りいん

 惑星破壊兵器、メギト。その中央部で、己の全ての力を使い果たして、死に直面した刹那。
 ブルーの胸を占めたのは、大切な仲間のことであり、あこがれ続けた青い地球への思慕であり、己の全てを押し付けてしまった後継についてのことであった。



◇ ◇ ◇



(ここは……どこだ?)
 目が覚めてまず、一番に視界に飛び込んできたのは、見覚えのない天井だった。どこからともなく、ゆったりとした音楽が聞こえてくる。眠りを誘うようにゆるやかで流麗な響きは、まるで子守唄のようだ。
(僕は、生きているのか……?)
 そう思うと同時に、自分が柔らかい何かに横たえられていることに気付く。力が衰えて以来、もう何年もそこで生活することを余儀なくされたベッドのシーツとは、また別の感触だ。そのことに疑問を覚えたブルーは、状況把握のため身を起こそうとする。しかし、そこで再びおかしなことに気付かされた。
(体が動かない……?)
 目や耳――外界を認識する機能は正常に働いている。それなのに、手足を自由に動かすことができない。それどころか、顔を横に動かすことすらままならない。もう何十年も眠りについていた身であるが、ブルーはずっとサイオンで身体の衰弱を止めていた。それは、外見を若い頃のまま保ち続けることと同じく、決して己のためではなく、ミュウの長として、他者にこの身の衰えを感じさせないために為していたことだった。
 長年続けたその行為は、もはや無意識の習慣となっていて、それゆえナスカで久方ぶりに床を離れたときにでも、体力面での衰えはともかく、筋力の衰えが気になることはなかった。それなのに、現在肉体を襲うこの異変は何だと言うのか。
 生き残ったのは良かったが、身体機能がすっかり低下してしまったとでも言うのだろうか。あるいは、サイオンを消耗しきって、肉体の衰弱を止めることすらできなかったか。どちらにしても、あまり愉快な話ではない。生き残れたのはうれしい。あこがれ続けた美しい惑星、地球。それを目にすることができる可能性を、再び手にすることができたのだから。
 目を瞑り、青い惑星の姿を脳裏に思い描いたブルーは、次の瞬間、はっとしたように目を見開いた。
(何だ、これは……?)
 青く美しい地球。これまでは、その姿を思い浮かべるだけで、どうしようもなく幸せで満ち足りた気持ちになれたというのに、今は違った。美しいとは思う。けれど、それだけだ。
 ミュウとして目覚めてからの三百年、どうしようもないほどの強さで焦がれた対象は何故か今、以前の熱を全く失ってしまっていた。
 そのことに対する衝撃の大きさに、堪えようもなく、まるで滝のようにぼろぼろと涙があふれてくる。ブルーは感受性豊かな方だったが、ここまで涙もろいわけではなかった。だから、あふれてきた涙があまりに予想外で、衝撃に加えて困惑が心を支配する。
「あ、うああ……」
 涙と同時に、口を突いて出た声もまた、ブルーの困惑を煽った。口内の筋肉も衰弱しているのか、止めようと思っても涙と連動して声が出るし、舌も回らないせいで声はまともな言葉にならない。
「あらあら」
 若い女性の困ったような声が、ゆるやかな音楽の合間に聞こえてくる。彼女は続けて、聞き覚えのない名前を呼んだ。急いだように近づいてくる気配に、ブルーはどうにかして泣き止もうと努めるが、涙腺はまるで壊れてしまったかのように言うことを聞いてくれない。せめて、顔中を濡らす涙を拭おうと手を上げて――ブルーは固まった。
(これは……僕の手、なのか……?)
 涙でにじんだ視界の中に映る、自分のものであるはずの手のひらは、まるで赤子のように頼りなく柔らかなものだった。自分の手のひらは、もっと筋張った大人のものだったはずだ。それが何故、こんなふうに変化しているのか。
 あまりの驚愕に、意図せずして涙も止まる。
「どうしたの?」
 持ち上げた手を見上げて固まった体勢のままでいると、先ほどまでと同じ声の持ち主が、そう言いながらブルーのことを見下ろしてくる。見開いた瞳に映るその顔はやはり、全く見覚えのないものだ。ますます現状が理解できなくて、ブルーが困惑したように瞳を揺らすと、それを再び泣き出す前兆と捕えたのか、女性は慌てた顔でこちらに手を伸ばしてくる。
 そしてそのままひょいっと抱き上げられて、ブルーは大きく目を見張った。ブルーは決して男らしい体格には恵まれていなかったし、背も高くなかったが、それでもこんなふうに軽く女性に抱き上げられるほど小さかったわけでもやせ細っていたわけでもない。
「よしよし、もう泣き止んだのね、いい子ね」
 女性はそう言いながら、ゆっくりと歩き回り、あやすように体を揺らす。まるで、赤ん坊を相手にしているかのように。
 訳が分からなくて唖然としていたブルーだが、女性が室内を移動している途中、化粧台の鏡の前を通りかかったときに、その疑問は解消した。大きな鏡に映っていたのは、ブルーを抱いている女性と、その腕の中に納まる小さな赤ん坊の姿。その赤ん坊は、ブルーが右手を上げれば同じように右手――鏡の中では左手だが――を上げたし、首を傾げれば同じように首を傾げた。
 それは、己が赤ん坊になっているのだという確信をブルーに与えるのに、十分すぎるほど十分な出来事だった。たとえそれが、どんな理屈で成し遂げられたものなのか、まるで分からないとしても。



 自分で動けるようになる前は、思念体になって世界を巡り、動けるようになってからは本や新聞を読み漁っていたため、現在の状況は大体理解できた。
 まず、今はブルーが生きていた時代よりもずっと未来で、SD体制なんてものはすでに、歴史の一部となってしまった過去の出来事なのだということ。歴史書によると、ミュウはソルジャー・シン――ジョミーの指導の下、無事地球へとたどり着き、グランド・マザーを倒して、人類との和解の道を辿ったのだという。ただし、ジョミーはグランド・マザーとの戦いで死んでしまって、その後ソルジャー位を継いだトォニィもすでに亡くなってしまったらしい。
 また、ブルーが住んでいるこの大地は、地球のものだということも分かった。かつて、ミュウがたどり着いたときには汚染されきっていた地球だが、人の手を離れて長い時を経た中で回復し、今はもう昔のように数多くの人間が――否、昔と違って、人間とミュウが入り混じって住んでいる。
 地球への情熱が消えてしまったのは、だからなのかもしれない。手に入らないからこそ、ブルーは地球をあれだけ強く求めた。けれど、今この足の下にあるのは、間違いなく地球の大地で、もはや求めずともそれはすぐ側にある。
 そして、一番重要なこと――今ここにいる自分は何なのかということについては、おそらく生まれ変わりというものではないのかと理解した。名前も容姿も違う、けれどブルーの意識はここに存在して、生きている。
 人は、ただ一度きりの生を生きることしかできない。今現在の状況を理解するまでずっと、ブルーはそう信じていた。だからこそ人は、人の命は尊いのだと思っていた。それなのにブルーは、摂理の輪から外れた存在として、二度目の生を歩むことになってしまった。
 再び生きる機会を与えられたのだと気付いたとき、ブルーの心を占めたのは、歓喜でも幸福でもなかった。メギトで死を迎えたあのとき、未練がなかったかと聞かれれば、ブルーは首を横に振っただろう。けれどそれでも、あのとき確かにブルーは、己の死を受け入れたのだ。今さら、新しく生きる機会を与えられても、迷惑としか思えなかった。苦楽を共にしてきた仲間たちも、人とミュウを繋ぐものとして崇めてきた女神も、誰よりも大切に思っていた金色も。この身の側にはもはや誰もいないというのに、どうやって生きていけと言うのだろう。
 そして、自分を取り巻く現状を呪ったブルーが、次に抱いた感情は、憐れみだった。普通の子どもではなく、ブルーのような奇妙な子どもを授かってしまった両親に対する憐れみ。
 だから、せめてブルーは彼らに迷惑をかけることがないように、大人しくて慎ましく心優しい理想的な子どもであろうとした。わがままを言うことも、我を通すこともせず、ただ両親が望むように。元々ブルーは、ある特定の事柄が絡んだときは別として、たいていのことには特にこだわりを持っていなかったので、それはたやすかった。それなのに、近所の大人たちや幼稚園の先生たちの評判は良くても、何故か両親との仲はぎこちないものになってしまって、それが余計にブルーの中にある申し訳なさを助長した。
 こんなふうな子どもに生まれてしまって、すまないと思う気持ちを。



◇ ◇ ◇



 転機が訪れたのは、ブルーが五歳になったある春の日のことだった。
 その日、ブルーは母親に連れられて、隣家を訪れていた。隣家の主婦は、ブルーの母の友人で、彼女はつい先日出産を経験して家に帰ってきたばかりなので、そのお祝いのためというのが訪問理由である。ブルーが連れて来られた理由は、友人の子どもと自分の子どもが仲良くなって欲しい、というところだろう。
 母に連れられて隣家の玄関扉を足をくぐると、この家の主婦がにこやかに声をかけてくる。
「いらっしゃい。――君、大きくなったわね」
 自分のものではない名前で呼ばれることにも、この五年で随分と慣れた。ブルーはにこりと笑みを浮かべて、そつのない返答をする。
「こんにちは、お邪魔します。もう、体調はいいのですか?」
「ええ、もうすっかり。――君は、本当に礼儀正しい子ね」
「ありがとうございます」
 にっこり笑ってそう返すと、目の前の女性はほうっと吐息を漏らす。それから彼女はブルーの母に視線を移して、廊下を歩き始める。
「うちの子も、――君みたいないい子に育つといいんだけど」
「うーん……でも、この子みたいに手がかからなさすぎるのも、考えものよ?楽なのは確かなんだけど……もう少しわがままを言って欲しいな、と思うときもあるもの」
 母親は苦笑しながらそう言って、ちらりとブルーに視線を寄越す。理想的な子どもを演じているつもりなのだが、やはり上手くいっていないのだということが分かり、ブルーは困ったように笑った。こんな子どもを持った母のことを、憐れに思って。
 そうこうしているうちに、ブルーたちはリビングに連れて来られた。そして、部屋の端にある揺りかごのところまで連れて行かれる。
「この子が私の子どもよ、女の子なの。――君、仲良くしてあげてね」
 彼女はそう言って、揺りかごの中で眠っている赤ん坊の頭をそっと撫でた。
 普段のブルーなら、彼女の言葉に如才ない受け答えを返しただろう。けれど、その赤ん坊を見た瞬間、ブルーの意識はその子一人に集中させられていたため、その言葉は耳を右から左に通り抜けていった。
 驚いたように目を見開いて、赤ん坊を見つめたまま立ち尽くしているブルーを変に思ったのだろう。隣に立っていた母親が、不思議そうな顔をして肩を叩いてくる。
「どうかしたの?」
 そのとたん、見開いた瞳にみるみるうちに涙の膜が張っていって、それはすぐに決壊して頬に流れ落ちる。それを見て、母親も母の友人も慌てふためいて声をかけてきたが、ブルーはそれら全てを無視して、目の前にいる赤ん坊を見つめていた。
(ジョミーだ……)
 一目見た瞬間、それが分かった。性別が違うとか、髪の色が違うとか、そんな差異などものともせず、ブルーはただ目の前の赤ん坊が、かつて誰よりも大切に思っていた金色であることを理解した。
 かつての生で、ジョミーを見つけたとき。ブルーは最初、彼のことを、己の跡を継ぐべき者としてしか見ていなかった。けれど見守っているうちに、まるで吸い込まれるように心を奪われていって、気付いたときにはもう手遅れだった。苦しませたくないと思った。幸せにしたいと思った。それなのに、死に向かうばかりだったかつての肉体のためにブルーは、担っていた重荷も抱いていた夢も、己の全てを押し付けざるを得なかった。ソルジャーとしての責任が、ジョミーを大切にしたいと思うただのブルーの心を押しつぶした。
 けれど、今のブルーには何もない。仲間も重荷も、夢さえも。かつてブルーを邪魔したものは、何一つ存在しない。そんなこの生を、今の今まで呪いながら、この五年間生きてきた。
(でも、これからは違う……)
 何も持たない今、ブルーは誰にも、何にもはばかることなく、ただ一人を選ぶことができるのだ。かつての生では決して選ぶことのできなかった道を、今度こそ選ぶことができるのだ。それは果たして、どれだけの幸福であろうか。
(ジョミー……)
 目尻からあふれる涙を拭うことなく、ブルーは揺りかごへと歩を進めた。そして、眠る赤子へ向けてそっと手を伸ばす。
 小さな手に触れると、軽く握り返してくる。それが単なる反射だと分かっていても、ブルーはうれしくて笑った。歓喜のあまり、言葉が出てこない。けれど、今の心情をたった一言で言い表すのならば。
「……会いたかった……」

 再び与えられた生の意味が、絶望ではなく希望が、不幸ではなく幸福が、ブルーにはようやく理解できた。ソルジャー・ブルーとしてではなく、ただのブルーとして生きて幸せになるために、ブルーは二度目を生きているのだ。


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