ルルーシュがシュナイゼルのお気に入り、という言葉を聞いた後、何を想像したのやら頬を赤く染めて、目を白黒させていたセシルだったが、しばらくすると立ち直ったようだった。穏やかな笑みというには困ったように下げられた眉が邪魔だったが、とにかく笑みを浮かべた彼女は、手当ての途中で止めていた手を再び動かし始める。しかし、平静を装いながらも、やはり先ほどの言葉が気になっているのか、時折窺うような視線が投げかけられる。
何を考えているのかなんて、簡単に想像がつく。ルルーシュを、シュナイゼルの想い人か恋人か、はたまた愛人かとでも思っているのだろう。
ロイドも、言いたいことだけ言って出て行くのではなく、きちんと誤解を解いて出て行って欲しいものだと思い、ルルーシュはそっとため息をついた。
彼女の抱く想像は、全く外れているわけでもないけれど、やはり間違っているとしか言えない。なぜならルルーシュは、彼が愛した義弟――ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアではないのだから。シュナイゼルの想い人は義弟の”ルルーシュ”で、ルルーシュではない。たとえその”ルルーシュ”が己の生まれ変わる前の存在であろうと、結局のところルルーシュと彼は別人に過ぎない。ルルーシュはただの身代わりだ。
そう、ただの身代わり。普通ならそれは耐え難い屈辱であっただろう。プライドが山よりも高いルルーシュならばなおさらだ。しかしこの件に限って言うのならば、別だった。屈辱や不快を感じないわけではない。けれど、亡き義弟の姿をルルーシュに重ねようとするシュナイゼルを思うと、それらの感情以外に憐れみを抱いた。シュナイゼルのことを蛇蝎のごとく嫌っていたルルーシュ・ヴィ・ブリタニアならば、決して抱くことのない憐れみを。
ルルーシュにはそれが心地よかった。
左目に宿った王の力も、ブリタニアへの憎しみ、ひいてはブリタニア皇帝への憎しみも、ナナリーへの愛情も、全てルルーシュのものではない。それなのにそれらは、まるでルルーシュ自身のものであるかのように、ルルーシュの中に浸透した。ブリタニアが憎い。皇帝が憎い。ナナリーを守りたい。そう思う心には何の違和感もない。それが、ルルーシュは嫌で、嫌ではなくて……けれどやはり、どうしようもなく嫌なのだ。正しく言えば、嫌ではないのが嫌ということだ。
自分はルルーシュ・ランペルージであって、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアではない。それなのに棲みついたギアスと感情は、ルルーシュを”ルルーシュ”へと近づける。それはまるで、呪いのように。
侵食される。自分という存在を食われる。その恐怖を感じないものがいるだろうか。けれどその恐怖など、激しすぎる憎しみと強い愛の前には、消えてしまいそうに無力で、そのことが恐ろしい。
恐怖を恐怖として感じられるうちはいい。自分と”ルルーシュ”を区別していられるうちはいい。けれどいつか、それを感じなくなってしまう日が来てしまうとしたら?いつかそんな日が来てしまったら……ルルーシュにはそれが怖い。
だから、シュナイゼルの存在はありがたかった。この姿かたちをしたルルーシュに対して、異常なまでの執着を見せるシュナイゼルに、何を思うか。それによって、自分が彼の義弟ではないとはっきり自覚することができるからだ。
その点において、ルルーシュは彼に感謝してもいいとさえ思っている。けれど、彼との関係を色めいたものと誤解されてもいいほど好意を抱いているかと言えば、それはノーだ。なので早々に訂正しておくことにした。
「あの」
「え、あ、何かしら?」
細かい傷に傷テープを貼ってくれているセシルに話しかけると、彼女は少しばかり目を泳がせながら返事をする。
「どこか痛い?大きな傷はなかったんだけど、やっぱりかすり傷が結構あるから痛いわよね。でも、痛み止めを飲むほどでもないから……」
「あ、いえ、大丈夫です。そうじゃなくて……あの、ロイドさんの言ったこと、誤解しないでくださいね?」
「だ」
「だ?」
「大丈夫!」
「ほえあっ」
突然意気込んだように拳を握ったセシルが放った叫び声に、ルルーシュは思わず奇声を漏らした。驚愕に高鳴る胸を押さえていると、セシルは目を輝かせて言い募ってくる。
「わたし、誰にも言わないから!」
「いや、そうじゃなくて」
「大丈夫、ロイドさんと違って口は堅いのよ!」
「そういうことでもなくて……」
理解できない勢いに押されて、ルルーシュは頬を引きつらせる。友人やクラスメイトたちを思い出してみる限り、ある程度の年齢に達した女というものは総じて恋の話を好んだものだったが、それは時代の違う人間にも当てはまるらしい。恋というものをしたことがないルルーシュにとっては理解しがたいことであるが、このまま勢いに押されているだけでは、誤解が解けないどころかさらにレベルアップしてしまうことなら理解できる。
心を落ち着けるため、そして自分のペースを取り戻すため、一度大きなため息をついてから、ルルーシュはもう一度否定をするために口を開いた。
「だから、本当に誤解なんです。隠しているわけでもごまかしているわけでもなくて、わたしとシュナイゼル殿下は、あなたが思っているような関係にはありません」
真顔できっぱりとそう言ってのけると、セシルは子どものような顔でぱちぱちとまばたきをした。このチャンスを逃してたまるものか、とルルーシュは一気に話をたたみにかかる。
「わたしがシュナイゼル殿下のお気に入り、とロイドさんはおっしゃいましたけれど、違います。あの方が見ているのはわたしではないのですから」
そう言うと、セシルは憤ったような顔になって腰を上げかけたが、ルルーシュはそれを制するように片手を上げた。
「別に、ひどいことを強制されているわけではないのです」
自分で言っていて、ひどく嘘くさいなと心の中でルルーシュは評した。義弟の代わりに、歪んだ執着を向けられ、自由のない生活を強いられることがひどくはないのかと問われれば、違うとしか言えない。けれど、おそらくセシルが想像しているだろうような類のひどいことはされているわけではないし、詳しい事情を説明するわけにもいかないので、こう言っておくことにしたまでだ。
「わたしは、殿下の亡くなった義弟君――ルルーシュ殿下に似ているんだそうです」
「おとう、と?」
セシルは意外なことを聞いたように、大きく目を見開いて小首を傾げた。色めいた関係だと予想していたところが、実は兄弟関連と来たのだから、それも無理はない。
「はい。はっきりと聞いたことはありませんが、シュナイゼル殿下は、ルルーシュ殿下のことを兄弟姉妹の中で一番大切にしておられたようで……そして、かつて義弟君のことを助けられなかったことを、悔いていらっしゃるのです。だから、ルルーシュ殿下に瓜二つのわたしに、色々と気を遣ってくださるだけで……その、特別な関係にあるわけではないのです。だから、妙な誤解をしないでもらいたいのですが……」
直接的な物言いを避けた特別という言葉が、何を指すのか分からないほど鈍くはないようで、セシルは気まずそうな笑みを浮かべた。
「あ、あら、そうだったの?ごめんなさいね」
「いえ」
ルルーシュは静かに首を横に振って答える。
ちょうどそこへ、扉が開く音が聞こえてきた。扉の方へと視線を向ける前に、聞こえてきた声にルルーシュは目を見開いて硬直した。
「あの、セシルさん……彼女、どうですか?」
「見れば分かると思うけど、目を覚ましたわよ。大きな傷はないし、痕になるようなものもないわ。しばらくの間は不便な思いをするかもしれないけど、ちゃんと治るから大丈夫よ」
「そうですか……よかった」
セシルに問いかけた声も、よかったと言って安堵した声も、良く知った人物のそれと同じ声だ。
硬直しているルルーシュを見て、何を思ったのか、セシルは複雑な顔をして話しかけてくる。
「彼は枢木スザク君。あなたを助けたナイトメア――ランスロットのデヴァイサーよ。イレブンのテロリストに殺されかけたんだから、彼のことが怖いのも無理はないのかもしれないけど、彼は名誉ブリタニア人で、わたしたちの仲間……ブリタニアの軍人だから、あなたを害することはないわ。大丈夫」
後半はスザクに配慮してか小声で、見当違いの言葉をかけてくるセシルを無視して、ルルーシュはゆっくりと視線をめぐらせる。彼女の言葉は、今この時代のブリタニア人に対してかけられたものであるのなら、正しかったのかもしれない。けれどルルーシュにはブリタニア人もイレブンも関係ない。ルルーシュを凍りつかせているのは、もっと別のものだ。彼の声、名前、そして姿だ。
「……スザク……?」
緊張のためにかすれた声での問いかけに、スザクはしばらくの間怪訝そうに眉を顰めていたが、やがて驚いたように目を見開いて息を呑んだ。
「っ、ルルーシュ?きみ、無事だったんだね、ルルーシュ!」
うれしそうな顔をして駆け寄ってきたスザクに、ルルーシュも心からの笑みを浮かべる。口調が、そして表情が、自分の知るスザクのものではないことは、再会の喜びにかき消されて気づかなかった。
「おまえこそ無事だったんだな……よかった」
笑いあっている二人を見比べて、セシルは驚いたような顔で問いかけてくる。
「知り合いなの?」
「はい。友達なんです」
スザクが笑顔で答える。
「ずっと前に離れ離れになって……探していたんです」
「そうなの。良かったわね」
「はい!」
うれしそうな顔で頷いているスザクの言った、ずっと前という言葉の不自然さには気付かず、ルルーシュはスザクに話しかける。
「心配していたんだ、おまえなら大丈夫だと思っていたけど、別れたのがあんなときだったから……ユーフェミア殿下に名前を聞いたときから薄々そうだとは思っていたけど、おまえもここに来てたんだな」
「……ユーフェミア……殿下?……ルルーシュ、きみ、今どうやって暮らしているの?その……」
いぶかしげに眉を顰めたスザクは、一瞬だけセシルに視線をやって言葉を濁らせる。
「……ブリタニア、に戻ったの?」
「戻る?何を言っているんだ、おまえ……」
ルルーシュはようやく、目の前のスザクに疑問を感じた。
声も名前も姿も、ルルーシュが知っている幼馴染そのものだ。それなのに、口調が、表情が、ルルーシュの知っている彼とは違う。言っていることが理解できない。ルルーシュたちが生きていた時代に、ブリタニアなんて国はもはや存在していなかったのに、戻るなんておかしなことをどうしてスザクが言うのだろう。
「その格好は、何?」
「おまえこそ、その口調は何なんだよ」
「そんなこと、きみだってそうじゃないか。がさつになった」
「おれは前からこうだったよ」
それを聞いて、スザクは表情をますます怪訝そうに歪める。
「ねえ、そう言えば……ナナリーは?ナナリーも、無事なの?」
その問いかけに、ルルーシュは悟った。目の前の人物が、自分の幼馴染ではないのだということを。
「……おまえが……あなたが言うルルーシュとは、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア殿下のことですか?それなら……人違いです」
「人違い?でも……」
「わたしの名前もまたルルーシュではありますが、わたしはただの庶民……ランペルージという家の人間です。わたしにも、あなたととても良く似た幼馴染がいるので……ややこしいことになりましたが、あなたの言うルルーシュがブリタニア皇族の方ならば、わたしとは別の人間です」
ルルーシュは肩を落としながらも、きっぱりと言い切った。
目の前の彼は、ナナリーと言った。それならば、彼の言っているルルーシュとは、自分ではない。このスザクは、自分の幼馴染ではない。勝手なことだと分かっているが、抱いた期待を裏切られて、ルルーシュは落胆していた。
「ねえ、少しいいかしら?」
困惑しているスザクと、落胆しているルルーシュを見かねたのか、セシルが口を挟んできた。二人はほとんど同時に、彼女を見た。セシルはしばらくの間、何を切り出すべきか迷っているようだったが、やがてスザクと目を合わせて話し始めた。
「スザク君は、ルルーシュ殿下とお知り合いだったの?」
「ルルーシュは……僕の家で預かっていましたから」
セシルと話している間にも、スザクはルルーシュのことが気になるのか、ちらちらと目を向けてくる。
「そう言えば、スザク君は枢木首相の息子だったものね」
「はい」
「それで、ルルーシュさん、でいいのかしら?」
次にセシルは、ルルーシュへと顔を向けた。
「はい」
「あなたの幼馴染というのは、スザク君……ではないのね?」
「ええ。名前も同じで、外見もとても良く似ていますが……どうやら別人のようです。わたしには妹はいませんし、それに……わたしの幼馴染は、もっと口も態度も悪くて温厚とは程遠い一見性格最悪の人間ですので」
「そ、そうなの?」
幼馴染を平然とした顔でこき下ろすルルーシュに、セシルは何と返すべきか困ったような顔になるが、結局流してしまうことに決めたらしい。
「……何と言うか、ややこしい偶然もあったものね」
「本当に、そう……ですね」
ルルーシュとセシルは、困ったような笑みを交わし合った。
そこへ、諦め悪くスザクが割って入ってくる。
「きみは……本当にルルーシュじゃないのかい?」
「少なくとも、あなたの知っているルルーシュではないことは確かです」
「でも……」
「確証が欲しいのなら、シュナイゼル殿下に聞いてください。あの方もわたしと会った当初は、わたしとルルーシュ殿下が別人だということが信じられなかったらしく、性転換をしたのかなんて奇抜なことを問われた挙句、DNA検査までさせられましたから」
「せ、性転換……」
セシルが引きつった顔でつぶやく。
「性別が違う時点で、人違いだと気付いて欲しいですよね」
「ええ、そうね……いくらなんでも性転換なんて、失礼だわ」
「まったくです」
女二人でうんうん頷きあっていると、またも扉が開く音が聞こえてくる。今度は誰だと思って視線をめぐらせるが、人物を特定する前に視界は濃い紫色に占領されて、次に真っ暗になった。強く抱きしめられているせいだと気付くのに、時間は必要なかった。しかし、誰に。その答えはすぐに出た。
「……よかった……」
降ってきた声は、ここ数ヶ月の間で己の意思に関係なく耳に馴染んでしまったものだった。
「シュナイゼル殿下……どうしてここに……?」
「どうして?」
呆然とルルーシュがつぶやくと、シュナイゼルは拘束する腕をゆるめて、片手でルルーシュの顎を持ち上げる。
「心配だったからに決まっているだろう?他にどんな理由があるんだ」
「心配?」
身代わりでしかないルルーシュに、そんな感情を抱くのかという驚きに、ルルーシュは何度もまばたきする。
「そうじゃなかったら、こんなところまで飛んでくるはずがない」
「本当よ」
ルルーシュが予想外の答えに固まっていると、聞きなれない声が、シュナイゼルの言葉を補足するようなことを言ってくる。
「だって殿下、あなたがテロリストに捕まったって聞いたとたん、迷わずこっちに向かおうとしたんだから。いつも冷静なこの人が、仕事を放ってまでよ?まあ、アヴァロンの中できっちり仕事をしてもらったから、仕事に穴が開くようなことはなかったけどね」
「……誰?」
その声がしてきた方向に目を向けると、優しげな面差しの青年が、シュナイゼルの斜め後ろに立っているのが見えた。
「会うのはこれで二度目ね。わたしはカノン・マルディーニ、殿下の側近よ。覚えてないかしら?あの洞窟に、わたしもいたんだけど」
「カノン」
顔だけで振り向いたシュナイゼルは、咎めるような目を向けて、彼の名前を呼ぶ。カノンは目を瞑って肩をすくめた。沈黙した彼に満足したのか、シュナイゼルは再びルルーシュに視線を合わせる。
「屋上から突き落とされたと聞いて、心臓が止まるかと思った……生きていてくれて、本当によかった……」
そう言ったシュナイゼルに、ルルーシュは再び抱きしめられる。
抱擁と、優しい声と、狂おしい眼差し、公人らしからぬこの行動。ルルーシュの目から見ても、それらのどこにも嘘や偽りは感じられなくて、だからこそこの男らしからぬ態度に困惑する。ルルーシュは、亡くなった彼の義弟の身代わりに過ぎない。だというのに、たったそれだけの存在に対して、どうしてシュナイゼルはこんなふうに執着するのだろう。
けれど、困惑は一瞬。身代わりに過ぎない自分にまでそうしてしまうほど、義弟に執着していたのだ。ルルーシュはそう思った。兄弟であったシュナイゼルやユーフェミアが間違えるほど、ルルーシュは”ルルーシュ”に似ている。容姿だけではなく、性格や仕草まで。だからシュナイゼルは、ルルーシュを失うことを恐れたのだ。世界中を探しても、ルルーシュほど身代わりに相応しい人間は他にいないだろうから。
ルルーシュ自身のことを心配してくれたのかもしれない。そう考えるほど、ルルーシュは自惚れてはいなかった。シュナイゼルが見ているのは、ルルーシュではなく”ルルーシュ”。それを知っていたからだ。
そのことは不快で、ルルーシュの自尊心を傷つけたけれど、やはりそれ以上の憐れみを感じた。異母兄弟で、しかも今はもういない人間への報われない思いにこうまでして翻弄される、目の前のこの男が憐れで仕方なかった。
彼の義弟であったなら、決して抱くことのなかっただろう憐れみ。それに反発するように、”ルルーシュ”の記憶が脳裏を駆け抜けていく。しかしルルーシュの心がひるがえることはなかった。むしろ心に湧き起こったのは、駆け抜けた記憶に対する猛烈な反抗心。
ブリタニアへの憎悪も皇帝への憎しみも、ナナリーに対する愛も引き受けてやろう。しかし、それ以外は許さない。それ以外の心は、すべてルルーシュ自身のものだ。たとえ前世の自分であろうと、侵食することは許さない。
そう思って、ルルーシュは自分を抱きしめるシュナイゼルの広い背を、そっと抱きしめ返した。シュナイゼルはそのことに、一瞬驚いたように体を揺らしたけれど、すぐにそれまでよりも強くルルーシュのことを抱きしめてくる。
痛いほど力のこめられた腕に感じたのは、憎しみでも、恐れでもなかった。