倉庫から連れ出されてすぐ、後ろ手に拘束をされた。万が一にでも逃げられることのないように、とのことなのだろう。その状態で背中に銃を突きつけられて、屋上まで連れて行かれる。
「さっさと歩け!」
「いたっ……」
屋上の扉を出たとたん、後ろから銃で押された。痛みにうめき声を上げてしまったそのとき、どこからかユーフェミアの声が聞こえた。
『ルルーシュ!?どうして……!』
音源の方を見ると、下部にスピーカーの付いた監視カメラがあった。この状況を見せて、ユーフェミアを意のままに操ろうとしているのだろう。音声スイッチが切られたのか、それ以上向こうの状況を知ることはできなかったが、倉庫で言われたことを考えれば、おそらく間違いない。
それはともかく、ユーフェミアはどんな要求をされるにしろ生き残るはずだからどうでもいいとして、まずいのは自分の状況だった。誰かを盾に要求を通そうとする場合、普通なら、その誰かは痛めつけられることはあっても、交渉相手がよほど強情を張らない限り殺されることはない。人質は生きているからこそ意味があるからだ。しかし、わざわざ屋上まで連れて来られたことを考えると、ユーフェミアが少しでもホテルジャック犯のリーダーの意に沿わない発言をしたとたん、ここから突き落とされそうな気がした。
もちろん死ぬなんていうのは御免だから、どうにかして逃げようとするが、周りにいるのは敵ばかりだ。逃走経路など存在しない。
どうしよう、とうしたらいい、そう考えている間にも、向けられた銃口にルルーシュは屋上の端まで追い詰められる。心臓が、耳元にあるのではないかと錯覚するほど大きな音を立てている。緊張と恐怖で、時間の感覚が消える。屋上へ来てから、もう何時間も経ったようにも感じられれば、まだ数秒しか経っていないようにも思えた。
じりじりと後退していたルルーシュだが、引いた右足のかかとが床についていないことに気付いて、顔から色をなくした。これ以上下がることはできない。立ち止まらざるを得なくなったルルーシュは、ぐっと下唇を噛み締めて、こちらに銃を向けている男たちを睨み据えた。彼らの目に、自分よりもずっと年下の、しかも民間人の少女を殺すことへの罪悪感は欠片も見当たらなかった。かたくなに自分を信じて疑わない、狂信者の目だ。
この状況で、相手を睨み付けるといった気丈さを見せているルルーシュだが、それは半分以上が虚勢だった。本当は、怖くてたまらない。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。ユーフェミアからの誘いに乗ってしまわなければ良かった。ユーフェミアとカフェで食事などしなければよかった。倉庫内で、ユーフェミアと寄り添ったりしなければ良かった。そもそも、彼女と友人になどならなければ良かった。そうすればきっと、こんなことにはならなかったのに。
何の役にも立たない後悔を心の中で繰り返していると、こちらに向けられた銃の引き金にかけられた指が、ぴくりと動くのが見えた。
殺される、その思いが無意識に足を動かす。がくりと足が床を踏み外し、ふわりと体が宙に浮く。銃声が聞こえたのはその直後だった。浮遊感が身を包んだのは一瞬、後は落ちるだけだ。銃弾が身をかすることはなかったが、それを良かったと思うことはなかった。どのみち、この高さから落ちればまず命はない。撃たれて死ぬのが、落ちて死ぬのに変わっただけだ。
耳に飛びこんでくる風の音が怖くて、遠ざかる屋上が怖くて、落下の感覚が怖くて、どうしようもないほど怖かった。死にたくないと、強くそう思う。こうして落ちるのは、二度目だった。過去へやって来る直前のあのとき、落下して時間を移動したというのなら、今度は未来へ還れるのだろうか。そんな馬鹿なことを考えて、心を苛む恐怖から逃避をしていると、通り過ぎた窓のガラスが割れてそこから何かが飛び出してくるのが見えた。
「なっ……何だ!?」
それは一体のナイトメアフレームだった。ブリタニアのナイトメアとも、これ以降他の国が開発するナイトメアとも、明らかに違ったつくりの異形――それを、ルルーシュは知っていた。クロヴィスを殺し、紅蓮弐式と並んで黒の騎士団を代表する戦力として歴史に名を残したオリジナルナイトメアフレーム。確か名を、マークネモ。
黒の騎士団、マークネモ、ホテルジャック、多数の人質、何もできないブリタニア軍、そして今の日付。それらの符号は、記憶の引き出しを開ける鍵となった。
「そうか、これは……!」
これは黒の騎士団が世間に名乗りを上げることになる事件だ。教科書と資料集に載っていたのが、正確な日付ではなく月の名前だけだったから、すっかり忘れてしまっていたが、間違いないという確信があった。サクラダイト生産国会議で注目されていた上に、このホテルジャック騒ぎだ。同じ日本で生まれたブリタニアへの反抗勢力でありながら、日本解放戦線が行った悪を正し、人質を解放する。黒の騎士団の名を売り、他のテロ集団とは一線を画しているのだと示しつけ、自らの正義を主張するのにこれほど相応しい場はあるまい。
マークネモは、ルルーシュに向かって手を伸ばし、機械とは思えないほど優しく繊細な動きでルルーシュを保護した後、くるりと空中で体勢を整える。未だ落下は続いているが、もう大丈夫なのだと安心した。黒の騎士団は”正義の味方”を名乗って、心無い強者を粛清し、力ない人々の救いとなったとされている。それが事実だったのかは分からないが、正義の味方を名乗る以上、湖の向こうに人の目があるこの場で、このナイトメアが弱者であるルルーシュを害することはないはずだ。
間違って落ちることのないよう硬い機体に捕まりながら、マークネモを見上げると、頭部のちょうど目の位置にあるカメラと目が合った。
「……ナナリー……?」
無意識に、口からするりと言葉が漏れる。何を言っているかなんて、ルルーシュは気付いていない。ただ脳からの信号が、口を動かした。
そしてその瞬間、マークネモの左目から自分のそれに、あの鳥に似た記号が羽ばたいて飛び込んでくるのを感じた。
「ああああっ……!」
マークネモの手の中で、ルルーシュは左目を押さえた。左目を通して、何かが自分の中に流れ込んでくるのを感じる。痛みはなかった。ただ、奇妙な感覚に意識が遠のいていく。
気付くと、真っ白い空間にいた。周囲には何もなく、天地の別さえない。ルルーシュと、他にただ一人――あの、ルルーシュにそっくりの子供がいるだけだ。その子供が誰なのか、今のルルーシュにはもう分かっていた。推測ではなく確信でもって、その子供に話しかける。
「ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアだな」
――そうだよ、ルルーシュ・ランペルージ。
「お前が俺を呼んだのか?」
――分かっていることを聞くのは、愚か者だけだ。もう分かっているんだろう?
「ああ……よくも人を面倒なことに巻き込んでくれたな」
――僕の魂を持って生まれたのを不幸だと思って、諦めるんだな。
ルルーシュは大きなため息を吐いて、左目を手で押さえた。確かめてはいないがおそらく、今この左目には、あの鳥のような記号が浮かび上がっているのだろう。あの記号が瞳の中に飛び込んできた瞬間、全てが分かった。ルルーシュがここへ来た意味も、目の前にいる自分そっくりの子供との関係も、この子供の正体も。
この子供の名前は、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。シュナイゼルの義弟にして、ユーフェミアの義兄、そして信じたくないのだが……ルルーシュの前世だ。
彼は七年前、魔女と契約を交わして王の力を得たが、その直後に死んでしまう。しかし、命が失われても、結んだ契約は生きていた。それは魂に刻み込まれた契約だったからだ。契約のつながりと、彼が死に際に抱いた強い感情が、あの石版に刻まれた鳳の記号を目にしたことでルルーシュを、過去へと召喚した。その強い感情とは、一人残してしまうことになる妹への未練だった。
あの奇妙な空間で、”ルルーシュ”が必死になって言っていた言葉も、今なら分かる。妹を、ナナリーを助けてと言っていたのだ。自分には無理だから、生まれ変わりであるルルーシュにその役目を押し付けようとした。
しかし、いくら生まれ変わる前の妹であろうと、ルルーシュにとっては所詮赤の他人である。守ってやる義務も、守ろうと思う感情もない。
その問題を解消するための左目だった。空となっている”ルルーシュ”の左目にかつてはあり、今はルルーシュの左目にある、鳥に似た記号。それは、魔女と契約を結んだことで得た力の顕れである。鳳の記号は、王の力そのもの。その依り代である左目を譲渡することで、ルルーシュと”ルルーシュ”の間に道が通じるはずだった。その道を通じて、彼はルルーシュに自分の記憶と感情を押し付けようとしたのだ。あのとき、彼が左目を差し出したのは、そんな理由からだった。けれどルルーシュはそれを拒んだ。拒んだけれど、差し出された眼球にわずかに触れたことで、”ルルーシュ”の感情を少し受け取ってしまった。ここ数ヶ月、時折感じたシュナイゼルへの恐れや嫌悪も、妹と聞いたときに感じた胸の痛みも、ユーフェミアから”ルルーシュ”の過去を聞いたときに胸をよぎった感情も、それが原因だ。
では、失敗に終わったはずの、力と記憶と感情の譲渡がどうして今になって完成したのか。詳しいことは分からないが、マークネモとの接触が原因だとしか思えなかった。単なる勘に過ぎないけれど、あのナイトメアフレームに乗っているのは、ナナリーだ。”ルルーシュ”の未練だった彼女と接触したことで、何かの力が働いたのかもしれない。
ルルーシュは大きなため息を吐いた。
「全く、現実とは思えないな……」
――だが、これは現実だ。
「……分かっている」
ルルーシュは顔をしかめながら答えた。
いくら信じられなくても、これは現実なのだ。
過去へ来てしまったことも。自分がこの子供の生まれ変わりであるということも。自分のものではない記憶を得たことも。そして、直接会ったこともないナナリー・ヴィ・ブリタニアを、こんなにも大切だと思う感情が心にあることも。
「仕方がないから、守ってやるさ。お前の魂を持って生まれたのを不幸だと思ってな」
しかし他でもない”ルルーシュ”相手に、その心を素直に認めるのは癪だったので、わざとひねくれた物言いをする。けれどそんなことはお見通しなのか、彼は笑いながら口を開く。
――ありがとう。
そして気がつくと、周りから白は消えて夜の闇が戻っていた。長く感じたが、あの空間にいたのはほんの一瞬だけだったらしく、ルルーシュは依然としてマークネモの手に包まれて空中にいた。とは言っても、どうやら飛ぶ装置を持たないマークネモは、そろそろ地面と挨拶しそうになっているところだった。
マークネモがいくらかばってくれようと、あれだけの高さから落ちているのだ。衝撃を感じないなんてことはないだろう。衝撃に備えようとした直前、マークネモの向こうから盛大な水音が聞こえてきた。
「今度は何だ!?」
せっかく命を拾ったのに、また妙なことに巻き込まれてはかなわないと、機体越しにそちらを見上げると、白いナイトメア――これもまた以前、未来にいたとき写真を見たことがある。ロイドが開発した世界初の第七世代ナイトメアフレームで、名をランスロットという――が宙に浮かび上がって武器を構えているところだった。それはすでに撃ち終えた後の体勢だったのか、緑色の閃光が、マークネモとルルーシュの脇を通り抜けてホテルに直撃する。
基礎を壊されたホテルは、すさまじい轟音と土煙を上げて湖の中へと沈み始めた。
白い土煙の中、マークネモが地面に到着する。ルルーシュはとっさに口元を押さえたが、着地の際の衝撃で手のひらが口からずれてしまって、舞い上がる土煙を少し吸い込んでむせてしまう。何とか息を整えようとしていると、上方から今度は爆発音が聞こえてきた。
「なっ……!」
見上げると、ホテルが倒壊して、ルルーシュたちがいるところへ降ってくる様がまざまざと目に映った。その災禍から逃れようと、マークネモが地面を蹴って宙へと舞い上がったそのとき、目の前で光が一閃した。
「え……?」
とたん、ぐらりと体が傾ぐ。ルルーシュを抱いていたマークネモの腕が切り離されたのだ。当然、支えを失ったルルーシュは、重力のまま落ちていく。思わず目を瞑ると、小さな衝撃を感じた。地面に叩きつけられるよりも、ずっと軽い感覚だ。それを不審に思って目を開けると、今度は別のナイトメアの手の中にいた。土煙のせいでよく見えないが、おそらくランスロットだろう。
はっきりしない視界の中、すぐ近くから金属がぶつかり合うような音が聞こえてくる。マークネモとランスロットが戦っているのだ。二体とも、落ちてくる瓦礫に巻き込まれることがないのが信じられない。しかし、瓦礫に巻き込まれないようにしているとは言え、それはあくまでナイトメアの視点での話である。細かいコンクリート片やガラスまで避けることはしていないようで、かすかな痛みが肌に走るたび、体に傷ができていっていることを感じた。せめてとりかえしのつかない傷ができることのないようにと、目を閉じることで失明の危険を避けて、頭を手でかばう。
視界を封鎖したせいで、内臓を揺さぶるランスロットのアクロバティックさを、今まで以上に感じさせられることになってしまった。体内で三半規管が悲鳴を上げる。
これまでの疲れもあいまって、意識がブラックアウトするのに必要な時間は、十秒もいらなかった。
◇ ◇ ◇
「っ……」
ぴりぴりとした痛みを感じて、ルルーシュは意識を取り戻した。消毒薬の臭いがする。目を開けると、優しそうな面立ちの女性が、ピンセットに挟んだ脱脂綿をルルーシュの腕に軽く押し付けているところだった。傷を消毒してくれているところだったようだ。
「起きたかしら?ちょっと待ってね……ロイドさん、彼女、目を覚ましたみたいですよ!」
ブリタニアの軍服を着た彼女はピンセットを持ったまま立ち上がり、扉から顔を外へ出して叫んだ。そしてすぐに戻ってきて、再びルルーシュの手当てを開始する。すでに治療はほとんど終わっているようで、むき出しだった腕や足、顔といった部分はガーゼと包帯だらけだ。
器用な手付きでくるくると包帯を巻いていく彼女を見つめて、ルルーシュは困惑に顔を歪めた。内装から考えてどこかの医務室のようだが、ここはどこなのだろう。あれからどれだけ経っているのか。そして、ルルーシュ以外の人質はどうなっているのか。
そして、ブリタニア軍に保護されているということに対する嫌悪に眉を顰める。そんなルルーシュを見て、何か誤解したのか、女性は顔を上げて優しく微笑んだ。
「ああ、ごめんなさい。もう大丈夫よ、貴方は軍に保護されたの……怖かったわね」
同情するような顔つきになった彼女は、今度は傷テープを取り出してきて、包帯やガーゼを必要とするほどではない傷にそれを貼っていく。
手当ての最中に扉が開いて、見知った青年が、パンパンと手を叩きながら姿を見せた。
「おめでと〜!」
にやにやとしたしまりのない笑みと、独特の喋り方――ロイド・アスプルンドだ。
「無事でよかったね。いやあ、人質の中に君がいるって知ったときは背筋が凍ったよ〜。しかも、あれだけ人数がいた中で、見せしめ要員に選ばれるんだから、運がないねぇ。うん?でもあの状況で助かったんだから、むしろ運がいいのかな?」
「いえ、あれは運が良いとか悪いとかには関係なく、ちょっと……その、巻き込まれてしまって……」
「ええ?何それ?」
「……民間人の少女をかばって、ユーフェミア様が身分を名乗り出たんです。それで……その、彼女に言うことを聞かせるために、一緒にいた私が見せしめに選ばれました」
「ああ……いかにもあのお優しい皇女様がやりそうなことだね〜」
「ロイドさん!」
ロイドが言葉に込めた皮肉を咎めるように、女性が声を上げる。しかしロイドは不満そうな顔をするだけで、反省の色を見せることはなかった。
「なーに、セシル君?だって本当のことだろう?慈愛を振りまくのは結構だけど、彼女はそのせいで死にそうになったんだ」
「それはそうですけど……でも、意外でした」
「何が?」
「ロイドさんでも他人のために、そんなふうに怒れるんですね。やっぱり、親戚のお嬢さんはかわいいんですか?」
「えー、別にそんなんじゃないよぉ」
優しげに笑いながら失礼なことを言うセシルという女性に、ロイドはぶんぶん首を横に振って否定する。
そう言われても、別に本当の親戚でもないのだし、会ったのは一度きりということもあって、ルルーシュは全く気にしなかった。むしろ、尋ねたセシルの方が焦っている。
「ただ、彼女はシュナイゼル殿下のお気に入りだからね。僕がいたのに死なれたりしたら、あの人に何て言われるか……別に文句言われるだけなら良いんだけど、予算削られるのは勘弁して欲しいしね……あ、これオフレコだよ〜?」
ルルーシュがシュナイゼルと関わりを持っているということは、一応秘密ということになっている。ロイドはその秘密をあっさり言ってのけた。
眉を顰めるルルーシュだが、別に自分がばらしたわけではないからいいかと思い、気にしないことにする。
「え、え……?ええええええ!?」
セシルは、ロイドとルルーシュを見比べて、目を白黒させている。お気に入り、という言葉をどう捕えたのか、その頬は少し赤く染まっていた。
それを見て、ルルーシュは密かに苦い顔になる。
彼女が抱いたであろう想像が、あながち外れていないからだ。ただ、セシルが考えているのとは少し違って、ルルーシュは”ルルーシュ”の身代わりに過ぎない。他人の代わりにされることへの不快感と、不毛な恋に身を焦がす男への憐れみが、瞬時心を支配する。
しかし次の瞬間、ルルーシュは口元に笑みを刷いた。
前世の記憶と感情を受け継いだルルーシュだが、その記憶と感情はよほど強いものではない限り、ルルーシュの中には根付かなかった。まるで自分のもののようにルルーシュを侵食した感情は、今自覚しているだけでは二つだ。ナナリーへの愛情と、父親――ひいてはブリタニアという国への憎悪。だから、”ルルーシュ”が抱いていたシュナイゼルへの嫌悪と恐怖は、ルルーシュの心を通り抜けていっただけだ。
ナナリーのことをどれだけ大切に思っても、現皇帝のことがどれだけ憎くても、自分は”ルルーシュ”ではなくルルーシュだ。シュナイゼルのことを考えたことで、その事実に気付いたから、不快感も憐れみも忘れて笑ったのだった。
ナナリーが大切で皇帝が嫌いで、シュナイゼルのことが怖いと思うのは、”ルルーシュ”の心。
ナナリーも皇帝もどうだってよくて、叶わない恋に執着するシュナイゼルを憐れだと思うのが、ルルーシュの心。
”ルルーシュ”の記憶と感情を持っていても、ルルーシュは”ルルーシュ”ではない。たとえ彼が生まれ変わる前の自分だったのだとしても、彼と自分は別の人間なのだと、その事実を忘れないように心に刻み付ける。
自分という存在を、”ルルーシュ”に乗っ取られないように。
押し付けられた感情だと分かっていても、ナナリーのことは大切だと思う。だから彼女を守ることに不満はない。けれど、自分が自分でなくなるのは御免だった。
ナナリーへの愛しさを受け入れておきながら、そんなことを思うなんて、矛盾しているのは分かっている。それでもルルーシュは、自分と”ルルーシュ”との線引きを捨てられない。
自分がもっと単純だったら良かったのに。そう思ったのは、生まれて初めてだった。けれど、そうしたらきっとこんな矛盾に頭を悩ますことはなかったのだろうと思うと、その願望はとてもすばらしいものに感じられた。
◇ ◇ ◇
人質を助け出し、黒の騎士団の設立を表明し、軍からの逃走を果たした後。
アジトである豪華なトレーラーの中、ゼロの部屋に、二人の人間がいた。一人は部屋の持ち主であるゼロ、そしてもう一人は、コンベンションセンターホテルへ侵入する際大きな役割を果たしたあの少女である。
すでにバイザーを外した少女は、隅にある寝台に腰掛けながら、上機嫌に微笑んでいる。
「それで、どうだったんだ?ナナリー」
寝台から少し離れたところにある椅子に腰掛けたゼロが、仮面を外しながら問いかける。若草色の髪、猫のような金色の双眸、整った顔立ち――あらわになったその顔は、まだ年若い少女のものだ。仮面に変声機が仕込んであったのか、低い声が仮面を外した瞬間高く変化する。
「ええ、間違いありません。あれはお兄様でした」
「証拠は?」
「名前を呼ばれました。それに、私がお兄様を間違えるわけがありません」
ナナリーはいっそ誇らしげに笑って言う。
成長していても、性別が変わってしまっても、死んでしまったことを知っていても、あれは兄なのだという確信がナナリーにはあった。戻ってきてくれたのだ。ずっと側にいて守ってくれるという、かつて交わした約束どおりに。
「ですが、あえて言うのなら……この左目から、お兄様のギアスが消えたことが証拠だとでも言いましょうか……」
マークネモという機体越しに目が合ったあのとき、左目から何かが抜け出ていく感覚に襲われた。それはほんの一瞬のことだったけれど、その一瞬で、左目に宿っていた兄のギアスが喪失したことにナナリーは気付いた。
この左目は、ナナリーが元々有していた眼球ではない。死んでしまった兄の眼球を移植したものだ。だからナナリーは、未来線を読む能力だけではなく絶対遵守の力も使えた。マークネモに乗っていないときにも左の目だけは物を見ることができた。
そして今、左目はこれまでと変わらず世界を移すけれど、あの不可思議な力はもうナナリーの中には存在しない。あの鳳は、正当なる王のところへ還ったのだ。根拠はないけれど、ナナリーはそう確信していた。
左目の周りを囲うように残る傷――眼球を移植した手術の痕を、愛しげに指でなぞりながら、ナナリーは口を開く。
「C.C.さん」
「何だ?」
「私、この痕消します」
それを聞き、C.C.と呼ばれた女は大きく目を見開いた。
「……いいのか?」
「ええ。だって、こんな醜い傷痕がある顔を、お兄様に見せられないでしょう?」
顔に残る目立つ傷。それを残したのは、わざとだった。神経の断絶された足でさえ、医療サイバネティクスを駆使した機械を装着することで、自在に動かすことができるようになっているのだ。それだけの技術があるのに、手術の痕一つ消せないわけがない。消さなかったのは、兄とのつながりを少しでも残していたかったからだ。
「今までこの傷は、この左目は、私とお兄様をつなぐたった一つのものでした。だから消さなかった……でも、もういらない。お兄様が、戻ってきてくれたから……」
七年前、侵略に狂気を触発された日本人から、ナナリーをかばって死んだ兄。一番大切で、誰よりも愛していた人。彼を失って、ナナリーは世界を呪った。自分たち兄妹を見捨てた父が憎い、ブリタニアが憎い、兄を殺した日本人が憎い……全部、滅んでしまえばいいと思った。そのために、C.C.と契約を結んで力を得た。さらには、目を移植することで兄の力さえ取り込んだ。この二つの力で、世界を滅ぼそうと思った。わざわざ憎い日本人と手を組んで、黒の騎士団なんてものを作ろうと思ったのも、そのためだ。ブリタニアを弱めるために利用して疲弊させて殺して殺させて、どちらが勝ってもいい。残った方を叩くつもりだった。悪辣と言われようが、どうだっていい。痛む心なんて、兄が死んだそのときに無くしてしまった。兄を殺した世界なんて、どうだって良かったのだ。
けれど、今は違う。この世界へ戻ってきてくれた最愛の兄の目の前で、そんな残虐なことはできない。だから、これからは滅ぼすためにではなく、あの人を自分の側へと取り戻すために闘おう。そして、今度こそあの人を守るために闘うのだ。
「お兄様……」
兄のものである左目を、両の手のひらで覆い、ナナリーはそっと目を閉じた。
死んだはずの兄がどうやって戻ってきたのか、手段なんてどうでも良かった。あの人がこの世界にいる。ナナリーにとって大切なのは、それだけだった。
●END●