いらない、おまえなんて

 翌朝、ルルーシュは痛みで目が覚めた。
 散々蹴りつけられた腹や肩のあたりが悲鳴を上げている。そう言えば、スザクと初めて会った次の日は、以前もこうして同じように目が覚めたのだということを、痛みの中でふと思い出した。性別は変わったくせに、こんなことは『前』と同じままだなんて、何だか泣けてくる。
 ルルーシュはそっとため息をつき、できるだけベッドを揺らさないように気をつけながら起き上がろうとした。しかし痛みのあまり、ついうめき声を上げてしまう。慌てて奥歯を噛み締めて声を殺したが、時すでに遅し。起こさないようにと気遣った妹は、どうやら目を覚ましてしまったようだった。
 しまった、と苦い顔をしたルルーシュが目を向ける先で、ナナリーははっきりしない声を漏らしながら、もぞもぞと身じろぎする。
「……もうあさですか?」
 まだ眠いのだろう。目を閉じたままのナナリーは、寝起きのせいか普段よりもいくらか舌足らずだ。
 その質問に答えるためルルーシュは、ベッドを降りてすぐのところにある窓へと視線を向かわせた。この狭い部屋には時計がないため、太陽の有無、高度、明るさでしか時間を判断することはできないからだ。建物の古さにふさわしいぼろぼろのカーテンは、本来の役割を全く果たしていない。そのため、わざわざカーテンを開けることをせずとも、簡単に外の様子を窺うことができた。
 季節が季節であるため、外はすでに十分明るかった。ただし、太陽の高さから考えて、起きるにはまだ少し早い。ルルーシュはそう判断して、眠りを促そうと優しい手付きでナナリーの頭を撫でる。
「いや、まだ早い。もう少し眠っているといい」
「いやです」
「いやって……」
 眉根を寄せて腰に抱きついてくるナナリーに、ルルーシュは困惑した。見るからに眠そうな顔をしているくせに、また妙なことを言うものである。わざわざ早起きして、何かしたいことでもあるのだろうかと思っていると、抱きついたままのナナリーが顔を上げて言う。
「だって、お姉さまはもう起きてしまうのでしょう?」
 ルルーシュは虚をつかれて一瞬瞠目して、すぐに困ったように微笑んだ。
 ここはブリタニアではない、遠く離れた異国――それも潜在敵国である。いや、潜在なんて言葉をつけずとも、両国間の緊張は日ごとに高まっている上に、未来がルルーシュの知っているとおりにやって来るのならばこれから一年後には戦争が起こるのだから、はっきり敵国と言い切ってもいいだろう。
 そんな国で、住み慣れた宮殿でそうであったように、何もしなくても快適な暮らしをしていけるかと言うと、そんなわけがないのである。昨日の夕食がそうであったように、最低限の食事は出してもらえる。しかしそれは本当に最低限のものであって、成長期の子どもの食事にするには味気どころか栄養も足りない。それに掃除や洗濯は、『前』にここで暮らしていた記憶と同じなら、全て自分でしなければならない。
 そしておそらくその推測に間違いはないはずだ。ちゃんと世話をする気があるのなら、実質は人質であるとは言え皇族であるルルーシュたちをこんなボロ屋に住まわせるわけがない。だから『以前』がそうであったように、今回もまたそうであると考えて間違いはないのだろう。
 そんなわけで、早くに目を覚ましてしまったのだと気付いたときからルルーシュは、ナナリーが起きる前に、このボロ屋を少しでも快適にしようと思っていた。
 ナナリーはそれに気付いて、ルルーシュに遠慮したのだ。ルルーシュが朝早くから起きて働くのに、自分ばかり眠っているわけにはいかない、と。
 ナナリーは目と足を失うまで、もっとわがままでおてんばな子どもだった。それが今は、こんなにも健気で殊勝になった。それが自然な成長によるものであったなら、ルルーシュは喜んだだろう。けれど違うから、こんなにも悲しい。憐れなこの子があまりに哀しく、だからこそいっそう愛おしい。
「まあ、それは……ここの片付けとか、することは色々あるからね」
「わたしも手伝います」
「気持ちだけで十分だよ」
 これは決して甘やかしているわけではない。まだ目が見えなくなってしまったことに慣れていない妹に対する気遣いだ。
 それに、昨日は確か車と飛行機で移動してばかりの一日だったはずだ。この頃のルルーシュたちは、何度となく母親の操縦するナイトメアに乗ったことはあっても、普通の乗り物にはあまりなじみがなかった。乗りなれていない乗り物に乗ったナナリーは、疲れていることだろう。それはルルーシュとて同じ――あくまでこの年齢だったときの自分にはという条件がつくが――なのだが、昨日散々スザクに殴られたせいで、打撲の痛みの方が気になって疲れはほとんど感じない。これぞまさに毒をもって毒を制す、なんて考えたルルーシュは直後、無言で首を横に振った。どちらかと言うと、痛みと疲れの相乗効果だ。痛みがひどいせいで疲れていると感じていないだけで、実際に疲れが残っていないわけではないのだから。
 そうは言っても、その程度の疲労を無視することは、無邪気な学生生活と危険なテロ活動との両立をしていたルルーシュには朝飯前――実際に朝食の前であるが。
 妹のためなら多少の無茶はなんのその、が身上のルルーシュ。たとえ自分が疲れている上、打撲のせいでのた打ち回りたいような状態であろうと、盲目に慣れていない疲れた妹を働かせることなんてことをどうしてできるだろうか。
 こちらのことは気にしないでお休みと優しく頭を撫でるのだが、ナナリーは頭を横に振るばかりで聞こうとしない。
 昨日からの状況を考えてみるに、これもまた『以前』あった出来事なのかもしれないが、いくら頭脳レベルが飛びぬけているルルーシュでも、八年も前の日常風景までは覚えていない。ゆえに、『以前』どうやって対処したか思い出して、それを繰り返すなんてことはできない。
 さて、どうやって寝かしつけようかと悩んでいると、腰に抱きついたナナリーが腕に力を込めてくる。視線を下ろすと、ナナリーが懇願するような顔をしているのが見えた。
「お姉さまが一緒なら、ちゃんと眠ります。だから……」
 ルルーシュはそっとため息をついた。
 アリエス宮の惨劇の後から、ナナリーはあまりわがままを言わなくなってしまった。それは仕方のないことだったのだろう。ナナリーには、目が見えない上に足が動かないという負い目がある。その障害は決して彼女のせいではないけれど、だからと言って気にしないでいられるほど、ナナリーは自分本位ではなかった。ルルーシュに負担をかけないように、とナナリーが色々なことを我慢していた。
 そのことを、ルルーシュは良く知っている。めったにないわがまま、それもこんなかわいらしいものを、ルルーシュに拒めるわけがない。
「……朝食、汚い部屋で取ることになるよ?」
「かまいません」
「本当に?」
「それぐらい、ナナリーはちゃんと我慢します」
「……後で文句を言っても、聞かないからね」
 困ったように笑いながら言ったその言葉は、承諾と同意だった。
 ナナリーはとたんに明るい笑みを浮かべ、ルルーシュの腰から手を離して、今度は腕を引っ張ってくる。
 ルルーシュはそれに逆らわず、ナナリーの横に寝転んだ。
「文句なんて言いません」
「さあ、どうかな」
「お姉さまのいじわる!」
「いじわる?どこが?」
「そういうところが、です!」
「はは、ひどいな。おれはこんなにナナリーのことをかわいがっているのに」
 ルルーシュはそう言って目の前の小さな体を抱きしめる。
 ナナリーはすねたような顔をしながらも、ルルーシュを抱き返してくる。
「さあ、もう少しおやすみ」
 ナナリーの小さな頭を撫でながら、ルルーシュは言う。
 ナナリーはまだ不満そうな顔をしていたが、眠気には勝てなかったのか、数分もしないうちに眠りについた。
 その穏やかな寝顔を見つめた後、ルルーシュはそっと視線を伏せた。
「何なんだろうな、これは……」
 夢ではないことは確かだと思う。痛みも感じるし、夢にしてはあまりにリアルだ。
 しかし、ならば何なのだと聞かれても、はっきりこれだと言い切ることは、今のところルルーシュの頭脳をもってしても不可能だ。現状を判断するには、あまりにも情報が少なすぎる
 何らかの力――誰かがギアスを使ったのかもしれないし、ギアスとはまるで別の力なのかもしれない――で時間が巻き戻ったのかもしれないし、ルルーシュがあったと判断した『以前』のことは全て夢に過ぎないのかもしれない。あるいは……といくつもの可能性を考えるが、答えが出ないことをいつまでも考えていても仕方がない。
 今の状況が何であれ、大切なのはここに自分がいて、ナナリーがいることだ。
 そんなことをつらつらと考えているうちに、いつの間にかルルーシュも、再び眠りの中に引きずり込まれていた。



 二人が二度寝から目を覚ましたときには、太陽はすっかり昇りきっていた。やはり疲れていたのだろう。
 ルルーシュは痛む体に鞭打って、ナナリーを車椅子まで移動させて、居間――『前』に居間として使用していたこの建物に入ってすぐのスペースのことだ――へとそれを押し進める。
 朽ちて薄汚い小さなテーブルの上には、すっかり冷めた朝食が置かれていた。建物の中はほこりまみれだというのに、布巾一つ、ラップ一枚かけるという気遣いさえない。『以前』の経験でそんなことには慣れていたけれど、だからと言って何も思わないわけではない。こんなにも軽んじられている自分たちの境遇が、ひどく悔しかった。見たところ明らかにほこりをかぶっているようなことはなかったけれど、それでも細かい塵をかぶっているだろう食事をナナリーに食べさせなければならないことが、惨めでならなかった。冷めている食事に対して、ナナリーが文句の一つも言わないことが、さらにその気持ちを助長した。
 食事の量は少なかったが、ルルーシュは元々小食で、ナナリーは目と足を失った後から食が細くなってしまったので、空腹感を感じることはなかった。しかし質素な和食は、まだ日本に慣れていないナナリーには厳しいはずだ。ルルーシュは掃除が大方終われば、町に下りて食料を買ってくることを決めた。キッチンがないから料理をすることはできないが、果物やパンなら火がなくても食べられる。
 食後は、室内の掃除を二人ですることに決めた。とは言っても、目が見えない上に車椅子のナナリーにできることは少ない。だからと言って何も任せないでいれば、彼女が気落ちしてしまうことは分かっていたので、目が見えなくてもできる簡単な作業をさせることにする。
 それを横目に、ルルーシュはまず洗濯をすることに決めた。対象は昨日着ていた服もあるが、何よりまず寝具である。昨日は仕方ないので、ほこりをはたくだけはたいてそのまま眠ったのだが、いつ洗ったのか分からないあんなものの上で、いつまでも眠っていたくない。
 ナナリーに一言断って、ルルーシュは二階へ行って寝具と服を取ってきた後、外へ出た。建物の裏に、汲み取り式の井戸があるのだ。洗濯機なんてものはないので、『以前』のルルーシュはずっと、たらいと洗濯板を使って洗濯をしていた。井戸は古いが水は綺麗なので、洗濯ぐらいになら十分使える。さすがに飲用にしようとは思えなかったが。
 洗濯板とたらいは、覚えていたとおりの場所にあった。引っ張り出してきたたらいに水を張り、薄汚れた寝具を水中に沈める。このサイズの洗濯物を子どもの手で洗ったのでは、綺麗にするのに時間がかかるし力も足りないので、石鹸で少しこすった後は靴を脱いで踏み洗いをすることにした。ほこりは昨日神経質なぐらい落としておいたので、見る見るうちに水が黒く染まるなんてことはなかったが、石鹸が泡立つことはない。思う存分踏みしだいた後、一度洗濯物を取り出して水を張りなおし、再び踏み洗いを始める。
 汚れを残さないよう、念入りに体重をこめて洗濯物を踏んでいると、途中で背後から葉の揺れる音が聞こえた。顔だけで振り向くと、そこにはスザク――ルルーシュの記憶では、七、八年前の姿をしたスザクが、仏頂面をして立っていた。
 ルルーシュは表情をなくした。
 昨日会ったときは、何も反応できなかった。混乱するあまり、何も考えられなかったと言ったほうが正しいかもしれない。けれど、一晩経って落ち着いた今は違う。
 目の前に立つこの少年が、ひどく憎かった。自分たち兄妹の手を離し、そのくせ主人が死んだとたん、代わりのようにナナリーを守ると言った男。それをしたのはあくまで十七歳のスザクであって、九歳のスザクではないのだけれど、ルルーシュにとっては同じことだ。どうせ育てば同じことを繰り返す。
 ルルーシュは体ごとスザクに向き直り、あからさまな警戒をスザクに向けた。
 仏頂面をしたスザクは、そんなルルーシュに向かって乱暴な足取りで歩み寄ってくる。そして手が届きそうなところまで来たときにようやく立ち止まったかと思うと、ずいっと右手を差し出してきた。
 いったい何事かと思って眉根を寄せたルルーシュだが、差し出された手に握られていたのは、花束――花屋に売っているようなものではなくて、野に咲いた花を適当に摘んでまとめたようなものだった。
「……昨日は悪かった」
 そっぽを向いて視線を合わせないようにしながら、スザクがぽつりと言う。仏頂面をしていたのは、不機嫌だからではなくばつが悪かったからなのだろう。差し出した花は、仲直りの証といったところか。
 少し前までのルルーシュなら、その謝罪を素直に受け入れて、差し出された花束を笑顔で受け取ったことだろう。しかし、すでに決別はなされた。スザクという存在は、ルルーシュにとってもはや敵でしかなかった。
「いらない」
「なっ……!」
 花束をつかむ手ごと振り払うと、スザクは驚いたように目を見開いてこちらを見た。
 こんなふうに邪険にされたことはなかったのだろう。枢木首相の一人息子として、大切に育てられてきたスザクには。日本が植民地化されてからは、虐げられることの方が多かっただろうが、それまでスザクは大切にされてきたはずだから。
 しばし唖然としていたスザクだが、すぐにむっとしたような顔になって、再び花束を押し付けようとしてくる。
「いいから、やる!女は花が好きなんだろ!素直に受け取れよ!」
「いらないと言っている!それに、おれは女なんかじゃない!」
「はあ?でも昨日、お姉さまって言われてたし、服も……」
「黙れ!」
 誰が好き好んで女物の服なんか着るものか。ルルーシュは今日もスカートをはいているが、それしかないのだから仕方がない。時間があるときにでも、服を仕立て直そうとは考えているのだが、そんなことよりもやらなければならないことはたくさんあるのだ。わざわざ新しく男物の服を買ったりしない。そんなことをするぐらいなら、ナナリーにかわいい服を買ってあげたいから。
「……花なんかいらない。おまえからなんて、何も欲しくない」
 鋭い目でにらみつけながらルルーシュが言うと、スザクはあからさまに不機嫌な顔になる。
「なんだよ、せっかく仲直りに来てやったのに……!」
「そんなこと誰も頼んでない。おれは、おまえと仲良くなる気なんてない」
「な、なんだよ、それ!」
「二度とおれたちにかまうな!」
 ルルーシュがもう一度腕ごと花束を払うと、今度は花はスザクの手から置いて地面に散らばった。
 スザクはそれを見て怒ったような顔になり、ルルーシュをにらみつけてきたが、すぐに視線を逸らして小さく毒づいた後、何も言わず背を向けて走り去っていく。
 その背から、地面に転がる花へと視線を移して、ルルーシュは子どもらしくない笑みを口元に浮かべる。そして、たらいから外に出ると、土の上に散らばった花たちをはだしの足で踏みにじった。
「こんなもの……誰がいるものか」
 花に罪はない。けれど、スザクが持ってきた花だというだけで、ルルーシュにとっては罪悪だった。
「いらない……おまえからなんて、何一つ……」
 ルルーシュは踏みにじった花を見下ろしながら、風に消えてしまいそうな声でぽつりとつぶやいた。
「……いらないんだよ……おまえなんて……」


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