「とりあえず、シャワーを浴びておいで。その服は、脱いだら脱衣所のゴミ箱に捨てておいてくれ。着替えは君がシャワーを浴びている間に、脱衣所に置いておくから」
「でも、貴方も濡れてるじゃないか!僕は別に後でいいから……」
「気にしなくていい。シャワールームはまだあるから」
さらりと言われた言葉を聞いて、ジョミーは目を丸くする。連れて来られた家がやたら大きかったのを見たときにも思ったのだが、“ブルー”はお金持ちなのだろうか。
表情からジョミーが何を思っているのか読み取ったのか、“ブルー”は水色の瞳を困ったように細めて笑う。
「……お金を持っているのは、僕じゃなくて親だよ」
「それはそうだろうけど……」
ジョミーと同じぐらいの外見年齢をしているくせに、自分が稼いだ金でこんな大きな家を建てることができるとしたら、すごいを通り越してありえない。
「そんなことより、早く温まってくるといい。怪我をしている上に、風邪まで引いたりしたら困るだろう?」
この体は死んでいるので身体活動は止まっているから、いくら冷えても風邪を引くなんてことはありえないだろうが、湖の水なんかじゃなくてちゃんとした水で体を洗いたいと思う気持ちはあったので、ジョミーは促されるままシャワールームに足を踏み入れた。
長い髪に苦戦したり、自分のものとは全く違う細いながらも女らしい体つきをした肉体に思わず感嘆したりしながら、それでも短時間でシャワーを終えてシャワールームを出ると、脱衣所には無地のTシャツとハーフパンツ、そして下着が置かれていた。下着はおそらく“ブルー”の母親か誰かのもので、他のものは多分“ブルー”のものなのだろう。
それらを身に着けてから廊下に出たジョミーは、恐る恐る“ブルー”の名前を呼んだ。
「“ブルー”……?」
するとややもせず、角の向こうから“ブルー”が顔を出して近づいてくる。
「ああ、出たのか。じゃあ手当てをしようか」
その言葉に頷くと、手を取られた。おぼつかない足取りのジョミーを気遣っているのだろう。しばらく歩くと、居間らしきところに着く。ローテーブルの上には救急セットが置かれていて、ジョミーはその側のソファーに座らせられた。
「腕を出して」
「……自分でできるよ」
「ジョミー、利き腕はどっち?」
「……右手デス」
「左手で包帯巻けるの?」
「……やろうと思えばできるよ……きっと」
「そんなのじゃ任せられないね」
“ブルー”はため息を吐くと、ジョミーの右腕をつかんで手当てを始める。これが他人の体だからか、それとも死んで痛覚なんてものがまるで機能しなくなっているせいか、そのどちらでもないのかどちらでもあるのかは分からないが、消毒液を含んだ脱脂綿で傷を拭われている間も薬を塗ったガーゼを当てられたときも包帯を巻かれている間も、痛みはまるで感じなかった。触られているという感覚だけは機能しているが、まるで他人事のようだ。実際、この体は他人のものなのだから、そう思うのは決して間違いではないのだが。
ぼうっとした表情で、手当てしてくれている“ブルー”を見ていると、心配そうな顔をした“ブルー”が視線を上げて問いかけてくる。
「痛くない?」
「全然」
素直に答えただけなのだが、“ブルー”はジョミーが痛みを我慢していると思ったのか、痛ましげな顔になる。
(いや……本当に痛くないんだけど……)
そんなことを思っていると、右腕に包帯を巻き終えた“ブルー”が首を傾げて言った。
「傷は腕だけかな?服の破れ具合を見ると、他にもあると思うんだけど……」
「えーっと、お腹とか足にもあるけど……」
「さすがに女性のそんな場所に触れるわけにもいかないから、その怪我は自分で看てもらえるかい?」
「うん、分かった」
ジョミーが素直に頷いて、そのままべろんと服の裾を捲り上げようとすると、“ブルー”から慌ててストップがかかる。
「っ……ジョミー!」
「何?」
「その……僕は向こうに行っているから、手当てが終わったら呼んでくれ!」
「うん?」
顔を真っ赤にして走り去っていく“ブルー”の背中を見送って、しばらくの間首を傾げていたジョミーだったが、そう言えばとこの肉体が自分本来のものよりずっと女性らしい体つきをしていることを思い出した。年頃の少年の前で、無防備にも服の裾を捲り上げたのは少しばかり刺激が強すぎたのだろう。悪いことをしたなと思いつつ、ジョミーは適当に手当てをしていった。どうせ今さら手当てをしても、この肉体はすでに朽ちていくだけのものなので、どれだけ丁寧に手当てをしても意味がないと分かっているからである。
「“ブルー”、もういいよ?」
救急箱に薬やら包帯の残りやらをしまいながら、ジョミーは“ブルー”に声をかける。まだ少し頬を赤く染めたまま、部屋に入ってくる“ブルー”を見てジョミーは立ち上がり、軽く頭を下げた。
「色々ありがとう。こんな訳分かんない奴に親切にしてくれて、感謝してる」
「いや……これぐらい当然だ」
「でも、ありがとう。……じゃあ、僕はもう行くね」
「え?」
「服は……落ち着いたら返しに来るから、少し貸しておいて欲しい。あ、ちゃんと返しに来るから、それは心配しないで」
とは言っても、それがいつになるかは分からない。ごちゃごちゃになってしまった胸の内を整理して、シャングリラに戻ることができるぐらい落ち着くことができて、自分の着替えを取りに行くことができた後の話になるので、かなり後になってしまうだろうが、返す気持ちがあることは確かなので間違いではない。
「君は自分が怪我人なんだということが分かっているのか?」
「腕以外は自分で手当てしたんだから、当然だろ」
「そうじゃなくて……」
“ブルー” は呆れたようにため息を吐いた。
「……君は僕が拾ったんだ。怪我が治るまでの面倒ぐらい見るよ」
「い、いい!そんなのいらない!」
ジョミーは顔を引きつらせて、ぶんぶんと首を横に振った。死に絶えた骸であるこの肉体についた傷が治る日なんて、来るわけがないからだ。
(って言うか、よく考えてみると怪我云々の問題じゃなくて……何か対策を考えないと、この体腐っていくんじゃ……)
何せ死体だ。ジョミーの思念が中に宿っているとは言っても、肉体自体は紛うことなく死んでいる。何らかの手を打たなければ、肉体の腐敗は止められないだろう。自分が入っている肉体が腐っていく様を想像してしまって、ジョミーは頭から血の気が引くような感覚に襲われた。
それを何と勘違いしたのか、“ブルー”は話を続ける。
「この家に、人がやって来ることは滅多にないから大丈夫だよ」
「いや、そういう問題じゃなくて……!……その、僕だって家に帰らないといけないし……」
苦し紛れにそう嘘を吐いたら、“ブルー”はきょとんと目を見開いて、それから少し寂しそうに目を伏せた。
「……そう、か……そうだね」
「う、うん!その、だからごめん!」
「僕こそすまない……君の都合も考えず、勝手なことを……」
謝る“ブルー”を見て、ジョミーが上手くごまかせたとこっそり安堵して、それじゃあと手を上げて出て行こうとする。すると、突然左腕をつかまれて引き止められた。
「……まだ何か?」
「……その……また、会えるかな?僕は体が弱くて学校にも行ったことがないから……人と接する機会があまりなかったんだ……それで、その……」
すがるような水色の瞳を向けられて、ジョミーはうっと詰まった。正直、ブルーそっくりの彼の姿を見ているのは、現在のジョミーの精神衛生上かなりよろしくない。けれど何故か、拒めなかった。口が勝手に動いていた。
「……あの湖で……今日と同じ時間になら……」
「本当かい!?」
ぱあっと一気に明るい顔になる“ブルー”のことを、何故か直視することができなくて、ジョミーは小さく頷いてからくるりと踵を返して走り出した。
(どうして……僕は……)
彼はブルーじゃないのに、ブルーそっくりの彼の顔が寂しげに歪むところを見たくなんてないと思ってしまった。誰かの身代わりにされていることを知って、ブルーのことなんか大嫌いだと言って飛び出してきたのに、それでもジョミーはブルーのことを嫌いになれないのだ。
そうやって走っているときふと、ジョミーは気付いてしまった。今ジョミーは、“ブルー”に対して同じことをしている。“ブルー”にブルーを重ねて見るという、最悪の行為を。
◇ ◇ ◇
“ブルー”の家から出た後、ジョミーは森に戻った。そして木の上で夜を過ごした。ブルーと“ブルー”のことを考えていると、眠れなかった。だから無理やり思考を転換して、体の状態をこのままにとどめるにはどうしたら良いか、そして傷の具合を自然に塞ぐためにはどうすべきかという割と切迫した問題について考えることにした。
そして少し悩んだ後、腐敗を防ぐにはサイオンで体の時間を止めるという手段を選んで、傷を隠すには見かけだけ通常に見えるよう肌を再生させるということを選んだ。しかしその前に、ブルーやシャングリラにいるその他のミュウに見つからないように、何とか隠れる場所を作らなければならないということに思い至る。ジョミーは力の制御が下手なので、サイオンを使いながらそれを他のミュウに見つからないようにするなんて器用なことはできない。なら、最初から見つからないように、シャングリラのように別空間を作ってしまって、誰かに見つかる前にそこに逃げ込んでしまえばいいのだという結論にたどり着いた。
「シャングリラだってミュウが作ったって言ってたし……僕にだって作れるよね……」
制御はできなくてもパワーはあるジョミーだ。ありったけのサイオンをつぎ込めば、それぐらいはできるだろう、多分。
しかし、中身をどんなものにすればいいかと想像しても、まるで思いつかない。悩んだ挙句、ジョミーは高い木の上から周囲を見渡して、ぽつりと漏らす。
「……この森みたいな感じでいいか」
そしてジョミーは目を瞑ると、シャングリラとこの森とを一度頭の中に思い浮かべて、それを参考にシャングリラともこの森とも別の世界を作るイメージを固める。そしてそのイメージを現実のものとするようサイオンを操った。シャングリラという完成した世界を知っていたためか、その作業は思ったほど難しいものではなくて、失敗することもなく新たな世界は完成する。しかしそのままでは中に入ることはできないので、中へ続く扉を作り出してジョミーはその中に滑り込んだ。
「うん、割といい出来」
外の世界とつながる扉を手の一振りで消して、周囲を見渡したジョミーは満足げに頷いた。
目の前にあるのは、昨日“ブルー”と出会った湖そっくりの湖で、周囲に広がるのもそれを取り囲んでいたのとそっくりな木々だ。上には本物の空そっくりの空が広がっていて、太陽も浮かんでいる。ここを作ったときに、時間軸は元の世界と同じだと無意識的に考えていたようだから、夜には月が昇るのだろう。こんなに大きな空間を作る必要はなかったのだが、参考にした森が大きなものだったので結果的に必要以上に大きなものとなってしまった。
それを見ていると、リオがシャングリラについて説明するときに言っていた言葉を思い出した。
「……影の世界、か……」
元とした森とほとんど変わらないこの世界は、まるであの森の影を写し取ったようだ。シャングリラも元にした場所があって、誰かがジョミーと同じように考えたから影の世界と呼ばれるようになったのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら、ジョミーは湖の近くに立っている木の根元に座り込むと、今度は体の腐敗と傷とをどうにかするため奮闘し始めた。
◇ ◇ ◇
約束したから、その夜ジョミーは自分が作った世界を出て、その世界の原型にした森の湖の傍らにたたずんでいた。そしてちょうど、昨夜湖の中から見上げたのとほとんど同じ高さに月が昇った頃、“ブルー”の声が聞こえた。
「ジョミー!」
その声もやっぱりブルーそっくりだったから、ジョミーは思わずびくりと跳ね上がる。そして、恐る恐る声の聞こえてきた方を振り向くと、“ブルー”のクリームイエローの髪と水色の瞳を確認してから、ほっとして体から力を抜いた。
「本当に来たんだ……“ブルー”」
「だって、約束しただろう?」
むっとしたような顔で言い返してくる“ブルー”に対して、ジョミーは小さく苦笑を漏らした。
それが“ブルー”との、月下の逢瀬の始まりだった。