いつの間にか、ブルーの手を握ったまま眠ってしまったのだろう。
「何をしておる!?」
目が覚めたのは、そんな剣呑な声が耳に飛び込んできたからだった。思わずばっと飛び起きて、とっさに握り締めていたブルーの手から手を放して振り返ると、蒼の間の扉付近に、長老たち全員の姿があった。
それを見たジョミーはぎくりと体をこわばらせる。長老たちとジョミーの折り合いは、あまりいいものとは言えない。それは、ブルーが眠りについたまま目覚めることのない理由を、ジョミーがただ一言僕のせいだと言って終わらせたせいだった。穏やかな性格のヒルマンは詳しい事情も聞かずにジョミーを責めることを良しとしなかったが、他の四人はその言葉に逆上して散々な言葉でジョミーをなじった。それから十年経った今、姉御肌のブラウや基本的に人のいいハーレイのジョミーに対する態度はずいぶんとマシなものになってきたが、他の二人――特にゼルのジョミーに対する態度は少しも改善されることはなかった。
寝起きの無防備な心には、針のように突き刺さってくる悪意の棘は強すぎて、ジョミーが思わずうつむくと、たしなめるような声をハーレイが上げる。
「老師、それほど声を荒げずとも……」
「何を甘いことを言っておる!ソルジャーはこやつのせいで目覚めんのじゃぞ!?」
「っ……」
ゼルの言葉に、胸を切り裂かれるような痛みを覚えて、これ以上この場にいることが耐え切れなくなったジョミーはとっさに部屋の外へとテレポートしていた。無意識のうちに人のいない場所をと望んでいたのか、やってきたのはシャングリラの一番だった。見慣れた木々の立ち並ぶこの場所は、この十年でひどく見慣れたものとなった。人のいない場所を望んだと言うよりも、落ちこんだときにいつもやってくる場所に、とっさにテレポートしてしまっただけなのだろう。
かつてジョミーが森を模倣して作った世界は、元にした森の終わりを世界の端としていて、しかし端とは言っても木々はまだずっと向こうまで続いているように見える。それなのに何故そこを端と呼んでいるかと言うと、その向こうへ行こうとすると何故か同じ場所へと戻ってきてしまうように出来ているからだった。はっきり言って創造者のジョミーにもこの仕組みがどうなっているのか分からない。しかし今はそんなことについて考えているような余裕はなかったので、ジョミーは一本の木の幹にもたれかかると、膝を抱えて小さくなった。
「分かってる……僕のせいだって、そんなこと……」
(……でもやっぱり、他人に言われるのは……結構キツイな……)
ジョミーは泣きそうに顔を歪めて、目を瞑り唇を噛み締めた。
十年前に取った行動をジョミーがちゃんと説明してさえいれば、これほどまでに長老たちとの仲がこじれることはなかったのかもしれない。けれど、ジョミーのせいでブルーが目を覚まさないのは真実でしかないから、己の行動を正当化するような言い訳を、ジョミーはしたくなかった。
抱えた膝に顔を埋めていると、ふわりと優しい風が髪を揺らす。かつてジョミーが創ったこの世界は、ジョミーの手から離れていた三百年という間に全く別の世界と言っていいほど形も空気も変えてしまったけれど、シャングリラはジョミーが己の母であることを覚えているのだろう。 長老たちの誰も、三百年前ミュウを救ったあの少女がジョミーだということにまるで気付いていない事実に、無機物であるこの世界だけが気付いていることを示すように、ジョミーが落ち込んでいると、こうやって慰めてくれるのだ。その手段は時によって様々で、今のように優しい風を送ったり、周りにある花の蕾をいっせいに満開にしてみたり、木の上から果実や花を降らせてみたりと、ささやかだけれども優しい慰めはジョミーの心を癒してくれた。
今もまた、傷ついた心を少しだけ慰められて、ジョミーが口元にかすかな笑みを浮かべると、その反応を喜ぶように周囲の木々や花々が揺れる。
そのとき、木々の向こうから誰かの声が聞こえてきた。
「……ミー……ジョミー?」
「ジョミー、いるんですか?」
カリナとユウイの声だ。普段ジョミーは心に壁を作って自分の思念が外に漏れないように、そしてまた人の思念が聞こえてこないようにとコントロールしているが、ジョミーの思念は強すぎるためふとした瞬間外に漏れるときがある。通常の精神状態ならそんなこともないのだが、動揺していたりするときは力のコントロールが上手くいかないこともあるのだ。そういったときのジョミーは、思念が外に漏れているせいで近くにいるとすぐに場所の特定ができるらしい。カリナとユウイがジョミーを見つけたのも、多分そのせいだろう。一人になりたいからここを選んだと言うのに、面倒なものだ。とっさに心に壁を作り直すことはしたのだが、さてこれからどうしようかと考える暇もなく、二人は木々の間からジョミーの目の前に姿を現した。
「やあ、カリナ、ユウイ」
ジョミーは作り笑いを顔に浮かべて、立ち上がりながら二人に声をかける。
「二人とも、どうしたんだい?こんなところまで来たりして……」
とたん、ユウイとカリナは真っ赤になってあわあわと焦りだす。
「え、あ、そ、それは……!」
「その、あの……!」
二人して真っ赤になってうろたえている様子を見て、ジョミーはぴんと来たような表情になると、今度こそ嘘ではない本物の笑みを浮かべる。
「そうか。二人は付き合うことになったんだね?」
その言葉と微笑ましいものを見るような視線を受けて、二人はさらにぼっと顔を赤らめて慌てふためいた。ジョミーとしてはからかうつもりなんて皆無だったのだが、もう少し婉曲的に言った方が良かったのだろうか。シャングリラではジョミー以外の誰も新しい命を作り出すことはできない――つまりは子供が生まれることもないわけで、そのせいなのかそうではないのかは知らないがカップル成立率がかなり低い。そのためミュウは総じて恋愛といったものにあまり免疫がないせいで、何というかまあ、初心な者が多いのだ。
しばらくの間あたふたと慌てふためいていた二人だが、やがてカリナの方が赤くなった頬を手のひらで包みながらこくりと頷いた。
それを見たジョミーは、優しく目を細めてカリナとユウイの二人を見上げた。
「それは喜ばしいことだね……君たちも、もうそんなに大きくなったんだな……」
かつてジョミーがシャングリラに連れて来られた初めの日、ジョミーの腰ほどまでしか身長のなかった幼い子供たちは、立派に成長してこんなにも大きくなった。十四歳のまま――もっと正しく言うのならブルーが眠りについたあの日のまま成長を止めてしまったジョミーは、もう見上げないと彼らと視線が合うことはない。ユウイは落ち着いた性格の優しい青年に、カリナは明るくていつも他人に対する気遣いを忘れない女性になった。
十年前のあの日のまま時を止めて、いつまで経っても前へ進むことの出来ないジョミーを置き去りに、他の皆はそれぞれの速度で未来に進んでいる。初めて会った日から、擬似家族として過ごしてきた子供の成長はうれしいものだったが、取り残される自分がひどく惨めに感じられるのも事実だった。
(……ブルー……貴方が眠っている間に、これだけの時が過ぎた……幼かったこの子たちが、こんなにも大きくなるほどの時が……)
ジョミーがブルーを待たせた三百年に比べれば、十年などまるで瞬きのような時間に過ぎないのだろう。けれどこのことは、十年という時間が決して短いものではないことの証だった。幼い子供が大人になるだけの時が過ぎても、ブルーはまだ目を覚まさない。
この十年間、ジョミーだって何もしないでただブルーが目を覚ますのを待っていたわけではない。自分の精神が崩壊する危険を冒して、何度もブルーの心の中にもぐった。ジョミーの命の半分を受け取ることを拒絶して、意識を心の深くまで閉ざしてしまったブルーのことを、どうにかして目覚めさせようとした。けれどいつも、深い眠りに落ちたブルーの意識を捕まえることはできない。いや、あの人の意識に手が届きそうになる直前になると、いつもブルーはジョミーに命の半分を押し返そうとするから、ジョミーはいつもとっさにそこでブルーの心理探索をやめてしまうのだ。
押し返されようとするかつては自らの命だったものを、大人しく受け取ってしまえば、ブルーは目覚めるのかもしれない。そう思って昔一度、ブルーが拒み続けるそれを自らの内に戻そうとしたことがあった。けれど、かつてはジョミーの命の一部だったそれが、ジョミーの中に戻ることはなかった。ミュウ同士の間での生命エネルギーの受け渡しには、双方の強い絆が必要なのだとかつて未来の自分から聞いた。今のジョミーとブルーの間に、果たしてそれがあるだろうかと言われれば、答えは否なのだろう。ブルーが目覚めないことで、ジョミーは素直にブルーの心を信じることができなくなってしまった。だから、ブルーは受け取ることを拒んだものでも、今はもうほとんどブルーの生命となってしまったかつてのジョミーの生命エネルギーを、ジョミーは受け取ることができないのだ。
それは、十年前のあの日には確かに存在した絆はもはや存在しないのだということが、白日の下にさらされた瞬間だった。
ブルーに命の半分を譲り渡したあの日、ブルーはそれを受け取ることを強く拒否していたけれど、ジョミーは幼さゆえの傲慢さで最後にはブルーがわがままを受け入れてくれることを当然と思っていた。一緒に生きたいという願いが、そうまでして拒絶されるものだなんて、幼いジョミーは思いもしなかった。
失われた絆は、その傲慢の代償なのかもしれない。
幸せそうに並ぶカリナとユウイのことを心の底から祝福しようと思うけれど、ブルーがこんな状況になって自分の気持ちがこじれきっている今、幸せな恋人たちの姿を見ることは、少しばかりつらかった。ジョミーがそっと目を伏せると、敏感にもそれに気付いたカリナがとたんに申し訳なさそうな顔になる。
「……すみません……」
「あ……いや……」
ここで何がと問いかけても、白々しいだけだろう。そう判断したジョミーは苦笑を浮かべて言った。
「気にする必要はないよ、カリナ……あの人が眠り続けるのは、僕のせいなんだから」
「そんなわけありません!」
「そうです!」
「……それでも本当に、僕のせいなんだよ」
ジョミーが吐く自虐的な言葉に、必死になって反論するカリナとユウイに向かって、ジョミーは泣きそうな顔でそう言って笑う。真正面からそんな顔を向けられた二人は、怯んだように黙り込んだ。
「でも……ジョミーがソルジャーブルーのことを害しようだなんて、そんなことするわけないって、私もユウイもちゃんと知っています」
「カリナ……」
的を射た発言に、ジョミーはカリナの名を呼んで黙り込んだ。確かに、ジョミーがブルーに害を与えようとした結果、ブルーは眠り続けているわけではない。むしろ、尽きかけた命を延ばすためにした行為の結果、眠り続けているわけなのだから、カリナの言葉は全くその通りだ。けれど、ジョミーのせいでブルーが目を覚まさないというのも、違えようのない事実だ。
「貴方がとても優しい人だってことも、貴方がどれだけソルジャーブルーのことを好きかということも、私たちはちゃんと知っています……貴方が悪いわけじゃありません、ジョミー……目を覚まさないソルジャーが悪いんです……」
十年前幼かった子供たちは、大人たちと違ってソルジャーブルーと大した交流はなかった。だからなのだろう。昔からずっと、子供たちはジョミーの味方だった。他のミュウたちがジョミーのことを責めていた中でも、カリナたちはジョミーをかばい続けてくれた。他のミュウたちの態度も、あれから十年も経った今となっては随分と軟化したものの、一時期は本当にひどかったのだ。そんな中でカリナたちの存在は、ジョミーにとっての救いだった。
「ありがとう……カリナ」
ジョミーは今にも泣きそうな顔で笑うと、おもむろにカリナのことを抱きしめた。
「初めてシャングリラに連れて来られたあの日から、君には救われてばかりだ」
「そんな……私は何も……」
戸惑ったような声を上げるカリナを間近から見上げて、ジョミーは首を横に振った。
「……君はそう言うけれど、本当に感謝しているんだ。こんなことではお返しになんてならないだろうが、僕から君たちにささやかながら祝福を送ろう」
ジョミーはそう言ってからふわりと宙に浮かび上がると、自分のそれよりも少し高い位置にあるカリナの額に、そっと祝福の口付けを送った。
「君とユウイの未来に限りない幸せと……そして希望を……」
その言葉とともに、キラキラと輝く光がカリナとユウイをふわりと包み、二人の体に浸透する。口に出したのは希望という曖昧な表現だったが、この祝福の真の中身は、カリナとユウイの間に新しい命が生まれることを願うものだった。
シャングリラの中で、新しい命を生み出すことができるのはジョミーしかいない。それはジョミーがこの世界の作り手であることに起因しているのかもしれないし、あるいはそうでないのかもしれない。それはともかく、ゆえにこの中で暮らすミュウの恋人たちの間に、子供が生まれることはない。けれどもしかしたら、この世界の中でも新たな命を生み出すことのできるジョミーが言葉にサイオンを込めてこう願えば、赤ん坊もできるのかもしれないとジョミーはふと思ったのだ。きっと、できない可能性の方が大きい。けれど少しでも可能性があるのならばジョミーは、この10年間ずっと味方になってくれたこの子達に、他のミュウたちが決して味わったことのない幸せを与えたいと思った。