「今は離れ離れになるけど、いつかきっと迎えに行く。だからナナリー、大丈夫。何も心配することなんてないんだ。絶対、また一緒にいられるようになるから……絶対にだ」
大好きな姉は、迎えに来ると言ってくれた。だからナナリーは待っている。もう何年も、ずっと――ずっと。
◇ ◇ ◇
「はい、ナナちゃん。これ、今月の分」
「ありがとうございます」
アッシュフォード学園クラブハウスの一室で、ミレイが差し出してきた白い包みを、ナナリーは笑顔で受け取った。中に入っているものは、開けずとも分かっている。大好きな姉の写真だ。もう何年も写真以外で会っていない姉、ルルーシュの。
ナナリーは包みの白い紙を開けて、指紋がつかないように気をつけながら写真を取り出した。一枚目、二枚目……それから何枚か、制服姿の姉が同じ服を着た少女たちと写っている写真が続く。特別ポーズを取っているわけでも表情を作っているわけでもないから、いつものように、何か学校行事があったときに学校側が撮った写真の中から、自分が写っているものを適当に選んで注文してこちらへ送ったのだろう。
この写真は、遠く離れた本国にいるルルーシュがどうしているのか心配だからという理由で、気乗りしない姉にミレイが無理を言って毎月送らせているものだ。だから気合が入っていなくても仕方ない。けれどもしこれがミレイの頼みではなくナナリーの頼みだったのなら、姉は気乗りしないどころかこれ以上ないほど張り切って、ポーズから表情、撮影場所に小物、光の角度にまでこだわった、一見さりげなく見えるが実際は完璧に計算して撮られた写真を撮って送ってくるのだろう。昔、枢木の家に預けられていたときに送られてきた手紙の中に同封されていた写真はそんな感じのものだったから、それは容易に想像がつく。
もはや手元に残っていないその写真を思い出して、手の中にある写真とのあまりのギャップに、ナナリーは思わず口元をほころばせる。
長方形の形に切り取られた姉の姿をじっくりと見つめて、写真をめくっていく。とても大切なものを見るまなざしで、手つきで。けれどある写真を目にしたとたん、ナナリーは体中の血が凍りつくような気がして動きを止めた。
そこには二人の人物が写っていた。姉と、姉よりも小柄な少年――名前はロロ、ルルーシュの弟だ。しかし、ロロとナナリーの間には一滴の血のつながりもない。ナナリーがルルーシュの異父妹で、ロロはルルーシュの異母弟だからだ。何の因果か、一滴の血のつながりもないナナリーとロロの二人は、半分血がつながったルルーシュよりもよほど似通った面差しをしている。しかも二人は生まれた年月日まで同じなのだ。ここまでくると、誰かしらの作為すら感じられる。とは言っても、ルルーシュとロロが姉弟であることはDNA検査で証明されているから、どれだけ作為的に感じられても実際はただの偶然なのだろうが。
写真の二人がいるのは、動物園だろうか。イルカショーの会場らしき場所を背景に、ルルーシュは笑っていた。ロロと並んで、優しげに微笑んでいた。それは、学園内の姿を切り取った写真では決して見ることのできない笑顔だ。かつてはナナリーのものであった笑顔だ。
「ナナちゃん?」
ミレイは不思議そうな目を向けてくる。彼女は、この写真を見ていない。だから、どうしてナナリーがこれほどまでにショックを受けているのか分からない。
ミレイが毎月ルルーシュに写真を送らせているのは、本当はナナリーのためだ。ルルーシュのことが心配だからというのは、ルルーシュに対する建前に過ぎない。姉に会うことができないナナリーを慰めるために、ミレイはルルーシュに写真を送らせている。否、ナナリーのためにと言うのも正確には違う。これはミレイの、せめてもの償いなのだ。ルルーシュに会いたいというナナリーの願いを、アッシュフォードがもう何年も阻み続けていることに対するせめてもの。
ナナリーに罪悪感を感じているから、その機会があってもミレイはルルーシュに会おうとしない。通信も、必要がなければしようとしない。一月に一度手紙で連絡を取り合っているだけだ。そのときに送られてくる写真も、封筒から出してそのままナナリーに横流しして、ナナリーの許可がなければ見ようとしない。
そんなふうに気を使ってくれるミレイに対して、言うことではないと分かっていた。それでも、言わずにはいられなかった。
「……私は」
「え?」
「私はまだ、お姉さまに会うことはできませんか?」
「それは……」
ミレイは苦い顔をして口ごもる。
その顔を見ていたくなくて、ナナリーは体ごと窓の方へと向いてミレイに背を向けた。
「ごめんなさい」
「ナナちゃんが謝る必要なんてっ……」
「いいえ。アッシュフォード家の皆様方は、本当に私によくしてくれました。こうしてかくまってくれているだけでも十分だと分かっているのに、それ以上を望む私が悪いんです」
ナナリーは現在ナナリー・ランペルージと名乗り、このアッシュフォード学園のクラブハウスに身を寄せて、隠れるように暮らしている。しかしその本名はナナリー・ヴィ・ブリタニア、神聖ブリタニア帝国第九十八代皇帝の娘、つまりはれっきとした皇女である。その皇女が、どうしてこのような殖民エリアで身を隠しているのかというと、話は八年前にさかのぼる。
八年前、ナナリーの母親マリアンヌ・ヴィ・ブリタニアが殺された。ナナリーがまだ五歳のときだった。そして、それがすべての始まりだった。
母は庶民出ではあったが、その人間離れした身体能力によってナイト・オブ・ラウンズの一座を担うまでになり、やがては皇妃にまで上り詰めた、まさに現代のシンデレラストーリーを地で行く人であった。第三世代ナイトメアフレーム・ガニメデのテストパイロットをしていた縁により、アッシュフォード家という貴族を後ろ盾に持っていた彼女だが、それでも結局庶民であることに変わりはない。普通なら皇妃に召し上げられてすぐ、それを面白く思わない貴族やら皇族やらに殺されてもおかしくない立場にあった。実際、一時期は数えられないほどの暗殺者が送られてきていたらしい。
そんな境遇にありながら母が死なずにいられた理由は、母自身の特異さにあった。皇妃となる前は、皇帝の忠実な剣ナイト・オブ・シックスとして戦場を駆け抜けた閃光のマリアンヌ。かの有名な『血の紋章事件』が起こったときには、帝国最高にして最強の騎士と名高いナイト・オブ・ワンを仕留めた実力は、並み居る暗殺者をやすやすと退けた。身分と権力が全てのブリタニア宮殿の中で、母は異例にもその身体能力ひとつで生き残った。彼女はその身ひとつで安全を勝ち取ったのだ。マリアンヌという人には、それだけの力があった。
だからその母が殺されたときに、母の庇護下にいてまだ何の力もなかったナナリーは、それまで当たり前であったものを失った。きらびやかで美しい住まいも、大勢の使用人も、身を守ってくれる護衛の軍人も。そして身一つで、遠い異国の地へと――今はエリア11と呼ばれる日本へと放り出された。名目は留学生としてであったが、実際は人質のようなものだった。
アッシュフォード家もそうだ。後ろ盾をしていた皇妃を殺されたことにより、ナイトメアフレーム開発競争の主流からは外れ、爵位まで奪われた。
そしてナナリーは住まいや使用人や護衛どころか、その命までも奪われかけた。日本へ送られてから数ヶ月後、ブリタニアが日本へ戦争を仕掛けてきたのだ。それは、死ねと言われたのと同然だった。ナナリーは実の父親に捨てられたのだ。
実際、ナナリー一人ならば、戦中と戦後の混乱を乗り切ることはできずに死んでしまっていただろう。しかしナナリーは生き延びた。アッシュフォード家が、ナナリーの死を偽装してかくまってくれたからだ。
それが純然な好意からくるものではないことは分かっていた。彼らがナナリーの存在を利用して、いつか再びのし上がろうと思っていることには気づいていた。もしそうやって利用する前に発覚すればお家取り潰しどころの話ではないが、うまくすれば元の地位を取り戻すことも不可能ではない。ナナリーの存在は切り札であり、同時に爆弾でもあった。だからかくまってくれたと言っても、厚遇されたわけではなかった。それでもまだ、当主のルーベンと孫娘のミレイは信用することもできた。彼ら二人には利用しようという気持ちだけではなく、ナナリーに対する気遣いも感じられたからだ。だがルーベンの息子夫婦は駄目だ。あの二人はナナリーを利用しようとするだけで、とても信じられたものではない。それでも生きるためにはアッシュフォードにすがらざるを得ないから、信用できない者がいると分かっていて、今も彼らの世話になっている。利用しているのは、ナナリーとて同じだ。
そうしてアッシュフォードにかくまわれてから、もうすぐ七年が経つ。それだけの長期間、かつて後見であった家にかくまわれていながらブリタニアに見つかることがなかったのには、大きく二つ理由がある。アッシュフォード家がエリア11に拠点を移したことに不自然さがなかったことと、このアッシュフォード学園の存在だ。本国で政権争いに破れた家が新しくできた殖民エリアに移り住み、まだ基盤が出来上がっていないそこで勢力を伸ばそうとすることはよくあることだ。そしてアッシュフォードがこの地に作った学園は、同じ年頃の少年少女の中にナナリーを紛れ込ませることに成功した。もともとアッシュフォードは、福祉・教育関係の事業で業績を上げていた家だ。学園経営に身を乗り出しても、おかしく思われるようなことはなかった。だからナナリーは七年もの間見つからずにいることができた。
だがそれは、アッシュフォード家がただの後見だったからだ。同じことをルルーシュがしていれば、本国に見つかる可能性は格段に上がっていたに違いない。
「アッシュフォードと違って、お姉さまは私に近すぎる。会ってしまえば、何かの拍子に私の生存が本国に知られるかもしれない」
そう言って、ナナリーはそっと視線を伏せた。
ルルーシュはナナリーにとって血のつながりがある家族だ。異父姉であるルルーシュは皇族ではないが、そんなことに関係なく、ルルーシュとナナリーはとても仲の良い姉妹だった。とは言っても身分というものをわきまえていた姉は、他人がいる前ではかたくなに臣下としての態度を崩そうとはしなかったから、二人が姉妹として仲むつまじくしていたことはほんの限られた人間しか知らない。しかしルルーシュがナナリーのことをとても大切にしていたことは、好悪いずれであれマリアンヌに対して何らかの感情を抱いていた皇族貴族たち、そしてアリエスの離宮にしばらく勤めていた人間ならほとんどの者が知っている事実だ。
身分を隠しているナナリーは、正式な手段で国外へ出ることはできない。だからルルーシュに会おうとすれば、向こうから会いに来てもらうほかない。けれどルルーシュがさしたる理由もなしにエリア11に訪れれば、勘のいい人間は、それをナナリーの生存と結びつけるかもしれない。
同じ理由でルルーシュはナナリーを捜すためにエリア11に移り住むことはできず、アッシュフォード家に捜索を頼む以上のことはできなかった。
「だから会うわけにはいかないと、そう分かってはいるんです。でも……」
ナナリーは姉と一緒にいられない。顔を合わせることもできない。それなのに、半分しか血がつながっていないという条件は同じなのに、ロロは違う。姉と一緒に暮らして、毎日顔を合わせて、あの優しい笑顔を向けてもらえるのだ。ナナリーは、海を隔てたこの土地で、自分がこうして生きていることさえ伝えられないでいるのに。
通信は傍受される可能性がある。手紙は、誰かに見られることも考えられる。直接会うなんてもっての外だ。生きていることを本国に知られるわけにはいかないナナリーはだから、こうしてミレイを――誰かを介してしか、姉の存在を感じることもできない。
「それでも私は、お姉さまに会いたい!」
ナナリーはもう八年も、ルルーシュに会っていない。
ナナリーにとってルルーシュは特別だ。母が殺された後、仲の良かった異母兄弟たちの誰も会いに来てくれなかった中、ルルーシュ一人が会いに来て、抱きしめて慰めてくれて、約束の言葉をくれた。そのときから、大好きだった姉はそれまで以上に大好きで大切で特別な存在になった。
けれど、ルルーシュにとってのナナリーはどうだろうか。きっと、ナナリーにとってのルルーシュほど特別ではないはずだ。だって――。
「お姉さまにはロロさんがいます……私にはお姉さましかいないけれど、お姉さまには違う。だから会わなければ会わないほどに、お姉さまはきっと私のことを忘れてしまう!私にはお姉さましかいないのに……っ」
会うわけにはいかないことは分かっている。それでももう、そろそろ我慢も限界だった。
「ナナちゃん……」
泣きそうな顔で下唇を噛んでいると、ミレイが声をかけてくる。慰めも言い訳も、それ以上何も言って欲しくなかったから、ナナリーはぐっと泣きそうになるのをこらえて、ミレイの顔を見て微笑んだ。
「変なこと言ってごめんなさい。忘れてください」
「ルルーシュは、あなたのことを忘れてなんかいないわ」
「ええ、分かっています。お姉さまは優しいですもの」
ナナリーは微笑んだ。そんなありきたりの慰めなんか欲しくなかったけれど、ミレイの優しさを無碍にすることもできなかったから、笑う以外できなかった。
ミレイはそんなナナリーの内心が分かったのか、真面目な顔になる。
「ナナちゃん、ちゃんと聞いて」
「聞いていますよ?」
「でも、信じてないでしょう?」
「……」
「ルルーシュは本当に、あなたのことを忘れてなんかいないのよ」
「……そんなこと、分からないじゃないですか」
ナナリーは暗い声でぽつりとつぶやいて、ミレイを強く睨み付けた。
「適当なことを言わないでください!お姉さまが私のことを忘れないなんて、そんなこと分からないじゃないですか!私はお姉さまに、生きているということさえ伝えられないのに!」
こんなのはただの八つ当たりだ。そう分かっている。限られた状況の中で、ミレイはとてもよくしてくれている。それが分かっていても止められない。
「ルーベンさんは日本へ来るとき、私のことを見つけたら連絡するとお姉さまに約束したんですよね」
その約束は、ナナリーの身の安全を図るためという理由で、結局今も果たされていない。
「そのときから、もう何年になるとお思いですか?七年、私が生きてきた時間の半分ですよ?アッシュフォード家に保護されたとき、私はまだ六歳の子どもでした。その子どもが、一人でどうやって七年も生きていけるっていうんですか!?あのお姉さまに、そんな簡単なことが分からないはずないでしょう!私のことなんてもう、死んでしまったと思っているに決まっています!」
声を張り上げたせいで、息が荒い。制御が利かないほど感情が昂ぶっている。気を抜けば、今にも泣いてしまいそうだ。痛みで気をそらそうとして、ナナリーは手のひらに爪を食い込ませた。
ミレイは痛ましいものでも見るような目を向けてくる。
その目から逃げようと、ナナリーはさっと目を伏せた。無機質な床を眺めていると、ほんの少しだが気分も落ち着いてくる。
「……お願いします。少し、一人にしてくれませんか?」
優しいミレイにこれ以上八つ当たりしたくなかったので、ナナリーはそう言ってミレイに背を向け、窓際まで歩いていく。懇願の形を取っていたけれど、それは命令以外の何でもなかった。
けれどミレイは出て行かず、それどころかナナリーを追って窓際まで歩み寄り、何かを差し出してくる。
「ナナちゃん、これを見て」
「すみません。後にしてください」
「だめよ」
「っ!」
ナナリーは振り向いて、声を荒げかけた。しかしそれが言葉になる前に、ミレイが口を開いた。
「ルルーシュからの手紙よ」
「え?」
ナナリーはこぼれそうなほど大きく目を見開いて、ぴたりと動きを止めた。そんなはずがないと分かっているが、自分宛のものかという期待が胸に生まれる。
「お姉さまからの……?」
「私宛の、だけどね」
「っ、そんなもの!」
ナナリーは唇を噛み締めた。ミレイはいったい何がしたいのだろうか。ナナリーが八つ当たりしたから、その仕返しでもしようというのか。けれどそんな考えは、すぐさまミレイに否定される。
「でも、読んでもらえば分かるわ。あなたが考えていることが、間違ってるってこと」
「……」
ナナリーは無言で、ためらうように手を伸ばしては止めて、何十秒もかけてようやくその手紙に触れた。そして三つ折りにされた紙をゆっくりと開いて、几帳面な文字でつづられた文章に目を通していく。そしてそれから数秒後、ナナリーは手紙を凝視した体勢のまま、両の瞳からぼろぼろと涙を流し始めた。
手紙は当たり障りのない常套句から始まり、その後には近況報告がさらりと書かれていた。けれどナナリーを涙させたのはそんなものではなく、近況報告が終わり後半部分に差し掛かった以降であった。そこには、ナナリーに関することばかりが書かれていたのだ。
「……おねえさまっ……」
ナナリーはまだ見つかっていないのかという質問から、見つけたら一番に連絡をくれるようにという依頼。捜索開始から七年が経ったが、途中で捜索を打ち切らないようにという要望。閃光とまで呼ばれたマリアンヌ后妃の身体能力を受け継いだナナリーなら、きっと生きているはずだというくだり。それから長々と手紙の終わりまで、書かれているのはナナリーのことばかりだ。
「っ……おねえさま、おねえさまっ、おねえ、さま……!」
姉は、ナナリーのことを忘れたりなんかいなかった。捜索開始から七年、アッシュフォード家がルルーシュに見つからないと言い続けて七年だ。生存が絶望的な今になっても、ルルーシュはまだナナリーのことを諦めていない。この一枚の手紙だけで、そのことが分かった。
あまりの歓喜に、そして安堵に、膝から力が抜ける。ナナリーはその場に座り込んで、その手紙を胸に押し付けて泣きじゃくった。折り目以外にはしわひとつなかった紙は、そのせいでぐしゃぐしゃになってしまうが、それを気にする余裕さえなかった。
ミレイは手紙をぐしゃぐしゃにされたことを怒ろうともせず、床に膝を着いて目線をナナリーに合わせてから口を開いた。
「その手紙だけじゃないわ。毎月送られてくる手紙に書かれてるのは、いっつもナナちゃんのことばかりなのよ。私宛の手紙だっていうのに、失礼だと思わない?」
「ミレイさん……」
「通信でもそう。ルルちゃんは口を開けば、ナナちゃんのことばっかり。あの子は、ナナちゃんのことを忘れてなんかいないわ。……今まで黙っていてごめんなさい。ルルーシュと会わせてあげることのできないこの状況じゃ、こんなこと教えてもつらくなるだけだと思っていたの。そのせいでナナちゃんがあんなことを思うなんて、考えもしなかったわ。ごめんね……本当に、ごめんなさい」
「いいんです……っ……」
苦しそうな声で謝罪するミレイに向かって、ナナリーは泣きじゃくりながら首を横に振った。
「いいんです、いま、おしえてくれたから、だから……!」
うれしくて幸せで、今ならどんなことだって許せそうな気がした。
それから一時間後、ナナリーはリビングの椅子に腰掛けて上機嫌に微笑んでいた。
「お姉さま……」
手紙を指でなぞり、姉に思いを馳せる。ぐしゃぐしゃになった手紙は、責任を取るということでナナリーがもらうことにした。ミレイ宛のものではあるが、今まであんな大事なことを黙っていたのだから、これぐらい許されるはずだ。
ナナリーは、姉に忘れられていなかった。姉は今でも、ナナリーのことを思ってくれている。それがうれしい。うれしくてうれしくてたまらない。今にも踊りだしたいぐらいだ。
くすくすと笑っていると、ふと誰かに呼ばれたような気がした。
「……誰?」
首をかしげてあたりを見渡すが、室内には誰もいない。メイドの咲世子は、ついさっきお茶を淹れに行ったばかりだ。帰ってくるには早すぎる。
「気のせいかしら?」
そう思って再び手紙に目を落とそうとする。しかしまた、同じ感覚に襲われた。
「気のせいじゃない。私を呼んでる」
誰かが自分を呼んでいる。呼ばれている。
そのとき、付けっぱなしにしておいたテレビからニュース速報が聞こえてくる。
『ただいま入ったニュースです。シンジュクゲットーにおいて、テロリストによる大規模な破壊活動が確認されました。犯行声明は出ていませんが、直前に軍がテロリストの車両数台を追跡していたこともあり――』
声なき声は、その間もナナリーを呼び続ける。呼んでいる。呼ばれている。声は止まない。
「私……行かないと」
ナナリーは手紙を持ったまま、ふらりと立ち上がる。どこへ行くかなんて分からない。ただ、行かなければいけないと思った。それだけだった。
数分後、部屋の扉が開いて咲世子が入ってくる。
「ナナリーさま、お茶をお持ちしました。……あら?」
トレイの上に紅茶を載せた彼女は、ナナリーが座っていたはずの椅子を見て、首を傾げる。椅子は空っぽだった。揺れるカーテンにつられて窓に視線を移すと、茶の用意をしにキッチンへ行くまでは確かに閉まっていたはずの窓は開いていて、吹き込む風がカーテンを揺らしていた。
「ナナリーさま?」
主人の姿はどこにもなかった。
◇ ◇ ◇
己を呼ぶ声に従って、ナナリーは走っていた。いつの間にか周りの景色は、見慣れたトウキョウ租界のものではなくなっていた。シンジュクゲットーだ。電車に乗ったとき、ガラス越しに目にするぐらいしか見る機会のないシンジュクゲットーは、日本侵略のときに破壊されたときのままであちこち壊れていたことを覚えている。しかし今のシンジュクは、それよりもずっとひどい。
侵略にさらされた後も何とか形を残していたはずの建物は今、見る影もなく倒壊し、あちこちでコンクリート片が落ちて、時折何かが崩れる音が聞こえてくる。
「……ひどい……どうしてこんなことを……」
崩れ落ちた建物の下には、倒壊に巻き込まれ息絶えた人の姿が両手の指で数え切れないぐらい見える。漂ってくる血臭と、そして肉が焼けるようなひどい臭いに、ナナリーは思わず鼻と口を手で塞いだ。
「ぐっ……」
吐き気に顔をしかめながらも、ナナリーはひたすら走り続ける。
道はあちこちで、穴が開いたり盛り上がったり倒壊した建物でふさがれていたり、常人ならば普通に進むことさえ難しい状態だ。しかし、母親の身体能力をそっくり受け継いだナナリーには決して難しいことではなかった。穴は飛び越え、崩れてくる建物は常人離れした反射神経と運動能力で回避し、ふさがれた道は軽い体を活かして障害物の上を駆けてまっすぐ進む。
遠くには、時折ナイトメアフレームの姿が見える。しかし数キロ離れた場所にいるそれが、閃光の速さでゲットーを駆け抜ける少女の姿を捉えることはない。
壊れた建物、血と肉が焼ける臭い、そしてナイトメアフレーム――それは七年前の日本侵略の光景を如実に思い出させた。
「どうしてっ……」
母を殺されたナナリーは、人質として日本に送られた。そこで住処として与えられた土蔵での暮らしは惨めで不便だったし、姉と離れて暮らすのは寂しくて悲しかった。それでも、初めてできた友達と姉から送られてくる手紙、そしていつか必ず迎えに行くという約束があったから決して不幸ではなかった。けれどそんなつかの間の穏やかさは、ブリタニアの侵略によって壊された。兄のようでもあった友人とは離れ離れになった。姉からの手紙も失った。姉との約束は、今も果たされていない。
「お姉さま……会いたい、お姉さま!」
ナナリーが走りながら血を吐くような叫びを上げたそのとき、知らない声が脳裏に響く。
――見つけた、私の……。
「誰!?」
周囲を見渡すと、少し離れたところに大きく穴が開いていて地下鉄構内がのぞいていた。そしてそこに、誰かが倒れていることに気づく。
「大丈夫ですか!?」
ナナリーは慌てて穴の中に飛び込んで、その人間のところへ駆け寄って行く。それは一人の少女だった。どうやら意識を失っているようだ。珍しいライムグリーン色の髪にまず気をとられ、次に彼女が拘束衣を着ていることに気づいて驚く。
「なっ、どうしてこんなものを……」
どこか見覚えのある拘束衣は、確かブリタニア軍で使われているものだ。もしかしたら罪人なのだろうかと一瞬思うが、とてもそうは見えない。自慢ではないが、こういった勘はよく当たる方なのだ。一瞬ためらった後、ナナリーは少女の拘束を外すことを決めた。もし何かがあったときにナナリーでは彼女を抱えていけないから、自力で逃げてもらうために、声をかけながら足の拘束を外し、そこから上へと上っていく。そしてあらかたの拘束をはずし終えたとき、視界の端で何かが動くのが見えた。
「何かしら、これは……人形?」
視線をやると、そこにあったのは手足のない、頭と胴体だけの白い人形だった。顔があるはずの部分いっぱいには、鳥が羽ばたくようなマークが赤く描かれている。子どものおもちゃにしてはかわいげがない。奇妙なことにその人形は、この状況にあってほこり汚れひとつなかった。
そのとき突然、誰かに腕をつかまれる。
「きゃっ!」
同時に、周囲からは破壊されたゲットーの光景も拘束衣の少女も白い人形も消えうせて、あたりは果てない紺碧の闇に包まれる。薄い青色の、そこらじゅうをほとばしる雷のような光がナナリーを、闇のさらに奥へと引きずり込もうとする。そして扉のようなイメージの奥へと引きずりこまれた後、今度は色とりどりの光があたりを通り過ぎていく。
「なっ、何!?」
――感じるぞ、お前の怒り……。
誰かの声が聞こえてくる。先ほど聞こえたのと同じ、鼓膜を震わせる肉声ではなく脳へと直接響いてくる奇妙な声だ。
――この理不尽な殺戮への怒り……母を奪われた怒り……そして、最愛の姉と引き離された怒り。
そして視界は、白い光に覆われる。その光の中に、拘束衣の少女が立っているのが見えた。その横には、あの白い人形がふわりと浮かんでいる。
「あなた……あなたね!あなたが私をここへ呼んだのね!?」
――そう……これは契約。
その声の後、少女は消えて、妙な光景が目の前に広がる。暗闇の中に浮かぶ二つの大きな球体、その球体の間で闇を照らし浮かび上がるひし形の物体……形がひし形でなければ、まるで太陽のようだ。
――力をあげる代わりに、私の願いをひとつだけかなえてもらう。契約すれば、お前は人の世に生きながら、人とは違う理で生きることになる。異なる摂理、異なる時間、異なる命……。
姿もないのに、少女の声が聞こえてくる。無数の羽が飛び散って視界を覆った。白い羽が消えると、今度は何かが描かれた岩肌が見え、次には古代の巫女のような格好をした数多の少女たち、そして宇宙と何かの惑星が見える。それが終わると、再び色とりどりの光が周囲を通り過ぎていく。
――王の力はお前を孤独にする。その覚悟があるのなら……。
『お母さま、お母さま!!……いやああああ!』
血まみれになり息絶えた母を見て、泣き叫ぶ幼い自分。
『今は離れ離れになるけど、いつかきっと迎えに行く。だからナナリー、大丈夫。何も心配することなんてないんだ。絶対、また一緒にいられるようになるから……絶対にだ』
日本へ送られることが決まった後、使用人か護衛、外交官以外は誰も会いに来てくれなかった中、ただ一人会いに来てくれた姉。そのときにもらった、何よりも大切な約束。
七年前の夏の日、富士の上を覆い尽くしたブリタニアの軍勢。空から降ってくる無数のナイトメアフレーム。
初めてできた友達との穏やかな日々は壊されて、宝物にしていた姉からの手紙もそれに同封されていた写真も持ち出す時間などなく、ナナリーは戦火に追われた。
「ちから……?」
――そうだ。お前の望みをかなえる力だ。
いつの間にか目の前には、あの白い人形がいた。
「私の望みをかなえる力……その力があれば……」
力があれば、母が死ぬことはなかっただろうか。姉と引き離されることもなかったのだろうか。初めてできた友達と引き離されることも、ささやかな宝物を失うこともなかったというのだろうか。その力さえあれば。
「私……私は……!」
力があれば、こんなふうにこそこそと隠れ住む必要もないのだろうか。誰よりも大切で大好きな姉に、もう一度会うことができるのだろうか。そう思った瞬間、ナナリーは叫んでいた。
「私は、私は!力が欲しい!」
直後、目の前の白い人形が、無数の白い触手を伸ばしてくる。そしてその白い触手でできた繭に、ナナリーの体は包み込まれた。目の前は黒く染まり、意識は白く消えうせていく。
次に気づいたとき、ナナリーは見知らぬ異形のナイトメアフレームの中にいた。
「ふふ、うふふ、うふふふふっ、あはははは!契約は成された!」
そしてこのときから始まったのだ。ナナリーの悪夢と、あの白い人形――魔道器ネモの夢は。
「これが私の力!私の新しい体!私はもう、ただの泥人形なんかじゃない!」
ナナリーの左目と額には、あの白い人形の顔に描かれていたのと同じ、鳥が羽ばたくようなマークが煌々と浮かび上がっていた。