りーぴ2 08

 それから数分後、一番に泣き止んだトォニィは不本意なことに、ジョミーの意識の範囲外に追いやられていた。まだ泣いているアルテラやタキオンたちがこぞってジョミーに抱きついているせいである。もう泣き止んだトォニィより彼らの方が優先されるのは当然のことだった。
 しかしそうだとしても、それがトォニィにとって面白いわけがなかった。こんなとき、普段なら選ぶ道は二つある。
 一つ目は、ジョミーがすぐに気付いてかまってくれるのを承知の上ですねてわざとらしくむくれてみせる。そんなあざといことを考えているのを知られれば子供らしくないと言われるかもしれないが、小さな子供が皆純粋だなんて考えは単なる幻想に過ぎない。少なくとも、年齢的にも外見的にも十分小さな子供に分類されるトォニィ自身はそう思っていた。だってトォニィは、ジョミーのためならどんなことだってしてみせると――例えばジョミーを傷つける者がいればそいつを殺すことだって辞さないとまで思っている。そんなことを言ったらジョミーが怒ることが分かっているから――そしてそれ以上に悲しむことが分かっているから、口に出すことはないけれど。
 トォニィが一番好きなのはジョミーで、嫌いなのはジョミーを傷つける奴ら。一番怖いのはジョミーに嫌われることで、一番欲しいのはジョミーの心だった。
 ジョミーの意識を自分に向けるためなら、あざといとか子供らしくないとかそんなくだらないことを気にするわけがない。けれど他の子供が泣き喚いている今は、トォニィがすねてむくれていても後回しにされるだけだと分かっているから、一つ目の手段を取ることは無意味だった。
 二つ目の手段は、他の子供を押しのけてジョミーに抱きつきに行くということ。しかし、アルテラたちと喧嘩をしたせいでジョミーに叱られた数時間前の記憶が未だ生々しく脳内に残っている今は、どうしてもそんなことをする気にはなれなかった。いや、それをして再びジョミーに叱られるのが怖くてできないと言うべきか。
 先に述べた通り、トォニィが一番怖いのはジョミーに嫌われることだ。その証拠に、つい先刻叱責されたときに浴びせられた冷たい視線を思い出すだけで涙が出そうになるほど悲しくて怖い。
 だから今はこうやって、アルテラたちに占領されているジョミーの姿を少しはなれたところから見ていることしかできない。平時なら、トォニィが見つめていればすぐに気付いてくれるはずなのに、他の子供を慰めるのに精一杯のジョミーは予想通り全く気付いてくれない。
 トォニィは唇を噛み締めて、アルテラたちを睨み付けた。
(……何だよ……)
 再び叱られるのは怖いからこうやって大人しくしているけれど、だからと言って大好きな人を他の者に取られる苛立ちが消えるわけではない。
(……僕の……)
「『僕のグラン・マなのに』」
 思考が全て形になる前に思っていたことを言われて、トォニィはその声のした方向に慌てて顔を向ける。そうすると、斜め後ろ一メートルほど離れた壁際で、壁にもたれかかりながら腕を組んで立っている少年の姿が目に入った。
 そしてそれがシロエだと気付いた瞬間、トォニィはこれ以上ないほど不機嫌な顔になってその少年を睨み付けた。
 トォニィはシロエのことが嫌いだった。トォニィが嫌っている大人はたくさんいる。ジョミーのことを苛めているミュウのことは全員嫌いで、大多数の嫌いな大人はその中に位置している。けれどシロエはそれとは違って、ジョミーを嫌っているわけではなくてむしろとても好いている。そしてジョミーもまたシロエに好感を持っていて、シロエのことを信頼しているという事実があるからこそ、トォニィはシロエのことが大嫌いだった。
 ジョミーはトォニィのことを他の誰よりもかわいがってくれているけれど、トォニィのことを信頼してくれているわけではない。まだトォニィは幼い子供なのだからそれは仕方のないことなのかもしれない。それでもジョミーのことを大好きなトォニィにとってみれば、仕方がないの一言で済ませられるような些末なことではなかった。
 トォニィはあからさまな反感を瞳に込めて睨みつけるが、それを受けたシロエは特に気にする様子も見せずあっさりと肩をすくめて言った。
「別に、思考を読んだわけじゃない。そんなことをしなくても、お前が考えていることぐらい簡単に分かるさ」
 トォニィはそれまで以上の不愉快を感じてさらに顔を歪めた。
 思っていたことを口に出されて思考を読まれたのかと疑っているわけではないことぐらい、シャングリラの中で一番と言えるぐらい頭の切れるこの少年には分かりきっているだろうに、分かっていて先のように答える図太さも嫌いだ。
 感情のままの顔と視線をシロエに向けていると、シロエは呆れたような視線を返してくる。
「お前は本当に子供だな。あの人は確かにお前のグラン・マかもしれないけれど、お前のものであるわけじゃない」
 言葉は違うけれど、似たようなことをつい数時間前タキオンに言われたばかりだ。あのときは『お嫁さんになってくれる』という約束を根拠に持ち出して自分のものだということを言ったけれど、ジョミーはそれを肯定してはくれなかった。思い返してみれば確かに考えてみてもいいとは言われても確約をくれたわけではなかったのだからジョミーの言い分は正しいのだが、だからと言ってそれを認められるかどうかと問われれば、答えは否だった。
「……グラン・マは僕のだもん」
 数時間前ほどの勢いはなかったけれど、トォニィはシロエに向かってそう言った。
 子供特有の傲慢さが、そこにはあった。すなわち、ジョミーはトォニィのことをものすごく大切にしてくれているから、トォニィが頼めばお嫁さんにだってなってくれるのだという甘えが。
 トォニィの言葉からその甘えを読み取ったのだろう、シロエはわずかばかり不愉快そうに瞳を細めて口を開いた。
「ふざけたことを」
「ふざけてなんかないっ」
「……お前、自分がソルジャーブルーに敵うとでも思っているのか?」
 ”ソルジャーブルー”という単語のところでさらに嫌そうに顔をしかめながら、シロエが言う。
 トォニィはそんなシロエのことを強く睨み付けた。
「ソルジャーブルーなんて関係ない!ジョミーのことを放ってずっと眠り続けている年寄りなんか知るもんか!」
 その言葉を聞いてシロエは複雑な表情になると、トォニィの瞳から視線を外して小さなため息を吐いた。
「……子供だね」
「なっ……!」
 先ほどから子供子供と連呼されていたトォニィの沸点は、そろそろ近づいてきていた。そもそも、子供の沸点なんてものはひどく低い位置にあるものであるのだ。しかも『グラン・マをお嫁さんにする』という未来のために早く大人になりたいと思っているトォニィにとって、子供という言葉は禁句に近い。それも、あからさまに子供見下したような感を含んだ言葉ならなおさらだ。
 トォニィが怒りに顔を染めて奥歯を噛み締めていると、シロエはどこか遠い目をして、まだ泣き止む様子を見せないアルテラたちを必死になってなだめているジョミーを見て、ぽつりと言う。
「……初めてソルジャーブルーのことを知ったとき、僕もお前みたいにソルジャーブルーなんて関係ないって……そう思えるぐらい無鉄砲な子供ならよかった……」
 シロエが何を言いたいのか分からなくて、トォニィがいぶかしむような視線を向けていると、彼はすぐに常の不敵な面構えに戻ってトォニィにちらりと視線を寄越す。
「……馬鹿は得だねってことさ」
「僕は馬鹿じゃない!」
「誰もお前が馬鹿だなんて言っていないけど?」
「っ……」
「それに、馬鹿が悪いとも言っていない」
 今はね、という注釈を小さく付け加えてシロエは壁にもたれるのをやめてまっすぐ立つと、ゆっくりとトォニィの方に歩み寄ってくる。シロエは決して身長が高い方ではないけれど、それでも現在三歳のトォニィと比べてみれば格段に大きい。自然、目を合わせようとすれば首の角度は大変なことになる。シロエはそんなトォニィの頭に手をやって、ふわふわの髪の毛にくしゃりと触れて無理やり下を向けさせる。
「触るな!」
 トォニィはシロエの手を振り払おうと精一杯暴れるが、体格が違いすぎてそれは傍から見ると、抵抗と呼べるようなものにはなっていなかった。それでも諦めずにじたばた暴れていると、上から小さな声が降ってくる。
「……ジョミーを苦しめ続けているソルジャーブルーよりは、お前の方がまだマシな気がするよ……まあ、精々がんばるんだね」
 その直後、頭を押さえつけていた手が外される。急いで体勢を整えてシロエを睨み付けるが、シロエは振り返ることなく歩いていって、やがて角のところで曲がって姿を消してしまった。
「……何なんだよ、あいつ……」
 トォニィはむすっとしたような困ったような顔をして、ぽつりとつぶやいた。
 しかしそれを打ち消すように、数メートルほど離れたところからわあっと喜びを含んだ幼子特有の高い声が上がる。突然のことに驚いて目を向けると、それまで泣いていたはずのアルテラたちがすっかり泣き止んでうれしそうに笑いながら、子供たちとは裏腹に困ったようなあるいは悔いるような顔をしてがっくりとうなだれているジョミーの周りを跳ね回っている光景があった。
 いったい何事かとトォニィが呆気に取られていると、うなだれていたジョミーが顔を上げる。ジョミーは何かを探すように視線をめぐらせて、やがてトォニィを見つけると少し困ったように笑ってから手招きをする。
「おいで」
 呼ばれてうれしくないわけがないから、トォニィはすぐにその場を走り出してジョミーに飛びついた。直後、馴染んだ仕草で頭を撫でてくる手のひらの感触に表情を緩めていると、訳の分からない会話が開始される。
「全員一気に連れて行くことはできないから、一人ずつだよ。それで、まずはトォニィからな」
「えーっ?」
「いつもトォニィばっかりひいきして、ずるい!」
「約束したのは僕たちなのに!」
「仲間外れは駄目だろ。それに連れて行く順番はお前たちに任せると絶対もめそうだから、僕が決める。年の順で決定。あと、コブとペスとツェーレンは最低立って歩けるようになるまでは駄目」
 とたん、コブたち三人の言葉になっていない抗議の声が上がる。
「駄目なものは駄目だ。この条件が不服なら連れて行かない。外はお前たちが思っているよりずっと危ないんだから」
「外?」
 苦虫を潰したような顔をしているジョミーを見上げて、トォニィはぱちくりとオレンジ色の瞳を瞬かせた。



◇ ◇ ◇



 それから十数日が経つと、今度は日常品の買い物をするために外へ行く日がやって来た。
 数年前から買い物はジョミーが一人で行くか、ジョミーとシロエが一緒に行ってそれぞれ買うものを分担するということを続けている。今回もその予定だった。が、今回はシロエだけではなくて、おまけがついてくる。
 食堂の端でシロエと紅茶を飲みながら、どちらが何を買うかということを話し合いながら決めている席で、そのおまけのことを思い出したジョミーはカップをテーブルに置いて小さなため息を漏らした。そうやって憂慮を隠そうとしないでいると――と言うよりはむしろ隠すことを忘れていると、向かいに座っているシロエが呆れたような顔で話しかけてくる。
「そんなに嫌なら駄目だって言えば良かったじゃないですか」
「……それができれば苦労しないよ……だって駄目って言ったら、わざとかって思うぐらい全員がそろってそれまでよりも激しく泣き出すんだ……」
 そう返したジョミーは、十数日前のことを思い出して深いため息を吐いた。
 喧嘩にサイオンを使おうとしたトォニィを叱り付けたあの日、一緒に昼寝していたところを抜け出して外へと行って戻ってきたところ、ジョミーがいない間に起きてしまったらしい子供たちは、ジョミーがいなかった理由を嫌われたからだと思ったようで散々に泣いていた。
 事情を説明するとトォニィは割とすぐに泣き止んでくれたのだが、他の子供たちはなだめてもすかしても泣き止んでくれなかった。どうしたものかとジョミーが困りきっているとタキオンが、分かりやすく要約すると『今度外に行くとき、一緒に連れて行って欲しい』というようなこと言い出した。どうも、眠っている間に置いていかれたという事実が相当堪えたらしくそんなことを言い出したようだ――とジョミーは考えているが、子供の考えることは割と突拍子もないことが多いのでもしかしたら違うのかもしれない。
 しかしそれはともかくとして、タキオンの言葉に便乗するように他の子供たちが自分も自分もと言い始めたから大変だった。最初はジョミーも厳しい顔で駄目だと断っていたのだが、そう言うと先ほど述べたとおり皆がそろってそれまで以上に激しく泣き喚くのだから、結局ジョミーの方が折れずにはいられなかったのである。
「……半分ぐらいは嘘泣きも混ざってるとは分かっているんだけど……どうも泣いている子供には勝てなくて……」
「貴方は甘いですからね」
 世間一般的にも割と普遍的な考えを甘いとすっぱり一刀両断されて、けれどミュウにとって外の危険性がどれだけ高いかということを考えるとシロエの言うことは正しすぎるぐらい正しいということは明らかなので、ジョミーは反論することなく肩を落とした。
 全員一気に連れて行くのは危険が過ぎるので、一人ずつ。連れて行くのは年長順。最低一人で歩けるようになってから。といくつか条件を付けてはみたが、だからと言って危険なことに代わりはない。大人のミュウにとっても外は危険なのだから、子供にとってはなおさらである。
 十数日前に交わした約束を本気で後悔していると、右斜め後ろ少し離れたところから、ニナとカリナの声が聞こえてきた。
「おはよう、ジョミー、シロエ」
「おはようございます」
「ああ、おはよう……座る?」
 振り向いて二人の姿を見つけた後、誰も座っていない隣の席に目をやり再び彼女たちに視線を戻して問いかけるが、二人は首を横に振る。
「ううん、それより……」
「ねえシロエ、ちょっとジョミーを借りてもいいかしら?三十分もかからないから」
「別にかまわないけど」
「本当?ありがとう」
「じゃ、ジョミー、あたしたちの部屋に行きましょう!」
「え、あれ、僕の意見は……?」
 本人の意見を丸っきり無視して進められる会話に、ジョミーは思わず異議を唱えるが誰も聞いてなどくれない。何だか情けなくなって、ジョミーはこっそりため息を吐いた。


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