狭いと言うには広く、広いと言うには狭いその庭園には、色とりどりの美しい花が咲き誇っていた。濃い緑に、鮮やかな色の対比が美しい。景観の見事さは言わずもがな、花から香る匂いもまたすばらしいものである。無数の花から香るその匂いは、室内にあれば強すぎるものであるかもしれない。しかし、空気が滞ることのない外では、よほどの偏屈でもない限り文句のつけようもないものだ。
花に囲まれた庭の中心には、こぢんまりとした東屋がある。ルルーシュはその中に座っていた。透き通るように白い肌も、濡れたように黒い長髪も、紫水晶のような瞳もすらりとした華奢な体躯も、十分鑑賞に堪えうる繊細さと華やかさを持つ美少女だというのに、膝の上に乗せられた無機物がいただけない。それが詩集や、ティーセットに甘いお菓子、刺繍糸に針に布、庭から摘み取った花、小鳥と鳥かごなどといったものであれば、思わずため息でも吐きたくなるような光景が出来上がっていただろうに。
とは言っても、別におかしなものであるわけではない。日常の中で当たり前に使用されるものである。ただ、花に囲まれた庭の中で、美しい年頃の少女が持っているには、あまりにも無粋なだけだ。
ルルーシュは至極真剣な顔をして、景観を台無しにしているその無機物――ノートパソコンに目を向けていた。画面上にいくつも開いた窓を睨み、流れるような指さばきでキーボードを叩く様は、年頃の少女と言うよりやり手の企業家だ。
そこには、鳥のさえずり、風に草木が揺れるかすかな音、そしてキーボードを叩く音だけが占めていた。しかしふと、その静寂を破って少年の声が響いてくる。
「姉さん!」
聞こえてくる声に振り向いて、ルルーシュはパソコン画面から顔を上げる。花に囲まれた小道を駆け抜けてやって来るのは、最愛の弟だ。それまでの表情からは考えられないほど優しく、ルルーシュは顔を笑み崩した。
「ロロ」
「もう、探したんだよ!」
少女じみた繊細な容姿をしたこの弟は、それに似合って穏やかな笑みや困ったような色を浮かべていることが多いのだが、今は珍しくも怒ったような顔をしている。何か怒らせるようなことをしただろうかと、ルルーシュは不思議に思って何度か目を瞬かせた。
「午後からは部屋にいてって言ったよね?」
「……もうそんな時間か?」
「そんな時間か、じゃないよ!もうすぐ二時だよ、二時!お腹すかなかったの?」
「いや、別に」
その返答が気に入らなかったのか、ロロは不機嫌そうに眉根を寄せた。
「本当に姉さんってば、僕がいないと三食まともに摂ろうとしないんだから」
ロロがいるときはきちんとした生活を送るルルーシュだが、弟が家を留守にすると、食事を抜かしてしまうことが多々ある。それは、ロロが朝からどこかへ出かけていた今日も例外ではなかった。
「その悪癖、直した方がいいよ」
「……そうだな、努力はするさ」
「努力だけじゃだめだよ。それで今日は何してたの?また株?」
「まあ、そんなところだ」
「別に、お金に困ってるわけじゃないんだから、そんなことしなくたって……」
「だが、金はあって困るようなものじゃないだろう。いつ何があるか分からないしな。大丈夫、損をしてお前に迷惑をかけるようなことはしないさ」
そう言って、ルルーシュは肩をすくめる。
株もいくつか動かしたが、今回していたのは主にハッキングと情報漏洩、及び市場の情報操作だ。ハックした会社を経営しているのは、この間ロロと町を歩いているときにぶつかった貴族。別にぶつかっただけなら、ルルーシュが何かすることはなかっただろうが、あろうことかその貴族はロロのことを侮辱したのだ。最愛の弟をそんな目にあわせた相手を許すほど、ルルーシュは優しくできていない。正当な報復として、その貴族の会社を倒産に追い込んだのだ。もちろん、それが自分の仕業だと悟られるような下手は打っていない。
そんなことを言えば、優しい弟は気に病んでしまうだろうから、口にすることはないけれど。
「それより、何か用があるんだろう?」
パソコンを閉じて鞄にしまいながら、ルルーシュは話題をそらそうとする。
「あ、うん、そうだった。用意があるから、部屋に戻ろう?」
「ああ」
返事とともにルルーシュは、薄い鞄を手にして立ち上がる。
「それで、用意って?」
問いかけるながら歩き始めると、ルルーシュよりも背の低い弟は、上目遣いでこちらを見つめてくる。
「そのことなんだけど……」
「何だ、口ごもったりして?」
「怒らないでね?」
「おれが怒るようなことでもしたのか?」
ルルーシュは即答せず、眉根を寄せて問い返した。いぶかしげな視線から逃れるように、ロロは顔を正面に向けて小さなため息をつく。
「そういうわけじゃないんだけど……姉さんは嫌がりそうだから、直前まで黙っておくことに決めただけで……」
「俺が嫌がりそう?」
「うん……実は今夜、夜会に招待されてるんだ。用事って言うのは、出かけるための準備」
「……夜会?」
ルルーシュは眉を顰めて問い返した。無意識のうちに、足の運びが遅くなる。ルルーシュは貴族が嫌いだった。
「断れないのか?」
「今回はちょっと無理だったんだ」
姉の貴族嫌いを知るロロは、困ったように笑っている。
「この前姉さんが代打ちした人、覚えてる?」
「……どれだ?」
チェスの代打ちは、少なくても週に一度はやっているので、この前と言われても個人を特定することはできない。
「えっと、ほら、前でもう五回目だった人」
「ああ、ゼーバルト伯爵か」
「そう、その人がぜひ姉さんに来て欲しいって。実は前々から何度か招待されてたんだけど、色々理由をつけて断ってたんだ。でも、相手は伯爵だから、これ以上断るのも難しくて……まったく、貴族ってのも案外大変だよね」
肩をすくめてそう言うロロは、男爵というれっきとした貴族の当主であるくせに、まるで他人事だ。
それも仕方のないことである。ランペルージ家は今でこそ男爵という地位にあるが、もともとはごくごく普通の一般庶民だったのだ。それがどうして貴族の仲間入りをしたのかと言うと、数ヶ月前にエリア11で起こったブラックリベリオンで、軍人であった父が目覚ましい功績を挙げたからだ。しかし父は不幸にも、ブラックリベリオンで負った傷により、爵位を授かってすぐ死んでしまった。そのため、長男であるロロが爵位を継いだというのが、ランペルージ家のお家事情である。
ただし、ルルーシュはそれらのことを全く覚えていない。ブラックリベリオンに巻き込まれて、記憶喪失になってしまったからだ。覚えていたのは自分の名前と、弟のことだけだった。弟との思い出なんて何一つ覚えていないというのに、他の誰より何より、弟のことを大切に思っていて、愛しているのだということだけははっきりと覚えていた。
記憶を失ってからもう何ヶ月も経っているというのに、ルルーシュはほとんど何も思い出すことができていない。貴族が嫌いだというのも、弟は、無理をすることはないと言ってくれるけれど、そんなふうに気遣われるといっそう、彼との思い出を忘れてしまったことに対する罪悪感がつのる。最愛の弟に対して、ルルーシュが苛立ちをあらわにすることなどありえないけれど、その分心の中によどみが溜まっていく。
チェスの代打ちは、その気晴らしだった。その気晴らしで、嫌いな貴族社会に巻き込まれるなんて、本末転倒もいいところだ。
ルルーシュが大きなため息をついていると、ロロが不安そうな顔をして見上げてくる。
「ごめん、姉さん。姉さんの貴族嫌いは知ってるのに……」
「お前が謝ることはないさ」
ルルーシュは苦笑して、ロロの髪の毛をくしゃりと撫でる。
いくら貴族を叩きつぶすのが爽快だったとは言え、貴族を嫌いだと言うのなら、チェスの代打ちをするにしても、貴族ではない相手を選ぶべきだったのだ。この状況は、自業自得である。
しかし、気が乗らないことに変わりはない。
「……エスコートは、お前がしてくれるんだろう?」
「うん、それはもちろんそのつもりだけど……」
「なら早く部屋に戻るか。お前の衣装はおれが選んでやろう」
「それはうれしいけど……ヴィレッタさんたち、姉さんを着飾ろうとしてすごく張り切ってたから、そんな暇ないかもよ?」
せめて弟の着飾った姿でも見て癒されないとやっていられないと思うルルーシュの心は、ロロに粉砕された。
◇ ◇ ◇
面倒だからという理由で、ドレスどころかスカートを着ることさえほとんどないルルーシュだが、それでも一応女であるから、綺麗に着飾るのは別に嫌いじゃない。ただ、衣装選びや化粧に何時間もかけるなんていうのは、はっきり言って無駄だと思っている。その無駄だと思う作業に、あれからの午後いっぱいを付き合わされたルルーシュは、夜会が始まる前から疲れ切っていた。
胴体を締め付けるコルセットも、疲れを助長する原因だ。気付いたときには、淑女として完璧な礼儀作法と立ち居振る舞いは身についていたので、おそらく記憶を失う前に誰かが教えてくれたのだろうが、そんなことよりできればコルセットに慣らしておいて欲しかったと思うのは、わがままなのだろうか。
着替えを手伝ってくれたヴィレッタたちメイドの言では、今の流行はそれほど強く締め付けるわけではないからまだ楽な方だということらしいが、やはり慣れていないせいか、歩いているだけで結構な息苦しさを感じる。馬車を降りて会場へ向かう道すがら、無意識に渋い顔をしていると、手を引いてエスコートしてくれているロロが心配そうな顔をして見上げてくる。
「姉さん、体調でも悪いの?」
「……心配ない」
正直に理由を言うのは、女として情けないのでごまかすように笑っておく。ロロは疑わしい目を向けてきながらも、追求してくることはなかった。
それから少し歩くと会場にたどり着いた。中は、夜だということを忘れそうな煌々たる明かりに満ちている。広い会場の中にはすでに、絢爛豪華に着飾った男女が群れを成していた。これが全て貴族かと思うとうんざりするが、まさかそれを表に出して弟に恥をかかせるわけにもいかないので、優雅な笑みを顔に浮かべる。
会場に足を踏み入れた瞬間から、いくつも視線が送られてきたが、笑みを浮かべるとさらにそれが増えるのを肌で感じた。そうしたことは普段暮らしているときでもよくあることだったので、特に緊張することもなく、ロロのエスコートに任せて会場の奥へと歩を進める。人込みをすり抜けていくと、やがて上階へと続く階段が見えてきた。輝きを抑えた金色の絨毯に覆われた階段を、波打つ黒髪の女性が上っていく。それを見たとき、ルルーシュの胸が嫌な音を立てて高鳴った。
これ以上あそこに近づきたくない。理由は分からないけれど、そう思って自然足が止まる。階段のすぐ側にゼーバルト伯爵がいることなんて、目に入らなかった。
「姉さん?」
突然立ち止まったルルーシュを見上げて、不審そうな顔をしたロロが声をかけてくる。
「あ、な、何だ?」
「何だ、じゃないよ。どうしたの?急に立ち止まったりして」
「いや……何でもない」
「本当に?顔色が悪いけど、やっぱり体調が悪いんじゃ……」
ロロは心配そうな顔をして、額に手を伸ばしてくる。しかしその手が触れる前に、ルルーシュたちの姿に気付いたゼーバルト伯爵が、笑顔で声をかけてきた。
「やあ、よく来てくれたね。ランペルージ男爵、それにルルーシュ嬢」
格上の伯爵家、しかも主催者からの挨拶を無視するわけにもいかず、ロロは姿勢を正して笑みを浮かべる。
「今宵はご招待いただき、ありがとうございます」
ロロが礼を取るのに続いて、ルルーシュも静かにドレスの裾を軽く持ち上げて淑女の礼を取った。以下、形式ばったやり取りが続く中、ルルーシュは無言でロロの傍らに立っていた。そうすると自然に、ゼーバルト伯爵の後ろにある階段が目に入る。先ほどのように、嫌な感じに胸が鳴ることはもうなかったが、今度はだんだんと気分が悪くなってきた。
そうしているうちにロロとの会話が終わったのか、ゼーバルト伯がこちらを向く。
「いや、しかしお美しいですな、ルルーシュ嬢。前々から美しいとは思っていましたが、ドレスを着ているともう、見ていてまぶしいほどだ」
「ありがとうございます」
「私の息子が独身なら、紹介したいところだったんですが、すでに結婚しておりましてね。残念だ」
「ご冗談を」
おどけたような伯爵の言葉に、ルルーシュは苦笑を返す。
「いやいや、冗談などではありませんよ。御覧なさい、会場中の男性があなたに注目している。あの美しい令嬢はどこの誰だ、とね」
「おおげさです。見慣れない女がいるから、ものめずらし……」
ものめずらしいだけだと告げようとした途中、ルルーシュは言葉を止めた。意図して止めたわけではなく、硬直して言葉が出なかったのだ。それは、ゼーバルト伯爵の背後に見える階段のすぐ前を、十歳にも満たない小さな女の子が、小走りにかけていくのが見えたからだった。それを目にしたときルルーシュは、なぜか分からないが一気に頭から血の気が引いていくのを感じた。
釘を打ち付けているように鋭い痛みが、何度も頭に走る。心臓は痛いほど高鳴っているというのに、血の巡りなど関係ないように、指先がどんどん冷たくなる。視界が赤く染まっていく。そして何より、どうしようもないほどの恐怖が、ルルーシュの胸を支配していた。
「ルルーシュ嬢?」
怪訝そうなゼーバルト伯爵の呼びかけに、ルルーシュは硬直から覚めた。
「……あ、す、すみません」
「いえ、そんなことより、大丈夫ですか?ひどい顔色だ」
「そう、かもしれません……少し気分が悪くて……すみません、外の空気を吸えば治ると思うので、少しバルコニーへ行かせてください……」
早口にそう言って、返事も聞かぬままルルーシュはバルコニーへと向かった。弟の呼び止める声が聞こえてきたが、今立ち止まれば気を失ってしまいそうで、立ち去ることしかできない。
逃げるように外に出ると、まだ少しひやりとした春先の空気が吹いてくる。熱気のこもった会場との落差に、冷えた体はぶるりと震えてしまったが、頭の痛みは軽減されたため随分楽になった。振り向いて会場の中に視線を戻すと、申し訳なさそうな顔をしたロロが、ゼーバルト伯爵と話しているのが見えた。ルルーシュの行動を謝罪しているのだろうことは、簡単に想像できた。
できることならルルーシュもあの場に戻り、ロロに迷惑をかけないように自分の行動の始末をつけたかった。しかし、広間の奥にある階段を見ていると、おさまっていた頭痛がひどくなるのだ。戻ることなんて、とてもできそうになかった。
階段を見ていたのがいけなかったのか、そうしているうちに吐き気までこみ上げてきて、ルルーシュは慌てて口を手で覆った。こんなところで戻すわけにはいかない。血の気の引いた顔であたりを見渡していたルルーシュは、バルコニーの端に、庭へと下りる階段があるのを見つけた。バルコニーなんかで戻すよりはマシだと思って、その階段をよろよろとした足つきで下りていく。
そのまま、できるだけ人目につかない場所へ行こうとして、先へ先へと進んでいく。少しすると薔薇のアーチが見えてきて、そこから先は見事な庭園となっていた。ランペルージ家の庭園など話にならないほど広大で、立派な庭園だ。ルルーシュはその中へと飛び込んだ。
足元の小道は芝で覆われ、人が二人並んで通るのにぴったりの幅だった。道の両脇には並ぶ生垣は、ルルーシュの頭よりもずっと高くて、見事に刈り込まれている。頼りない足取りで進んでいく途中には、天使のブロンズ像や小さな花壇、アンティークな外灯などがあったが、気分の悪さのせいでまともに観賞することもできない。
うつむきがちによろよろ歩いていると、突然視界が開ける。
顔を上げると、月明かりに照らされた人魚の像が見えた。大理石でできた人魚は焦がれるように空を仰ぎ、同じく大理石でできた貝を手に持っていて、大理石でできた岩に腰掛けている。貝からはこんこんと水が流れ落ち、人魚の座る岩を中心に人口の泉を満たしていた。
いい加減立っているのもつらかったルルーシュは、ふらふらとその噴水のへりにすがりつくようにして座りこんだ。そうしていると水の匂いがして、胸がすっと楽になる。
「ねえ、どうかしたのかい?」
そのとき、意外な近さで聞こえてきた低い声に、ルルーシュは飛び上がりそうになった。顔を上げると、噴水の反対側に一人の青年が座っていた。乱れた前髪が邪魔で、はっきりと顔を見ることはできないが、整った顔立ちをしているようだった。独創的な髪型をした髪の毛には、芝生がついているのが見えたから、もしかしたらルルーシュが来るまで、芝生の上で寝そべっていたのかもしれない。
「少し、気分が悪くて……」
「ええっ、本当!?大丈夫なのか?」
青年は俊敏な動作で立ち上がって、ルルーシュのところまでやってくる。介抱するように背中を撫でられて、思わず肩を震わせるが、触り方にいやらしいところはなかったので、大人しくされるがままになることにする。
どれだけの間そのままだったのかは分からないが、しばらくそうしているうちに体調は大方回復してきた。ルルーシュは背筋を正して振り向いた。
「ご迷惑をかけてしまって、すみません。もう大丈夫ですから……本当にありがとうございます」
「気にすることはないよ。女性に優しくするのは当然だ」
青年はそう言って、乱れたルルーシュの髪を手櫛で器用に整えていく。
「あの、自分でやります」
「まあ、そんなこと言わずに」
子どものような顔で自分の意思を押し通していく姿は、大柄な体躯とは不釣合いで、もしかしたら彼は、自分よりも年下なのかもしれないとルルーシュは思った。
顔の半分を隠していた髪が横に流されて、青年と目が合う。隠すものがなくなったルルーシュの顔を見た瞬間、彼は驚いたように息を呑んで動きを止めた。
「……あの?」
「る……」
「る?」
「ルルーシュさま……?」
不審に思って眉根を寄せるルルーシュに向かって、青年は呆然とした口調でつぶやいた。
「さま?」
「本当にルルーシュさまですか……?」
「ええと、わたしの名前は確かにルルーシュですが……」
恐れるような仕草で手を伸ばしてくる青年に、ルルーシュは戸惑いながらも答える。頬に触れてくる指先は、まるで壊れ物でも扱うような手付きをしている。もしかしたら彼は、記憶を失う前の知り合いなのかもしれない。
「生きて……生きてらしたのですね!」
魂の抜けたような顔をしていた青年は、触れてもルルーシュが消えないことを確かめると、感極まったような顔で抱きついてきた。
「ほわあっ!」
素っ頓狂な声を上げてしまったルルーシュに非はないはず。
体をこわばらせるルルーシュのことなど意にも留めず、青年は顔にぎゅうぎゅうと自分の胸を押し付けてくる。
「あなたが死んだと聞いて、もうすぐ八年だ……」
「え?」
ルルーシュは困惑に眉を顰めた。死んだという言葉にもだが、八年前という言葉が引っかかる。死んだと誤解するにしても、それは数ヶ月前のブラックリベリオンのときなのではないだろうか。昔のことは思い出していないけれど、ロロから色々と聞いている。しかし八年前自分に、命に関わるほどの何かがあったなんてことは知らない。もしかしたら、からかわれているのかと疑っていると、青年が再び話しかけてくる。
「この八年間、どれだけあなたを探したことか……どれだけ探しても見つからなくて、そのたびに絶望する……けれど、見つけた……やっとあなたを……」
髪をくすぐるような近さで聞こえてきた声は、今にも泣きそうで。抱きしめてくる腕は、小さく震えていて。色々と腑に落ちない点はあるけれど、嘘をついてルルーシュをからかっているような雰囲気は皆無だ。
根拠は何もないけれど、彼の言っていることは多分本当なのだろうと思った。しかし、ルルーシュは彼のことを何も覚えていない。いつどこでどんなふうに出会ったのか、いったいどんな関係だったのか、どうして死んだなんて誤解をすることになったのか、何一つ覚えていない。それを黙っているわけにはいかないが、いくら他人に無情なルルーシュでも、こんなにも喜んでいる相手に水をさすのはためらわれた。それでも、いつまでも隠し通せるわけではないことは明らかだったので、罪悪感を捨てて口を開くことにする。
「あの……」
「はい、何でしょう!」
そう言って、即座に抱擁を解いてかしこまる態度は、まるで従順な大型犬のようだ。消したはずの罪悪感がよみがえりそうになる。ルルーシュは気力でそれを押さえつけた。
「そんなに喜んでくれているのにも」
「……記録」
ルルーシュの言葉を途中でさえぎるように、どこか間の抜けたような音と、ぼそぼそとした声が、噴水の向こう側から響く。見ると、ルルーシュがやって来たのとは反対側にある小道の入り口に立って、携帯電話をこちらに向けている少女がいた。
「ありがと」
「……はあ」
「アーニャ、邪魔するなよ!せっかくルルーシュさまが何かおっしゃろうととしていたのに!」
「私のことは気にしないで。続けて」
アーニャと呼ばれた少女は、無表情で首を横に振っている。
気にしないでと言われても、できるわけがない。話を続けろと言うのなら、さっさと立ち去ってくれればいいものを、彼女は感情の読めない目をしてこちらをじっと見つめたままだ。これだから貴族は嫌なんだと内心愚痴りながら、ルルーシュは気を取り直してジノに向き直った。
「えーと、じゃあ話を戻して……そんなに喜んでくれているのに申し訳ないのですが、実は私、記憶喪失で……昔の記憶はないんです。だからあなたのことも分かりません……すみません」
「き、記憶喪失……?」
「はい」
「う……嘘ですよね、私のことが分からないなんて!?」
「いいえ、本当です」
泣きそうな顔で肩をゆすってくる相手は憐れだったが、嘘をついても事実が変わるわけではない。ルルーシュはすっぱりと否定した。
「そんな……ジノです、ジノ・ヴァインベルグです!」
「ジノ・ヴァインベルグ……ってヴァインベルグ!?」
告げられた名前を口の中で転がしてみるが、それで何か思い出すなんてことはない。ただ、思い出の代わりにではないが、ある事実に思い当たって叫び声を上げてしまった。
「ヴァインベルグって……あの……?」
「思い出されたのですか!?」
自分で言っていて、どのヴァインベルグだとつっこみたくなったから、ジノが勘違いしてしまうのも仕方なかったかもしれない。期待の視線が痛い。弟以外には冷血漢が基本のルルーシュも、さすがに胸が少し痛んだので、ジノから少し目をそらして否定する。
「いえ、そうじゃなくて……公爵家の、ですよね?」
「あ、はい……そうです……」
ジノはとたん、肩を落としてしょげてしまう。
ヴァインベルグ家と言えば、歴史ある公爵の家系である。大きな体をしているくせにまるで子どものような雰囲気は、とてもそんな家の息子には見えないが、ヴァインベルグ家の四男はジノという名前だったことを、ルルーシュは知っている。しかも確か、その四男というのはナイト・オブ・ラウンズの一員だったはずだ。
そんな相手と自分が知り合いだったとは、とても思えない。男爵子爵のような下級貴族、あるいは伯爵程度の身分なら、庶民と関わりを持つことも多々ある。しかし、公爵ともなれば話は別だ。
「あの、人違いじゃないでしょうか?」
ルルーシュはそう結論付けた。
ランペルージ家がもとから貴族だったなら話は別だったかもしれないが、爵位を与えられたのはほんの数ヶ月前である。それに、公爵家の人間に『さま』なんて敬称をつけて呼ばれるような人間が、自分みたいな元庶民であるわけがない。
ルルーシュにしてみれば当然の帰結だったのだが、ジノは信じられないように目を見開いて、肩をつかんで詰め寄ってくる。
「人違い!?私があなたを間違えるようなことが……そんなことがあると言うのですか!?」
「記憶なんてあてにならない」
そう言ったのはルルーシュではなく、それまでジノとルルーシュのことを、黙って観察するように見ていたアーニャだった。
「私の記憶も、よくこの記録とは違っているもの」
「他の何を、誰を間違えても!私がルルーシュさまを間違えるなんてことはない!」
携帯をいじりながら、淡々とした口調で言うアーニャに向かって、ジノは食ってかかるように叫んだ。直接怒気を向けられたわけではないルルーシュでも、思わず逃げ出したくなるほど剣呑な空気を放っているというのに、アーニャはまるで変わらない態度だ。無表情で無感情のまま、携帯からジノに視線を移した彼女は再び口を開く。
「どうして?」
「……何がだ?」
「どうしてそう言い切れるの?その根拠はどこにあるの?」
「そんなものはない!」
ジノは大威張りで胸を張って答えた。
沈黙がその場を支配する。決して威張って言うようなことではないのに、目の前の男はどうしてこうも自信満々なのか、ルルーシュには本気で理解できない。やはり人違いで間違いないだろうと結論付けたそのとき、背後から聞きなれた声が聞こえてきた。
「姉さん!」
ジノに肩をつかまれているせいで体ごと振り向くのは不可能だったので、顔だけで振り向くと、予想通りの姿が見える。弟の登場に微笑んだルルーシュとは裏腹に、ロロは慌てた様子でこちらに向かって走ってくる。肩をつかまれているのを、変な輩にからまれていると思ったのかもしれない。ロロが思っているような意味ではないがが、相手が変で、からまれているということも事実だったから、あながち間違いではなかったが。
「どなたかは存じ上げませんが、姉から手を離してくれませんか?」
すぐに近くまでやって来た弟は、ロロとルルーシュを見比べていぶかしげな顔をしているジノをにらみつける。そして肩をつかんでいる手を叩き落した後、ルルーシュを立たせて、かばうように自分の背後に押しやった。
手を叩き落されてすぐに立ち上がったジノは、妙なものでも見るような目をロロに向けているし、ロロは敵でも見るような目をしている。一触即発の空気を悟って、ルルーシュは慌てて割って入った。
「申し訳ありません、ヴァインベルグ卿。弟が失礼を……ロロ、違うんだ。ヴァインベルグ卿は、私を介抱してくれただけで、妙なことをされたわけじゃない」
「ヴァインベルグ卿?……っ、まさかナイト・オブ・スリー!?」
前半はジノに向かって、後半は声を潜めてロロに向かって言う。相手の正体に気付いたロロは、はっとしたように息を呑んで目を見開いた。
「し、失礼しました、ヴァインベルグ卿」
ロロは慌てて態度を改めて頭を下げるが、ジノは依然妙なものでも見るような眼をロロに向けている。しばらく無言が続いた後、ジノはようやく口を開いた。
「……君は何だ?」
「え?」
「弟?そんなはずがない」
吐き捨てるように言って、ジノは目を険しくする。
「答えろ。君は誰だ?何の目的でこの方を謀っている?理由によっては」
「やめていただきたい、ヴァインベルグ卿」
詰問の途中でルルーシュは、ジノからかばうように、ロロの前に立ちはだかった。公爵家の人間、加えてナイト・オブ・ラウンズの言葉を途中でさえぎるようなことは、普通ならば許されないことだ。しかし、最愛の弟をこんなふうに言われて黙っていられるわけがない。
「ロロは私の弟です。妙なことを言わないでいただきたい」
「っ……ですが!」
「人違いだと、そう申し上げたでしょう?」
口調は丁寧に、しかし冷たい目をして干渉全てを否定する言葉を告げると、ジノは苦いものでも噛んだような顔をして黙り込む。
「そろそろ失礼させていただきます。介抱してくれてありがとうございました……行こう、ロロ」
頭を下げて礼を言い、弟の腕をつかんで踵を返して、元の道を戻りだす。ジノの呼び止める声が聞こえてきたが、足を止めることはしなかった。
しばらくすると緑の小道が曲がり角を迎え、噴水が見えないようになる。
「姉さん、あの人……」
「気にするな。どうやら、俺を誰かと間違えたらしい」
不安そうで、困ったようで、苛立たしそうで――とにかく複雑な顔をしているロロを慰めようとして、ちょうど目の高さにある頭に手を置いて、くしゃりと髪を撫でてやる。
「お前が俺をだましているだなんて、ひどいことを言うものだな。そんなこと、あるわけないのに」
「うん……そうだね」
優しく微笑むルルーシュを見て、ロロはなぜか泣きそうな顔になってうつむく。
「ロロ?」
「なんでもない……姉さんが、そんなに僕のこと信じてくれてるんだと思うと、うれしくて……」
「当たり前だろ。記憶なんかなくても、お前は俺のたった一人の弟だ。愛しているよ、ロロ」
「うん……ありがとう、姉さん」
ロロは泣きそうに顔を歪めながら、けれどうれしそうな笑みを浮かべた。
◇ ◇ ◇
「ルルーシュさまっ!」
ロロの手を引いて、ルルーシュが去っていく。呼び止めるだけでなく、できることなら追いかけて抱きしめたかった。しかし、最後に見た冷たい目が、再び自分に向けられるかもしれないと思うと、足がすくんだ。
「ジノ、馬鹿」
悔しさに歯を噛み締めていると、淡々とした口調でアーニャが話しかけてくる。にらみつけるが、彼女は無表情で携帯を操作していて、ジノの方など見ていない。
「家族のことあんなふうに言われたら、怒るのは普通」
「分かっている!だが……皇族にロロなんて人間はいない!あれが、あの方の弟なんかであるはずがない!大体、弟があんな目をするものか!」
ルルーシュの肩をつかんで詰め寄っていたジノを見た瞬間、ロロの目に宿った色。あれは、どう見ても、”弟”ではなく”男”のものだ。
「あの方はだまされているんだ!」
「あった」
全く脈絡のないことをつぶやくアーニャは、会話をする気がないようだった。その態度に、ジノはますます苛立ちをつのらせる。細められた目は、触れれば切れそうな鋭さとなっていたが、愛らしい少女の姿をしていても、アーニャは帝国最強の騎士ナイト・オブ・ラウンズの一員である。そんなものに怯えるような弱さはない。
「これもルルーシュ」
アーニャはそう言いながら近づいてきて、携帯を差し出してくる。画面に映し出されていたのは、アリエスの離宮の庭園を背後に、赤い薔薇を一輪持ち、白に近い薄水色のドレスを身にまとって微笑む幼いルルーシュの姿だった。
「っ、これは……どうしてアーニャが!?」
「私の記録。ジノのルルーシュは、この子?」
「そう……この方だ」
たとえ画像だとは言え、忠誠を誓った主の姿を目にしたことで、苛立っていた心が凪いでくるのをジノは感じた。
「私の、誰よりも大切な人」
「じゃあ、さっきのルルーシュは?」
「あの方も同じだ。たとえ記憶を無くされていても、私のルルーシュさまだということに変わりはない」
「そう……なら、がんばれば」
アーニャは興味なさそうな顔をして、そう言い捨てて来た道を戻っていく。ドレスの後ろ姿を見て、そう言えば今日の夜会に相手役として誘ったのは自分だったことを思い出したが、今はエスコートなんてできそうもなかった。
一人になったジノは、芝生の上にごろりと横になり、夜空を煌々と照らす月を見上げた。
「ルルーシュさま……」
ルルーシュ――正式な名を、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。一生の忠誠を捧げた、ジノよりも一つ年上の皇女殿下だ。記憶に残る彼女は、子どもらしい愛らしさの中に、凛とした美しさを持ち合わせた印象的な人だった。母君と妹姫を何よりも大切にして、自分が傷つくことなど顧みない姿に、自分が彼女のことを守るようになるのだと決意を固めたのは、当然のことで。けれど、いつか騎士になりたいと望んだ主の消息は、八年前に異国の地で潰えた。
そのときの絶望を、言葉で語りつくすことなんて到底できない。失ったなんて信じられなくて、けれど自分で探しに行くことはできなかったから、人を使って何度も探させた。その結果はいつも希望とは反対に終わり、そのたびに絶望した。
いっそ忘れることができたなら、そう思ったこともある。けれど、どうしても忘れられなくて、諦められなくて……自分の思いが純粋な忠誠だけでできているのではなく、恋慕の感情が混ざっているのだと気付いたのは、その葛藤に片がついたときだった。あるいは、その感情に気付いたからこそ、葛藤に片がついたのかもしれない。そして、焦がれるような恋情に気付いて以来、ジノは誰に何と言われようと、心を変えることなく彼女のことを探し続けてきた。
その人を、やっと見つけたのだ。たとえ記憶を失っていようと、拒絶されようと、離れられるわけがない。
「ルルーシュさま……今度こそ、お守りしてみせます」
声に出して誓いを新たにしたとき、見上げた月が、星が、空が、輪郭を失ってじわりとにじむ。
生きていてくれれば、他に何もいらない。ずっとそう思っていた。実際、成長した彼女の姿を見て、うれしいと思った感情に嘘はない。けれど、忘れられてしまったことが悲しくて、涙が出そうになるのもまた事実だった。
「わがままだな、私は……」
ジノは自嘲するようにそう言って、にじむ視界を手のひらで覆い隠した。