河口湖への親睦旅行は、気晴らしという点では最適だった。
実はナナリーは先日シンジュクゲットーに出かけたのを除けば、アッシュフォードに保護されて以来トウキョウ租界の外に出るのは初めてだ。だから普通なら疲れるだけの長時間の列車移動も、窓の外に見える景色も、見るもの聞くものすべてが新鮮だった。それに、生徒会の旅行だからC.C.はついてきていないし、ネモは普通の時には姿を現さない。そのおかげで、久しぶりに気が休まっていた。
ただしそれは、宿泊先のコンベンションセンターホテルがテロリストたちに占拠されるまではの話である。
ナナリーたちが旅行に行ったちょうどその日、コンベンションセンターホテルではサクラダイト生産国会議が行われていた。それを狙ってテロリストがホテルを占拠し、それに巻き込まれたのだ。そして今、ナナリーたちは薄暗い倉庫の中に押し込められて、銃を持ったテロリストに監視されている。旧日本軍を元に生まれた組織なのか、テロリストたちは皆同じ軍服に身を包んでいる。
少しだけ他とは違う軍服を着た男がやって来たのは、倉庫へ押し込められてから小一時間が経ってからのことだった。違うのは服だけではない。手にしている武器も銃ではなく日本刀だ。テロリストたちの態度も、仲間に対するものというよりは上官に対するもののようだ。主犯格の人間なのだということは明らかだった。
その男は脅しつけるように日本刀で強く床を突いて、人質に向かって話し始めた。
「日本解放戦線の草壁である。日本解放の独立解放のために立ち上がった。諸君は軍属ではないが、ブリタニア人だ。我々を支配するものだ!大人しくしているならばよし!さもなくば……」
その後を、草壁と名乗った男が口にすることはなかったけれど、この状況下でそれが分からないほど平和ボケした人間はいない。人質たちは一様に、おびえたように肩を震わせた。ニーナなどは、今にも泣きそうな顔でがたがた震えながらミレイにしがみついている。
それから少しすると、人質の様子をブリタニア側に知らせるためか、映像機器を持ったテロリストがやって来た。ニーナをなだめながら、ミレイがちらりと視線をよこしてくる。ナナリーはさりげなくミレイの背後に移動した。ナナリーを含めて生徒会メンバーは、倉庫の入り口に一番近いところにいる。奥に行くことができるのなら一番いいのだが、そうすることができない以上、誰かを盾にしてできる限りカメラに映らないようにするしかできない。完全に隠れることはできないが、そのままカメラに映されるよりはずっとマシだ。皇女の身分にあったナナリーを、どこの誰が思い出すとも限らないのだから。
それから数時間が経過した。時計代わりにしていた携帯電話は取り上げられているし、倉庫には時計なんてものがないから正確な時間は分からないが、おそらくもう夜が近いだろう。新しく倉庫に入っていたテロリストに声をかけられたのは、そんなときだった。
「ナナリー・ランペルージだな」
「え?はい」
「いっしょに来てもらおうか」
ナナリーは戸惑いながらも立ち上がろうとするが、その前にミレイに腕をつかまれた。驚いているうちに、ミレイがナナリーを連れて行こうとした男に食ってかかり始める。
「待ちなさい!その子をどうするつもり!?」
「心配するな。中佐殿がこの娘と話をしたがっているだけだ」
「そんな……連れて行くなら私にしなさい!私はアッシュフォード家の長女です!人質としての価値なら私の方が高いわ!」
「ふん、今のアッシュフォードの名に価値などあるものか。私はこの娘を連れて来いと命令されたのだ。邪魔をすると言うのなら……」
テロリストが銃の引き金に指をかけるのを見て、ナナリーは慌てて立ち上がる。
「待ってください!行きます!だから乱暴はやめてください!」
「ナナちゃん!」
「大丈夫です。心配しないでください、ミレイさん。お話するだけだって言っていますし、すぐに戻ってきますから」
悲壮な顔になるミレイに笑いかけて、ナナリーは歩き始めた。
連れてこられたのは、ホテルの一室だった。ナナリーをここまで連れてきた男はその扉をたたいて、入室の許可を求める。
「中佐殿、例の少女を連行してまいりました」
「入れ」
「はっ、失礼します」
男はかしこまった様子で扉を開け、ナナリーにも部屋に入るよう促す。
それに従って大人しく入室すると、背後で扉が閉まる音が聞こえた。密室になることに不安を感じないわけではないが、それを表に出すことは矜持が許さない。普段どおりの態度を心がけて前を見据えると、あの草壁と名乗った男がソファに腰掛けているのと、その背後に控えるよう数人の男が控えるように立っているのが見えた。
「来たか」
「……私に何のご用ですか?私はあなた方の役に立てるような人間ではありませんし、協力する気もありません」
「その気丈さは、皇族の血がなせる業なのかな?ナナリー・ヴィ・ブリタニア皇女殿下」
驚きのあまり声も出なかった。ブリタニアでさえ気づかないでいるナナリーの素性を、一介のテロリストごときが知っているなどありえないことだ。そう思っていたからこうして呼び出されても、まさか自分の素性が知られているとは、可能性のひとつとして考えてはいてもありえないだろうと楽観視していた。
「私は旧日本軍の草壁中佐だ。覚えていないだろうが、枢木首相の屋敷で何度かお目にかかっているのだよ。ただ、君はブリタニアの日本侵攻で死んだと聞いていたのだがね」
どうやら当て推量などではなく、本当にナナリーが皇女であることを知っているようだ。ナナリーは誤魔化しても無駄だと悟り、凛とした態度で会話に臨んだ。
「そうです。皇女であるナナリーはあのとき死にました。だから私には、もう皇女としての力なんてありません。事情を知っているあなたならご存知でしょう?」
「だが、君はこうして生きている。生きている限り君はブリタニア皇女であり、皇女がここにいるということで事態は大きく変わるのだよ」
「……私に、何をしろと?」
「クロヴィスは我々の要求を呑んで、輸送ヘリを回すと言っている。だが、それに乗って我々が脱出することは現状では不可能だ」
「なぜです?あなた方の脱出用に手配してくれたのでしょう?」
「脱出用ではない。このビルに送り込まれてくるのはナイトメアを搭載した強襲用ヘリだ」
「そんな……!」
「我々はブリタニア軍が手を出せぬよう、ヘリポートに人質全員を配置すると通達してある。だがブリタニアは、それでも奇襲をしかけてくるはずだ」
「ですが、それでは人質の方たちが……!」
「当然人質にも多数の死者が出る!それをやるのがブリタニア軍なのだ!だが、君なら人質の命を救うことができる」
「わたし、が?」
「皇女である君が名乗り出ればいいのだ。人質の中に皇族がいれば、さすがに手出しできんはずだ」
「はん、そういうことか」
いつの間にか隣に立っていたネモが嘲るような声で言う。
名乗り出る。確かにそうすれば、クロヴィスは奇襲をやめるかもしれない。けれどそれはこの七年の努力を無駄にすることだ。それにそんなことをすれば、アッシュフォード家にどれだけの迷惑がかかるだろうか。それにもしナナリーが協力したとして、日本解放戦線と名乗る彼らテログループが、人質に危害を加えないとも限らない。
そう思ったとき、ナナリーはあることを思い出して息を呑んだ。確かナナリーよりも前に一人、倉庫から連れだされた人質がいたはずだ。その人間はいったいどうなったのだろうか。嫌な予感が胸をよぎる。
「……ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「何だ」
「私より前に一人、人質の方を連れ出されましたが……その方をどうされたのですか?」
「殺した。見せしめのためにな」
「……そう、ですか……」
半ば予測していた答えだった。だからナナリーは驚くことはせず、代わりに顔に厳しい表情を浮かべて草壁を見据えた。
「それならば、私はあなた方に協力することはできません」
「何だと!?」
「見せしめのために、罪のない人の命を奪うような方々に手を貸すことはできません」
「ブリタニア人一人が何だと言うのだ!戦時中、いったいどれだけの日本人が殺されたと思っている!そして先般のシンジュク事変!今なお日本人がどれだけ虐げられているか知っているのか!お前の父、ブリタニア皇帝は人質としてお前を日本に送ったにも関わらず、日本に戦争をしかけてきた!お前たちを見殺しにしたのだ!クロヴィスが今やろうとしていることはそれと同じではないか!そんなブリタニアに、お前が忠義を尽くす必要があるのか!?」
草壁は激昂したように立ち上がり、声を荒げている。怒りのせいなのか、その発言は矛盾していた。
「私はブリタニアに忠義など感じていません。むしろ憎んですらいます」
ブリタニアに忠義を感じてなどいたら、日本侵略の後わざわざ死を装って皇女としての責務から逃れたりしない。そんなこと、少し考えれば分かるはずだ。もう二度とブリタニアに――父親に利用されたくないから、アッシュフォード家を隠れ蓑に生きてきた。誰よりも大切で大好きな姉と会うことも我慢して暮らしてきたのは、ひとえにブリタニアに戻りたくなかったからだ。
「ですが……これ以上命が奪われていくのは、もっと嫌です」
「なら我々に協力を」
「草壁中佐、投降してください」
「何だと!?」
「そうすれば、もう誰も死なずにすみます!投降してくださるなら、私が名乗り出てあなた方の身の保障も」
ナナリーが言い終わるのを待つことなく、草壁はさもおかしいとも言いたげに笑い始めた。
「やはり皇女とはいえ子どもだな。身の保障だと?投降すれば、お前が何を言おうが我々は確実に絞首刑だよ!」
「まあ、そうだろうな。ナナリーの力じゃ、どうやっても事態を改善するのは難しいわね」
驚くナナリーはとは違って、ネモは至極冷静に現実を告げる。
力。力がないから、ナナリーには誰も救えない。ネモの言うとおりだ。未来線を読む能力もマークネモも、彼らの要求を満たすには役に立たない。必要とされているのは、皇族という身分だ。しかしそれも、ナナリー程度の身分ではほとんど役に立たないと言ってもいい。どうすればいいのか、ナナリーは思い悩んだ。
「このままでは埒があかんようだな……こんな手は使いたくなかったが……」
草壁はそう言って、後ろに控えていた軍人に目配せする。目配せされた軍人は、リモコンのようなものを操作する。すると、壁際に置かれていた大型テレビの画面に何かの映像が映し出された。
『いたっ……分かったからやめて!』
「ミレイさん!?」
『ナナちゃん!?そこにいるの!?何を言われても協力しちゃ駄目よ!私のことは気にしなくていいから!』
テレビ画面の中で、後ろ手に縛られたミレイが銃で殴りつけられてたたらを踏む。
「ミレイさん!お願い、ひどいことをしないで!」
「あくまでお前が協力しないと言うのなら、あの娘を処刑することになる」
「やめてください!ミレイさんは関係ないでしょう!?」
「あれはアッシュフォード家の長女……お前の後見を務めていた家のものだ。無関係のわけがあるまい。救いたいというのなら、我々に協力したまえ」
「そんな……!」
ナナリーは草壁とテレビ画面を見比べた。画面に映し出されているのは屋上だろうか。銃を突きつけられたミレイは夜空を背景に、屋上の端へと追い詰められていた。ナナリーが断れば、彼女が殺されてしまうだろうことは明らかだった。
ナナリーはこの旅行への参加を打診されたとき、ミレイに対する恨みが自分の中にあることを気づいてしまった。けれどだからと言って、これまでずっとよくしてくれたミレイに――アッシュフォード家に対する感謝の気持ちが消えてしまったわけではない。見捨てられる、わけがなかった。
「ミレイさんを放して!もう、こんなひどいことはやめてください!私が皇女として何とかしますから!」
それが要請に対する同意だったのか、それとも降伏してくれるならどうにかするという提案の繰言だったのか、どちらだったのかはナナリー自身でも分からなかった。確かなのは、草壁は後者として捉えたということだ。
「所詮はブリタニア人。日本人の苦悩など分かるまい……」
草壁が今にもミレイを処分する命令を下そうとしたとき、床が揺れた。いや、ホテル全体が揺れていた。
それと同時に、テレビから悲鳴が聞こえてくる。
『きゃああああっ!』
草壁からテレビに視線を移す。画面の中では、屋上の端ギリギリまで追い詰められていたミレイが、この揺れのせいで宙に投げ出されているところだった。
ナナリーは信じられない思いで目を見開いた。
なぜ、どうして、こんなにも簡単に、こんなにも理不尽に人の命が奪われるのだ。
「いやあああああ!」
そしてナナリーは再び心の闇に――ネモに支配される。
後に残るのはただ、暴走の記憶。
◇ ◇ ◇
河口湖での出来事から十日近くの日が流れた。
マークネモで暴走しはしたが、ナナリーは無事アッシュフォード学園に戻ってきていた。高等部の生徒会メンバーも――ただ一人、ミレイを除いては。
ミレイがいなくなった穴を埋めるため、帰ってきてからずっと、ナナリーは生徒会の仕事を手伝っている。今日もまたそうしようとして、放課後クラブハウスへの道を歩いていると、突如背中にどしんと衝撃が走った。
「なっなちゃあーん!」
ナナリーは慌てて振り返って、抱きついてきた人の顔を確認してから満面の笑みを浮かべた。
「ミレイさん、退院されたのですね!」
「ええ、今日の昼にね。たいした怪我もなかったのにこんなに何日も入院させるなんて、おじいちゃんったら大げさなのよ」
「そんなふうに言ったら駄目です」
ほほを膨らませて子どもみたいにぶうたれるミレイを見て、ナナリーは少し困った顔でしかりつける。
「確かに外傷はほとんどなかったみたいですけど、ミレイさんは頭を打って三日も目が覚めなかったんですよ。ルーベンさんが心配されても当然です」
そう、ミレイは生きていた。これまで学園にいなかったのは死んでしまったからではなくて、単に入院していたからだ。
普通なら助かるはずのない高さから落ちたミレイが助かったのは、シンジュクゲットーでマークネモの凶刃からクロヴィスを守ったあの白いナイトメアのおかげだ。とは言ってもミレイが屋上から落下した原因は、あのナイトメアによってホテルの支柱が破壊されたことによって引き起こされた沈下にあるらしいから、一概に感謝することはできないが。
詳しいことは分からないが、どうやらクロヴィスは輸送用ヘリと見せかけた強襲用ヘリで奇襲をかけると見せかけて、あの白いナイトメアを使うことでテロリストの裏をかき、人質の救出に成功したらしかった。もっとも救出に成功したのは、そのどさくさに紛れて人質の面々が要領よく避難したからであって、クロヴィスの手柄とは言いがたい。中でもカレンは、病弱で儚げな印象を打ち破って大活躍だったらしい。何でも名家に生まれたために昔から厄介ごとにはよく巻き込まれていたらしく、荒事に対処するのは慣れているのだとか。
それにしても二重の罠を張るなんて、昔からあまり政治方面に秀でているとは言えなかったあの兄にしては珍しいことを考え付いたものだと、ナナリーはとてもナチュラルにひどいことを考えていた。
ちなみにナナリーはそのときどうしていたのかというと、テログループもブリタニア軍も関係なく、その場の暴力すべてを排除しようとしてマークネモで暴れまわっていた。室内にいた草壁以下のテロリストを殺して、向かってくるナイトメアをすべて排除した。そして敵機の姿が見えなくなった後、今度こそ湖の対岸にいるクロヴィスを殺してやるといきまいていたところを、C.C.によって止められた。と言うか、例のショックイメージとやらを見せられて昏倒した。
クラブハウスで留守番しているものと思っていたC.C.だが、どうやら変装して旅行についてきていたらしい。人質が集められた倉庫の中にいたにも関わらず、ここ一月近く一緒に暮らしていたナナリーでも気づかなかったぐらい見事な変装だった。そんな彼女は軍の一部に追われているというのに変装しているから大丈夫だと思ったのか、昏倒したナナリーを背負ったまま他の人質たちに混ざって堂々と軍に保護を求めたそうだ。
その話を聞いたとき、ナナリーは正直唖然とした。糞度胸にもほどがある。
まあそれはともかく、ナナリーたちはこうして、一応無事にホテルジャックをやり過ごしたわけである。
「うーん、おじいちゃんが心配してくれたのは分かってるんだけど、ああ何日もベッドに縛り付けられるのは性に合わないのよ」
「わがままはいけませんよ」
「うう……以後気をつけます……」
ナナリーがちょっと怖い顔をしてしかりつけると、ミレイは反省した様子で肩を落とす。心配をかけたのは分かっているんだろう。いつになく殊勝な態度だ。
「そう言えば、生徒会の方々にはもうお会いしたんですか?」
「いいえ。会いに行こうと思ってクラブハウスに向かってる途中で、偶然ナナちゃんを発見したの」
「それなら早く行ったほうがいいです。皆さん、とても心配されていましたから」
「あれ?ナナちゃんもクラブハウスに向かってるところじゃなかったの?」
「そうだったんですが……教室に忘れ物をしたのを思い出してしまったんです。取りに行ってきますから先に行ってください」
「そっかー、なら仕方ないわね。ミレイさんは一人さびしく目的地に向かうわ」
「はい、ではまた後ほどお会いしましょう」
しょんぼりした様子で去っていくミレイの背中に向かって、ナナリーはにっこりと笑いかけた。そしてミレイの姿が見えなくなったとたん笑みを消して、一気に険しい顔になって振り向く。
「……先ほどからずっとこちらをご覧になられているようですが、どなたでしょう?」
忘れ物をしたというのは嘘だ。ミレイが現れた少し後から、ナナリーはずっと誰かの視線を感じていた。正体不明の視線の主が、ミレイとナナリーどちらが目当てなのかをはっきりさせようと思って、ミレイを立ち去らせた。その後でも、視線の気配が消えることはなかったということはつまり、目的はナナリーというわけだ。それが同じ学園の生徒からの視線だったら、ナナリーもここまで過剰に反応したりしない。しかし学園の生徒が、ナナリーでさえ下手をすれば気づけないほど完璧に気配を殺すことができるだろうか。もちろんそんなわけがない。
ナナリーは、視線の主が隠れているらしい柱をにらみつけた。
「私に何かご用でもおありですか?」
「怖いなあ。そんなに警戒しないでよ」
そんな言葉とともに、柱の影から一人の男が姿を現す。いや、男というより少年と形容した方がいいぐらい若い。ふわふわの茶髪の少年は、緑色の目を優しげに細める。
「僕だよ、ナナリー。スザクだ」
「すざく……スザクさん!?」
「七年ぶりだね、ナナリー」
驚愕のあまり目を白黒させるナナリーを見て、スザクはふわりと微笑んだ。
日本人のスザクと外でおおっぴらに話すわけにもいかないので、ナナリーは人目を避けてクラブハウスへとスザクを連れ込んだ。ナナリーが居住区域として使っているところには、基本的に許可なしで他人が入ってくることはない。メイドの咲世子にも少し買い物に出てもらえば、無人状態の完成だ。
誰もいないので自分で紅茶と茶菓子の用意をして、ナナリーはスザクを待たせていたリビングに足を踏み入れた。
「どうぞ」
「ありがとう」
差し出した紅茶を、スザクは笑顔で受け取る。
ナナリーはスザクと対面する席について、とりあえず紅茶のカップを傾けた。そしてひとしきり落ち着いた後、ティーカップを置いて話を切り出した。
「お久しぶりです、スザクさん。戦争の後、離れ離れになってしまって……生きていてくれてよかった。ずっと心配していたんです」
「僕も心配してたんだ。君が無事でよかった」
「今はどうされているのですか?」
「名誉ブリタニア人として、軍に所属しているんだ」
「ブリタニア軍、に……?」
「あ、でも技術部に所属しているから、危ないことはないよ」
「そうですか……それならいいんですけど……」
「ナナリーは?あ、ごめん。気づかなかったけど、名前、呼んでも大丈夫?」
「平気です。今はナナリー・ランペルージと名乗っていますから、どうぞ変わらずナナリーと呼んでください」
「そっか。それなら良かった」
ほわほわと綿菓子でも連想させる笑みを浮かべるスザクに、ナナリーは違和感を感じて小首をかしげた。
「何だかスザクさん、大人しくなられましたね」
「そうかな」
「そうです。だって昔はもっとやんちゃな感じでしたもの」
「あれからいろいろあったし……僕も大人になったってことかな」
おどけたような顔で言うスザクは、人種のためなのか十七歳という年齢の割には幼い顔つきをしていて、とても大人には見えない。身長は育ったが、せいぜいナナリーよりも一つ上ぐらいにしか見えない童顔だ。
「あの、ところで……私がここにいること、どうやって知られたのですか?」
「ん?ああ、河口湖のホテルジャック。あのとき、人質の映像の中に少しだけ君の姿が映ってるのを見て、もしかしてって思ったんだ。でも、君の立場を考えればおおっぴらに探すわけにもいかないし……それでほら、あのとき君、ミレイ・アッシュフォードの後ろに隠れてただろ?だから彼女を見ていれば見つかるかなあと思っていたら、予想が当たって君を見つけられたわけ」
「そうだったんですか……」
「そうだったんです。そう言えば、ランペルージって確か、君のお姉さんの苗字じゃなかったっけ?」
「ええ。ですが、そんなことよく覚えていましたね」
「うん、まあそれはかわいい子だったし……今だから言えるけど、実は初恋だったんだ」
「まあ、そうだったんですか……でも、いくらスザクさんでもお姉さまは渡しません」
ナナリーが威嚇しようとしてにらみつけると、スザクは小さく苦笑する。
「子どものころの話だよ。今はもう、恋とかそういうのは考えたことないしね」
「お姉さまのどこが不満だって言うんですか!」
「ええっ!?ちょ、何それ!どう答えれば満足なわけ!?」
ナナリーが両手をテーブルについて乱暴に椅子から立ち上がると、スザクがわたわたと焦り始める。ナナリーはその狼狽ぶりを見て、満足して笑って腰を下ろした。
「冗談です」
「冗談って……」
がくっとうなだれるスザクだったが、すぐに気を取り直したように大きなため息をついて頭を上げた。
「まあいいけど。ところで、お姉さんは?一緒に暮らしてるの?」
その問いに、今度はナナリーが沈み込む。
「なっ、ナナリー、どうしたんだい!?」
「……八年前に別れたきり、会うこともできていません」
ぽつりとナナリーが漏らしたおどろおどろしい声を聞いて、スザクは顔を引きつらせた。
「ご、ごめん!同じ苗字を使ってるから、てっきり一緒にいるものかと……」
「謝る必要はありません。身を隠している以上、お姉さまに会えないのは仕方ないことですから。ランペルージの姓を使っているのは、少しだけでもお姉さまとのつながりを持っていたいからなんです……危険だって分かってるのに、馬鹿みたいですよね」
「そんなことはないよ」
いつの間にかテーブルを回り込んで、すぐ隣に来ていたスザクがナナリーの手を包み込む。
「君がどれだけお姉さんに……ルルーシュに会いたがっていたか、僕はよく知っている。だから、仕方ないなんて言わなくていい。会いたいなら、会いたいって言ってもいい。僕には何もできないけど、話を聞くことはできる」
「……でも」
「僕には嘘をつく必要なんてないんだよ、ナナリー」
「っ……」
優しい腕に抱きしめられた瞬間、涙腺が崩壊した。相手が他の誰でもないスザクだから――初めてできた対等に接することのできる友人だから、素直に弱音を口にすることができた。
「会いたい……お姉さまに会いたいんです!お姉さまは私のことをずっと探してくれてるってミレイさんが教えてくれたとき、うれしかった!でも、すぐにそれだけじゃ物足りなくなった!私もお姉さまもお互いに会いたいと思ってるのに、どうして会っちゃいけないんだって思うようになったんです!会えないのは私のためで、ルーベンさんのせいでもミレイさんのせいでもないのに、二人のことをどんどん嫌いになっていって……っ……私はただ、お姉さまに会いたいだけなのにっ……!」
泣きながら思ったことをわめき散らすナナリーの背中を、スザクはただ無言でなで続けてくれた。
泣き止んだ後ナナリーが、照れ隠しとお礼を兼ねてスザクに宝物――ここ数年でためにためてきた姉の写真を見せて姉語りをしたのは、また別の話である。
◇ ◇ ◇
昼休みのことだ。教室で昼食を食べていたナナリーは、鞄の中で携帯電話が震えていることに気づいた。取り出してみると、表示されていたのは知らない番号だった。普段なら無視してしまうはずのそれを取ったのは、数日前訪ねてきたスザクに電話番号を教えた覚えがあったからだ。名誉ブリタニア人は基本的に携帯電話を持てないはずだが、誰かに借りてかけてきたのかもしれない。そう思ったナナリーは、適当にお弁当を片付けて廊下に出ると、携帯の通話ボタンを押した。
「はい、もしもし」
『……』
「あの……?」
『……』
「スザクさん、ではないのでしょうか?」
『……』
「いたずら電話なら切らせてもらいますが……」
『……ナナリー……?』
食事を終えた生徒たちが騒いでいる中、ささやくような一言が、なぜかとても大きく鼓膜を震わせる。
まるですぐ耳元にあるかのように、心臓が打つ音が聞こえる。からからと喉が渇いて声が出ない。頭が真っ白になって、何も思考が働かない。それぐらい、聞こえてきた声はナナリーを動揺させた。
その声を最後に聞いたのは、もう八年も前だ。普通ならそんな声とっくに忘れているし、実際ナナリーもほとんど忘れていた。けれど声に込められた響きまでをも忘れてはいなかった。
「……おねえさま……?」
ナナリーは信じられない思いで、半ば呆然としながら問いかける。
電話越しに聞こえてきた声は、誰よりも大切で大好きな姉のものだった。