はなれたくない

「ここまででいい」
 スザクに背負われたルルーシュは、木の間に土蔵の影が見えてくるようになるとそう言った。
「いいから、遠慮するなよ。中まで運んでやるから」
「遠慮しているわけじゃない。ナナリーに心配をかけたくないからだ」
「心配って……おまえの妹、目が見えないんじゃなかったのか?」
「そうだ。そして目が見えない代わりに、あの子は他の感覚が発達している。このままで帰ると、おれがおまえに背負われて帰ってきたことは間違いなくばれる。そうなったら、どうして背負われているのか話さなければならない。……だが、そんなことはできない。あの子は優しいから、おれがどんな目にあったか知ったら悲しむ。それは避けたい」
「……おまえは妹のこと、本当に大切にしてるんだな」
「当たり前だ。あの子はおれに残された、たった一人の家族なんだからな」
「たった一人って……でも、おまえの父親って」
「あんな男は父親じゃない!」
 戸惑ったような声のスザクに向かって、ルルーシュは思わず声を荒げた。
 突然の怒声に、スザクの体が飛び上がって足を止める。
 背に乗っているルルーシュには、それがよく分かった。スザクはガキ大将で自分勝手だが優しいから、この怒りの理由を求めてくることはないだろう。ルルーシュも、わざわざ自分の傷を見せびらかせて悲劇の主人公を気取るような趣味はないし、他人に弱味を見せることを良しとするような性格はしていないので、本来ならば話すことはなかっただろう。けれどそれでは『以前』と同じになる。ブリタニアという国の恐ろしさを、醜さを、おぞましさを、スザクは真の意味では知らないまま成長してしまうことになる。外から見ただけでは、ブリタニアという国の真実なんて理解できない。それでは駄目なのだ。ルルーシュが欲しいのは、『以前』と同じように成長したスザクではない。ルルーシュとナナリーを決して裏切ることのない、この子どものときのまま大きくなったスザクなのだ。
 そのためならば悲劇の主人公を気取るぐらい、どうということはなかった。
「……あんな男が父親であるわけがない」
 ルルーシュはスザクの首に回した腕にそっと力を込めて、寂しげな声を心がける。同情でこの男を縛り付けることができるなら、くだらないプライドぐらい捨てられる。
「日本へ送られる少し前に、母さんが死んだ……殺されたんだ。公にはテロリストの仕業ということになっているが、ブリタニア宮の中にそんなものが入り込めるわけがない。母さんを邪魔に思っている誰かが手引きしたことは明白だった。ナナリーの怪我も、そのときのせいだ。怪我をしたナナリーに、あの男は見舞いにさえやって来なかったよ。だからおれはあの男に抗議しに行ったんだ。……そこで何て言われたと思う?」
 スザクは答えない。
 別段返事を求めていたわけではないので、ルルーシュは気にせず続けた。
「弱者に用はない」
「なっ!」
「死んでいるとも言われたな。服も食事も家も命も全部あの男が与えたもので、おれのものではない。だからおれは生まれたときからずっと死んでいるのだと、生きたことなど一度としてないのだと、そう言われた」
「何でそんな……だって、ルルーシュは皇女で、自分の娘なんじゃ……」
「娘とかそんなことは、あの男には関係ないんだ。あいつにとって大切なのは、力。力こそが全て、強者だけが生きる価値を持つ。おまえだって、ブリタニアがそういう国だってことぐらい知っているだろう?」
「でも……でも……」
「他の兄弟たちだって同じだ。母さんが殺されるまでは、母親が違っていても、仲良くしていた兄弟たちも何人かいた。でもあの後から、何の音沙汰もなくなった。怖かった。寂しかった。悲しかった。恐ろしかった。母さんが死んで、もしかしたらナナリーまで死んでしまうかもしれない。おれは何日もずっと、あの子の病室の前で祈り続けた。その間、病室にやって来た兄弟なんて一人もいなかったよ。おれのことをかわいがってくれていたクロヴィス義兄上も、母さんのことを尊敬していたコーネリア義姉上も、ナナリーを除けば誰より親しくしていたユーフェミアも、皆おれとナナリーのことを見捨てたんだ……おまえなら、そんな薄情な相手を肉親だと思えるか?」
 ルルーシュはさも被害者ぶって、毒を吐く。ブリタニアという国の真実とは別に、このスザクが未だ出会っていないユーフェミアに対する毒を。スザクがユーフェミアに心奪われることのないように。いつだって、何も考えないくせに笑顔一つで大切なものをつかみとっていくあの幸せな娘に、今度こそスザクを奪われることのないように。
 ギアスが暴走した結果、自らの手で殺すことになってしまった義妹に対して、ルルーシュは多大な負い目を感じている。けれどそれとこれとは別だ。スザクは、スザクだけは渡せない。だってスザクはルルーシュにとって、初めて心を許せた他人で、ナナリーとはまた違って意味で特別な存在なのだ。
 スザクは体力馬鹿で筋肉馬鹿だから、八年の後に今言ったことを覚えているとは限らない。けれど意識の奥に潜んだ毒の種は、記憶の底に埋もれてもじわじわと効力を発揮するだろう。スザク自身気付かぬうちに、その種は華を咲かせ、ユーフェミアに対する不審を植え付けるだろう。幼いころのすりこみとは、そういうものだ。
「おれには思えない」
 ここで声を震わせて涙でも流せば完璧だろうか。ルルーシュは一瞬そんなことを考えるが、そこまですると嘘くさいと考えて、わざと感情を押し殺した声を選ぶ。
「だから、おれの家族はナナリーだけだ。あの子だけなんだ。……いい加減下ろしてくれ。あまりナナリーを一人にしておきたくない」
 スザクはぎこちない動きでルルーシュを背から下ろした。
「背負ってくれてありがとう。かご、返してくれないか?」
「……ごめんっ!!」
 かごを返すように要求して手を差し出すルルーシュに向かって、スザクは唐突に頭を下げてくる。
「スザク?」
「おれ、何も知らなくて……おまえにそんなことがあったなんて……」
「知らなくて当たり前だ。気にする必要はない」
「でもっ……おれはおまえにひどいことをした!おまえが妹のために吐いた嘘を台無しにして、おまえのことを殴って……でもおれ、あの次の日に謝りに行ったとき、心のどこかで自分は悪くないって思ってた。女のおまえを殴ったのは確かに悪かったけど、おれの秘密基地を取ったのはおまえらだし、先に殴りかかってきたのはおまえだから、悪いのはそっちだって……そう思ってた。そんなふうに思ってるんだから、謝ってもおまえが許さないのは当たり前だ。それなのにおれ、逆恨みして、おまえのこと嫌なやつだって決め付けてっ……本当にごめんっ!」
「スザク、顔を上げてくれ」
 ルルーシュはそう言うが、スザクはきっちり九十度に腰を折ったまま頭を上げようとしない。仕方なく、そのまま語りかけることにした。
「謝るのはおれの方だ。おれはおまえにひどい態度を取った。ひどいことを言った。ここに来る前に色々あったからって、そうしていい理由にはならないのに……すまなかった」
「そんなっ……おまえが謝ることなんてない!」
 ルルーシュが謝罪すると、スザクは勢いよく顔を上げる。
「いや、おれが悪い」
「違うっ、悪いのはおれだ!」
「違うな、間違っているぞ、スザク。悪いのはおれだ」
 自分を悪者と言い張っている割に、ルルーシュの口調はどこまでも偉そうだ。
 その態度に、スザクはそれまで謝罪していたことも忘れて、険悪な顔でルルーシュに食ってかかる。
「間違ってるのはおまえの方だ!」
 このままでは危うく喧嘩に発展するかといったところだったが、そうなる前にルルーシュが引いた。
「なら、どちらも悪いということでいいだろう」
「は?」
「喧嘩両成敗。日本には、そういう諺があるのだろう?おれも悪かったが、おまえも悪かった。だから、今度こそ仲直りをしよう」
「……いいのか?」
「嫌だと思っていたら、こんなこと言い出さないさ。それとも、おまえは嫌なのか?友達になるって約束したのは嘘だったのか?」
「嘘じゃない!」
「なら、手を」
 ルルーシュはそう言って、スザクに向かって手を伸ばす。
 スザクは少しためらいながらも、その手を取って握手をする。
「これで仲直りだ」
 ルルーシュは笑った。ユーフェミアに対する毒の種。それを知らずに呑み込んだスザクへの満足が、本心からの笑みを浮かべさせた。
 それを真正面から見たスザクは、呆けたような顔になって言った。
「おまえ、笑ってた方がいいよ」
「え?」
 きょとんとしたルルーシュの顔を見て、スザクはさっと顔を真っ赤にした。意識しての言葉ではなかったことを表すように、しどろもどろになっている。
「だから、その、えーっと……おれが守ってやるから、もっと笑ってろよ。おまえみたいな弱っちいやつ、放っておいたら大変なことになるに決まってるから、側にいてやる!その、友達だからな!」
 最後は開き直るように、スザクは偉そうな口調で言う。
 何が原因でこんなことを言われるのか、さっぱり分からないルルーシュはしばらくぽかんとしていたが、やがてふわりと微笑んだ。
「ああ……友達、だからな」
 その笑みに、スザクはますます顔を赤くして、ルルーシュから顔をそらした。



 戦争が始まるまでの、日本で人質として過ごした約一年間。この時期の初め、ナナリーの精神はとても不安定だった。病んでいたと言ってもいい。母を目の前で亡くしたのだから、それも無理はない。それでも彼女の精神は、ルルーシュがいるときにはあくまで正常だった。ルルーシュがいなくなると、精神をつかさどる針は瞬く間に異常へと傾くのだ。
 少し外出している間に、手に届くところ中の食器全てを割られたことがあった。ベッドのシーツを爪で引き裂かれたこともあれば、壁を叩きつけたのか小さな手が青くはれてしまっていることもあった。けれどナナリーには、自分がそんなことをした自覚は全くないのだ。
 『以前』、幼いころのルルーシュには、どうしてナナリーがそんなことをするのか分からなかった。けれど、今ならおぼろげに分かる。
 それはナナリーのサインだった。ルルーシュに側にいてほしい、どこにも行かないでほしいという。母を殺し自分を傷つけた恐ろしい世界の中で、ただ一人信じられる兄への依存――それが強くなりすぎたあまり、ナナリーの心は病んでしまい、彼女をそんな行動へと駆り立てたのだ。
 そしてそれはルルーシュへの依存だったからこそ、ルルーシュに治すことは不可能だった。ルルーシュがナナリーに優しくするほど、大切にするほど、その依存は高まって心の病は進むのだ。
 『以前』、ルルーシュにはどうすることもできなかったそれを治したのは、スザクだった。ルルーシュたち兄妹の間にずかずかと入り込んできて、ずけずけと物を言い、乱暴ながらもかまってくる彼と過ごしているうちに、ナナリーの症状は治まっていった。
 だから実のところ、『以前』と同じ症状を引き起こしているナナリーをどうすれば治すことができるのか、ルルーシュには手詰まりだった。スザクがいなければナナリーを治すことはできない。けれど、スザクと友達になることなんてできない。
 スザクを頼れない今回、不安定な心を抱える妹をどうすれば救うことができるのか困りきっていたところ、転機はやって来た。
 出来る限り早くスザクとナナリーを引き合わせて、スザクには持ち前の遠慮のなさでナナリーの心に踏み込んで、ナナリーを救ってほしいとルルーシュは思っていた。けれど、外出から帰ってきたばかりで、ナナリーの手により荒れているだろう室内を見せることにはためらいがある。妹が心を病んでいることを、誰かに知られたくなかった。だからルルーシュは土蔵の前でスザクの背から下りて、今日は帰るようにと言い渡した。
 だと言うのにスザクは持ち前の遠慮のなさで、帰れというルルーシュの言葉など聞かずに土蔵までついてきてしまった。その遠慮の無さがナナリーを救った(救うことになる)のだから、文句を言いにくいのが悲しいところだ。
「いいか、中がどうなっていても驚くなよ。余計なことを言うんじゃないぞ」
 ルルーシュは仕方なく、買い物籠を持ったままついてくるスザクにそう言い含めた。
 スザクは訳が分からないような顔をしながらも、一応大人しく頷いている。
 一抹の不安を感じながらも、ルルーシュは土蔵のような小さな住まいの扉を開けた。
「ただいま」
「お帰りなさい、お姉さま!」
 照明がないため暗い室内から、ナナリーの弾んだ声が返ってくる。足が不自由でないのなら、きっと走って抱きついてきただろうと思わせる声だ。一心に慕ってくるこの声は、心の病にまで発展した依存をも表している。
 ルルーシュの心は喜びと悲しみでいっぱいになった。そうしているうちに暗い室内にも慣れてきて、部屋の様子が見えてくる。
 部屋の中は、町に出かける前とは大きく様変わりしていた。タンスの中にしまっておいたはずの衣類が部屋中にばらまかれていたのだ。
 片付けるのは大変だが、壁を叩きつけてあざを作られたり怪我をされたりするよりはよほどマシだ。ルルーシュはほっと息を吐く。けれどスザクは違ったようで、驚いたように息を呑む音が小さく耳に届く。
 ナナリーもそれを聞きとがめたのか、喜びに輝いていた顔を一転させて、怪訝そうに曇らせる。
「お姉さま、誰かいらっしゃるのですか?」
「ああ……その、ナナリーも知っている相手だよ」
「わたしも?」
「ここに来たばかりのときに会った、枢木首相の息子だ」
 そう紹介したルルーシュは、忘れていた。スザクに会ったばかりのとき、自分がナナリーに何と言ったのかを。そして病的なまでにルルーシュに依存するナナリーに対して、自分が言ったことがどれだけの効果を持つかなんて考えもしなかったのだ。
 だから返ってきた反応は、本当に予想外のものだった。
「いやですっ!!」
 細い悲鳴が空気を裂いて響き渡る。それは、かたかたと体を震わせて、信じられないように首を横に振っているナナリーが発したものだった。
「ナナリー?」
「なんで、どうしてですか!?どうしてそんな人といっしょにいるんですか!?だって、その人はお姉さまを!」
「そのことはいいんだ。殴りかかったのはおれからだったんだし、もう仲直りした。だから、そんなふうに怖がる必要はないんだよ」
 『以前』とはあまりに違う反応に困惑しながらも、ルルーシュはナナリーの手を握って宥める。
 しかし、ナナリーが落ち着くことはなかった。
「仲直り……?」
 ナナリーは信じられないような声を上げて、落ち着くどころか恐慌状態になって暴れ始める。
「そんな……嘘、嘘です!」
「ナナリー、落ち着いて。いったいどうしたんだ?」
「仲直りなんて嘘!だって、スザクさんだけは駄目だって言ったのはお姉さまなのに!!」
 空気が凍るのをルルーシュは感じた。土を踏む音が聞こえてくる。スザクが後ずさりして、建物の外に出たのだ。
 ルルーシュは慌てて口を開いた。
「な、ナナリー、違うんだ、あのときは殴られて頭に血が上ってて、それで駄目だって言っただけで……」
「嘘です!こんなの嫌……」
 ナナリーは首を横に振って、ほろほろと涙を流し始める。
 ルルーシュは困りきっていた。
「ナナリー……」
「二人だけでいいの!わたしはお姉さまがいれば、それでいいの!スザクさんなんていらない!わたしからお姉さまを取らないで!!」
「ごめん……」
 土蔵の入り口に向かって泣き叫びながら暴れるナナリーを、ルルーシュは強く抱きしめた。
「ごめん、ナナリー……おれが余計なことを言ったりしなければ……ごめんね……」
 これはルルーシュのせいだ。あのとき、スザクと会った再会した(初めて会った)あのとき、ルルーシュが余計なことを言わなければ、ナナリーがこんなふうに心を閉じてしまうことはなかった。世界が優しくあるようにと望んだ優しいこの子が、二人だけでいいなんて悲しいことを言うこともなかった。これはルルーシュの罪だ。
「ごめんね……ナナリーっ」
 そうしながらどれだけの時間が経ったころだろう。ナナリーの体からくたりと力が抜けて、泣き叫ぶ声もなくなった。疲れて眠ってしまったのだ。
 よりかかってくる小さな体を、粗末な車椅子の背にもたれさせて、転げ落ちないように安定した格好を取らせる。それからようやくルルーシュは振り向いた。
 スザクは、土蔵の入り口のところで立ちすくんでいた。
「……すまない。嫌な思いをさせた」
「いや……おれは、出会い頭におまえを殴ってるんだ。嫌われて当然だ」
「違うっ、ナナリーはそんな子じゃない!……おれが、おれが余計なことを言ったから……」
 ルルーシュは唇を噛んでうつむいた。
「ナナリーは本当にいい子なんだ。おれの妹とは思えないぐらい優しくて、素直で……この子のせいじゃないんだ。だから頼む……この子のことを嫌わないでほしい」
「別に……これぐらいで嫌うかよ。妹の態度より、おまえの態度の方がよっぽどひどかったじゃないか。そのおまえとも仲直りできたんだ。なら、そいつとできないわけがないだろ」
 ぶっきらぼうな態度のスザクに向かって、ルルーシュは涙をこらえながら笑いかけた。
「ありがとう」

 けれどスザクとルルーシュの努力にも関わらず、ナナリーとスザクは表面上では上手くいっているように見えても、いつまでもどこかぎこちなさが残った。ナナリーはルルーシュが側を離れても暴れるようなことはなくなったけれど、決してスザクに心を許そうとはしなかった。
 そうして数ヶ月の時が過ぎ、やがて運命の夜はやって来る。



◇ ◇ ◇



 皇暦二〇一〇年四月某日。
 『以前』と同じ日の夕刻、いつもなら決まった女中以外近づこうとしないこの離れに、見知らぬ男たちが押し入ってきた。
 それを見たルルーシュは、やはり来たかと思って目を細めた。
 『以前』、これと同じ日に起きたことの詳細をルルーシュは知らない。知っているのはただ、知らない大人がナナリーを連れて行こうとしたこと。抵抗したルルーシュは薬を使われ、一時体と精神の自由を失って、ナナリーを連れて行かれた。どうにかしてその後を追おうともがいているうちにスザクがやって来て、ルルーシュはスザクに頼んだのだ。ナナリーを助けて、と。そして願いどおり、スザクはナナリーを助けてくれた。
 どうやってそれを為したのか、スザクが語ることは決してなかった。そしてあの日から、スザクは変わってしまった。
 その理由がどうしてなのか判明したのは、あの日から七年経った後のことだ。マオがあの日の真実を暴露して、ルルーシュはようやくスザクが何をしたのか知ったのだ。
 父親殺し。それがスザクの罪であり、スザクが変わってしまったきっかけだった。
 だから今回は、同じことをさせるわけにはいかない。どうにかしてこの場を切り抜ける必要があった。
「こんな夜に何の用だ」
 男たちは答えない。ただ無言で、ルルーシュたちの方へと手を伸ばしてくる。
 ルルーシュはナナリーを背にかばい、身構えた。服の下には小ぶりのナイフを隠してある。もし『以前』のように薬を使われて昏倒させられても、それで自分を刺して正気を取り戻せばいい。そして彼らに見つからないように、こっそり後をつけて、枢木ゲンブがルルーシュとナナリーに手を出す前に交渉すればいいのだ。
 本当ならこうなる前に接触を持つことが理想だった。しかし人質の身に過ぎないルルーシュに、自分からゲンブに会うことは不可能に近かった。だからこうして、危険なことをしなければならない破目に陥っているわけだ。
 自傷する程度を間違えて出血多量になるわけにもいけない、ナナリーを連れ去るだろうこの男たちに気付かれてもいけない、枢木ゲンブに話を切り出すタイミングを間違えてもいけない……いけないことだらけだ。それでも失敗するわけにはいかない。ルルーシュは気を引き締めた。
 一人の男の手が、ルルーシュにかかる。
「放せ!」
「お姉さま!」
 ルルーシュの抵抗などないもののように、男はルルーシュを肩に担ぎ上げた。男はそのまま外へと向かって歩いて行く。ナナリーには手を触れることもなく、そのままにして、男たちは外へ出て行く。
「お姉さま!お姉さまっ、お姉さまぁ!」
 ナナリーの悲鳴が響く中で、ルルーシュは抵抗をやめた。担がれた肩の上で、車椅子の車輪を回して進むナナリーが何かにぶつかったのか、車椅子の上から放り出されるのが見える。そのときだけ再び暴れそうになってしまったが、それを意志の力で無理に抑え込む。
 『以前』とは違う展開ではあるが、この状況も想定内の出来事であるし、浚われたのが自分の方であるのはむしろ好都合だ。せっかく心身が自由であるというのに、暴れて薬を打たれたりしたら、せっかくの好条件が台無しになる。だから抵抗してはいけない。怖がって萎縮しているのだと思われようが、そんなものはどうでもいい。大切なのは、どうやって生き残るか――そしてどうやってスザクに父親を殺させることなくこの場を切り抜けるか。それだけだ。
 そして条件は、ほぼ全てがクリアされつつある。ナナリーではなく自分が選ばれた。薬は打たれていない。交渉のネタもある。失敗することはない……そう思いたい。思わなければやっていられない。こういうとき、『以前』と同じようにギアスがあればよかったのにと思う。この左目に今、あの王の力は存在しない。つまりあの力を手に入れるためには、再びC.C.に会う必要があるということだ。偶然の邂逅を除いては、会うことさえ難しい居所不明の魔女と。
 そうこうしているうちに、枢木の邸の中へと連れて来られて、どこかの部屋に閉じ込められた。しかもご丁寧に腕を胴ごとぐるぐる巻きに拘束され、足首も縛られた状態で、だ。逃げないようにということなのだろう。
 ルルーシュは何とかして服の下から隠し持っていたナイフを取り出して、縄を切ろうとした。いくら器用なルルーシュでも、それはたやすいことではなかった。ナイフを持ち損ねて手を切ったり、縄だけではなく腹まで傷つけたりと、どうにか腕を縛っていた縄を解く頃には、決して小さくはない傷がたくさんできていた。痛くないわけがない。それでもルルーシュは手を止めず、今度は足首の縄を切りにかかった。
 枢木ゲンブの性格から考えて、彼が自らの手で人質の皇女に死を与えようとしていることは明らかだ。だからここで待っていれば、彼はルルーシュに会いに来るだろう。けれどそれでは駄目なのだ。きっとそれでは間に合わない。待っているだけでは、スザクはゲンブを――父親を殺してしまう。
 スザクにそれをさせてはいけない。そうしたらきっと、ルルーシュとナナリーの存在は、スザクの中で罪と直結することになってしまう。それでは駄目なのだ。そうなってしまったら、スザクはきっと離れてしまう。『以前』のスザクは父親殺しの罪に堪えかねて歪んでしまったのだ。そうなったスザクはきっと、ルルーシュたちを一番に選ぶことはない。それが分かっているからルルーシュは焦っていた。スザクに父親を殺させるわけにはいかない。
 足首の拘束が切れて立ち上がろうとしたとき、きしんだ音を立てて部屋の扉が開いた。ルルーシュはそのままの体勢で顔を上げる。視界に飛び込んできたのは――洗いざらしの白い胴着も紺の袴もそこからはみ出した肌も、まだらに赤く染め上げて立つスザクの姿だった。
 間に合わなかった……ルルーシュはそれを悟り、泣きそうに顔を歪めた。
「ルルーシュ、大丈夫か?」
「スザク……」
「ごめん、こんなところに閉じ込めたりして。父……あの人、ちょっと酔っ払ってたみたいなんだ」
 どこか虚ろな顔でスザクは笑う。
「大丈夫だ、もう寝ちゃってるから。驚かせて悪かったな」
「スザク」
「帰ろう、ルルーシュ。ナナリーが待ってる」
 スザクはそう言って手を差し伸べてくる。
 ルルーシュはその手を両手で握りしめて、大声で叫んだ。
「スザク!」
 スザクはびくっと肩を震わせて、怯えるように唇を戦慄かせる。
 この態度から考えて、スザクはルルーシュに気付かないでいてほしいのだろう。自分が父親を殺したということを。けれどそれは駄目だと思った。それではスザクを失ってしまう。そんなことは許せない。だから同じことを繰り返しては駄目なのだ。もしかしたら、ナナリーの状況が悪い方向へ転んでしまったように、今からすることがスザクをさらに遠ざけるかもしれない。その可能性を分かっていても、知らないふりをすることだけはできなかった。
「無理して笑う必要なんてないんだ。おれのせいなんだろう?おれを助けるために、おまえは」
「違う!」
 スザクはルルーシュの手を振り払って、ゆるゆると首を横に振りながら後ずさる。
「違う、違う違う違う!おれはっ……!」
「スザクっ!」
 走り去っていくスザクを追って、ルルーシュもまた部屋の外へと出た。縄を切るときにした怪我がじくじくと痛んだ。けれどそんなことはどうでも良かった。今スザクを見失ったら、もう二度と彼を手に入れることはできない。それが分かっていたから、必死になって後を追った。
 体力はすぐに底を尽きた。それでも足を止めることはできなくて、ふらふらになりながらも走り続ける。スザクの姿はとうに見失っていた。それでも諦められずにスザクを求めて走っていると、開いた扉から藤堂の姿が見えた。あそこだ、ルルーシュは直感的に思った。
 疲れ切った足で壁伝いに進みながら、扉の前まで行く。中から老人の声が聞こえてきた。知った声だ。この声は、桐原。
「……しの目がそう言っておる。これを行うことのできたおぬし自信の血と体がそう言っておる。ならば……あとは、おぬし自身がどこで己の刃を納めるかだ。おぬしが何を選ぶかだ。いまおぬしが流した血に、そして、これからも流し続ける血に対して、いかにして責をあがなうかだ。――しかし、それができぬというのなら」
 この先を言わせてはいけない。ルルーシュはわざと音を立てて、部屋の中へと踏み込んだ。
「おれがっ……!」
 整わない息の中で、ルルーシュは必死に言葉をつむぐ。
「おれが、その刃を納める場所になる!」
 突然の乱入に驚いている桐原と藤堂の姿や、凄惨を極めた室内の光景なんて、どうだって良かった。ルルーシュはただ、部屋の隅で膝を抱えてうずくまっているスザクだけを見つめていた。
「おまえが流した血と、これからも流し続ける血の、その理由になってやる!」
 スザクの目はぼんやりとしていて、焦点を結んでいない。
 ルルーシュはずかずかと部屋に入り込んでスザクのまん前にしゃがみこむと、必死になって話しかけた。
「おまえが枢木ゲンブを殺したのは、おれのためだ。おれを助けたかったからだ。だって……だって、約束した!」
「やくそく……」
 ぼんやりしていたスザクの目が、その言葉で始めて焦点を結ぶ。
「そうだ!おれはおまえを裏切らないって、だから友達になろうって、おれが守ってやるからもっと笑ってろよって、おまえがそう言ったんだ!」
「違う……違うんだ、ルルーシュ……おれ、おれは……」
 スザクは目に涙の膜を張って、何度も首を横に振る。
 ルルーシュはスザクの手を握りしめて口を開いた。
「違わない。おまえはおれを助けてくれた。おまえのせいじゃない……おまえのせいじゃないんだ」
 ルルーシュがそう繰り返すと、スザクは目からぼろぼろと涙をあふれさせて、すがるようにルルーシュの手を握り返してくる。
「おまえのせいじゃない……おまえが流した血は、おれを守るためのものだ。おまえがこれから流す血も、全部おれを守るためのものにしろ。おれが、おまえの力を振るう理由になってやる。だからスザク……一人で背負うな……そして、助けてくれてありがとう……」
 こんな陳腐なことしか言えない自分が情けなかった。けれど、どう言えばスザクが救われるかなんて分からなかった。分からないから、せめて優しい言葉を惜しまずに、こうやってぬくもりを分け与えることしかできない。それしかできない自分の無力が、悔しくてたまらなかった。

 こんな言葉でスザクを救うことができたのか、ルルーシュには分からない。
 ただ明らかなのは――『以前』と同じように、これ以降スザクが変わってしまったこと。けれど『以前』と違うのが一つ。スザクは必要以上にルルーシュの近くにいることを望むようになった。
 それが良いことなのか悪いことなのか、ルルーシュには分かりかねた。今は近くにいても、明日にはもしかしたら違うかもしれない。ルルーシュを拒絶するようになるかもしれない。ルルーシュはそれを恐れていた。
 『以前』のスザクは、父親殺しの罪に堪え切れなくて歪んでしまった。それなら今回、スザクの罪を知るルルーシュの存在を、拒絶する日が来ないとどうして言えるだろうか。
 けれどその恐れは杞憂のまま数ヶ月が過ぎ……皇暦二〇一〇年八月十日、ブリタニアと日本の間に戦争が起きた。
 ルルーシュはスザクと離れるつもりなんてなかった。けれど、日本最後の首相の息子であるスザクと、ブリタニア皇族――それもこれから死を偽って身を隠そうとしているルルーシュが、戦後の微妙な時期に一緒にいられるわけがないのだ。自分一人だけだったなら、無茶をしてともにいることを選ぶこともできたかもしれない。けれどルルーシュには、ナナリーがいる。誰よりも大切な妹の安全を考えれば、そうすることはできなかった。
 結局『以前』と変わらず、ルルーシュとスザクは離れ離れになった。


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