腰に深く刺さった剣は、ついさっきまで息をすることさえためらうような苦痛を与えてきたというのに、それももう今はほとんど感じなくなっていた。ゆっくりと意識が薄れていくのが分かる。まるで、深い泥の中に沈みこんでいくような気分だ。死をこれほどまでに近く感じたことはなかった。
けれどそうは言っても、ジョミーは別に死ぬことが怖いわけではなかった。
未来への思いは全てトォニィに託した。ジョミーがいないと嫌だと叫んだ、まだ本当に幼い子供。外見も行動もどれだけ成長したように見えても、トォニィはまだ5歳にも満たない子供なのだ。そんな子供に、人とミュウとの未来を託すなんて重過ぎる使命を託してしまったことを、ジョミーは心からすまないと思っている。けれどきっとトォニィなら、ジョミーなんかよりもずっと立派なソルジャーになって、人とミュウとが共存することができる幸せな未来を築いていってくれると信じていた。
だから未来に不安を感じることはなかった。
心残りは、ソルジャーとしてのトォニィではなく、まだ幼いただの子供としてのトォニィを残して逝かなければならないことだった。
怖いぐらいのまっすぐさで、いつもジョミーのことを求め続けていたトォニィ。それをトォニィは恋だと言っていたけれど、決してそれだけではないこともまたジョミーは知っていた。
トォニィは、ナスカで失った父と母の代わりをジョミーに求めていたのだ。面と向かって恋しているのだと言われたあの言葉を、否定するわけではない。けれど、トォニィがジョミーに頼るべき大人として像を求めていたこともまた事実だった。
子供には当たり前のその依存を、悪いとは思わない。それを言うならジョミーだって大人になってからもずっと、ただ一人の人に依存し続けてきた。ジョミーをシャングリラにさらうように導いた前ソルジャーである、ソルジャーブルーに。
(……ブルー……)
薄れていく意識の中ジョミーは、記憶に残る彼の姿を掻き集めた。
白銀の髪に紅玉の瞳という、一見とても儚げな容姿をしているくせに、その実誰より強い意志を持っていた。その上一度決めたことは必ず貫き通すという、優しいように見えて実に我の強い人だった。
けれどそれでも彼は、他の誰よりもミュウのことを思っていたし、ジョミーなんかでは一生敵うことなんてできないほど偉大なソルジャーだった。その彼が死の世界に旅立ってしまった後も、ジョミーは心に迷いがあるときやつらいことがあったときはいつも、ブルーの部屋にこもって、もはやジョミーの心の中にしか生きていない彼に向かって話しかけていた。それを依存と呼ばず、他に何と言うのだろうか。
テラを目指したのは、ブルーとナスカで死んでしまった仲間たちに対する弔いのためだった。けれど今から思い返してみれば、弔いという理由以上に、ブルーがテラへ行きたいと望んでいたからと理由が大きかったかもしれない。それがブルーの望みだったから、自分の望みさえ分からなくなるほどの強さでジョミーはテラを求めた。
そしてたどり着いたテラはしかし、ブルーが夢見たものとは大違いの醜い惑星だった。
(……ブルー……貴方が求め続けたテラは、こんなにも醜かった……ここは、貴方が命をかけてまで望んだ約束の地だったのに……)
人は、人類こそがテラを窒息させているのだという結論に達して、自らを機械の管理下に置くSD体制を築いた。それなのに機械の管理下にあってさえ、テラはこんなにも醜い。地面には草の一つも生えることなく、魚の影一つ見えることのない海と湖は不気味に濁っており、大気は黒くよどんで広がる空の色に青はない。これが、今のテラの姿だ。
(こんな姿じゃなくて、水と緑に満ちた青く美しいテラを……貴方が求め続けた夢のような惑星を、貴方に見せてあげたかった……ブルー……)
地面は草木に覆われていて、ところどころに色とりどりの花が咲いている。水は美しく透き通っていて、空気も澄み渡っていて、空はどこまでも青く広がる。そんな光景をブルーに見せてあげたい、この惑星に再びの生命を、と。薄れゆく意識の中ジョミーは強く思った。そう思うのと同時に、ジョミーの体を淡く青い光が覆う。その光の一部は風に乗って地上へと向かい、また一部は地面の中に溶けるように吸い込まれていき、ゆっくりとテラを駆け巡る。
そのことに気付くことなく、ジョミーの意識は真暗き闇の中に沈んでいく。その途中、ふと気付いた事実に口元を少し歪ませる。
(トォニィのことを考えていたはずなのに……いつの間にか、ブルーのことばかりだ……これじゃ、トォニィが誤解しても仕方ないのかもな……)
誰よりも愛しい子供と、誰よりも尊敬している人。トォニィのあまりの必死さにほだされて彼を唯一と思うようになってしまった今でも、ブルーという存在はジョミーの胸の中に棲み続けている。けれどそれは決して、トォニィが思っていたような恋という感情ではなかったとジョミーは思っている。
もしブルーが何かしらの行動を起こしていたら、その感情は簡単に恋に変わったかもしれないけれど、ジョミーは己の感情がそんなふうなものであったことに気付いてすらいなかった。だからジョミーにとって、ブルーへの想いは恋ではなかった。
トォニィを想うような感情ではなかったのだ。少なくとも、ジョミーが自覚している限りでは。
(……トォニィ……もう少しぐらい、優しくして、やれ、ば……よか、た……)
炎のような印象の子供の姿を思い出したのを最後に、ジョミーの意識は途絶えた。
◇ ◇ ◇
チチチ、と鳥の鳴き声が間近から聞こえてくるのを感じる。同時に、何かに髪の毛をつんつんと引っ張られているような気がして目を開けると、淡い黄色をした小鳥がジョミーの髪をついばんでいるところだった。うっとうしいので無言でそれを追い払い、ゆっくりと体を起こしながら何とはなしに隣を向くと、1メートルと離れていない至近距離に白骨化した人間の死体がごろりと転がっているのが目に入る。
(っ……び、びっくりした……!)
起き抜けから心臓に悪い光景を見せられて、ジョミーは思わず胸に手を当てて顔を引きつらせる。しかしふと、その白骨が身にまとっている襤褸が見覚えあるものであることに気付いて、ひっそりと眉をしかめた。
「これ……キースの……?」
見る影もないぐらいボロボロになっているが、白を基調にしたその衣服と紫色のマントは間違いなくキースのものだった。
「ってことは、これ……キース?」
元は人であった白骨を指してこれと言うのは失礼な行為に違いないが、誰もつっこむような人間はいなかった。
その白骨がキースであるということを示すように、白骨の耳の近くには赤いピアスがぽつんと落ちているし、一本の長剣が白骨の合間にごろりと転がっている。
(どういうことだ……一体……?)
状況把握のため白骨の方へ行こうと地面に手をつくと、金属の感触を感じる。視線を下ろすと、二つに折れている上に錆びた一本の長剣が、ちょうどジョミーが手をついている箇所に転がっていた。
「これは……」
ジョミーは目を見開いて、自分の右半身を見下ろした。地面に転がっていたその剣は、ジョミーの右腰に深く刺さってジョミーの命を奪ったもののはずだった。刺さった後に引き抜こうとしている途中、力加減を誤ってうっかり刀身を折ってしまったものだから、すぐにそれと知れる。そしてその剣が刺さっていたはずの右腰を見ても、肌には傷ついた様子一つなく、けれど服には時間が経って汚く黒ずんだ血の痕と剣の形に開いた穴が残っている。
「何故……僕は死んだはずじゃなかったのか……?」
状況が理解できず、ジョミーは戸惑い気味に周囲を見渡した。最後にいた場所は地下室だったはずなのに、見渡した周囲に見えるのは何故か木肌だ。
「木のうろ…か?でも、どうしてこんなところに……?」
かなり巨大なうろのようで、立ち上がっても天井に頭がつくことはないし、出口らしき穴までの距離も目測で悠に二メートルはある。どれだけ巨大な木なんだと思いながら、とりあえず出口に向かって歩いて行き、そこから外の風景を目にしたジョミーは思わず動きを止めた。
「……う、そだ……こんな……」
うろの外に広がっていた世界は、これまで見たことがないほど美しいものだった。
かつて見た、ひび割れて草一本生えていなかったはずの大地にはあふれるほどの緑が広がっていて、その緑の中に色とりどりの花が鮮やかに咲き乱れている。遠くに見える湖は透き通った水の色をしていて、体をくすぐる風の匂いは澄み渡っている。うろがある木は、うろの大きさから考えても分かるように相当な巨木のようで、地面までは十数メートルも離れているけれどここからでも十分にその美しさは伺えた。あいにくと、木の幹から長く伸びた枝とそこに茂る葉が空からうろを隠すように光をさえぎっているので、空を見上げることはできないけれど、きっと空も美しい青色をしているのだろう。
信じられないほど美しい自然の光景に、喜ぶよりもまず呆然としていると、どこからともなくありがとうという声が聞こえてきた。
「……誰だ?」
はっと体を揺らして周囲を見渡すが、誰の姿も見えない。
けれど声はずっと止むことなく続いて、ありがとう、ありがとうとただそれだけを言い続ける。しばらくしてようやく、ジョミーはそれが実際の声ではなくて思念だということに気付いた。けれどそれに気付いても、その内容まで分かるかと言われれば明らかに否である。
「ありがとうって……一体何のことを言って……?」
訳が分からないと言うように瞳を揺らすと、不意に強い風が吹いた。その瞬間、何かが頭の中に流れ込んでくるのを感じる。
荒廃したテラの姿。メギトの一機が落ちてきて、それまでの荒廃以上に荒れ果ててもはや生命の住めなくなった光景。けれどそんなテラの大気の中を、地中を、水中を、淡く光る青いサイオンがゆっくりと駆け巡って再生を促していく。元々空気がよどんでいたのに塵が舞い上がって救いようがなく濁った空はどこまでも透き通ったような青に、ひび割れた大地にはまず小さな草の芽が、そして次には花や木が芽吹いていく。おぞましくにごっていた海や川はゆっくりと透明な色を取り戻して、そこから新しい命が生まれていく。
それは、死んだと思ったあのときから100年と少しの間にテラで起こった出来事の光景だった。
(そうか……最後のあのとき、僕は無意識にサイオンを使ったんだ……)
そしてそれが、荒廃しきっていたテラをここまで再生させて、テラはその恩返しにとジョミーの傷を100年と少しという長い月日をかけて癒した。その事実を、ジョミーは唐突に理解した。
ふと頬に濡れた感触を感じて手をやって、自分が泣いていることに気付いた。歓喜の涙だ。けれどそれは、死ななかったことがうれしくて泣いているわけではない。こんなにも美しいテラの姿を見ることができたのがうれしくて、涙が出てくるのだった。
ジョミーはそっと胸を押さえて、はらはらと涙を流しながら、自らの心の奥底に生き続けているブルーに向かって語りかける。
「ブルー……見えますか?テラですよ……貴方が望み続けたテラが今、ここにあります……」
ブルーが死んでしまった日、ジョミーはほとんど無意識のうちに消え行くブルーの意識を自分の心の一番奥に捕まえてしまった。それはおそらく、魂と呼ぶべきものだった。
何故そんなことをしてしまったのか、今なら分かる。たとえ死んで魂だけになってしまったのだとしても、一目だけでもブルーにこの美しい光景を見せるためだったのだ。けれどそれももう果たされた。
ジョミーは胸を押さえた手をそっと外す。するとそこには、今にも消えそうな青い光を放つふわふわとした球体が手のひらの上に乗っていた。ジョミーはそれを見つめながら、少し寂しげな笑みを浮かべる。
「さあ、ブルー……今度こそお別れです。長い間縛ってしまってすみません……貴方は貴方の行くべき場所へ行ってください」
そう言って手に乗せた球体を空へと解き放つが、それはふわふわと宙に浮かび上がったままどこへも行こうとしない。
「心配してくれているんですか、ブルー?大丈夫ですよ。僕はもう子供じゃないんですから、貴方がいなくてもちゃんと一人でやっていけます」
にっこり笑ってそう言うと、それはためらうようにふるりと震えてから、生い茂る葉の中ゆっくりと空へと上って消えていった。
それを見届けたとたんジョミーは笑顔を一変させて、今にも泣き出しそうな顔になって胸を押さえた。
「……さよなら、ブルー……」
ぽっかりと、胸に穴が開いたような喪失感を感じた。けれどすでに死んでしまったブルーの魂を、いつまでも縛り付けておくわけにはいかない。気分を切り替えてジョミーは顔を上げた。
「……さて……これからどうしようかな……」
ブルーとの約束は果たした。ミュウと人との未来は、トォニィに託した。ジョミーに課せられた使命はもはや何もない。もうジョミーは、ソルジャーではなくただのジョミーで、しかも皆にとってはすでに死んでしまった人間だ。今さら、皆の前に姿を現しても混乱を引き起こすだけだろう。
けれどそのときふと、トォニィの言葉を思い出した。ジョミーがいないと嫌だと泣いてすがってきたトォニィ。
(トォニィは、まだ僕を必要としているんだろうか……)
ぼんやりとそんなことを思った後、慌ててそれを打ち消す。
(馬鹿なことを。あれから、もう何年経ったと思っているんだ……僕のことなんて忘れて、立派な大人になっているに決まっている……)
そっと目を伏せて、ジョミーは小さなため息を吐いた。
(……今を生きる人間に、過去の遺物に過ぎない僕の存在なんて、邪魔なだけだ……)
ジョミーは何の根拠もなくそう決め付けて、命が終わる瞬間までひっそりとテラで過ごすことを決めた。
トォニィがシャングリラを引き連れてテラにやって来て、大人になっても変わらずジョミーがいないと嫌だと全身で叫んでいる彼に根負けしたジョミーがトォニィの前に姿を現すのは、それから約2年後のことである。