教育ステーションE-1077 手を離さないで

 翌日。まだキースとは顔を合わせにくくて、ジョミーは別の友人たちと一緒に授業を受けることにした。授業が終わるや否や、キースと鉢合わせることがないように、さっさと荷物をまとめて次の教室へと向かって歩き出す。しかし、教室を出てから数十秒後、友人の一人がジョミーの肩をつかんで引きとめた。
「ジョミー、どこに行くんだ?次は訓練飛行だぞ?」
「訓練飛行?訓練飛行って……昨日終わったじゃないか」
「昨日終わった?……ジョミー、夢でも見たのか?昨日は朝からずっと座学の授業だっただろ」
 呆れたような顔をして言う友人は、とても嘘を吐いているようには見えない。ジョミーは戸惑った。
「覚えてないのか?」
「だーかーらー!訓練飛行は今日だってば!おいジョミー、しっかりしろよ」
「でも……」
 反論しようとするが、その友人だけではなく、他の友人たちも口々に同じことを言ってくる。訓練飛行は今日だ、夢でも見たのではないか、と。そんなはずはない。昨日の訓練飛行の最中に起こったことを、ジョミーははっきりと覚えている。
(どうなっているんだ……?)
 ジョミーが困りきって立ち尽くしていると、友人たちの向こう側に、慌てた様子で教室から飛び出したキースが、ジョミーがいるのとは反対方向に向かって走って行くのが見えた。避けていた相手だが、一人では対処しがたい問題が起こったとき、誰よりも頼りになるのはキースだと経験上知っている。だからジョミーはひとまず昨日のことは脇に置いておくことにして、友人たちに断りを入れるのもそこそこに、慌ててキースの後を追って走り出した。

 しかし、追っている途中でジョミーはキースを見失ってしまった。仕方なくあてずっぽうに方々を回って、キースを探すことにしてみるが、なかなか見つからない。十数分後、広いロビーの真ん中に立っているキースをやっとのことで見つけたジョミーは、急いで彼の元へと駆け寄っていく。
「キース!」
「ジョミーか?」
 そう言ってくるりと振り向いたキースは、目を合わせるや否や険しい顔をして話しかけてきた。
「聞きたいことがある。昨日、授業の中に訓練飛行の項目はあったか?」
「あったよ!それで、途中でソルジャー・ブルーとかいう奴に邪魔された!」
「お前は覚えているのか……」
 キースはそうつぶやいた後、難しい顔をして続ける。
「手当たり次第聞いて回ったが、僕が聞いてみた限り、お前以外の全員が昨日の訓練飛行のことを忘れている……そして、シロエのことも」
「シロエ……何でシロエが……?」
 昨日の訓練飛行とシロエがどう繋がっているのか分からず、ジョミーが眉を顰めて問い返すが、キースが答えを返す前に、横から伸びてきた誰かの手がキースの肩をつかんだ。
「いたいた、キース、ジョミー」
 声をかけてきたのは、宇宙服に身を包んだサムだった。
「早く支度しないと、教官にどやされるぞ。さ、行こうぜ」
 サムはそう言って、キースとジョミーを連れて行こうとする。一体何がどうなっているのか訳が分からず、ジョミーが戸惑っていると、突然生徒の一人が大スクリーンを指差して叫んだ。
「おい、見ろ!」
 その声につられて、ジョミーたち三人も大スクリーンに視線をやる。青い地球の静止画像が映し出されているスクリーンには今、小さなノイズが混ざっていた。やがてそのノイズは画面いっぱいに広がって、地球の画像がゆらりと歪んで別の形を作り出す。けれどそれはノイズのせいではっきりと見ることはできない。
(何だ……?)
 ジョミーが怪訝に思っていると、突然脳の中に誰かの声が聞こえてくる
『……くは……る……』
 最初はほとんど聞こえなかったその声は、未だ途切れ途切れながらも、意味のある言葉となって脳裏に響き渡ってくる。
『……僕はソルジャー・ブルー……』
「これは……昨日と、同じ……?」
 昨日聞いたばかりの声と名前に、ジョミーが呆然と目を見開いてつぶやいていると、突然左隣に立っていた少女が、何の前触れもなくがくりとその場で膝を折って座り込んだ。何なんだと思って視線をやると、その少女だけではなく、周りの人間たちの半分ほどが座り込んでいる。残りの者たちも、膝をついてこそいないものの、苦しそうな顔をして自分で自分を抱きしめて、脳内に響き渡る言葉と同じ言葉をひたすら繰り返している。
『君たちは成人検査をパスした者……僕はしなかった者………思い出せ』
 脳に響いてくる言葉が鮮明になっていくのと同時に、大スクリーンの画像もだんだんと鮮明になっていく。そしてやがてそこには、昨日の飛行訓練のときに画面をジャックした者と同じ顔が映し出された。白銀の髪に赤い目をした、とても美しい青年。何故か目が放せなくて、ジョミーが呆然とスクリーンに映る彼の姿を見つめていると、ふと彼と目が合ったような気がした。
『思い出すんだ』
 まるでジョミーに語りかけるように、彼は言う。思い出せと言われるたびに、胸の奥がざわめいてどうしようもない不安に襲われる。ずっと過去を思い出したいと思っていたのに、何故かそれを拒否するように、思い出せと言われるたびに恐怖心が襲ってくる。思い出してしまったら、何かが終わってしまいそうな気がする。それが怖くて、ジョミーはぶるりと体を震わせた。思わず自分で自分を抱きしめるが、震えは一向に止まらない。
『捨てた記憶はそれぞれが持っていくべき大切なキーだ。まだ若い君たちなら思い出せる。自分が何者であったのか……何が好きだったか、何を愛していたか……』
 こぽりと立ち上っていく泡、周囲を漂う金糸の髪。次々に、場面場面を切り取ったような映像が頭の中に流れ込んでくる。何ヶ月か前から続けて見る夢と同じ映像だ。大きな水槽、その中を満たす液体、一日に一度やって来る研究者、決まって二度ガラスを叩く音、時折ジョミーのもとを訪れる青年。
(これは、夢の……)
 そう思うと同時に、疑問が頭をよぎる。
(……夢……?本当に……?)
 そのときふと、背後から誰かの手に肩をつかまれた。そのとたん、脳内に流れ込んでくる映像はぴたりと止まる。
「あ……」
「ジョミー、無事か!?」
「きー、す……?」
 震えたまま、ジョミーは呆然と目を見開いてキースを見上げた。それを見たキースは、心配そうな顔をしてジョミーの顔をのぞきこんでくる。
「無事じゃなさそうだな……ここにいろ」
 心配そうな顔でジョミーを見つめながらも、そう言い置いて走り出そうとするキースを、ジョミーはとっさに腕をつかんで引きとめた。
「ジョミー?」
 怪訝な顔をしてキースが振り返る。
「……行かないで……」
「ジョミー、大丈夫だ。すぐに戻ってくる」
「嫌だ……キース、置いて行かないで……!」
 ほとんど泣きそうになりながらジョミーは叫んで、キースの腕を強くつかむ。まるで、命綱にすがりつくおぼれた人間のように必死になって。この腕を放してしまえば、もう二度と戻れない。そんな気がした。
 駄々っ子のようなジョミーを見て、キースは困ったような顔をしていたが、すぐに真剣な顔になって話しかけてくる。
「大丈夫だからここにいるんだ。すぐに戻ってくる」
 優しい仕草でジョミーの手を引き剥がして、キースは走って行ってしまう。
 キースのぬくもりと離れた瞬間から、再び脳内に夢と同じ映像が流れ始める。こぽりと立ち上っていく泡、周囲を漂う金糸の髪、大きな水槽、その中を満たす液体、一日に一度やって来る研究者、決まって二度ガラスを叩く音、時折ジョミーのもとを訪れる青年。そう言えば彼は、白銀の髪に赤い瞳をしてはいなかっただろうか。

 そう、まるで、目の前にある大スクリーンに映し出されたこの青年のように。

 そう思った瞬間、ジョミーは全てを思い出していた。メディカルカウンセリングルームで目覚める前までの、十四年間の記憶を。
(そうか……)
 思い出したいとずっと願っていたはずの記憶を思い出したのに、ジョミーは瞳からぼろりと涙をあふれさせる。悲しいわけじゃない。けれど、思い出した過去の真実は、ジョミーをどうしようもなく虚しい気持ちにさせた。
(シロエが言っていた人形って意味が、やっと分かった……僕は……僕とキースは、マザー・イライザに作られた人形だったんだ……)
 何ヶ月も前――シロエと初めて顔を合わせた日から、毎夜続けて見ていた夢。けれどそれは夢ではなかった。水槽の中に閉じ込められていたのも、そのことに飽き飽きしていたのも、退屈な日々の中でたった一人の来訪を待ち続けていたことも。それらは全て夢なんかじゃなくて、現実だった。それが、ジョミーの過去だった。
 生物実験のシャーレの中でタンパク源と遺伝物質から作られて、十四の年まであの狭い水槽の中――マザー・イライザの胎内で育てられた生物。それがジョミーだ。向かいの水槽にいた、ほとんどいつも無感動な瞳をしていた少年は、キース。気付いたときには、キースはいつもすぐ側にいた。多分、他の誰といるよりも、キースと一緒にいると落ち着くことができたのは、だからなのだろう。
 ジョミーとキースは同じものだった。けれど、機械の申し子とまで言われるキースとは違って、ジョミーはどうしてもマザーに心から従うことができなかった。それは、あの狭いガラスの檻に閉じ込められていたとき、時折ジョミーのことを訪ねてきてくれていた青年がいたからだった。その人の名前を、夢の中のジョミーは確かに知っていた。それなのに、目を覚ました後はいつも、どうしてもその名前を思い出すことができなかった。けれど、今なら思い出せる。あの青年の名前は――。
「……ブルー……」
 大スクリーンに映る青年を見上げて、ジョミーは彼の名前を呼んだ。ソルジャー・ブルーなんて人は知らない。けれどジョミーは、彼のことを確かに知っていた。人として生きるのではなく、人になるべく成育される日々の中で、何度もジョミーに会いに来てくれた者としての彼を。彼がたくさんのことを教えてくれたから、ジョミーはキースとは異なるものになることができた。機械の支配から逃れることができた。ジョミーが人間らしくなることができたのは、全部彼のおかげだった。ジョミーもブルーも人間ではなくミュウという生き物であるらしいから、人間らしいといったら語弊があるのかもしれないが。
「……ブルー……僕を、迎えに来たの……?」
 スクリーン上の彼を見つめて問いかけると、ブルーはそっと瞳を細めてかすかに笑う。そのとき突然部屋の照明が切れて、スクリーンも真っ暗になる。同時に、周りでしゃがみこみながらぶつぶつとブルーの言葉を繰り返していた生徒たちは、糸が切れたようにその場に倒れこんだ。広いロビーの中でたった一人、虚ろな目をしたジョミーが立ち尽くしていると、ふわりと目の前に見慣れた姿が現れる。
『ジョミー』
 白銀の髪、赤い瞳をした彼は、ジョミーを見つめて微笑みながら口を開く。
『迎えに来たよ、ジョミー……行こう』
「ブルー……」
 差し出された手を無意識に握り返して、促されるままジョミーはゆっくりと歩き出す。後ろをついていきながらジョミーは、半分向こうが透けて見えるブルーの姿をじっと見つめる。
 世界を教えてくれた彼のことが好きだった。水槽の中でいつもジョミーは、彼だけを、彼の訪れだけを待っていた。

 ――鍵をかけるんだ……心に強く鍵を……本当の僕が、君を迎えに行くその日まで……。

 彼がそう言ったから、ジョミーはブルーに関する全てと、彼に教えてもらった全てのことを心の奥底に押し込めた。姿が変わっていたら、迎えに来てくれたとき彼はジョミーのことが分からないかもしれないから、最後に会ったときのまま成長を止めた。マザー・イライザに処分されることがないように、他の人間たちの中に紛れて生きるために、全ての記憶を忘れて過ごしてきた。けれどシロエに会ったことで、忘れていた記憶が夢という形でジョミーの表層に現れた。
 かつてジョミーは一度だけ、シロエに会ったことがあった。長いことブルーが来てくれなくて、退屈しきっていたジョミーはある日突然、気付いたら空の上に浮かんでいた。そのときに出会った子どもがシロエだ。
 そのことに思い至ったとき、ジョミーははっと正気に返った。
「そうだ、シロエ……!ブルー、シロエが……!」
『分かっているよ。彼もまた、僕らの仲間だ。こんな場所に置いて行ったりはしない』
 そう言ってブルーは立ち止まると、何かを探すようにくるりと周囲を見渡した。
『ああ、見つけた……どうやら彼は、ポートに向かっているようだ。ジョミー、僕らも行こう』
 ブルーの言葉に、ジョミーはこくりと頷いて走り出した。



◇ ◇ ◇



 ステーション中を全エネルギー停止させるという手段を用いて、ミュウの精神攻撃からステーションを守った直後、キースがマザー・イライザと話をしていると、突然マザーが言った。
『セキ・レイ・シロエとジョミー・マーキス・シン……二人が逃亡しました』
 驚きに声を上げることさえ忘れて、キースは目を見開いた。
 逃亡――シロエは、まだ分かる。彼はマザーに反逆して、保安部隊に連れて行かれた。意志の強いシロエは、決して自分の意思を枉げることはしないだろう。ならば、シロエに待っているのは死のみ。ステーション中の人々が正気を失い、全ての機器が機能停止状態に陥った先ほどの隙を見計らって逃亡を選ぶのは、死にたくないのならば当然と言えた。けれど、何故ジョミーが逃亡などしなければならないのか。彼女がマザー・イライザを嫌っていることはキースも知っていた。このステーションにいることを苦痛に感じているのも、承知していた。けれど、あと数ヶ月なのだ。あとほんの数ヶ月で無事に卒業できるというのに、どうして今になって逃げる必要があるのだ。つい先ほど会ったときには、そんな素振りは全く見せなかったというのにどうして。
 信じられない思いで立ち尽くしているキースに、マザー・イライザは言う。
『追いなさい。反逆者を逃がすわけにはいきません。命令です』
「ジョミーが……あいつが逃げるなんて……」
『ですが事実です。セキ・レイ・シロエと共に、ジョミーは宇宙へ飛び出しました』
「そんな……」
 行かないで、と泣きそうになりながら言ったジョミーの顔を思い出す。あの手を振りほどいていった後、ジョミーに何があったのだろう。何があって、ジョミーはシロエと共に逃亡することを選んだのか。答えの出ない袋小路に迷い込みそうになったキースだが、すぐにその無益さに気付いて正気に戻る。
「待ってください!ジョミーは……僕が連れ戻します!あいつは確かに、時折反抗的なことを言いますが、地球政府に逆らう気なんて全く持っていません!だからどうか……!」
 シロエのことは、完全に頭の中から消えていた。
 ジョミーとシロエ、どちらかを選べと言われれば、キースはジョミーを選ぶ。サムに対して抱いている友情とは全く違う思いで、キースはジョミーのことを大切だと思っている。それが具体的にどういった感情なのか、キースは知らない。けれどただ、大切だと思う。名前なんて知らなくても、ジョミーとキースの間にはそれだけで十分だったのだ。ただ、互いを大切だと思っていることさえ分かっていれば、その感情の種類なんてどうでもよかった。
 記憶の初めから、キースにはジョミーがいた。初めて見た瞬間から、何故だか分からないがどうしても放っておくことができなくて、このステーションで過ごしてきた四年間、キースはずっとジョミーと一緒に過ごしてきた。そして、これからもずっと一緒にいるものだとばかり思っていたことに、キースは今気付いた。そんなことがあるわけないのに。ずっと一緒だと思っていた。離れることなんて想像したこともなかった。ジョミーは自分の側にいることが当たり前なのだと、キースは何の根拠もなくそう思っていた。今さら離れることなんて、できるわけがない。
 そう思って、マザー・イライザをじっと見つめていると、彼女はそっと目を瞑って静かに口を開いた。
『……貴方に任せましょう、キース』
「ありがとうございます!」
 それだけを言って、キースは急いで走り出した。



 ポートへ急ぎ、一隻の練習艇に乗り込む。キースはできる限りの速さで準備をして、その船で宇宙へと飛び出した。最大速度で進んでいるが、先を進んでいるはずの船は小さな点にしか見えない。他の者が操縦しているのなら追いつくこともできただろうが、あの船を操縦しているのは、キースと並ぶ操縦技術を持つジョミーだ。追いつくことは無理だと判断したキースは、呼びかけて停船を求めることに決めた。
「前方を飛行中の練習艇、停船せよ!停戦せよ!……ジョミー!」
 そうやって何度も呼びかけていると、やがて小さな声が返ってくる。
『……キース』
「ジョミー!」
 慌てて画面に目をやるが、つながっているのは音声のみのようで、通信画面は真っ暗のままだ。
「何をしているジョミー、早くステーションに戻れ!今ならまだ間に合う!」
『……無理だよ』
「無理じゃない!マザーは僕に任せると言ってくれた!だから……」
 続く言葉をさえぎるように、ジョミーの声が通信回線越しに聞こえてくる。
『無理だよ、キース』
 それは諦念と、ほんのわずかな安堵といった感情が入り混じった複雑な声だった。ジョミーのこんな声を、キースは聞いたことがない。笑い声、怒鳴り声、泣きそうな声、迷いを含んだ声、色々な声を聞いてきたけれど、こんなふうなジョミーの声をキースは知らない。まるで、ジョミーが知らない人間になってしまったように感じられて、キースは思わず息を詰まらせる。
 その間に、ジョミーが静かに続ける。
『思い出したんだ……ずっと思い出したいと思っていたこと……僕の十四年間の記憶……僕には何もなかった。ブルーだけが、あのころの僕の全てだった……』
「ブルー?」
 それは昨日の飛行訓練を邪魔して、つい先ほどステーションに精神攻撃を仕掛けてきていた、あのソルジャー・ブルーという男のことだろうか。奇妙な力を持つ、ミュウの長と名乗ったあの男。ジョミーは彼と知り合いなのだろうか。この逃亡は、それと関係しているのだろうか。思い返してみれば、機能の飛行訓練の直後から、ジョミーは少し様子がおかしかった。
『……ねえ、キース……僕は、ステーションもマザー・イライザのことも嫌いだったけど、キースのことは好きだったよ……理屈とかそんなのに関係なく、キースと一緒にいると安心した……ステーションでの生活は窮屈だったけど、キースと一緒にいるのは楽しかった……キースは、僕の面倒で大変なだけだったかもしれないけどね』
「そんなことはない。僕も、お前と一緒にいるのは楽しかった。だから戻って来い、ジョミー!」
『……無理だよ……僕は……僕も、ミュウなんだ……マザーはミュウの存在を許さない。だから僕はもう、ステーションには戻れない……戻らない』
 ミュウが何なのか、キースは詳しく知らないけれど、マザーがミュウの存在を許さないだろうというジョミーの言は、決して間違いなどではないのだろうということは分かった。マザー・イライザは異質なものを許さない。人の精神に干渉できるような不思議な力を持つようなミュウというものを、マザーが許すかどうかなんて、深く考えるまでもなく明らかだ。
 ジョミーはもう戻ってこない。その事実に、キースはくらりとめまいがするような気がした。
「……本気、なんだな……?……本当にもう、戻るつもりはないのか……?」
『……ごめん……』
「謝るな!」
 キースは感情的に声を荒げて、拳を強く握りしめた。
「謝るなっ……」
 ジョミーが逃亡したなんて、何かの間違いだと思いたかった。少し言葉を交わせば、すぐに連れ戻せるのだと思っていた。それなのに、どうしてこんなことになったのだろう。あのとき、手を離してしまったのがいけなかったのだろうか。行かないで、と。置いていかないで、とすがってきたジョミーをあの場に置き去りにしなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。後悔など、するだけ無駄なことだと分かっているはずなのに、思考は止まらない。
 そのとき、通信機からマザー・イライザの無感動な声が聞こえてきた。
『撃ちなさい』
 キースは息を呑んだ。けれどそのことに頓着することなく、マザー・イライザは無情にも続ける。
『撃ちなさい、キース・アニアン』
 記憶の初めからずっと一緒に過ごしてきた、他の誰よりも大切なあの金色を撃つことなどできるはずがない。感情はそう叫んでいるのに、理性がその声を心の底へと押し込める。マザーの命令は絶対だと定めてきたこれまでの理性が、ゆっくりとキースの腕を動かして、ジョミーとシロエが乗っている練習艇に照準を合わせようとする。
 ジョミーとの通信回線も開いていたから、マザーの命令は彼女にも聞こえていたのだろう。静かな声で彼女が問いかけてくる。
『僕を撃つ?』
「……反逆者は処分する。それが決まりだ」
『そうだね……ごめん、キース、こんなことさせて』
「っ……!」
 謝るぐらいなら戻って来いと言いかけて、やめた。どうせ戻って来ても、ジョミーに待っているのは死のみだ。ジョミーがミュウなんてものでさえなければ、まだどうにかなった。否、キースがどうにかしてみせた。けれど、そんな仮定に意味はない。結局どうやったって、事実が変わることはないのだから。キースが歯を噛み締めていると、ジョミーが泣きそうな声で話しかけてくる。
『ねえ、キース……この四年間、楽しかったね……』
「……ああ……」
『ブルーのことを思い出すまでは、僕、これから先もずっと君と一緒にいるんだって、そう思ってた……配属とか色々あるんだから、そんなはずないのにね』
「僕も……そう思っていた……」
『本当?うれしいな……』
 そこで一瞬会話が途切れて、沈黙が広がる。その間に、キースはミサイル発射ボタンに指を伸ばして、それに触れる前に口を開いた。
「最後にもう一度聞く……戻ってくる気は、ないんだな?」
『うん……僕はもう、あそこには戻らない』
「なら……さよならだ」
 そう言って、キースはボタンを押した。前を行く船めがけて、ミサイルが飛んでいく。そしてやがて、宇宙に爆発の白い光が広がった。それを見ながら、二度と触れることのできないぬくもりを思い返して、キースは一人涙を流した。
「……ジョミー……」



◇ ◇ ◇



 練習艇にミサイルが当たる直前の瞬間を見計らい、ジョミーとシロエをシャングリラの自室へとテレポートさせて、同時に自分も肉体へと戻る。ブルーが目を開けて体を起こすと、広いベッドの上には意識を失った二人がぐったりと横たわっているのが見えた。正気を失っていたシロエは、練習艇に乗り込む前にブルーが気絶させてとりあえず精神を休めてやっているから、意識がないのは当たり前だ。けれど、つい先ほどまで起きていたジョミーの意識がないのは、キース・アニアンという男に殺されそうになったことがよほどショックだったからなのだろう。
 そう思うと、ブルーの胸はちくりと痛みに襲われる。
(もっと早く迎えに行くことができればよかった……)
 ジョミーはちゃんとブルーを選んでくれたけれど、四年前までとは違って、ジョミーにとって大切なものはブルーだけではなくなってしまった。それが寂しくて悲しい。
 ブルーは、ジョミーとシロエを起こさないようにゆっくりとベッドの上を移動すると、そっとジョミーの頬に触れた。
「……温かい……」
 触れている頬から、温かなぬくもりが伝わってくる。たったそれだけのことにさえ、ブルーは感動して心を震わせた。ジョミーと生身で会うのは、これが初めてだったからだ。
 ブルーがジョミーを見つけたのは、ジョミーがまだ小さな子どもだったころのことだった。
 約五十年前にブルーは、マザー・イライザの手の内から一人の少女をさらってきて、ミュウの女神として崇めた。彼女は無垢なる者――成人検査の年になるまで人口胎内で過ごし、両親や友人や教師によって情緒を曲げられることなく育った地球の指導者候補だった。彼女が身のうちに抱く美しい地球のイメージを、ブルーは愛し崇めた。その彼女の遺伝子を使って、マザー・イライザが次の無垢なる者を作って育てているという情報を、あるときブルーは得た。
 女神――フィシスの遺伝子上の子供。ブルーは興味を抱いて、かつてフィシスが育てられていた教育ステーションE-1077を訪れた。そしてブルーはそこでジョミーを見つけた。その瞬間、ブルーを襲ったのは泣きたくなるほどの歓喜だった。理屈も何も関係なく、その金色の子どもの姿を見たとき、魂が震えるのを感じた。今すぐにシャングリラに連れ帰ってしまいたいとブルーは思ったけれど、かつてフィシスを連れ出したことで警戒レベルが格段に上がったこの場所から、人一人を連れ出すのはどうしても無理だった。だからブルーは、暇があれば思念体となりジョミーを訪れて、ジョミーのことを眺めた。やがて眺めているだけでは耐え切れなくなって、話しかけて会話をするようになった。そして、ジョミーがとうとう十四歳になろうとしたときに、ブルーはある決断を下した。ここからジョミーを連れ出すことはできない。それならば、ステーションでの教育が終わった後、職場へと向かうための船から連れ出せばいいのだと。けれどジョミーはミュウで、それが発覚すれば処分されてしまうことは明らかだった。だからブルーは、ある言葉でジョミーに暗示をかけた。ブルーのことも、ブルーが教えた様々な知識も、自分がミュウであるということも全て、鍵をかけて心の奥底にしまいこんでおくようにと、全てを忘れているようにという暗示をかけた。それは、途中までは上手くいっていた。けれど同じミュウであり、しかも過去で思念体のジョミーに接触しているシロエと出会ってしまったことで、その暗示にほころびができてしまった。そのまま放っておけば、いつ暗示が解けてしまうか分からない。だからブルーはジョミーを迎えに行くために、シャングリラをステーションの近くまで寄せて精神攻撃を行い、機械が停止した隙を見計らってジョミーと、そしてシロエを宇宙へと連れ出すことに成功した。そのまま二人が乗る練習艇をシャングリラの中に収容しようとしたのに、キース・アニアンという邪魔が入った。
 けれどそれも、結果として考えれば良かったのかもしれない。殺されそうになったことで、ジョミーとキースの間には深い溝ができたのだから。
「君が特別に思うのは、僕だけでいい……ジョミー……」
 初めて見たときから、誰よりもブルーの心を縛り付けている愛しい金色。ブルーの太陽。その存在が今、ブルーの手の中にある。どれだけこの日を夢見てきたことだろう。どれだけこの日を待ち望んだことだろう。
「やっと……手に入れた……」
 ジョミーの華奢な体を腕に抱いて、ブルーはうっとりと微笑んだ。

●完結●


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