(……っ……ママ……)
いつの間にか、ブルーの手は口から外されていたが、ジョミーが声を上げることはなかった。むしろ、声を漏らさぬよう唇を噛み締めてさえいる。人前で声を上げて泣くことをよしとするほど、ジョミーは女々しくなれなかったのだ。
先ほどまでの強気な様子とは打って変わって、弱々しく泣いて心の中で母を呼んでいるジョミーを見て、周囲の反応は嫌悪から同情へとぐんと傾いていたが、そんな雰囲気にさえ気付かぬほどジョミーはひたすら悲しんでいる。同様に、ブルーの謝罪や慰めの声も、ジョミーの耳を右から左に通り抜けていっていた。
(……ママ……!)
ジョミーが心の中でひときわ強く母のことを呼んだとき、遠くからパタパタと軽い足音が複数近づいてきた。悲しみに沈んでいるジョミーは全くそのことに気付かなかったが、その間にも複数の足音はこちらへと近づいてくる。やがてそれは、ジョミーのすぐ近くまでやって来て、その中の一人がそっとジョミーの手に触れた。
「……ママ?」
小さな手の感触を感じて見下ろすと、小さな女の子がジョミーの手に触れていた。
「ママってなぁに?」
「っ……!」
思考が読まれたと知ると同時に、ジョミーは思わずその小さな手を振り払ってしまうが、ジョミーの手に触れていた小さな少女を含め、子供たちはいとも無邪気な様子でジョミーに近づいてくる。
(子供……ミュウの子供……?)
自分と同じぐらいの年恰好をした相手になら当り散らすこともできたが、相手は小さな子供だ。ジョミーの中では、自分よりも小さい者は守る対象ではあっても、八つ当たりしたりけんかをしたりする対象ではない。だから、拒絶することもできず戸惑っていると、ジョミーの横にいたブルーがしゃがみこんで一番近くにいた子供の頭を撫でて言った。
「ママとは、全ての人間の始まり。子を産みだすことのできる、偉大なる母のことだ。僕もジョミーも、そして君たちも、ママがいなければこの世に存在することすらできなかったんだよ」
それを聞いた子供たちは、初めてそれを知ったかのように歓声を上げる。しかし、これぐらいの年頃の子供たちなら、普通それぐらいのことを知っているはずだ。ジョミーが不審に思っていると、ブルーが立ち上がり、ジョミーを見つめながら言った。
「ジョミー……君の家族はもういない。そして誰も、彼らの代わりになることはできない。けれど君が望むのなら、僕が君の新しい家族となろう」
「……ブルーが、僕の家族に……?」
「ああ……君の母に負けないぐらい、君のことを愛することを誓うよ。嫌かな?」
まるでプロポーズのような言葉だったが、そこに子供たちが乱入する。
「私!私もジョミーの家族になる!」
「俺も俺もー!!」
「ずるーい!私だってジョミーの家族になる!」
子供たちはそう言って、我先にと争ってジョミーに抱きついてくる。
「うわあっ!」
あまりしっかりと足に力を込めていなかったため、ジョミーは子供たちの勢いに負けて地面に尻もちをついてしまう。子供たちは口々にごめんなさいと謝って、皆一様にしょぼんとした顔でジョミーのことを見つめてくる。それに何だか毒気を抜かれてしまって、涙は気付けば止まっていた。ジョミーは眦に残っていた涙をぐいと拭うと、子供たちに向かってふわりと微笑みかける。
「ありがとう……じゃあ、僕が君たちのママになるのかな?」
そのとたん、子供たちはいっせいに明るい顔になって、これまたいっせいにジョミーに抱きついてくる。
「わっ……もう、こら!!」
地面に押し倒される格好になったジョミーは、そんなことを言いながらも、楽しげに笑いながら子供たちと戯れている。
意図せずして無視されることとなったブルーは、少し寂しげな顔で肩を落としていた。
◇ ◇ ◇
ミュウの子供たちを家族として受け入れることに決めたのならば、君はミュウのことを知らねばならない。ブルーはあの後、そう言った。己をミュウと認めることには未だ抵抗があったが、ブルーが言ったのはただミュウについて知って欲しいということだったので、ジョミーは拒絶することなく無言で頷いた。
そして連れて来られたのは、ブルーの私室だった。皆の間では、蒼の間と呼ばれているらしい。一言で言うならばその部屋は、変な部屋だった。広い床の半分は通路、残り半分のところには水が満ち満ちていて、所々にほのかな青い光源が淡い輝きを放ちながら浮かんでおり、長い通路の一番奥に広い寝台が鎮座している。それ以外には何もないのだ。水と青い光に満ちた空間は、蒼の間と呼ばれるに相応しいものだったが、はなはだ実用的ではないように見える。この部屋で、眠る以外のことをすることがあるのだろうか。
ジョミーは見たこともないほど奇妙なつくりをした部屋を、興味深げにきょろきょろと見渡している。淡く輝く光源をまじまじと観察したり、通路の端に行って、水の深さがどれだけあるのか目測で測っていたりしている。
(ここで泳げたりするのかな?)
底の見えない水をのぞき込みながらジョミーが首をかしげていると、それを見たブルーがくすりと小さな笑みを漏らして言った。
「泳ぎたい?」
「うん」
ジョミーは何も考えず素直に頷いた。頷いてから、はっとしてブルーをにらみつけたのだが、ブルーは困ったように笑って先ほどと同じことを繰り返すばかりだった。
「だから、君の心の声は強すぎて、読もうとせずとも聞こえてくるんだ」
しかし、そんなことを言われても納得できるわけがない。むすりとした表情を崩さないジョミーを見て、ブルーは苦笑して仕方ないなとでも言いたげに肩を落として、ジョミーのすぐ隣にしゃがみこんだ。
「では、説明よりまず先に、心を遮断する方法を教えよう。ジョミー、手を重ねて」
そう言って、ブルーは右の手のひらをジョミーに差し出す。これ以上心を読まれるのは真っ平ごめんだったので、ジョミーはむすりとした顔を崩さないまま、無言でブルーと自分の手のひらを重ね合わせた。すると、するりと指を絡めるようにブルーの手が動く。
「呼吸を合わせて……ドリームワールドのときのように、僕に心をゆだねるんだ……今僕が、君の周囲に思念波を遮断する壁を作った。分かるかい?」
「……分かる」
「これと同じものを、君が自分で作るんだ。心を読まれたくない、強くそう思って……その思いを保ったまま、自分の周りに壁を作るイメージを思い浮かべて……そう、さあできた」
その声に、ジョミーはぱちぱちと瞳を瞬かせた。
「これで……終わり?」
「一応ね。だが、君は目覚めたばかりで力を使うことに慣れていない。気を抜いたり感情を乱したりすれば、その壁はもろく崩れ去るだろう。心を読まれたくないと思うのならば、気をつけたまえ」
「……分かった」
ジョミーは神妙な顔で素直にこくりと頷いた。
「では、本題に入ろうか」
ブルーはそう言って立ち上がると、ジョミーの手のひらと絡め合わせた指をほどいて手をつなぎなおして、部屋の一番奥にある寝台の方へと向かって歩いていく。ジョミーも慌てて立ち上がり、手を引かれるままその後に続いた。歩きながら、ブルーがぽつりと言う。
「ジョミー……君はミュウとは、人間とは全く別の生き物だと思っているね」
「訳の分からない力を使ったり、人の心を読んだりできる奴らが、人間と同じなわけないだろ」
ジョミーは眉根をしかめて答える。それを聞いたブルーはぴたりと足を止めて後ろを振り向くと、ジョミーと目を合わせて、それから少し寂しげに笑って言った。
「君の言うとおり、ミュウとは思念で会話し物を動かす……人間にはない力を持っている。だが、ミュウは人から生まれるのだよ」
「え……?」
予想だにしていなかった言葉に、ジョミーは大きく目を見開いた。ブルーはそんなジョミーを、いつの間にかすぐ近くまで来ていた寝台の端に座らせて、自分もまたその隣に腰を下ろす。
「ミュウは人の中から発生する、突然変異体――つまりミュータントだ。ミュウという種族名は、それに由来する」
「ミュウが、人から……?」
「ミュウがなぜ生まれるのか、それは分からない……一つの可能性としては、肉体的な虚弱を補うために、ミュウとしての力が覚醒するのではないかと言われている。リオが口を利くことができないということは、救出のときに聞かされただろうが……ミュウには概して障害を持つ人間が多い。腕が欠けているもの、目が見えない者、耳の聞こえない者……僕の耳もほとんど機能していないし、虚弱な性質をしている」
第一印象の、サナトリウムにでもいそうだとジョミーが思ったのは、どうやら勘違いではなかったようだ。
「それらを補うための能力ではないかと言われているが……それも定かではない。だが原因など分からずとも、確かに我々の仲間は生まれ続けている」
「……見つかったら……どうなる……?」
「……秘密裏に処分される……ドリームワールドで、君が殺されかけたように」
「っ……!」
生まれて初めて自分に向けられた銃口を思い出して、ジョミーは思わず息を呑んだ。
「ドリームワールドの入り口に、なきネズミの檻があっただろう?あの生き物は、思念波を放つことのできる珍しい動物でね……通常の人間ならば、その思念波を声として聞くことはできない。けれどミュウ因子を持つ人間ならば、なきネズミのテレパシーを受け取って、普通とは違う反応を見せる。檻の前の様子は、隠しカメラで逐一チェックされていて、少しでもおかしな反応を見せた人間は要注意人物としてチェックされることになる。そしてその後、ミュウとしての兆候を明らかに示したと判断された者は……」
後は言わずとも分かるだろうと言いたげな表情で、ブルーは目を瞑り肩をすくめる。
「そんな……そんなの、許されるはずが……」
「ジョミー……悲しいけれど、人は本質的に、己とは異なるものを恐れ嫌い、拒絶するようにできているのだよ」
そう言って、寂しげにブルーは微笑む。
ブルーの言葉の中身には、自分の行動にも思い当たる節があって、ジョミーはぐっと拳を握り締めた。
「ずっと昔から、そうやってミュウは人間によって排除されてきた……しかし三百年前、ミュウの能力を研究してどうにか利用しようと考えた時の政府が、ミュウを一ヶ所に集めてアルタミラに作った研究所に放り込み……非道な実験を繰り返した。頭の中を機械によってのぞき込まれたり、生きたまま体を切り開かれて神経に電流を流されたり……耐え切れなくて、精神が崩壊する仲間は数え切れないぐらいいたよ。そしてあるとき、いい加減そんな扱いに耐え切れなくなった一人が力を爆発させて、研究所を吹き飛ばした。実験なんかしている場合じゃないと判断した政府は、即座にミュウを殺そうと軍隊を動かした。当然、ミュウたちは逃げようとしたのだが……残っていたミュウの半分が、そこで殺された。けれど残りのミュウたちは、影に新しい世界――このシャングリラを作って、そこへ隠れて生き延びた。その出来事は、アルタミラの惨劇と呼ばれている」
「……まるで、見てきたみたいに話すんだな」
「僕もまた、アルタミラの惨劇の体験者だ。ミュウの寿命は、人間のそれよりもずっと長い。こんな若い形をしていても、僕の年はすでに三百歳を越えている」
「三百って……」
ジョミーは驚愕に目を見開いて絶句した。アイドルも真っ青な超絶美少年的外見をしているくせに、三百歳越え。おじいさんとかいう域を通り越して、もはやカラカラのミイラだ、むしろ干物だ。非道な実験とかアタラクシアの悲劇とかいう、良識に照らし合わせてみればちょっと考えられないのでイマイチ現実味が感じられない話よりも、目の前のブルーの年齢の方がジョミーに衝撃を与えた。
上から下までブルーの姿を凝視しているジョミーを置いて、ブルーは再度話を始める。
「古くには、人はミュウのことを吸血鬼――ヴァンパイアと呼んでいたらしいが、人の血液を食事とするような野蛮なことを僕たちはしない。ミュウの食事となるのは、植物のエネルギーだ。動物のエネルギーはどうも体が受け付けないようで、動物や人間からエネルギーを摂取することは不可能だ。シャングリラに草木や花が満ちている理由が、これで分かっただろう?あれは景観を考えて育てられたものではない。全て、僕たちの食事のためにあるのだ」
(食事……)
ほんの少し前に、ブルーの口から同じ言葉を聞いた。ドリームワールドで突然周囲の植物が枯れ始めて、ジョミーがパニック状態に陥っていた際、ジョミーを落ち着けるために言われた言葉の中に含まれていたものだ。
(ミュウは、植物のエネルギーを食べる……?じゃあ、僕は……まさか……)
自分自身で、認めたくない可能性にたどり着いてしまったジョミーは、息をすることも忘れて固まった。
「ジョミー、君がいくら認めたくなくても、君はミュウだ。ドリームワールドで、君は確かに植物からエネルギーを吸収していた」
「……違う……僕は、人間だ……」
ジョミーは否定した。しかしその声に、シャングリラに来たばかりのときのような強さはなかった。自分でも、もうほとんど分かっているのだ。自分が人間ではなくて、ミュウだということが。
「違わない。君はミュウだ」
「っ……」
ブルーの言うことを認めたくなくて、ジョミーは唇を強く噛み締めた。けれど、ドリームワールドで自分が引き起こしたあの現象。あんなことをできる者が、人間なんかであるはずがない。つい先ほど、訳の分からない力を使うミュウが人間と同じであるわけがないと言ったのは、ジョミーだ。その言葉が今、自分自身に返ってくる。
(……僕は……人間じゃなくて、ミュウなんだ……)
それは、十四年間ずっと信じて疑わなかった根本を引っくり返されるのと同じだった。ブルーの話を聞いた今となっては、ミュウのことを訳の分からない化け物だと思っているわけではない。けれどそれでも、ジョミーは十四年間ずっと、自分のことを人間だと思って生きてきたのだ。自分が人間ではなかったなんて、人間として生きてきた14年間を否定されているみたいで、あまりに悲しくて認めたくなかった。
泣きそうになっていると、ブルーに体を引き寄せられて、抱きしめられる。ブルーは何も言わなかったけれど、言葉なんてなくても抱きしめてくれる体温だけで、ジョミーには十分だった。自分より少し体温の低いブルーの胸にすがって、ジョミーは泣いた。