たとえるなら、桜  前編


 ――彼に会うときはいつも、桜の花が咲いていた。


  

 リクオは鼻歌を歌いながら、クラスメイトに頼まれた教室の掃除をしていた。なんでも今週教室掃除を割り振られている班の生徒たちが、今日はそろって用事があるらしい。どう考えても面倒な掃除を押し付けてられているだけなのだが、彼女はそれに気づかない。ただ今日もいいことしたなあ、と一日一善の習慣をきっちりこなしたことに満足している。
 それは、妖怪の血を否定し立派な人間を目指したときに始めた習慣だった。一度は拒絶した妖の総大将としての道を受け入れると決めた今、立派な人間を目指す必要なんてない。ないのだが、人生の半分近くの日々欠かさず続けてきた習慣はいまやすっかり身についていて、やらないと落ち着かない域に達している。
「あの……」
「ん?」
 上機嫌で窓をふいていると、背後から、リクオに付き合って掃除をしていた雪女がおずおずと声をかけてくる。振り返ってみると、雪女はいつの間にかすっかり帰り支度を整えていた。もうそんな時間か、と窓の外に一瞥を飛ばしてほとんど沈みかけた夕日を見やる。
「私、ごはんの用意があるので帰りますけど……」
「うん、分かった。ボクはまだ残ってるから、先に帰っていいよ」
「あんまり遅くなったら駄目ですよ」
「分かってるってば」
 聞き飽きた注意にうんざりしながらも、リクオは素直に返事をする。耳にたこができるぐらい繰り返される言葉は、自分のことを心配してのことだと理解しているからだ。
 苦笑しつつも早く帰ってやるよう促すと、雪女はようやく扉に向かって歩を進めた。
「知らない妖に声をかけられても、ついていかないようにしてくださいね」
「しないよお」
「飴玉あげるからって言われてもですよ」
「……子どもじゃないんだから」
「あと、まだ朝晩は冷えるんですから、帰るときはカーディガン忘れちゃ駄目ですからね」
「分かったよ、分かったから早く帰ってやんな」
 心配してくれているのだと分かっていても、正直度を過ぎるとうっとうしい。リクオはため息を吐きながら、追い払うように手を振った。
「早く帰ってきてくださいねー!」
 邪険にされてなお雪女はリクオに手を振り、惜しむように何度も何度も振り返りつつ飛ぶような速さで去っていく。リクオのことも心配だが、皆の腹具合も心配なのだろう。
 武闘派集団で鳴らした奴良組の中に、台所に立つような人間はほとんどいない。まともな料理を作るのは、リクオの母と雪女二人ぐらいだ。さらに正確に言うなら、母は組の人間ではないから雪女ただ一人である。ただそれも、当然といえば当然のことだ。妖には、人間のように食事をする必要はない。人から転化したものがかつての習慣から脱しきれず、あるいはそうでないものも単に味を楽しむためだけに、米を食べ肉を噛み野菜を食らい酒を飲む。
 糧になるわけではない。娯楽の一種に過ぎない。普通なら毎食用意する必要などどこにもないのだが、奴良組の妖怪たちの中には三食きっちり食事を摂るものが数多くいる。人間の妻に付き合ってともに食事を取っていた総大将に感化された結果である。だがそれもやはり単なる習慣であり、必要なわけではない。
 日暮れもまもなくのこの時間にそんなことを考えていたせいか、ちょうど小さく腹が鳴る。あまりのタイミングに、口からは思わず笑みが漏れた。
 こんな何気ないことにも、自分が完全な妖ではないことを意識する。妖怪にとって不要なものも、人の血を引くリクオには欠かせない。
 そんなふうな人と妖との違いに初めて気づいたときは、嫌だとか悲しいとか思うよりも困惑したものだ。
 まだ本当に小さなころ、リクオの世界は奴良組の妖怪たちに囲まれて閉じていて、だから知らなかった。仲間の中で、自分がどれだけ異質な存在なのかということを。
 悟ったのは、小学校に上がって人間の友達がたくさんできたとき。そのとき初めて、人間と妖怪がどれだけ異なる存在なのかを知った。そして自分が妖の側ではなく、脆弱な人に分類されるのだということに気づいた。
 祖父にあこがれていた。祖父のようになりたかった。すごくて強くてかっこよくて、誰もが敬う妖怪の総大将である祖父。いつかはその跡を継ぐのだと、無邪気に信じていた。
 でも人間にとって妖怪とは、恐れ、厭い、忌み嫌うべき化け物だった。
 妖怪にとって人間とは、虐げ蔑み、楽しみのために踏みつけにして、己の力の糧にするために威す道具でしかなかった。
 人の血を四分の三、妖怪の血を四分の一。完全な人でも、完全な妖怪でもない自分。でもその代わりに人と妖のどちらでもある。そのはずだった。でも、人間の中に混ざったことで気づいてしまった。妖怪の血を四分の一も引いていながら、妖としての力をまったく持たない自分に。
 それに気づいた瞬間、リクオはただただ固まることしかできなかった。それまでリクオは、自分のことを本家の仲間たちと違う生き物であるなんて考えたこともなかった。突然突きつけられた事実に驚愕して、それから少しして冷静になると、一気に怖くなった。
 リクオは奴良組の妖怪たちを仲間だと思っていた。でも祖父の血を引いていながら、まるきり人間でしかない己のことを皆はどう思っているのだろうか……深く考えるまでもない。時折向けられる冷たい視線が、失望のため息がすべての答えだった。奴良組の皆がリクオをそれなりに遇してくれるのは、リクオがぬらりひょんの孫であるからで、リクオ自身に価値を置いているわけではない。
 分かったからといって、そんなこと認めたくなかった。だから気づかないふりをして、自分から妖を拒絶することで心を守った。妖怪がリクオを認めないのではない。リクオが妖怪を認めないのだ。
ガコゼの事件が起こったのはそんな矢先だった。大切な友達を助けたくて力を求め、そしてリクオはその夜、妖の血に目覚めた。
 覚醒に、皆が沸いた。父――二代目が死んで以来、弱体化が進む奴良組の未来もこれで安泰だと、誰もが狂喜した。不相応な野望に身を焦がす一部を除いて。
 だが皆の期待に反して、リクオが再び変化することはそれ以降何年もなかった。
 もう一度血に目覚めるまでの数年間、夜の己を望む声を何度聞いたことだろう。それを聞くたびに心は磨り減っていった。向けられる視線に失望が混ざっているのを知るたび、呆れを含んだため息が耳に届くたび、どうしようもなく虚しくなった。心が悲鳴を上げた。皆が望んでいるのは妖怪としてのリクオで、人間としてのリクオを求めている者なんて誰もいない。否が応でもそう思い知らされた。
 誰も、そのままのリクオでいいのだと言ってくれる妖怪はいなかった。生まれて以来、側役として家族より長い時間をともに過ごしてきた雪女や首無たちでさえ、人間としてのリクオを認めてくれることはなくて。それがいっそう心をかたくなにさせた。
 求められているのは、ぬらりひょんの孫としての力を存分に発揮することのできる夜の自分。なら、無力な人間に過ぎない昼の自分はどうすればいいというのだろう。
 ――そんなふうに思っていたのがただの甘えに過ぎないのだと、今は分かっている。努力もせず己の不幸をただ嘆くばかりで、認めてくれる者なんているわけがない。いや、本当はずっと分かっていた。妖怪の総大将としての未来を選んでしまえば後戻りできないことは分かっていたから、仲間たちに甘えていただけだ。
 だが妖怪としての成人が近くなって、そんなことも言っていられなくなった。
 リクオは、妖怪の総大将たる祖父の血を引いている。本人が跡目を継がないと言っていても、そんなことは関係ない。ぬらりひょんの血を引くというだけで、これ以上ないほど大きな価値がある。奴良組の三代目を狙う者にしてみれば、これほど邪魔な存在もないだろう。それでも、これまではまだ子どもだったから見逃されていた部分もあった。だがそれも、成人すれば話は違ってくる。大人になるということは、正式に跡目を継ぐ権利ができることでもある。そうなる前に……そんな腹があったのだろう。中学に上がってから、襲われる頻度がぐんと上がった。
 しかし皮肉なことに、逆にそれがリクオの決意を固めた。
 大切な仲間を守りたい。無力な人間のままでは、それができない。でも、妖怪としての自分なら別だった。ならば――。
 もちろん簡単に受け入れたわけではない。葛藤はあった。それでも、どうしても守りたいものがあった。人間の友達も、本家の妖怪たちも、相反する二つをどちらも守りたい。そのために妖としての自分を受け入れ、奴良組の三代目の地位を継ぐことを決めた。簡単な道ではない。妖の総大将を目指していながら、人を守りたいなどというリクオを認めようとしない者も多い。
 それでも、もう決めた。人も妖怪も、どちらも守るためには百鬼の主になることが必要だから。
 そのとき、ふっと目の前が暗くなった。はっとして顔を上げると、ちょうど太陽が完全に沈んだところだった。空が一気に翳っていく。
「いけない、もうこんな時間か」
 慌てて掃除を終わらせて、帰り支度を始める。早く帰らないと、雪女やカラス天狗がうるさい。実の母親や祖父よりも過保護だというのはどういうことだろう。
 だがそれも、以前に比べればマシになった方だ。今は夜が来れば自在に変化することができるから、雪女も安心してリクオを残して本家へ帰った。だが、変化できないころなら絶対帰ったりしなかった。それだけ、夜の自分が信頼されているということなのだから喜ぶべきなのだろうが、今でもこれが夜以外の時間なら雪女はリクオを決して一人にしなかっただろう。昼の自分を認めてもらうためにはまだまだ努力しなければな、と決意を新たにしていると、不意に誰かの気配を感じた。
「誰だ!?」
「まあ怖い」
「……百目鬼か」
 護身刀を手に視線をめぐらせると、本家で何度か目にしたことのある女の姿があった。リクオのことをあまりよく思っていない一派の者で、あまり関わりのない妖だ。
「何か用?」
「ええ」
 着物の袂で口元を隠したまま、百目鬼は目元だけで笑みを作る。
「貴方が邪魔だとおっしゃる方がおられますの。だから死んでください」
「そう言われて、素直にはいって言うとでも?」
「まさか」
 くすくすと笑う女は、余裕にあふれている。目の前の女は、さして戦闘が得意というわけではなかったはずだ。それでも人間のままのリクオならば、簡単にどうにかできると思っているのだろう。だが、すでに日は沈んだ。完全な闇は遠くとも、時はすでに夜の領域だ。望めば変化することはできる。
 さあ、交代の時間だ。心にもぐり、桜の花びらが降りしきる中で夜の自分に呼びかける。とたん、肉体に変化が起こり始める。意識もまた、人から妖のそれに変わる。
 だがそれを見ても百目鬼は笑みを崩さない。
「……何がおかしい」
「貴方が、あまりに思い通り動いてくださることが、ですわ」
「何を……」
 怪訝に思い、リクオは手にしていた護身刀を握りなおす……しかしいつの間にか、手にしていたはずの護身刀は忽然と手の中から消えていた。一瞬だけ、それに気をとられた。
「っ!!」
 腹に衝撃が走る。視線を下ろすと、おかしそうに笑う百目鬼と目が合った。彼女はいつの間に手にしていたのか護身刀――祢々切丸を、リクオの胸に突き立てていた。
「変化してしまえば、私ごときたやすくあしらえると思いました?」
「ぐっ……はな、れろ!」
「きゃあっ」
 振り払うと、百目鬼はよろめき簡単に床に転がる。そのとき着物の袖がまくれて、無数の目がぎょろぎょろと光る腕が見えた。そこでようやく思い出す。百目鬼は、盗癖のある女が変化した妖怪だ。スリはお手のものということか。
 しかし、そんなことを悠長に考えている暇などなかった。祢々切丸を突き立てられた傷口から、妖力が、そして命そのものが抜けていくのが分かる。刀は正しく心の臓を捉えていた。刀を突き立てられた胸が熱い。耳の中に心臓があるかのように、鼓動が耳障りなほど大きく聞こえる。
「おしまいですわね、リクオ様」
「はっ、こんなところで……ふざけんな……!」
 汚れたすそを払って笑いながら起き上がる女をにらみつけて強がるが、だんだん目の前がかすんできた。
 まだ何も成し遂げていない。
 こんなところで終われるわけがない。ここでリクオが死ねば、守ると決めた大切なものはどうなる。
 こんなところで――!
 体から力が抜けていく。薄れていく意識の中で、聞きなれた声が聞こえた気がした。



 くず折れるように床に倒れたリクオを見て、百目鬼は哄笑を漏らした。
「あははははっ、これであの方の邪魔をするものはいなくなったわ!弱いくせに、人のくせにでしゃばるのがいけないのよ!」
 狂ったように笑う女は気づかない。あれだけ勢いよく突き立てた刀だ。普通なら今頃床が血まみれになっているのが普通だというのに、それがないことに。
「あははははっ」
「何がそんなにおかしい、百目鬼?」
「え?」
 鈍い音とともに、背後から衝撃が走る。振り返ると、殺したはずのリクオがすぐそこにいた。慌てて彼が倒れていたはずのところを見やるが、そこにはちゃんと倒れている人影がある。
「そんな、どうして!?」
 何が起こっているのか理解できず、それでも目的を果たそうとして背後のリクオから離れようとするが、それはかなわなかった。百目鬼の胸には、リクオの胸に突き立てたはずの祢々切丸が突き刺さっていた。
「あ、あ……!」
「終わりだ」
 短く告げ、リクオは刀を横に引く。断末魔の叫び声とともに傷口から妖力があふれ、やがて止まる。同時に百目鬼の肉体は床に転がった。
 それを一顧だにせず、リクオは少しはなれたところに転がる、自分の体が転がっているはずだった場所へ向かって歩いていく。膝をついて、血に伏す体をそっと抱き起こす。
「おいおい……何の冗談だ?」
 リクオはため息を吐きながら天を仰いだ。
 昇り始めた月に照らされて、闇に隠れていた顔があらわになる。腕の中にいるのは、昼の姿をした自分そのものだった。




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