、ろくに掃除もされていなかった。湿気が多くて不愉快な上に、天井の隅には蜘蛛の巣が張っていて、ときにはネズミの姿も見えた。
そんな場所で暮らすことを余儀なくされる屈辱など、ユーフェミアはきっと想像したことすらないだろう。
スザクと初めて会ったのもその土蔵だ。これから暮らしていくにはあまりにひどい住まいの外観を、目の見えないナナリーにそのまま伝えることをためらったルルーシュがついたささやかな嘘を、台無しにしたのがスザクだった。
スザクは今でこそ大人しく温厚な性格になったが、初めて会ったころはひどいものだった。出会いがしらで殴られたのだから、第一印象は本当に最悪だった。ただ客観的に見れば、あれはスザクだけが悪いわけではない。ナナリーへの気遣いを台無しにされて腹が立ったからといって、つかみかかろうとしたルルーシュにも非はある。
最低最悪の初対面を果たしたスザクであったが、あることをきっかけに急激に親しくなっていって、いつの間にかナナリー以外で唯一気を許せる相手になっていた。
けれど人質として送られた地で、そんなふうに仲良くなれたのはスザク一人だった。枢木ゲンブはルルーシュたちを駒としか見なかったし、枢木家の使用人たちからはまるで腫れ物でも扱うような態度で接された。町に出れば冷たい視線に囲まれて、ちょっとしたことで因縁をつけられて、殴られた。何もしなくても同じだった。あの一年に満たない間、ルルーシュは理不尽に暴力を振るわれ続けた。
それがどれだけ恐ろしいことかなんて、コーネリアに守られてきたユーフェミアはきっと知らない。振り上げられる手が、足が、向けられる冷たい目がどれだけ痛いものかなんて。
助けてくれたのはスザクだけだった。いつだってスザクだけが、ルルーシュを助けてくれた。乱暴だけど優しくて、意地っ張りだけどまっすぐで、怒りっぽいくせに泣き虫だったスザク。そんな相手を好きにならないわけがなかった。友達としての好きが親友の好きになり、恋愛の好きになるまでそう時間はかからなかった。
それから何年も経って、ナナリーとスザク以外にも大切な人はできた。それでもスザクは、スザクだけは特別だった。七年前に生き別れになって以来、生きているかどうかさえ分からなかったけれど、ずっと心配していた。
それが数ヶ月前、偶然が重なり再会することになって、今は同じ学園に通うほど近くにいる。今のルルーシュは素性を隠すために男装していて、身も心も男になろうとしているから思いを告げることさえできないけれど、それでも良かった。幼馴染として、親友としてそばにいることができるなら、それだけで幸せだった。
そのささやかな幸せを奪っておきながら、ユーフェミアはどの顔で皆が幸せにならないと嫌などと言うのだろう。
皇族の選任騎士は、ただの軍人とは違う。仕える主のため我欲を捨て、剣となり盾となり、己のすべてでその人を守る。それが騎士だ。騎士となった人間にとって、一番大切なのは主人。それに比類するものなど存在しない。だからもう幼馴染という立場も親友という位置も、スザクにとって特別なものではなくなってしまった。
ルルーシュがずっと欲しかったスザクの『特別』を、手に入れたのはユーフェミアだった。彼女は昔からそうだ。難しい計算も手回しもなしに、いつだって欲しいものを手に入れる。
ルルーシュは彼女のそういうところが昔からずっとうらやましくて――大嫌いだったということに、最近気づいた。ルルーシュには決して持ち得ない、その無邪気な魅力が。
スザクの隣にいられるだけで、一緒にいられるだけでいいと思っていた。そんなささやかな願いを叩き潰された瞬間、ルルーシュはユーフェミアに対する嫌悪を認めた。彼女が皇族であるからという理由ではなく、彼女自身に対する嫌悪だった。
騎士となったスザクは、学園にやってくる暇もほとんどなくなってしまった。ゼロとして忙しなく行動しているルルーシュとは、顔を合わせることさえほとんどない。それなのに、当たり前の顔をしてスザクの隣にいることのできるユーフェミアのことが、大嫌いだと思った。
どうしてユーフェミアばかりが幸せを手に入れるのだ。
ルルーシュとナナリーが体験したような苦労を、ユーフェミアは知らない。母親を殺されて、身一つで日本に送られたルルーシュたちが、どれだけ不自由な生活を余儀なくされていたのか。どんな思いから、皇族である自分を捨て、身をくらませたのか。彼女は何一つ知らない。
ユーフェミアが自らの幸せを疑わずに、安全で美しく清潔な皇居の中でぬくぬくと過ごしているとき、ルルーシュとナナリーは、薄暗い土蔵で不自由な生活を送っていた。父皇帝の非情さを知ってはいても実際に自分が切り捨てられる可能性なんて考えたこともないユーフェミアと違って、ルルーシュたち姉妹は十歳にも満たない年で捨てられた。
幸せしか知らないユーフェミア。だから彼女の視線はいつも上から見るものだ。地べたに這いつくばって惨めに生きつなぐ人間の気持ちなんて、少しも理解できない。
彼女はいつも一段上の高みから不幸な他人を見て、憐れんでいる。それは決して悪いことではない。皇族である以上、同じ目線で人を見ることができないのは仕方ないことである。いや、むしろそうでなければならないのだ。
それが分かっていてもルルーシュには、そう割り切ることはできなかった。皇族、そして貴族の持つその傲慢さは憎むべきブリタニア皇帝の理念そのものであり、ユーフェミアの優しさもそれと同じとしか見ることはできなかった。
けれど、悪意がない分憎むことさえ許してくれないユーフェミアの無邪気さは、ルルーシュをひどく苦しめた。ユーフェミアを嫌いだと思っても、彼女の無邪気な様を見ていると、その感情の大半が逆恨みに過ぎないことに気づいてしまうからだ。
ひどい人間という範疇にユーフェミアを当てはめる人間が、ルルーシュ以外に果たして何人いるのか分からない。しかしルルーシュにとっては間違いなく、ユーフェミアは加害者であった。
一般的には優しい人柄で通っているという点では、シュナイゼルと似ているかもしれない。けれど二人には、圧倒的に違うところがあった。シュナイゼルが確信犯であるのとは違って、ユーフェミアは無意識なのだ。
シュナイゼルは昔から、一見とても穏やかそうに見える人だった。柔らかな笑顔と優しい物腰が、彼をそう見せていた。けれど、それは決して彼の本性ではありえなかった。笑顔の裏に底なしの虚無を内包する恐ろしい人。
反対に、ユーフェミアの笑顔には裏がない。シュナイゼルのように、笑顔の裏に何もないわけではない。他人を傷つける要素を何一つ持ってはいないということだ。だから彼女は、自分の行動が他人を傷つける可能性を考えない。自分が人を傷つけているという自覚すら、彼女にはない。
シュナイゼルのような確信犯なら、憎むこともたやすかったのに。そう考えて、ルルーシュは暗く笑った。
(あんな奴が二人もいたら、絶望的だ……)
誰もが騙されていた義兄の笑顔の裏に隠された本性を、ルルーシュは良く知っていた。きっと、他のどんな人よりも。
シュナイゼルと初めて会ったのは、ルルーシュがチェスを覚えてから、少し経った頃のことだった。そのときルルーシュはまだ五歳だった。
ルルーシュにチェスの手ほどきをしたのは、異母兄の一人であるクロヴィスだ。けれどそれから一ヶ月もしないうちに、ルルーシュはクロヴィスの技量を追い越してしまった。クロヴィスはそれを嘆くよりむしろ面白いと思って、シュナイゼルに話したらしい。将来有望な妹がいる、と。
そのことからルルーシュに興味を持ったシュナイゼルは、ある日、クロヴィスと一緒に、ルルーシュたちの住んでいたアリエスの離宮を訪れた。
クロヴィスにシュナイゼルを紹介された当初には、ルルーシュもまた、彼の笑顔に騙された人間の一人に過ぎなかった。
そして、クロヴィスに紹介されてから、挨拶も早々に、シュナイゼルはルルーシュにチェスをしようと言ってきた。ルルーシュも、初めて会う義兄と実のない話をするよりも、チェスをするという提案の方が魅力的だと思ったので、その申し出を喜んで受けた。優しげに微笑む義兄がどんな手を打つのか、どんな布陣を敷くのか、どんなふうにゲームを動かそうとするのか、ルルーシュは楽しみでならなかった。
クロヴィスの見守る中、チェス盤を挟んで向かい合って、数十分の後、一つのゲームが終わった。
チェスをしている間もその後も、シュナイゼルはずっと微笑んでいた。けれどルルーシュにはもう、その笑顔が恐ろしいものにしか見えなくなっていた。
シュナイゼルは強かった。シュナイゼルとのゲームで、ルルーシュは初めて完膚なきまでの敗北というものを経験した。クロヴィスや他の誰とも比べ物にならないほど、あの義兄のチェスの腕は飛びぬけていた。ただそれだけであったなら、ルルーシュはその腕前に感嘆するだけだった。
チェスには性格が出る。
クロヴィスが敷くチェスの布陣は、浅慮が透けて見えて、詰めが甘くて駆け引きに全く向いておらず、皇族にふさわしくない愛すべき義兄の性格を反映していた。母であるマリアンヌのそれは、指揮官のそれというよりも、兵士のそれ。直情的で熱く、時に奇抜な手を打ってくる。穏やかで優しそうな美貌からは考えられないぐらい、激しい性根を表していた。ルルーシュとナナリーの前で母はいつも微笑んでいたから分からなかったのだが、そのときルルーシュは、母が閃光と呼ばれた理由をようやく理解できた。
そしてシュナイゼルが敷いた布陣は、一手一手のすべてが計算されていて、どこにも穴がなかった。それは怖いぐらい完璧で、個人の意思や意図というものがどこにも見えなくて、だからこそ恐ろしかった。底なしの虚無と対面しているような気がした。
だからルルーシュはシュナイゼルが怖いと思った。
あんなにも優しげな笑顔を浮かべているのに、気遣いに満ちた人に見えるのに、その裏には何もない。優しさどころかその裏返しの感情すらない。そのことがひどく恐ろしかった。
しかも彼は、その本性を誰にも悟らせていない。ルルーシュだって彼とチェスで勝負をしなければ、優しげに見える義兄の本性を疑うことなどなかった。それを思うと、恐ろしくて身体が震えた。
一刻も早くシュナイゼルの側から離れたくて、チェスの相手をしてもらった礼を言い、シュナイゼルとクロヴィスを離宮から追い出そうとした。その行動は、完全に負けたことを悔しがる子供のわがままにしか見えなかっただろう。事実、シュナイゼルとルルーシュの勝負を眺めていたクロヴィスは、ルルーシュの行為を悔しさのためのものと取って苦笑していた。
けれどシュナイゼルは違った。ルルーシュが押し隠したわずかな怯えを感じ取ったのか、ルルーシュと目が合うと、驚いたように目を見開いて――笑った、のだ。心底面白そうに、面白いものを見つけたとでもいうように彼は笑った。
その瞬間ルルーシュは、純粋な恐怖というものを知った。恐ろしくて、ただただ恐ろしくてならなかった。
そして、それから。
ルルーシュの何を気に入ったのか、シュナイゼルはたびたびアリエスの離宮を訪れて、ルルーシュをかまった。庶出の母を持つルルーシュの身分では、シュナイゼルの訪れを拒むことはできなかった。だからいつも、恐怖に身をすくめながらも、シュナイゼルの相手をした。
シュナイゼルはいつだって優しかった。優しい目でルルーシュを見て、優しい手でルルーシュの頭を撫でて、優しい腕でルルーシュを抱き上げてくれた。
それでもルルーシュの中から、一度抱いた恐怖が消えることはなかったが、どれだけ怯えた目を向けようと、シュナイゼルはいつもルルーシュに優しくあり続けた。ルルーシュにだけは。
その代わり、いつの頃からか、ある条件がそろったときシュナイゼルは、氷のように冷たい目をするようになった。
例えば、シュナイゼルとチェスをしている途中で、紅茶を運んできた侍女にルルーシュが笑顔で礼を言ったとき。感情の見えない冷たい目で、シュナイゼルはその侍女を見ていた。そして翌日、その侍女は離宮の中からも皇宮の中からもいなくなっていた。
最初は別に、気にも留めていなかった。けれど何度も続くうちに、侍女たちが辞めさせられていったり、仲良くしていた貴族の子弟の家で不祥事が起こったりするのは、シュナイゼルが手を回しているからなのだと気付いた。
はっきりとそう確信したのは、シュナイゼルに抱き上げられたルルーシュが、薔薇園に連れて行かれて、薔薇の棘で指を突いたときだった。その薔薇園の手入れをしていた庭師はシュナイゼルの親衛隊の手により引っ立てられていって、薔薇園は焼き払われた。
傷なんて、無いも同然の軽いものだったというのに。
そのときから、ルルーシュはいっそうシュナイゼルを恐れるようになった。自分が傷つくのならいくらでも耐えられた。けれど自分のせいで周囲の人間に害が及ぶことに、ルルーシュは耐えられなかった。
他人なら、まだいい。でも、母やナナリーに危険が及んだりしたら。そう思うと、ルルーシュは怖くて怖くて仕方がなかった。それからずっと、ルルーシュはシュナイゼルに怯えて過ごしていた。
そんなルルーシュだから、母が殺されたときも、最初に犯人として思い浮かべたのはシュナイゼルの顔だった。まさか、とすぐに否定したけれど、否定しきれない自分がいた。
だからその後、父皇帝の命令で日本に送られたときは、まだ見ぬ土地に対する不安を覚えながらも、ルルーシュは少し安堵もしていた。これでシュナイゼルの側を離れられるのだと、そう思って。
思い出したくもない昔を思い出して、ルルーシュが美しい顔を歪めていると、不意に強い風が吹いた。それに頬をなぶられて、過去に馳せていた意識が戻ってくる。不意に隣から、ユーフェミアの驚いたような声が聞こえてきて、そちらを見ると、彼女がかぶっていた帽子が風に飛ばされていくところだった。
ルルーシュは立ち上がり、ユーフェミアに顔を隠させようとするが、それよりも先にどこからか、ユーフェミアの名を叫ぶ声が響いた。その直後、校庭にいた生徒や一般人、報道陣がいっせいに振り向いて、ユーフェミアの姿を捕える。そして彼らは、いっせいにユーフェミアに――つまりはルルーシュとナナリーがいる場所に向かって走り始めた。
(まずい……!)
ルルーシュは慌ててナナリーに駆け寄った。生徒と一般人だけなら、ここまで慌てる必要はない。だが、ここには報道陣が来ている。ルルーシュもナナリーも、そんなものに顔を映されるわけにはいかないのだ。
ユーフェミアがルルーシュたちに去るように言うが、そんなことは言われるまでもないことだ。ナナリーの車椅子を押して、ルルーシュは急いでこの場を去ろうとする。だが、車椅子の進行方向を変えようとしたところで、ルルーシュの背中が何かにぶつかった。
「っ……すみません!」
とっさに謝罪の言葉を吐いて、そちらに顔を向けると、そこには軍服を着て、奇妙なバイザーで目元を隠している一人の男がいた。見覚えのあるその格好に、ルルーシュは思わず息を呑んで大きく目を見開く。
(まさか……シュナイゼルの正規軍……!?どうしてこんなところに……)
驚きのあまり、一瞬動きを止めたルルーシュの腕をつかんで、男は低い声で言う。
「……御身に触れる無礼を、どうかお許しください」
「な、にを……?」
何を言われているのか、訳が分からずに戸惑っている単なる一学生を演じて、ルルーシュは捕まれた腕を振り払おうとする。しかし鍛えられた軍人の腕力に、男の格好をしてはいても、本来の性は女であるルルーシュが敵うはずもない。
男の腕を振り払うことはできないまま、この場を去らなければ、と気持ちばかりが逸る。焦っていては可能なことも不可能となるから、気持ちを落ち着かせようと、ルルーシュは自分に言い聞かせた。
(大丈夫、俺たちの生存が発覚したわけではない。どうしてシュナイゼルの正規軍がここにいるのかは知らないが……ユフィは、誰にも言っていないと言っていた。ならば、今の俺の姿を見て、昔の俺と結びつけることなど、一介の軍人には不可能だ。今の俺は、男なのだから……だから、大丈夫。落ち着け、大丈夫だ)
シュナイゼル本人ならまだしも、彼が統括する軍の人間程度に、今のルルーシュをかつて死んだはずの第三皇女と結びつけるような者など存在しないはずだ。そう言い聞かせて、何とか気分を落ち着ける。シュナイゼルの正規軍がここにいる理由は、あえて考えないようにした。考えたら、全てが終わってしまう気がしたからだ。
ふと視線を下に向けると、ナナリーの不安そうな顔が目に付いた。
(ダメだ……早く逃げないと……!ナナリーが怖がる……!)
そう思って、ルルーシュは周囲にすばやく視線を巡らせる。押し寄せてきていた人込みと、あとどれだけの距離があるのか確かめるためだ。
もし逃げられないほど近くまで人が押し寄せてきていたのなら、ナナリーだけは守ろうと思っていたルルーシュだが、予想もしていなかった光景に、驚いて目を見開いた。
ルルーシュとナナリー、そしてユーフェミアを取り囲むように、シュナイゼルの親衛隊が立っていて、押し寄せようとする人間を押しとどめていたのだ。これでは、どこかに逃げることすらできない。少しでも報道陣の持つカメラから顔を隠そうとして、ナナリーを庇うように、カメラに背を向けて立った。
その直後。
背後で、何かに驚いているようなざわめきが広がった。しかしすぐに、何かに指示されたように、一瞬で場は静まり返る。ルルーシュが不思議に思って、細い眉を顰めたそのとき。
「ルルーシュ」
背後から、名を呼ばれた。
この声を、ルルーシュは知っている。
そしてそれが、予想通りの人のものでなければ、と切に願う。それはルルーシュが、もう二度と会いたくないと思った人の声だったからだ。
その声に名を呼ばれただけで、幼い頃に感じた恐怖がまざまざと甦ってきて、肩が、手が――全身が震えた。
車椅子に座りながら、ルルーシュの胸に顔を押し付けられて、カメラから庇われていたナナリーは、ルルーシュの震えをつぶさに感じ取り、不安げにルルーシュを呼んだ。
「……お兄様……」
「っ……!」
その弱々しい声に、ルルーシュはハッと正気付く。
いつの間にか、ルルーシュの腕をつかんでいた男は側からいなくなっていた。
ルルーシュはすばやく視線を走らせるが、周囲を取り囲む軍人たちは消えていない。しかし、正門へとずっと続く長い道からは人影が消えていて、その延長線上にもまた軍人の姿はなくなっていた。皆、その脇に退いているのだ。
空けられたその道を、一人の青年がゆっくりと歩いてくる。
ルルーシュたちから十数メートルほど離れた場所を歩いている青年は、さして長くもない階段を上って、ゆっくりと、だが着実にルルーシュとナナリーのいる場所との距離を詰めてきている。
「……シュナイゼル……」
その青年の顔を見て、ルルーシュは絶望に駆られ、声もなく彼の名を呟いた。
恐怖におののくルルーシュの顔を見て、シュナイゼルは優しげに笑う。怖がることなど何一つないのだとでも言いたげに。
けれどルルーシュにしてみれば、彼のその笑みこそが恐怖の対象なのだ。
青ざめて息を呑むルルーシュに微笑みかけて、シュナイゼルはゆっくりと口を開いた。
「見つけたよ」
ルルーシュ、ともう一度名を呼ばれる。
そして、優しく差し伸べられたシュナイゼルの手を見て、ルルーシュが感じたのは、紛れもない絶望だった。