「……しゅ……きて……い……」
声が聞こえる。大人の男の声だ。
「……さま……ルルーシュさま」
知らない声だということに思い当たり、同時に、身分を偽って生活している今、どうして『さま』なんて敬称を付けて呼ばれているのか不審に思う。一瞬後、先ほどまでの出来事を思い出してルルーシュは、音がしそうなほどの勢いで目を開けて、身構えた。そして油断なく周囲を見渡した後、困惑に眉を顰める。
いつの間にか周囲の光景は、薄暗い洞窟ではなく、広く快適な車内に変わっていた。声をかけてきていたのは、黒いスーツを着た見知らぬ男だ。車内にはそれ以外に、同じように黒スーツを着た男二人と、運転手が一人、そして浚われたはずの妹がすぐ隣にいた。
男たちは突然跳ね起きたルルーシュに、一瞬不審そうな目を向けてきたものの、理由を問いかけてくることはない。ナナリーは、ルルーシュの肩に頭を預けたまま動こうとしない。
一瞬、最悪の想像をしそうになったが、静かな寝息が聞こえてきたことによってそれが間違いだと悟る。寝顔に苦しそうなところはないし、寝息にも乱れたところはない。気絶しているわけでもなく、ただ眠っているだけのようだ。ルルーシュはほっとして大きく息を吐いた。
そこへ先ほど声をかけてきた男が、淡々とした口調で必要事項のみを告げてくる。
「あと少しで到着しますので、ご準備をなさってください」
男が何を言っているのか理解できず、ルルーシュは眉根を寄せる。
いったいこれは、どういった状況なのだろうか。
ブリタニア軍に捕まったのかと考えるが、すぐに違うと判断する。日本最大規模の反乱組織の指導者を、どうしてブリタニアが拘束もせずにいるだろうか。どうしてこんな豪華な車で移送することがあるだろうか。ゼロがブリタニア皇族だと発覚したとしても、この扱いはありえない。あの父親に、肉親の情などあるわけがないからだ。皇族から反逆者が出たという醜聞を消すため、ルルーシュの口を塞ごうとすることはあっても、罪を許されて歓待されるなんてことはまずない。
しかしそれならば、これはどんな状況なのだろうか。色々と考えてみるが、どれもしっくり来ない。
どうして自分はこんなところにいるのか。目の前のこの男が、ルルーシュに敬称を付けて呼ぶのは何故か。この男たちはどこの誰なのか。この車はどこへ向かっているのか。今は秋だったはずなのに、窓の外を流れる景色が夏のものに見えるのはどうしてなのか。国を移ったわけではないことは、窓から見える光景――植物の生態と家屋の形を見ればすぐに分かる。
最大の疑問は、ナナリーが幼いころの姿に変じてしまっているということだった。いや、ナナリーだけではない。ルルーシュもまた小さくなっているようなのだ。普通なら、ナナリーが幼くなったことによってこれまで以上に体格差ができるはずなのに、その違和感がほとんどないからだ。
体が縮んでしまったことも不思議だが、自分の格好もまた不思議だった。視線を下ろすと、白い膝頭が目に入る。今着ている服が、涼しげな水色のワンピースだからだ。どうしてこんな奇抜な格好をしているのか、本気で理解できない。
とは言っても、スカートをはいたのは別にこれが初めてではない。ミレイの陰謀により過去二度ほど、ほぼ強制的に女装させられた経験があるからだ。お堅い両親よりも祖父に似た彼女はお祭りや変わったことが大好きで、それに周囲の人間を巻き込むのも大好きというとんだ傍迷惑人間だった。
ルルーシュは気が強そうに見えるアーモンド形の目をのぞけば、顔のほとんどのパーツが母親譲りに出来ている。皇子として生きていたころは初めて会う人間には服装で男と判断されたし、成長した今は中性的だとは言われても女に見えるというようなことはないが、中等部のころは私服で出歩いているとよく女性に間違えられた。その女顔にプラスして、一般的男子高校生に比べて細すぎる身体に、ミレイが用意したドレスが組み合わさった結果は――悲しいことに、見た人間ほとんど全員から大絶賛された。例外は、ルルーシュを嫌っているカレンぐらいだ。
いくら母親似の顔をしていようと、ルルーシュは間違いなく男である。女装が似合うなんて言われてもうれしいわけがなく、褒められても屈辱としか感じられなかった。そんな経験により、女装なんて金輪際御免だと思っていた自分が、どうしてワンピースなんて着ているのか本気で理解できず、自然遠い目になる。せめてもの救いは、以前着たドレスのようにひらひらのふりふりではないことぐらいだ。ひらひらのふりふりでなくても、スカートだということに変わりはないのが悲しいところではあるが。
どうして自分はこんな格好をしているのか、と現実逃避する傍ら、ルルーシュは頭の片隅でここにいないスザクのことを考えていた。ギアスが効いているのだから撃てるわけがなかったのに、引き金を引いたスザク。怒りのあまり自分が死ぬ可能性を忘れていたのか、それともユーフェミアが『日本人を殺せ』という絶対遵守の力に抗おうとしたように、スザクもまた『生きろ』という絶対至上命令に抗ったのか。
そう考えて、ルルーシュは自嘲するように口元を歪めた。そのどちらにせよ、またそのどちらでなくても、スザクがルルーシュを撃ったという事実に――ルルーシュを殺そうとした事実に変わりはない。そしてルルーシュもまた、スザクを殺そうとした。幸いにもルルーシュは生き残ったが、スザクはどうなのだろうか。もし生きているのなら、今度こそ殺さなければならない。ルルーシュはこれまで、スザクのことを親友だと思っていたから、彼を排除しようとはしなかった。けれど、スザクはルルーシュとの友情を否定した。ルルーシュの存在を否定した。ナナリーのことを愚弄した。ルルーシュはスザクのことを、ナナリーの次に大切だと思っていたからこそ、それを許すことはできなかった。もはや、彼のことを親友だと思うことはできない。大切だと思っていた分、今は胸に、強い憎しみがある。
そのとき、肩にもたれかかっているナナリーがわずかに身じろぎをした。視線を下ろすと、今にも目を覚ましそうな様子だ。ルルーシュが発する刺々しい雰囲気を、肌で感じ取ったのかもしれない。目が見えなくなったことにより他の感覚器官が優れている彼女なら、それも不思議ではない。
ややもせず、ルルーシュが見つめている中、ナナリーのまぶたが小さく動く。その裏に隠された、ルルーシュのそれよりも幾分色が薄い紫が露になることはなかったが、その動きだけでルルーシュには、彼女が目を覚ましたことを悟った。
「おはよう、ナナリー」
声をかけると、不安げな顔をしていたナナリーの顔が安堵に染まる。
ルルーシュの腕に擦り寄りながら、ナナリーはふわりと花のように微笑んだ。
「おねえさま」
「……うん?」
おねえさま。今、ナナリーはそう言わなかっただろうか。誰か別の人間が言ったのを聞き違えたのかと一瞬思うが、全幅の信頼と愛情が込められた声は、間違いなくナナリーのものだった。ルルーシュが妹の声を聞き違えるわけがない。では、ルルーシュではない人間に呼びかけたのかと考えるが、ナナリーはルルーシュ以外をあんな声で呼ばない。だからつまり、「おねえさま」とはルルーシュを指しているのだ。
お姉さま、姉のことを呼ぶ言葉。姉、同じ親から生まれた女兄弟のこと……しばらく固まっていたルルーシュだが、すぐにこれは夢なのだと結論付けることで立ち直った。
間違いなく性別男であるはずの自分が、ナナリーから姉などと呼ばれるはずがない。それに常識的に考えて、人間が突然縮んだりするはずがない。そう考えてルルーシュは、自分が着ているワンピースと、その裾からのぞく白い足からそっと目を逸らした。そうしてナナリーに視線を移す。
ナナリーは何がうれしいのか、にこにこと笑っている。
何にしても、笑っているのならかまわない。そう思っていると、ゆっくりと車が減速していくのを感じた。やがて停止した車から、外へと出るよう促されて、いつものようにナナリーを抱き上げようと膝裏と背中に手を回した。しかし、力が足りず持ち上げることができない。
「っ……」
「お姉さま、大丈夫ですか?」
「あ、ああ、これぐらい平気だよ」
再び『お姉さま』と呼びかけられたことに顔を引きつらせながらも、あくまで平然とした態度を装って返事をする。たとえ夢であろうと、ナナリーに心配をかけることはできない。どんなときでも、ルルーシュの行動原理はナナリーにあるのだ。
それにしても夢の中でぐらい、もう少し筋力が付いてもいいではないかと思うのに、現実――夢だが――は無情だった。仕方なく横抱きにすることは諦めて、小さな頃のようにおんぶをすることに決める。夢の中でもひ弱な自分に、男のプライドがずきずき痛む。しかし、無理に抱き上げて最愛の妹が怪我をするようなことになるぐらいなら、そんなものは簡単に捨てられる。
とても夢とは思えないぐらいリアルな重みを、背中に感じながら車の外に出ると、とたんにうるさいぐらいのセミの鳴き声が耳に飛び込んできた。同時に、肌にまとわりつくような湿気を感じる。照りつけるような日差しのまぶしさに、目を眇めて立ち止まった。
そして、明順応によって視界がクリアになった数秒後。ルルーシュの目に飛び込んできたのは、もう何年も見ていない懐かしい光景だった。天まで届くかと錯覚するほど長い石段、そのずっと上に見える赤い鳥居、周囲に広がる鬱蒼とした森。
(……これは……)
目を見開いて、ルルーシュは立ち尽くした。目の前に広がっていたのは、枢木神社へ続く石段だった。
(……これはあの日の……枢木の家に来たときの夢、なのか……?)
思い出してみれば、全てがあの日と変わらない。車内の様子も黒スーツの男たちの姿も、このセミの鳴き声も太陽の熱も、背に負ったナナリーの重みも、全て一度体験したことがあるものだ。あの日と何も変わらない。違っているのは、ルルーシュの格好と、ナナリーからの呼びかけだけ。
呆然としているルルーシュに気付いたのか、黒スーツを着た男たち――護衛の一人が、不審そうに呼びかけてくる。
その声にも正気に戻ることのなかったルルーシュは、ほとんど無意識のうちに記憶どおりの行動をなぞり、長い石段へと一歩を踏み出した。
それから先のことはほとんど覚えていない。どうやって長い石段を上りきったのか、長い道のりの中でナナリーと何を話したのか、ブリタニアから付いてきた護衛がいつ姿を消したのか、誰にどうやってあの忌まわしい土蔵のような住まいへと案内されたのか。
正気に返ったのは、腹を思い切り殴られる痛みによってのことだった。それまでほとんど自失状態だったせいもあって、衝撃に耐え切れず床に転がってしまう。反射的に起き上がろうとするが、その前に腹を蹴りつけられて、ルルーシュは体をくの字に曲げてうずくまった。
「どうだっ、ブリキ野郎め!日本人を、なめるな!」
「っ……ぐっ……」
続けて何度も腹や肩のあたりに蹴りを入れられて、どうすることもできずにうめき声を上げるしかできない。
痛い。
その事実に、ルルーシュは愕然としていた。これは夢のはずなのに、どうして痛みを感じるのか。さっきは夢だと判断したけれど、もしやこれは、夢などではなく現実なのではないだろうか。痛みよりも、そんな思考に気を取られていると、ナナリーが悲鳴のような声を上げるのが聞こえてくる。
「やめてください!どなたか分かりませんが、わたしにできることなら何でもしますから!」
「え……?」
蹴りが止み、驚いたような声が上から降ってくる。
「まさか、目が見えないのか……?」
「はい。だから、安心してください」
痛みにかすむ視界の中で、ルルーシュはぼんやりと視線を上げた。見知った姿が目に映る。そこにいたのは、袴姿の少年――八年前のスザクだった。この会話をルルーシュは知っている。初めて枢木神社を訪れた日、ナナリーとスザクが交わしていたものだ。
「わたしには、何もできません。戦うことも、逃げることも……だから……」
訳の分からない事実に、ルルーシュは混乱していた。これが現実だと言うのなら、一度体験したはずの過去が、どうして再び自分の身に降りかかっているのか。十七だったはずの自分が、どうして九つのときにまで若返っているのか。それとも本当は、自分は十七歳などではなくまだ九歳の子供で、現実だと思っていた十七までの月日こそが夢だと言うのか。
ルルーシュの記憶どおりならば、次はスザクが短い謝罪の言葉とともにここから走り去って行くはずだ。しかし、過去にはそれ以上何も言わなかったはずのナナリーは、懇願するような声で知らない言葉を続ける。
「だから、お姉さまにひどいことをしないでください!」
「お姉さまって……まさか、おまえ……女、なのか……?」
恐る恐るという表現がぴったりの様子で、幼いスザクがこちらに顔を向けてくる。そしてルルーシュが着ている衣服が何であるかに気付くと、目を見開いて凍りついた。
記憶が正しいのなら、ここはルルーシュとナナリーが一年を過ごしたことのある、あの土蔵のような建物だ。そしてルルーシュたちが初めてここへやって来たとき、スザクはこの中から出てきた。暗闇に慣れた目では、光を背にしていたルルーシュの格好をはっきりと見て取ることはできなかったのだろう。痛みと混乱のためにまとまらない脳内で、ルルーシュはぼんやりとそんなことを考えていた。思考回路がこんがらがっているせいで、女呼ばわりされても、反論しようとする気さえ起こらない。
「ごめん!」
そうこうしているうちに、スザクは記憶どおり一言叫んでから、外へ向かって走り出した。
「大丈夫ですか、お姉さま?」
ナナリーは目が見えないせいで、ナナリーは少し外れた方を見つめている。
「……ああ、大丈夫だよ」
ルルーシュは床に手を付いて、ゆっくりと起き上がった。正直、声を出すだけでも節々が痛んだが、最愛の妹を安心させるためだ。これぐらいの痛み、我慢しなくてどうする。
視界を失った状態で何年も過ごしたために、それ以外の感覚器官が異常と言えるほど十四歳のナナリーだったら、声に反映するわずかな異常に気付いたかもしれない。けれどここにいるのは、目が見えなくなってからまだほんの少ししか経っていない、六歳のナナリーだ。取り繕った声音に素直にだまされたのか、ほっとしたような顔になった。
「今の、誰だったんでしょう?」
「そうだね……枢木首相の息子じゃないかな」
「首相の?」
「うん、確か、おれと同じ年の子供がいたはずだからね」
「そうなんですか」
そうやって頷くナナリーは、見たところスザクに対して、特に興味を示しているようではなかった。もしナナリーが、スザクに対して少しでも好意を持っているようであれば、これから言うことに、少し罪悪感を感じたかもしれない。けれどそうではなかったから、ルルーシュは車椅子の前に膝をついてナナリーの手を自分の手で包み込んで口を開いた。
「ナナリー、これから言うことを聞いてくれるかい?」
「お姉さま?」
「お願いだ、ナナリー。他のどんなことに逆らってもいい。でも、これだけはおれの言うとおりにして欲しいんだ」
「お姉さま、そんなことを言わないでください。お姉さまのなさることもおっしゃることも、わたしのためなのだということぐらい分かっています。それなのに、どうしてお姉さまに逆らうことなんてできましょう?」
「ナナリー……おまえがそんなふうに思うことはないんだ。おれのことなど気にせず、おまえはおまえの好きなように行動すればいい。だが今は……今回だけは、おまえのその言葉に甘えさせてもらいたい」
「はい」
「彼に……さっきの少年に、心を許してはいけないよ」
ルルーシュは普段、自分の身勝手な意見をナナリーに押し付けることはない。だから普通なら、たとえ自分が初対面で殴る蹴るの暴行を受けたからと言って、そのことによって生じた悪感情を、ナナリーにまで強制することはないのだ。ルルーシュの性格を良く知っているナナリーは、どうして兄がこんなことを言うのか、とさぞかし不思議だったことだろう。逆らわないと言った手前なのか、不思議そうな顔一つすることはなかったが。
「他の誰を信用してもいい。頼ってもいい。友達だと思ってもいい。でも、あいつだけは駄目だ。あいつだけは、絶対に駄目なんだ……聞いてくれるかい?」
「はい、お姉さまがそう言うのなら」
ナナリーは、当たり前のような顔をして微笑み、ルルーシュの理不尽を受け入れる。
そのことに、ルルーシュは満足して笑みを浮かべた。この頃のナナリーにとって、兄である自分の存在は絶対的なものだった。だから、承諾以外の答えが返ってくるとは思っていなかったが、それでも素直な返事はうれしい。
「いい子だね」
頭を撫でてやると、ナナリーはうれしそうに笑う。
今の状況が何なのかは、まだ分からない。でも、この子が――ナナリーさえ側にいるのなら、これが夢でも現実でも、他の何だってかまわなかった。
ナナリーが笑っていられるなら、ルルーシュはそれだけで幸せになれるのだから。