「ジョミー」
月明かりの下、湖のほとりに立っていたジョミーはその声にくるりと振り向いて、呆れを隠さない表情で言った。
「……また来たの?」
どうせすぐに飽きて来なくなるだろうと高をくくっていたのに、“ブルー”はここ三週間ほどの間ずっと、同じ時間にこの場所に通っていた。ジョミーの場合は、肉体が他人のものだからなのか疲れや眠気を全く感じないために、こんな夜遅くまで毎日起きていても問題ないのだが、“ブルー”は違うはずだ。それなのに、毎日深夜とも言える時間から明け方までずっとここにいて、ただジョミーと意味もない話をする。正直、何が楽しいのだろうと思わないでもない。
そんなことを思っているが、ジョミーは“ブルー”と会っている時間が嫌いなわけではない。“ブルー”は側にいても邪魔にならないような、穏やかな雰囲気の人間だから一緒にいると落ち着く。けれど、そんなところもブルーと同じだと思ってしまうから、ジョミーはそれが嫌だった。“ブルー”と一緒にいるのは嫌いじゃないけれど、一緒にいるとどうしてもブルーのことを思い出さずにはいられない。そんなつもりは皆無なのに、ふとした瞬間“ブルー”にブルーを重ねてしまう自分がひどく嫌だった。
ジョミーが唇を噛み締めて俯いていると、不意に“ブルー”がジョミーの右腕をそっと手に取った。
「怪我はどう?包帯はまだ取れないのかい?」
「……いや、怪我はもう大丈夫なんだけど……痕が残っちゃったから、包帯は巻いたままにしてるんだ」
これは嘘っぱちだ。体の腐敗を止めることには何とか成功したものの、怪我を塞ぐあるいは治す、または実際治癒することはせずとも最低治したように見せかけるという行為はあまりに細かすぎて、ジョミーの下手な制御の仕方のサイオンではできなかったのだ。だから、包帯の下の皮膚にはまだ穴が開いたままだ。さすがにそれはまずいだろうと思って、包帯を巻いたままにしているのである。けれど“ブルー”は、みっともない痕が残った肌をさらしたくないという年頃の少女らしいもっともな言葉(嘘っぱちだけれど)を疑うことなく納得したように頷いた。
そのままさりげなく“ブルー”の手が腕を滑り落ちて、ジョミーの手に触れる。
「っ……!」
その瞬間、ジョミーは思わず“ブルー”の手を振り払っていた。ブルーはいつも何故か、ジョミーの手を握りたがった。そのことを思い出してしまったせいだった。
「あ……ご、ごめん!つい……」
傷ついたような顔になる“ブルー”を見て、ジョミーは慌てて謝罪するが、“ブルー”は暗い顔のままぽつりと言った。
「君が初めの日に言っていたブルーという人は、そんなに僕に似ているのかい?」
「……?」
“ブルー”が何を思って突然そんなことを聞いてきたのか分からず、ジョミーは困惑に顔を歪めるが、真剣な顔の“ブルー”に押される形で渋々と口を開いた。
「……似てる、よ……声も見た目も名前も貴方と同じ……髪の色と目の色だけが違う……」
「それで、そのブルーと君の間に、何かあった?」
ジョミーはばっと顔を上げて、“ブルー”の顔を凝視する。
「……どうして……」
「君を見ていれば、嫌われているわけではないことぐらいすぐに分かる。でも君は、いつだって僕をどこかで拒絶している。なら、僕じゃなくてそのブルーと何かあったと考える方が自然だろう?……君のその様子を見ると、どうやら間違っているわけではないようだね」
「……“ブルー”は心が読めないのに鋭いんだね……」
「心……?」
「何でもない。気にしないで……そうだね……うん、貴方の言うとおり、何かあったよ」
ジョミーはそう言って、“ブルー”から顔を逸らしてその場に座り込むと、顔を上げて月を見上げた。
「……好きだって……あの人は僕に言ってくれたんだ。パパとママを亡くして一人ぼっちになった僕の、新しい家族になってくれるって言ってくれた……でも、あの人にとって僕は、昔好きだった人の代わりだったみたい……」
「……ジョミー……」
「それを聞いたとき、すごく悲しかった。ブルーなんて大嫌いって言って、あの人のところから飛び出してきちゃった……でも、やっぱり……あのときのことを思い出しても、嫌いって言うより、悲しいって気持ちの方が大きいんだ……」
そう言いながらジョミーがだんだんと俯いていくと、突然“ブルー”に抱きしめられた。
「“ブルー”?」
「……僕じゃ、駄目なのか……?」
「……え……?」
呆然と目を見開くジョミーを、真剣な顔で見据えて“ブルー”は言った。
「僕だって、君のことが好きだ」
「な、にを……」
「僕なら、君を悲しませたりしない。君に、他の誰かを重ねるなんてことをしたりしない……君が、そのブルーのことを好きでも今はかまわない。そのうち絶対、僕の方を振り向かせてみせる。だから……」
“ブルー”は強気な言葉を出す。しかしジョミーの心を揺るがしたのは、それよりも少し前の言葉だった。
「……僕が、ブルーのことを好き……?」
信じられないようにそう呟いたジョミーだったが、自身が呟いたその言葉は意外なほどすんなりと心に浸透した。誰かの代わりにされていると知ったときの、あの胸が張り裂けるような悲しさも、大嫌いだと言ったのにブルーのことを嫌いになりきれないこの心も、ブルーのことを好きだからなのだと考えれば納得できる。
「……そうか……そうだったんだ……」
今頃になって自分の恋心を自覚しているジョミーを、その自覚のきっかけとなってしまった“ブルー”はものすごく複雑な顔をして眺めている。
「……ジョミー」
「ごめん、“ブルー”……僕はあの人のことが好きだから、貴方の気持ちには応えられない……僕みたいなの好きになってくれたのに、ごめんね」
「昔好きだった人の代わりにされたのに……そんなことをされても、君はそいつのことを好きだと言うのかい?」
「うん……好きだよ」
複雑な顔で見つめてくる“ブルー”のことを見つめて、ジョミーはくしゃりと泣きそうに顔を歪めながら笑った。
「馬鹿みたいだよね。あの人は僕のことなんて少しも見てなかったのに……それでもそんなの関係ないんだ。あの人の好きは嘘だったんだから、嫌いになれたらいいと思うのに、どうしても嫌いになれない……あの優しい目は、僕に向けられたものじゃないって分かっているのに、それが嘘だったのだとしても僕は……あの人が好きなんだ」
けれど、今さらそんなことを自覚して、それが何になると言うのだろう。向けられた感情が、本当は自分のためのものじゃなかったと知ってしまった今、ブルーのことを好きだと気付いても悲しいだけだ。シャングリラに戻ってブルーの側にいたいと願っても、その次の瞬間には、誰かの代わりに側に置かれるぐらいなら二度と戻りたくないと思って、気持ちは相反する二極をさまよう。こんな中途半端な気持ちのままでは、どうやったってシャングリラには戻れない。ブルーを見るたびに、誰かの代わりにされたと知ったときの気持ちが甦って、またサイオンを暴走させてしまって周りに迷惑をかけるだけだろう。
(……ブルー……)
瞬きをすると、眦に溜まっていた涙がほろりと頬を伝い落ちる。それを見た“ブルー”は、ジョミーを抱きしめる腕に力を込めた。
「ジョミー……」
「だからごめんね……“ブルー”」
そう言って泣きながら笑って、ジョミーは“ブルー”の胸を押し返そうとする。しかしそれがなされる前に、“ブルー”はさらに腕に力を込めてジョミーのことを抱きしめる。そしておもむろにジョミーの顔に自分の顔を寄せると、ジョミーの頬を流れる涙を舌で拭った。その甘やかな仕草に、照れるより呆けてしまった恋を自覚してもイマイチ情緒発達率の低いジョミーに向かって、彼は何故かふっきれたような顔で笑って言った。
「僕は諦めないよ」
「え?」
「今君が誰のことを好きでも、今後どうなるかは分からないだろう?だから僕は、君のことを諦めない」
「で、でも……」
「誰かの代わりにされたと知っても君が彼のことを嫌いになれないように、君が誰のことを好きでも、僕は君のことが好きなんだ……恋とは理不尽なものだね」
そう言った“ブルー”に切なげな顔で笑いかけられて、何故かジョミーの心臓はどくんと音を立てた。
(な、何で……?僕はブルーのことが好きなのに……)
不可解な動きをする心臓に困惑していると、“ブルー”は長い指でするりとジョミーの頬を撫でて、優しく目を細めて言う。
「今日はもう帰るよ……また明日会おう、ジョミー」
けれど次の日、“ブルー”がこの場所を訪れることはなかった。次の日も、そして次の日も。
◇ ◇ ◇
“ブルー”が来なくなって、もう一週間以上経つ。
湖のほとりに立つジョミーは、ブルーの家がある方角を見つめて、大きなため息を吐いた。
「どうしたのかな……?また明日って言ってたのに……」
昨日は、いい加減心配になって“ブルー”の家までこっそり様子を窺いに行ったのだが、家の中に“ブルー”の気配は感じられなかった。急な用事で出かけているのかもしれないと思ったが、姿を見せなくなって一週間以上も経つのだ。
体が弱いと言っていたから、もしかしたら急に調子が悪くなって入院しているのかもしれないということにふと思い当たるが、だからと言って見舞いに行くほどの仲なのかと聞かれると微妙な関係だ。それにそもそも、本当に入院しているかどうかも定かではないのだから、ジョミーはその思考をすぐに打ち切った。
「ホント、どうしたんだろう……?」
そう言ってため息を吐いて、ジョミーは欠け行く途中の月を見上げた。
「……“ブルー”の髪の色みたい」
ぽつりと呟いて、ジョミーははっとしたように口元を覆った。最近、こんなふうに“ブルー”のことを思い出すことが多い。少し前までは、野苺を見てはブルーの瞳を思い出したりウサギを見てはブルーみたいだと思ってばかりいたのに、“ブルー”に告白された日から、だんだん何かを見ては“ブルー”のことを思うことが多くなってきている。
どうしてだろうと思いながら視線を落として湖面を見て、それが“ブルー”の瞳の色みたいだとやっぱり無意識に“ブルー”のことを思い出していると、不意に強い思念が風に吹かれて駆け抜けていくのを感じた。
「何……?」
ジョミーは顔を上げて怪訝な顔になった。
最初に感じたのは、どうしようもない強い怒り。そして後から感じたのは、受け取ったこちらまで泣きたくなるような悲しみ、そして怯える心。それも個人のものではない。何十人もの思念が固まって、同じ形を成している。憎い、怖い、嫌だ、死にたくない、もうこんなところにいたくない、逃げたい、と耳元で叫ばれているようだ。
何が起こっているかなんて考えている暇はない。これは同胞が――ミュウが助けを求めている声だ。数週間前に助けられなかった小さな女の子のことを思い出したジョミーは、キッと顔を引き締めて厳しい顔になると、思念が聞こえてきた方向へ向かって自身に出せる最大速度で空を飛び始めた。