慕情

 月のキレイな、静かな夜だった。
 クラブハウス内の自室で、カーテンの隙間から忍び込んでくる月光に照らされて、ルルーシュは眠っていた。ベッドはC.C.に占拠されてしまっているため、最近はずっとソファーで寝ている。
 最初の頃は、そのうちC.C.に客間を使わせるか、自分が客間を使おうかと思っていたのだが、面倒になってやめた。
 普段は使っていない客間を使用するのならば、掃除が必要だ。クラブハウス内は常に清潔に保たれている。だがやはり、普段使っていない客間は少し空気がよどんでいるのだ。
 しかし、どうして掃除が必要なのかと聞かれると、何も知らない掃除婦を納得させられるような説明をすることができないし、こんなことでギアスを使うのは馬鹿馬鹿しすぎる。
 そんなわけで、ルルーシュはC.C.と部屋を分けることを諦めて、同じ部屋で過ごしているわけであった。
 『男は床で寝ろ』とC.C.には言われたが、ルルーシュは由緒正しき皇子である。今はすでに亡き者として扱われている身であろうとも、幼い頃から物質的には恵まれた環境にあった彼が、堅い床で寝ることなどできるはずがなかった。
 ではソファーはどうなのかと言われれば、眠ってみれば、以外にもソファーの寝心地はそれほど悪いものではなかったとルルーシュは答えるだろう。C.C.にベッドを占拠されて数十日、未だにルルーシュがソファーで眠り続けていることからも、それは簡単に窺える。
 時間が経ったせいで、月光が照らしていた位置が動き、ルルーシュの顔をぼんやりした光が差した。
「ん……」
 それがまぶしかったのか、薄い毛布にくるまっていたルルーシュは、小さなうめき声を漏らして寝返りを打つ。
 月光から顔を背け、ルルーシュは再び動かなくなって、健やかな寝息を立て始めた。
 誰にも邪魔されることのない、深い眠りへと落ちていこうとしたルルーシュを呼び起こしたのは、かん高い悲鳴だった。
「あ、あ、あ……ああああああああああああああ!!!」
 それは、ナナリーの声だった。
「っ……ナナリー!」
「……おい、ルルーシュ。いったい何だ……?」
 ルルーシュは瞬時に飛び起きて、寝ぼけ眼のC.C.を置いて部屋を出た。
 ナナリーの寝室へと続く扉を乱暴に押し開け、室内に飛び込んだルルーシュは、半狂乱になって泣いているナナリーの姿を見つけた。見えない目をいっぱいに見開いて、ガタガタと震えながら泣き喚く妹に駆け寄って、ルルーシュはその小さな身体を抱きしめる。
「ナナリー!大丈夫、大丈夫だ!」
 ルルーシュの体温にさえ怯えるナナリーに向かって、ルルーシュは懸命に声をかけた。
 小さな頭を抱え込み、あやすように背中を撫でていると、そのうち強張っていた身体から、だんだんと力が抜けてくる。
「お、にいさ、ま……?」
「ああ、そうだよ」
「お母様が亡くなられたときの、夢を……」
 見たんです、と。ナナリーは消え入りそうな声で言った。
 ルルーシュは顔に深い憎しみを浮かべて、ナナリーを抱きしめる腕に力をこめる。
(まだ……ナナリーを苦しめるか……!)
 ブリタニアにいたときに、起こった惨劇。それはナナリーの足を損なわせ、さらには彼女の視力さえも奪った。
(どうしてナナリーだけがっ……)
 妹の苦しみを、半分でも自分が請け負うことが出来たのならば、とルルーシュは思う。こうやって、苦しむナナリーを見るたびに、ルルーシュはいつもそう思うのだ。
 ひどい怪我を負った妹とは裏腹に、ルルーシュは無傷であったことが、ルルーシュの心に負い目を感じさせる。
 けれど、目立った外傷はなくとも、目の前で母親を殺されたルルーシュもまた、ナナリーと同じく深い心の傷を抱えていた。そしてそのことを、ルルーシュは自覚していなかった。
 母親が殺されたときのことを思い出したルルーシュの顔に、一瞬、泣きそうな色が浮かぶ。それはまるで、迷子になった子供のような表情だった。
 しかしそれは、ナナリーの小さな声が聞こえてきたとたん、掻き消えてしまう。
「足が痛くて……赤い、血が……」
 代わりに、ルルーシュの顔に浮かんだのは、妹を想う兄としての表情だった。
 全身で怖いのだと言っているナナリーを抱きしめて、ルルーシュは優しい声で言う。
「大丈夫だ、ナナリー。ここには、怖いものなんて何もない」
 ナナリーを抱きしめていた腕の力をゆるめて、ルルーシュは優しい手つきで、ナナリーをそっと横たえた。
「お兄様……」
 不安がるナナリーの手を、ルルーシュは壊れ物でも扱うような手つきで、そっと握り締める。優しい手つきとは違って、彼の表情はひどく暗いものだった。
(お前を怖がらせるものは、俺が全部消してやる。お前のために、この世界を変えよう。お前が幸せに生きていける世界を、俺が作ってやる……)
 ルルーシュは研ぎ澄まされた刃物のような瞳をして、虚空を睨みつける。
 しかし、ルルーシュが握り締めた手に、ナナリーがすがるように力を込めたとたん、彼の表情はがらりと変わる。優しい兄の顔になって、ルルーシュはそっとほほ笑みかけた。ナナリーは、それを見ることはできないのだけれど。
「……だから、安心して休むといい」
「はい、お兄様。……お兄様が側にいてくださるのなら、何も怖くなんてありません」
「そうか。お休み」
 にこっと無邪気に笑ったナナリーの額にキスを落として、ルルーシュもまた、つられたように無邪気な笑みを浮かべる。
 やがて、ルルーシュの手を握り締めたまま、ナナリーは健やかな寝息を立て始めた。
 ルルーシュはそれを優しい目で見つめて、ベッド脇にしゃがみこんでナナリーと手をつないだまま、シーツの上に頭を乗せた。
(お前だけは、絶対に守ってやる……)
 眠りに落ちていきながら、ルルーシュは強くそう思った。
 ブリタニアの巨大な影。今でもそれは、ルルーシュとナナリーを縛り付けて放さない。



 翌日の朝食後。
 ルルーシュは妙な体勢で眠ったせいで寝違えてしまったのか、首を左右に何度もかしげて、しかめっ面をしていた。
 ルルーシュの向かいの席で、静かに紅茶を飲んでいたナナリーが、ルルーシュが妙なほど静かにしていることに気付いて、小さく首をかしげて言う。
「お兄様?どうかなさったんですか?」
「いや、何でもないよ」
 ルルーシュはとっさに取り繕って、優しい声で言った。
 ナナリーは不思議そうに首をかしげながらも、とりあえず納得したような声を上げる。こういう場合のルルーシュは、いくら問い詰めても何も白状しないということを、経験的に知っているからだ。
「そうですか」
「ああ。それより、今日のお茶請けはマフィンでいいかな?でも、スザクはあまり甘いものが好きじゃないはずだから、別のも」
「スザクさん?どうして、スザクさんなんですか?今日は、二人だけで過ごすんじゃなかったんですか?」
 突然ルルーシュの口から飛び出してきた名前に、ナナリーはいぶかしげな声を上げた。愛らしい顔は、ほんの少ししかめられている。
 妙に険のある反応に、ルルーシュは戸惑ったような顔になった。それも当然のことだった。普段ならナナリーは、いつも穏やかな空気を身にまとっているし、ルルーシュの言葉を途中でさえぎるようなこともしない。
「もしかして、言ってなかったか?今日ここに、スザクが来るんだ。何でも、今日は軍も休みらしくて、休日だし、久しぶりにゆっくり話がしたいって言われたから……嫌だったか?」
 少し悲しそうなルルーシュの声を聞いて、ナナリーは焦ったような顔になって言った。
「あ、違うんです!ただ……心の準備が出来てなくて……」
「心の準備?」
「その……」
 ナナリーはしばらくの間、困ったようにうつむいていたが、やがて意を決したように顔を上げると、小さな声で言った。
「私、再会してから、スザクさんのことが気になってて……それで……」
「なっ、ナナリー!?」
 ルルーシュは素っ頓狂な声を上げた。
「き、気になるって……まさか……」
 はじらうようにうつむいて、両手で頬を包み込むナナリーを見て、ルルーシュはぱくぱくと口を開閉させる。
 驚きに目を見開いていたルルーシュだったが、すぐに状況を把握して、手に力を込めた。手に持っていたティーカップが、ピシッと音を立てる。
「……あの野郎……俺のかわいい妹を……」
 ルルーシュが上げた呪いの声を聞いて、ナナリーは満足そうな笑みを浮かべていた。



 それからしばらくして、スザクがやって来た。
 ルルーシュはナナリーの車椅子を押して、クラブハウスの玄関までスザクを迎えに行った。
 扉を開けると、明るい笑みを浮かべたスザクが、ルルーシュとナナリーに向かって声をかけてくる。しかし正直なことに、スザクの視線はほとんどルルーシュの方に向かっている。
「おはよう、二人とも」
 目の前にいるのは、先ほど『気になっている』のだと答えた相手であるというのに、ナナリーは何ら感情を乱すことなく、いつもどおりの態度で挨拶を返した。
「おはようございます、スザクさん」
「やあ、いらっしゃい、スザク」
 逆に、ルルーシュの態度はどこまでも厳しかった。顔は笑っているのに、目はちっとも笑っていない。
 そんなルルーシュを見て、スザクは引きつった顔になって、焦ったような声を上げた。
「る、ルルーシュ?もしかして、何か怒ってる……?」
 恐る恐るという言葉がぴったりな態度で問いかけてくるスザクを、冷たい瞳で睥睨して、ルルーシュは口の片端を吊り上げて笑った。
「何か怒られるようなことをした覚えでもあるのか?」
「まさか!」
「なら、そうなんだろう」
 スザクは慌てて首を横に振って、否定の意を示した。
 しかし、どう見てもルルーシュの態度は、スザクに対しての怒りを如実に表している。
 スザクが引きつった顔で固まっていると、車椅子に座っているナナリーが、ほんの少し唇を吊り上げた。スザクはハッとしたように息を呑むと、シスコンのルルーシュに知られないように、密かにナナリーをにらみつけた。
 目で見ることはできずとも、気配で敵意を感じ取ったのか、ナナリーはふわりとほほ笑んで、声を出さずに唇だけを動かした。

 ――スザクさんにだって、お兄様は渡しません。

 スザクはさらに顔を引きつらせて、静かに天を仰いだ。
「何を吹き込んでくれたのやら……」
 小さなスザクの声は、誰に聞かれることもなく、空に吸い込まれて消えていった。


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