推定XX

 今日は厄日に違いない。
「ねえ、ちょっと付き合ってくれるだけでいいんだって。そしたらぶつかったこと許してあげるからさ、いいだろ?」
 しつこく声をかけてくる男を前に、僕はうんざりとした気持ちを全く押し殺そうとはせず、盛大なため息を吐いた。そう、思えば今日は朝からついていなかった。
 そのことについて語る前に、まず僕自身について語る必要がある。
 僕はもともと、あまり体が強靭にはできていないタイプの人間で、小さいころは一日の半分以上をベッドの中で過ごしていた。けれど、僕が生まれた家は世界をまたにかける大企業を営んでいて、この国でも屈指の大金持ちだった。だから両親は、一般的な家庭に生まれた人間からしてみれば考えられないほどの大枚をはたいて、僕の体を健康にしようと努力した。世界でも名だたる名医を呼んだり、怪しげな民間療法に手を出したり、宗教で神と祀り上げられている人間を呼んだり、と。はっきり言ってそれらのうち何が効いたのかはまるで分からない――と言うか、まともな手段に頼ったのが全体の二割程度しかないのでむしろ分かりたくない――が、とにかく治療の成果あってか、中学に上がる頃からは随分と体も丈夫になって、ほとんど寝込むこともなくなっていたのだ。
 けれど、今朝。目を覚ますと同時に、僕は久々に、生まれてから長年付き合ってきた倦怠感と熱っぽさを感じた。今日は平日だから、もちろん学校がある。しかも今日は、週に一度生徒会で会議のある日なのだ。会議と言っても、何か行事の前後でもない限り、ほとんど雑談のようなことしかしない名ばかりの会議だ。それでも、僕は一応生徒会会長なんて役職についているので、そんな日に学校を休むわけにもいくまい。そう、雑談しかしないような実のない会議以外、切羽詰った登校目的がなくとも。
 そんなわけで僕は、不調を抑えつけるための薬を飲んで登校したのだが、不運は体調を崩したことだけに収まらなかった。
 一応僕は大企業の一人息子というにあるので、学校へは車で送迎されるのが基本だ。というか、シャングリラ学園に通っている学生のほとんどがそうだ。そして僕は今朝もそれに漏れず、いつものように運転手が開いた扉から車に乗り込んだのは良かったのだが、問題はその後に起こった。学校へ到着するまでの道のりの中で、車のタイヤがパンクしたのだ。どうやら、道端に落ちていた釘を踏んでしまったらしい。普通の釘なら、一本や二本踏んでしまってもパンクすることなく走り続けることのできるタイヤなのだが、踏んだのは五寸釘。誰かが丑の刻参りでもしたのだろうか。仕方ないから歩いて学校へ行こうとしたのだが、危険だから駄目だと言われた。結局、タイヤの交換が終わるまでその場を動くことは許されず、僕は学校に遅刻した。体調不良のため欠席はしても、遅刻をしたことはなかったので、初遅刻。しかも自分のせいではないのに、遅刻。何となく、釈然としない気持ちに駆られた。
 学校に着いてからがまたひどかった。自分の教室に向かおうと校舎の脇を歩いていたところ、頭に黒板消しが降ってきた。僕が学校に着いたのが、ショートホームルームの最中でも授業の最中でもなく、ちょうどその合間だったから起こった悲劇だった。一瞬いじめかと思ったが、ただの偶然だった。犯人は、日直の女子。僕が歩いていた場所のちょうど上に当たる教室の窓から、その子が黒板消しを二つ持ってはたいていたところ、うっかり手が滑って一つ落としてしまったらしい。まあ、悪意がないのなら、別にいい。だが、二つだけ言っておきたい。黒板消しをはたくときは、下に人がいないか気をつけてからやってくれ。おかげでチョークまみれになった。それと、黒板消しクリーナーが教室ごとに設置してあるのだから、黒板消しを綺麗にしたいのならそれを使いたまえ。
 その後、僕は保健室に向かった。チョークまみれのままで教室に行くわけにもいかないので、シャワーを借りるためである。保険医の青年は僕の惨状を見ると、快くシャワーの使用許可を与えてくれた。問題は、その後。裸になってシャワーを浴びていた僕が、背後でシャワールームの扉が開くのを感じて振り向くと、そこには目を血走らせた保険医がいた。逃げる間もなく、彼はすぐ近くまで詰め寄ってきて、僕をタイル壁に押し付けた。
 あまり言いたくないのだが、こういったことは初めてではないので、何が起こったのか理解したくなくてもすぐに分かった。僕は病弱だったせいで高校一年生にしては小柄で細く、しかもかなりの女顔というおまけがつくせいで、同じ性別を持つはずの男に襲われるということが何度もあった。それは小さな頃から多々あったことなので、心配した両親は、僕に武術を叩き込むことにしたのだ。もちろん、稽古は体調の良いときに限った。僕は病弱でも決して運動神経が悪いわけではなかったので、幼いころから続けてきた稽古のおかげで、並の相手なら簡単に昏倒させることができるようになっていた。だから今回も、僕の心的外傷以外は何の被害もなく、相手を叩きのめして問題解決と相成った。そう、僕の心的外傷以外は何の被害もなく……たくましくなるべく、ビ○ーズ○ートキャ○プでも始めてみるべきだろうか。本気でそう思って、友人であるフィシスに相談したのだが、彼女に猛反対を受けたので諦めることにした。しかし、反対するにしても、もう少し言葉を選んで欲しかった。貴方の顔でマッチョなんて似合わないにも程があります、立派な公害ですわ、なんて……いくら何でも傷ついた。
 それはともかく、その後も細々とした不幸が降ってかかってきたのだが、それを全て挙げていくと時間がもったいないので、省略して放課後まで時間を飛ばすことにしよう。
 不幸続きの僕は、放課後、ふらふらになりながら生徒会室に向かっていた。今日はもう無駄な話しをしたりせず、会議は手早く終わらせて、早々に家に帰ることにしようと心に決めながら。そして生徒会室の扉を開いた僕の目に飛び込んできたのは、にこやかに微笑んでテーブルについているフィシスの姿だった。他の役員の姿はない。白魚のように繊細な彼女の手には、誰のものかは知らないが、この学園の女子用の制服があった。そこからテーブルに視線を移せば、その上には様々な化粧道具やカツラなどが並べられている。
 いったい何事かと思って、扉を開いた体勢のまま立ち止まっていると、剥かれた。男に襲われたことはあっても女性に襲われたのは初めてだった。いや、そもそも性別を考えれば女性相手が正しいのだが……って違う。フィシスは別に僕を襲おうとしたわけではなくて、単に着替えさせたかっただけだったらしい。
 男子用の制服から、女子用の制服に。
 何も言わずに僕の服を剥いたのは、普通に言っても、女子用の制服になんて着替えてくれるとは思わなかったからだとか。それはそうだ。いくら小柄で細身で女顔と言われようと、僕の性別は男。どうして好き好んで女物の服などに身を包むことがあろうか。女装趣味の変態でもあるまいし。
 けれどフィシスは、僕がさしたる抵抗をしない――母親に叩き込まれた、女性を傷つけるわけにはいかないという無駄なまでのフェミニスト精神のせいである――のをいいことに、あれよあれよという間に僕を女子制服に着替えさせてしまった。挙句に化粧をされ、地毛とは違う色のカツラまで付けられた自分は、はっきり言ってまるで別人のようだった。鏡で見た自分の姿が、まるっきり女性にしか見えなかったのが恨めしい。これはやはり、ビ○ーズ○ートキャ○プをやって体を鍛えるべきだろう。筋肉が付けば女装なんて似合わなくなるに違いない。
 僕がそう決意していると、フィシスはにっこり笑顔を浮かべて、生徒会室から外へ繋がっている秘密の通路に僕を押し込もうとした。そこでいい加減耐え切れなくなって、僕は彼女にいったい何がしたいんだと詰問した。その結果、返ってきた答えは「ソルジャー、前々から自由がないと嘆いていらっしゃったでしょう?どこかに出かけるにしても、いつも護衛が付いてきて息が詰まりそうだと。この通路を使って外に出ても、そのままのお姿だと、すぐに見つかってしまいますでしょう?だから私、考えましたの。変装して、貴方が貴方だと絶対ばれないようにすればいいのだと。その格好なら、誰も貴方がソルジャーだなんて思いませんわ。一人きりの外出を、どうぞ楽しんできてくださいませ。ただし、あまり遅くなると貴方の護衛の方に不審に思われますから、午後七時までには帰ってきてくださいね」だった。
 僕は感動した。服を剥かれたときにはいったい何事かと思ったが、まさかこんなことを考えていたなんて、さすが僕の女神!ぼそっと小さく「……まあ、単なる変装ではなくてわざわざ女装させたのは、そちらの方が面白そうだったからですが」なんて言葉が聞こえたのは、きっと聞き間違いに違いない。親身になって僕のことを考えていてくれる彼女が、そんなことを言うわけがないのだから。
 と、まあそんなわけで街に繰り出した僕は、一人での外出を思う存分堪能していた。しかし、初めての単独外出に浮かれて、必要以上にはしゃいでいたのが悪かった。薬で抑えていただけで、今朝から体調を崩していたことをすっかり忘れていたのだ。そのせいで、街中を歩いていた最中、僕はめまいを覚えて少し体勢を崩してしまった。別にそれだけのことなら、少し大人しくしていれば回復するのだが、不運なことに僕はふらついた際、ちょうど左隣をすれ違おうとしていた男とぶつかってしまったのだ。そしてその男は、僕が謝罪しただけでは満足しようとはせず、現在に至るというわけだ。
 朝から続く不幸の連鎖を思い出して、僕はさらなるため息を吐くが、僕の左手首をつかんでいる男はそんなことを気にした様子もなく、馴れ馴れしく声をかけてくる。
「その制服、シャングリラ学園のだよね?ってことはお嬢様じゃん、何でこんなとこ一人で歩いてんの?」
 ぶつかったことに関しては、間違いなくこちらに非があるのだからと思って、しばらく大人しくしていたけれど、いい加減鬱陶しくなってきた。何が悲しくて、男にナンパされなくてはならないのか。女装をしている僕なんかではなく、周りには普通のかわいい女の子がたくさんいるのだから、そちらに声をかければいいものを。
「……放したまえ」
「いいじゃん、面白いとこ連れてってあげるからさー」
「必要ない」
「固いこと言うなって」
 拒否しているにも関わらず、男はへらへらした笑みを浮かべながら、無理やり僕の手を引っ張ってどこかへ連れて行こうとする。できるならば平和的に解決したかったのだが、この場合は手を出しても仕方がないだろう。このやり取りの間に、体調も随分とマシになった。これなら、男一人昏倒させるぐらい簡単だろう。そう判断して、男に手を出す直前だった。男の顔面に鞄が命中したのは。
 力が緩んだ男の手から、自分の手首を取り戻すことも忘れて、思わず僕は鞄の飛んできた方向に目を向けた。そして、その先に立っている人物を見た瞬間、頭上で鐘が鳴っているかのような錯覚を受けた。そこにいたのは、一人の少年だった。何故か分からないが、彼のことがやたらまぶしく見える。さらに何故か分からないが、彼を見ていると、やたらと心臓が高鳴る。何かの病気だろうか。僕は思わず、状況も忘れて彼を見つめたまま、呆然と突っ立ってしまっていた。
 僕が固まっている間に、その少年は走りながらこちらに近づいてくる。彼は男の顔面の直撃した鞄を拾い上げて、僕の手首をつかんでいる男の手を叩き落すと、代わりに自分が僕の腕をつかんだ。
「逃げるよ!」
 新しく僕の手を取った人物は、そう言って人ごみに紛れるように走り出す。反射的に走り出してしまったが、僕の手を引いて走っているのは、全く見知らぬ相手である。いったい何の目的があってこんなことをするのか。そう思っていぶかしんでいると、少年は走るペースを落として振り返り、何かを確認するように視線をめぐらせた後、満足したように頷いて立ち止まった。つられて僕も立ち止まる。
「良かった、追ってきてないみたい。その制服、シャングリラ学園のですよね?そんなとこに通ってる……」
 そこで少年は、ちょっと困ったように首を傾げる。けれどすぐに普通の表情に戻って話を続けた。
「……通ってる人が、何の酔狂でこんなとこ出歩いてるのかは知らないけど、変な相手に絡まれたら、面倒なことになる前に逃げることをお勧めしますよ。じゃあ、僕はこれで」
 そのまま去っていこうとする少年の袖を、僕は思わずつかんで引きとめていた。何の他意もなく助けてくれたのに、彼のことを疑っていた自分が許せない。せめて何かお礼をしたいと思って、僕は口を開いた。
「何か、助けてくれた礼をさせてくれないだろうか」
「いいですよ、別にそんなの。たいしたことしたわけじゃないんだし」
 謙虚な性質なのか、少年は困惑したような表情を浮かべて、首を横に振る。
 しかし、そんなことを言われても、僕はお礼をしたいのだ。というか、理由は分からないけれど、もう少しこの少年と一緒にいたい。だから、ここでみすみす彼を逃すわけにはいかない。
 僕が引き下がりそうにないことを悟ったのか、少年は困ったように周囲を見渡して、ふとある場所で視線を止めた。見ると、視線の先には喫茶店が一軒。
「じゃあ、そこの喫茶店でオレンジスカッシュでもおごってください」
 予想外の言葉に、僕は思わず目を瞠った。
「……そんなことで、いいのか?」
「そんなことって……じゃあ、どんなこと要求されると思ってたんですか」
 呆れたように言う少年を見下ろしながら、僕は首を傾げた。どんなことと言われても……具体的な想像はしていなかったため、聞かれても困るのだが、まさかそんなささやかなことを言われるとは思っていなかった。
「君は随分と謙虚なんだね」
 僕は感心して言ったのだが、少年は何故か疲れたようにため息を吐いて、首を横に振っていた。どうしてそんな反応をされるのか分からず、僕は首を傾げた。
「どうかしたのかい?」
「……何もないです」
「ならいいが。僕はブルー。君の名前は?」
 喫茶店へ向かう道すがら、それだけのことを聞くのに何故かバクバク音を立てる心臓を押さえながら、僕は彼に名前を尋ねた。
「ジョミー」
「ジョミーか。いい名前だね」
 僕がそう言うと、彼は驚いたように目を見開いて何度か瞬きをした後、はにかんだような笑みを浮かべた。
「そんなこと、初めて言われた……」
 その笑みを直視してしまった僕は、思わず口元を押さえて顔を背けた。そうしていないと、色々なものが口から飛び出てしまいそうだったからだ。自分でも良く分からない衝動とか、叫び声とか鼻血とか魂とか、そんな感じの。
 僕の様子があまりに不審に見えたのか、ジョミーは怪訝そうな顔をして尋ねてくる。
「……どうかしたんですか?」
「いや、何でもないよ……」
 僕は必死になって平静を装いながら、多分、と心の内で付け加えた。そう、どれだけ動悸・息切れに苦しめられていようと、倒れない限り問題はない。



◇ ◇ ◇



 それから約一時間後、喫茶店でジョミーと別れた僕は、上機嫌で学園へと戻る道を辿っていた。巧みな話術――よくリオあたりからは詐欺師的な話術だと言われる――と真摯な態度――同じ人物からは強引なだけだろうと言われる――で、首尾よくジョミーの携帯の番号とアドレスを聞きだしたのだ。しかも、また会ってくれるかと尋ねれば、快く了承してくれた。
 秘密の通路を通って、僕が浮かれながら生徒会室に戻ると、煎餅を右手に、緑茶の入った湯呑みを左手に持ってスツールに腰掛けたフィシスが、テレビで以前から録り溜めしていたらしい昼ドラを見ているところだった。僕は早足にそこへ近づくと、ターフルに両手をついて口を開いた。
「フィシス、聞いてくれ!」
「はあ」
「君のおかげで、今日はすばらしい日になったよ」
「はあ」
 フィシスの視線はテレビ画面へいったまま、返事は生返事もいいところで、しかもその直後には煎餅をかじる音が響くという全く聞く気のない態度だったが、上機嫌の僕にはそんなことちっとも気にならない。
「女装なんてしていたせいで、不愉快な目にもあったんだが……ジョミーという子が助けてくれたんだ」
「はあ」
「小さくて、すごくかわいい顔をしていて、宝石みたいな碧色の目をしていて、金色の髪をしているんだ。彼はまるで太陽みたいにまぶしくて、はにかんだ顔はもうどうしようかと思うぐらいかわいくて……」
「……ソルジャー?」
 それまで生返事しか返してこなかったフィシスが、奇妙なものでも見るような顔をして僕を見ていた。
「何だい?」
「彼、とおっしゃいましたが……その方、男の方ですか?」
「そうだよ、何故だい?」
「いえ……ソルジャーの口ぶりが、まるで恋しい相手について語っているように聞こえましたので、てっきり私、女の方だとばかり……」
「恋しい相手……」
 僕はフィシスの言葉を反芻した。しばらくして、脳がその意味を理解したとたん、僕の体は電撃が走ったかのようなショックを受けた。
「そうか、僕はジョミーに恋をしたのか……!」
 言われてみれば、あれは典型的な一目惚れのパターンに当てはまるのではないだろうか。彼の姿を一目見た瞬間、僕の頭上では祝福の鐘が鳴り響いた(幻聴)し、彼と一緒にいたときには動悸と息切れが収まらなかった。
 そうと自覚すると、とたんに気持ちがあふれて止まらなくなる。
「どうしよう、フィシス……!いや、どうしたらいいんだろう、ここはやはり告白するべきだろうか?でも、僕たちは出会ったばかりだし……」
 僕がおろおろと、まるで冬眠前の熊のように室内を歩き回っていると、彼女はずばりとものすごく的確なつっこみをくれた。
「その前に、まず。相手の方はソルジャーのこと、女性だと思ってらっしゃるのではないでしょうか?」
「あ」
 そうだ。僕は今、女装していたんだ。その事実を思い出して、僕はさっと青ざめた。
「……どうしよう」
「どうしようと言われましても……女装していた旨を伝えてみたらいかがでしょう?」
「そんなことしたら、女装趣味の変態だと思われるじゃないか!」
「まあそうでしょうね。では、女だと思わせたまま告白してみたらどうでしょう?相手が同性愛者でない限り、男とばらして告白するよりも、成功する確率は高いと思いますが」
「それではジョミーをだますことになる!」
 僕は頭を抱えて苦悩した。どうしたものかと思って解決策を模索している最中、頭上から「おもしろいことになってきましたわ」というつぶやき声が聞こえてきたのは、きっと気のせいに違いない。


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