カリナが妊娠したという事実は、多大なる衝撃とともに、ミュウたちの間に瞬く間に広がった。当然だった。シャングリラの中では、赤ん坊ができることなんてないはずだったのだから。
新しい命の芽吹きを、ミュウたちの全てがまるで我がことのように喜び祝福した。同時に、どうしてカリナだけが子を宿すことができたのかどうか、周囲の者はこぞって尋ねた。医者であるノルディやナースたちは職務上の都合と興味から、恋人たちは自分にも子供をと望んでいるのか、特に瞳に熱を込めて。
そしてそう尋ねられるたびに、カリナはふわりと優しい笑顔を浮かべて一言「ジョミーのおかげなんです」と告げた。ジョミーが祝福をくれたから、この腹に子供が宿ったのだと。それは普通なら納得できるような理由ではなかっただろうが、ジョミーはシャングリラの中で唯一新しい命を作り出すことのできる、他とは一線を画した異質のミュウだった。ジョミーの祝福があって子供が宿ったというカリナの言葉は、意外なほどの真実味を持ってミュウたちの心に浸透した……らしい。
大事な用でもなければ絶対に近づいてこないミュウたち――自分にも子供をと望む恋人たちや好奇心に駆られた若者たちが、カリナの話を聞いたとたんジョミーのところにやって来るぐらいには。
◇ ◇ ◇
「なあ、祝福って具体的に何をしたんだ?」
「私たちにも、赤ん坊ができるよう祝福してくれないかしら?」
「俺たちにも頼む!」
カリナの妊娠を知った次の日、作物品種改良の手伝いが予想外に早く終わったので、ジョミーは食堂の端で、ニナやマヒルやヨギといった十年前に子供だった世代と、ここ十年の間でジョミーが新しく連れてきたミュウの子供たちと一緒にゆっくりとティータイムを楽しんでいた。ミュウの食事は植物エネルギーだが、普通の食事が食べられないわけではない。食べれば人間と同じように腹もふくれる。ただそれが生きるための活力にならないだけなので、純粋に味を楽しむためにおかしなどを食べるのはシャングリラの中では日常茶飯事だ。
そこへ突然大量のミュウに押しかけられて口々にそんなことを言われたジョミーは、いったい何事かと思って目を白黒させた。ちなみに、シャングリラ内初めての妊婦であるカリナは医務室でノルディや他のミュウたちからの問いに答えているところで、ユウイはそのカリナについているのでこの場にはいない。
しかし、何がどうしてこんな事態になったのか、彼らが口々に言ってくる言葉から深く考えるまでもなくすぐに分かった。
(全く……あれが原因じゃないかもしれないって言っているのに……)
困ったものだとジョミーは小さくため息を吐く。肩に乗ってクッキーの欠片をかじっていたなきネズミが、きょとんとした様子で首を傾げた。
確かにジョミーはカリナとユウイの二人に祝福を与えたし、それから数ヶ月経った今カリナは妊娠したのだが、彼女が妊娠したのがジョミーの祝福があったからとは限らない。カリナはジョミーのおかげだといって譲らないものの、ジョミーにはそれが自分の功だという実感はまるでなかった。ただ自分は祈っただけで、新しい命を身に宿しているのが他人だということがその理由なのかもしれない。
(僕の祝福なんかで本当に子供ができるなら、それぐらいいくらでもやるんだけど……何だかまだ、信じられないんだよな……)
さてどうしたものかとジョミーが思っていると、突然隣からバンッと机を叩く音が聞こえてきて、驚いてそちらに目を向けると、机に手を突いて立ち上がり怒りに震えているニナの姿が映る。
「……さっきから黙って聞いてれば、何よ、自分勝手なことばっかり!」
「なっ……」
「勝手って何だよ?」
ジョミーを取り囲んでいたミュウたちは次々に反論の声を上げたが、ニナにぎろりと睨まれるとぴたりと黙り込んだ。
「ジョミーのこと、普段は腫れ物を扱うみたいに接したりしてるくせに、こんなときには都合よく頼るのね。最低!」
「最低」
「最低」
手をつないだまま双子のヨギとマヒルが、ニナの言葉を反復する。怒りを露にしたニナの挑発的な言葉を聞いたときにはムッとしたような顔になっていたミュウたちも、何を考えているのか良く分からない表情をしたままのヨギとマヒルの言葉には、打って変わって怯んだように息を呑む。そんな彼らのことを、ジョミーとテーブルを囲んでお茶をしていた他の者たちも、険しい顔をして見据えている。十年前に幼かった者も、ここ十年でシャングリラに連れて来られた子供たちも、ジョミーのことを心から慕っているのでその反応は当然だった。
「まあまあ、ニナ、マヒルにヨギも……えーと、ほら、とりあえずお茶でも飲んで落ち着いて……」
ジョミーは何とかしてこの場を治めようと口を開くが、今度は向かいの席からぴしゃりと冷めた声が飛んでくる。
「そこの三人の言うとおり、確かに最低ですよね」
(今度は君か、シロエー!)
ジョミーは頭を抱えたくなった。
シロエは、六年前にジョミーがシャングリラに連れてきたミュウだ。ミュウだと発覚して殺されそうになっていたところを、ジョミーが助けた。そのとき彼はもう十四歳――つまりはジョミーと同じ年だったが、ジョミーとは違って自分の異質をはっきりと理解していた子だったので、ここに連れてこられた当初のジョミーほど周囲の大人たちから反感を買うことはなかった。ただしそれには、最初のうちだけはという注釈がつく。
シロエは同年齢の者や年下受けはかなり良い。しかし、年を取っているというだけの理由で大人を敬ったりすることがなかったし、それどころか度々人を食ったような発言をするので、ジョミーとはまた違った意味で大人のミュウからは敬遠されていた。しかも言い方がイチイチ生意気でも言っていることは正論で言い返す余地がなく、頭脳明晰で、十四歳のときに成長を止めたので幼げな外見をしているが整った顔立ちをしていて、サイオンパワーはタイプブルーほど強力でなくてもそれに次ぐ力を持つタイプイエローの中ではトップクラスの力の持ち主――つまりは生意気で嫌味であるということ以外非の打ち所のない存在であるということが、さらに反感を買う原因になっているらしい。
命を助けられたジョミーに対しては、素直でいい子なのであまり困らせられるようなことは基本的にない。ないのだが……ジョミーを慕うあまり、シロエはたまに暴走する。
「し、シロエ……君もとりあえず落ち着いてお茶でも……」
「僕はいつでも落ち着いてますよ、ジョミー。ご心配なく」
引きつった顔でシロエに茶を勧めるジョミーにはにっこり笑顔を向ける。そのくせ、少女じみた愛らしいその顔を大人のミュウたちに向けたとき、とたんシロエは笑顔を消して人を馬鹿にするような顔になるのだった。
「人に頼みごとをするのにその態度ですか。貴方たち、自分を何様だと思っているんです?この六年、僕はずっと思っていたんですが、ジョミーの力を借りたいと思うのなら、今までのジョミーに対する態度を誠心誠意謝るのがまずすべきことではないんですか?ねえ、そうは思いませんか?それとも貴方たちはそんな簡単なことも思いつかないほど低脳でいらっしゃると?ああ、それなら納得です。自分たちだけじゃ力が足りないから仕方なくジョミーに頼るほど無力で、頼るくせにジョミーに対する態度を全く改善しようとしない恥知らず、というのも加えた方がいいですかねぇ。低脳で無力で恥知らず……全く救いようがないほど愚かしいですね。これだから無駄に年を食っただけの馬鹿は困るんです。程度が低いにも程がある」
そう言って、シロエは最後に鼻で笑った。
そんな態度に、周囲のミュウたちは顔を真っ赤にして憤っているし、ニナや子供たちはシロエに賞賛の目を向けている。ついでにジョミーはうなだれて頭を抱えていて、なきネズミはその肩から落ちる前にテーブルの上へと避難していた。
(ああああ……シロエ……君って子は……どうしてそうわざわざ喧嘩を売るような言葉を選ぶんだ!)
ジョミーのことを慕ってくれているから、シロエは大人のミュウのほとんどを嫌っているのだと知っているが、だからと言ってここまで挑発的な言葉を言う必要はないだろうと思うのは決してジョミーだけではないはずだ。
「てめぇっ……シロエ、黙って聞いてればいい気になりやがって!」
一人の若いミュウが堪え切れなくなったように怒声を上げるが、シロエは人を馬鹿にしたような表情を崩さないまま器用に片眉だけを上げて言う。
「おや?では僕が言ったこと、どこか間違っていますか?」
「ぐっ……」
「間違っていないでしょう?低脳だとか恥知らずとか馬鹿だとか、自分はそうじゃないと主張したいのなら、僕に文句なんか言うよりも先にやることがあるんじゃないですか?」
「先にやることがあるんじゃないですか?」
「あるんじゃないですか?先にやることが」
ヨギとマヒルがまた、今度はシロエの言葉尻を反復して周囲の大人たちをまっすぐな目で見上げている。ヨギとマヒルに限らず、テーブルについていた子供たちもニナたちも、何を言うわけでもなくただ大人たちを見つめている。
それらの目に、大人たちはうっと怯んだような顔になって、皆逃れるようにうつむいた。しばらくの間静寂が続いたが、やがて先ほどシロエに怒鳴りつけた若者――ジョミーの記憶が正しいなら確か彼はキムという名前だった――がぽつりと口を開く。
「……悪かった……」
それを皮切りに、他のミュウたちも次々に謝罪の言葉を口にする。
「俺も悪かった」
「……私も、今までごめんなさい」
「……ごめん……」
「これまですみませんでした……」
ジョミーは目の前の事態が信じられなくて、呆然とした表情になる。
そんなジョミーを見て、キムはぶっきらぼうに続ける。
「ソルジャーブルーのことは、正直まだ許せないけど……力を貸してもらってるのにあの態度はいけないだろうってことは分かってた。でも、一度ひどく責めた手前、謝るなんてできなくて……本当に悪かった」
「え、いや、そんな……君が……君たちが謝ることなんて……」
真摯な態度で謝られて、ジョミーは思わずうろたえた。だって、悪いのはジョミーなのだ。ジョミーのせいでブルーは目覚めない。だから、彼らの態度に傷つきはしても、ジョミーはそれを当然のものなのだと思っていた。
周囲の態度に憤っていたのはジョミー本人よりもむしろ、ジョミーのことを好いていた子供たちだった。
なので今もうろたえるジョミーを置いて、シロエにヨギにマヒル、ニナ以下諸々の子供たちは不満そうな顔をしている。
「そんな言葉だけで許されると思っているんですか?」
「思っているんですか?」
「思っているんですか?」
「シロエの言うとおりよ!」
「……あの、別に僕、謝罪の必要性すら感じてなかったんだけど……」
口を挟むジョミーをまるっと無視して、シロエたちは続ける。
「許されたいと思うなら、地面にその薄汚い額を擦り付けて誠心誠意これまでのことを謝罪するんですね」
「これまでのことを謝罪するんですね」
「謝罪するんですねこれまでのことを」
「シロエの案にさんせーい!」
口々にシロエを擁護する年長組と子供たちに、ジョミーはもはや止める気すら起こらず諦めモードに突入していた。
代わりに、声を荒げたのはキムである。
「お前らは黙ってろ!特にシロエ!」
「はっ、口じゃ勝てないと分かっているという自分の身の程を正しく理解していることだけは評価してさしあげますが、だからと言って黙る気なんてさらさらありません。まあ貴方が腹掻っ捌いてジョミーに詫びを入れた後なら口をつぐんであげてもかまいませんよ」
「っ……この野郎……!」
すでに当事者を置いてどんどん変な方向に進行していく事態に、ジョミーは遠い目をしてため息を吐くと、飲みかけだったお茶を口元に運ぶことにした。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
「……ということがあってね……」
明日は買い物に行くので、妊娠のお祝いに何が欲しいかカリナ本人に聞くことにしたジョミーは、彼女の部屋を訪れて話をしているうちに、いつの間にか今日あった出来事について誰から聞いていたのか知らないが知っていたカリナに、詳しい話をせがまれたためありのままを話していた。
「本当に、シロエにも困ったものだよ……どうしてあんな言い方しかできないんだか……僕には素直でいい子なのになあ……」
「ふふ、シロエはここにやって来たときからジョミーにべったりでしたものね。でも、本当に良かった。これで皆とジョミーの仲も、今よりずっと良くなりますよね」
「うん……そうだね」
ジョミーは曖昧に笑った。周囲の態度が刺々しいことに傷ついていたことは事実だから、悪かったと謝罪をもらえた今の状況は確実に良いことだと言えるだろう。けれど、謝罪されなかった方が、刺々しい態度を取られ続けた方が良かったと思う心が少しだけ存在する。誰かに責めてもらわなければ、ブルーが眠り続けるのは自分のせいなのだということを忘れて、起きてくれない責任をブルーに押し付けてしまいそうで、怖かったのだ。
(……ブルーのことは許せないって言われたのが、まだせめてもの救いだろうか……)
傷つけられるのが好きなわけじゃない。けれど、優しくされると自分の罪を忘れてしまいそうになる。そんなことを考えていると、気紛れでいつもどこかへちょろちょろ遊びに行っているくせに、今日は珍しく朝から肩に乗っていたなきネズミが慰めるようにジョミーの頬に体をなすりつけてくる。
(それに、あそこにいたのは比較的若い人たちばかりだったし……年寄りたちはきっと、僕のことを許したりしない……)
長老を筆頭として、長い間ブルーと時を過ごしてきた年寄りたちは、若いミュウたちのようにジョミーに謝罪したりはしないだろう。それに奇妙な安堵を覚えたジョミーは、そんな思考を振り払うように首を横に振ると、突然そんな動きをしたジョミーを驚いたように見つめてくるカリナを見て微笑んだ。
「それより、お祝いに何が欲しい?子供用の絵本とか玩具とか?今までここに赤ん坊っていなかったから、哺乳瓶とかおしゃぶりとかベビーベッドとかもないんだよね?そういうのも買ってきたほうがいいのかな?」
「ジョミーったら、まだ生まれてもいないのに、少し気が早いんじゃないですか?」
「そうかな?」
「そうですよ。それに、貴方からお祝いなんてもらえません。むしろこっちがお礼を言いたいぐらいなんですから。貴方のおかげでこの子はここにいるんですもの。ねえ?」
まだ膨らんでいないお腹に向かって、カリナは優しい声で問いかけている。
ジョミーのおかげという言葉に、ジョミーは困ったように眉根を寄せたが、前のように反論することしなかった。未だに実感は湧かないものの、シャングリラの中でジョミー以外新しい命を作り出すことが出来る者がいない現状を考えてみれば確かに、カリナの妊娠はジョミーの祝福があってのものなのだということは確定的だった。
ジョミーは何となく、ベッドに並んで座っていたカリナの腹に、ゆっくりと手のひらを当てた。
花や植物なんかを新しく作るのとはまるで違う、カリナの胎内でゆっくりと命を育んでいる赤ん坊の存在が、ここにあるのだ。そう思った瞬間、この赤ん坊の存在が、何の理由もなくただひどく愛おしいものに感じられた。それを不思議に思ったけれど、多分きっと、これから生まれてくる小さな命を愛しいと思うことに理由なんていらないのだ。
「……早く生まれておいで」
ジョミーはふわりと笑って、優しい声で言う。
「カリナもユウイも他のミュウたちも……そして僕も、君が生まれてくるのを待っているよ」
――……じょ……ぃ……。
「え?」
誰かの声が聞こえた気がして、ジョミーは顔を上げて周囲を見渡した。不思議そうな顔をしたカリナが問いかけてくる。
「どうかしました、ジョミー?」
「今、何か聞こえなかった?」
「いえ、私は特に何も聞こえませんでしたが……」
「そう……気のせいかな」
ジョミーは納得できないような顔をして、首を傾げた。そんなジョミーの肩の上でなきネズミがじっと、カリナの腹をつぶらな瞳で見つめていた。